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「天国履歴書」
 






■聖書箇所

「ペテロの手紙 第一 2章 9節〜10節」
2: 9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。




私は、貰った履歴書の中でもっとも関心を傾けるのが経歴の欄です。この人がどんな人か、どのような能力があるのか、を知りたいからです。私たちがこの世で自分の履歴書を持っているように、イエス様を信じる人もまた、天国履歴書があります。ところが、多くの聖徒さんたちは、自分の天国履歴書を知らずに暮らしております。イエス様を信じてから、どのような人になったかをはっきり知らないので、信仰生活をするに当たって損失がどんなに大きいか分りません。

今日私は、イエス様を信じる皆さんの「天国履歴書」を一緒に開いて見たいと思います。




第一、「あなたがたは、選ばれた種族です」

神様は、宇宙の主人であられ、絶対主権者であられますので、何事でもご自分の御心の通りに行われます。神様の御心とご計画に従って、個人も、民族も選ばれました。聖書を見ますと、アブラハムはアラム人で、カルデヤ人のウルで神様から選ばれました。セムの子孫テラの息子たちの中から選んで、信仰の祖先・イスラエル民族の祖先となるようになさいました。数多い人たちの中から選ばれたアブラハムは、選民の祖先、信仰の祖先となりました。

何故、アブラハムをそうさせたのでしょうか? それは、神様がそうさせようと願われたからです。私たちには、「何故…?」と質問する何等の権利がありません。アブラハムの息子の中には、イスマエルとイサクがおりました。ところが神様は、イスマエルを選ばれずに、イサクを選んでアブラハムの子孫になるようになさいました。

また、イサクの息子にはエサウとヤコブがありました。聖書に、神様がエサウは愛されず、ヤコブを愛されたと記されています。エサウとヤコブが、その母リベカの胎内に居る時、未だ彼らが生まれもしなかった時に、神様は既に、その選ばれる摂理に従って 『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。』(創世紀 25章23節)と仰せられました。

それも、神様の「お選び」の特権なのです。こんにち、イエス様を信じる私たちも、まさしくこのような神様の摂理によって、選ばれた選民であります。イスラエルの民を選んで霊的選民とされたのと同じく、皆さんと私を選んで、こんにち霊的選民にして下さいました。私たちは肉的存在でありながら、天国を相続する霊的存在であるのです。

それでは、霊的選民は神様がどのように選ばれたでしょうか? 神様は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされて、アダムの子孫である人類の罪を背負わせ、十字架の上で肉を裂き血を流すことによって、人類の罪が赦されるようになさいました。聖書「ガラテヤ人への手紙 1章 4節」に、『キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。』と記されています。イエス様が十字架の上で、ご自分の体をいけにえとして捧げて、肉を裂き血を流して下さいました。

そして、このイエス・キリストを私たち人類の「救い主」である! と神様が提示されました。誰でも、イエス・キリストを救い主であると信じる者は、神様がキリストにあって神の民として選んで下さるのです。いくら立派な宗教家であっても、哲学者、道徳君子、または抜群の人物であり、知識が豊富であっても、神様はその様な人を選びはしません。霊的選民を選ぶ条件は、イエス様を信じ、イエス様に仕える人に限定されています。

「エペソ人への手紙 1章 5節」に、『神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』と記されています。神様の子になれるのは、イエス・キリストによってできるのであって、それ以外には、どのように努力してもできるものではありません。それで、私たちイエス様を信じる人たちは、政治・経済・文化 及び 自然保護等に関しては他の宗教家たちと協力することができても、「救い」の問題では決して妥協することができません。何故かと言えば、イエス・キリストだけが道であり、真理であり、いのちであり、イエス様を通してでなければ誰一人、父のみもとに行くことはないからです。

神様は、イエス・キリストにあってだけ私たちを選んで下さり、霊的「神の民」として下さるのです。ですから、皆さんが常に知っていなければならないのは、「私は、選ばれた種族である。この世の中の数多い人々の中から私を御自ら選ばれて、天と地のすべての栄光を与えようとしておられる。」という事です。こういう事実を知って、私たちは心の中に大いなる自負心を持たなければなりません。




第二、「あなたがたは、王である祭司です」

元来、アダムは王として造られました。この地を征服して従わせ、支配するようになさいました。アダムがもしも、神様の前に反逆罪を犯さなかったら、彼と彼の子孫は、この地球を世々とこしえに支配し、宇宙のすべてにあって神様を代理する王としての支配権を握って暮らしたでしょう。

ところが、アダムは罪に因り堕落して、奴隷の身分に転落してしまいました。アダムが、神様のかたちに造られ、神様からその鼻にいのちの息を吹き込まれた時は、彼は「神様の霊」を持っている支配者でありました。しかし、その霊が死に、神様との交わりが絶たれた時から、アダムは悪魔の支配を受けるようになりました。

「憎しみ」を持つようになれば、憎しみの奴隷になり、「病気」に罹れば病気の奴隷になり、「呪い」「罪」「死の恐怖」…「滅亡」の奴隷になるのです。『罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。』(ヨハネの福音書 8章34節)とイエス様は仰せられました。アダムが堕落した以後、すべての人間は、自分が主人であるかのように振る舞って来ましたが、実際には、奴隷の人生を歩んで来ました。罪を支配することができません。人間はどうしようもなく、苦痛、煩(わずら)い、病気、貧乏、悲しみ、苦難、呪い…、そして死の恐怖の支配を受けながら暮らしています。皆が死の恐怖の奴隷であり、滅亡の奴隷として生きて来ました。この運命を人間はどうすることもできませんでした。

人間がいくら科学を発展させ、文化を向上させ、知識を積み、物質的に豊かな環境を作るとしても、人間には依然として奴隷のくびきが付きまといます。しかし、二千年前にイエス様が、まことの神様がまことの人として来られ、私たちに代わって十字架に上られて、このくびきを外して下さいました。主がご自身を神へのささげ物、また供え物となって下さることによって、私たちを奴隷の身分から救い出して下さったのです。

こうして私たちの霊が、聖霊さまにより、何処から来て、なぜ生きており、何処に行くのかを知るようになり、神様に向って「アバ、父」と呼ぶようになり、イエス様を救い主と信じて見上げ、仕えながら、喜ぶようになりました。

この世の中にたくさんの人々が住んでいますが、皆が同じ人ではありません。霊が死んでいる人と、霊が生きている人は違います。霊が死んでいる人は、神様を全然知りません。彼らは思想の中から神様を追い出し、彼らの家庭にも神様がおられません。彼らの社会生活にも神様がおられません。彼らの暮らし全体に神様がおられません。完全に神様がいない暮らし、人本(人間本位)主義的生活、唯物論的な生活、このような生活を営んでいる人は「肉の人」です。

しかし、新しく生まれた人は、彼らの中に神様が入って来ておられます。神様の聖霊が入って来ておられるので、その個人の中にも、家庭にも、神様がおられます。彼の事業の中にも神様がおられます。「ローマ人への手紙 5章17節」に、『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、尚更のこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』記されています。

私たちは、肉の人であった時は奴隷生活をしましたが、イエス・キリストから恵み(赦し)と義を豊かに頂いてからは、キリスト・イエスにあって、皆が王として新しく生まれたのです。奴隷でなく、神様の前で王になったのです。「王である祭司」なのです。王とは何でしょう? 王とは、支配する身分の人です。引率される者が王ではありません。運命と環境を支配してこそ、王となれるのです。少なくとも、自分に属した運命や環境は「自分が支配する」ことが出来る人が王であるのです。

私たちは、罪を支配します。イエス様の御名によって、その血潮の力とキリストの御名によって、罪を支配します。憎しみを追い出して、平和で支配します。私たちは病気を支配し、追い出して、健康で満たします。アブラハムへの祝福で、呪いを支配するのです。よみがえりのお恵みで、死を支配するのです。『イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』(ルカの福音書 10章18節〜19節)ですから私たちは、敵の勢力を制御し、そして支配しなければなりません。

私たちは、神様に祈り求めるだけでなく、私たちの生活が肯定的・積極的・創造的であるように、命令することができる身分であることを認識しなければなりません。「罪は退け! 憎悪は離れ去れ! 病気は消え失せよ! 悪魔は退け! 呪いは退け! 貧乏は消え失せろ! よみがえりの命で充満になれ…!」と命令し、支配しなければなりません。

王は、命令する存在なのです。王は指示し、支配するのです。ですから強く雄々しく、サタンの勢力に敵対してそれらを撃退し、運命と環境に命令して、それらを支配しなければなりません。私たちは王であるだけでなく、「王である祭司」だと言われました。祭司は、神様に仕える職分を言います。神様に奉納物とお祈りを捧げ、民たちを教えて信仰と従順に聞き従う生活をするようにするのです。

私たちは、神様にあって王です。アダムとエバの犯罪は、神様を無視して王となり、神様と同等になろうとして追い出されましたが、私たちは神様の祭司として、神様に仕え、礼拝し、祈り、神様の御旨を人たちに伝え、証ししながら、王の責務を遂行するのです。それで、こんにち私たちクリスチャンは、神様に属した王であり、神様に仕える王であり、神様の命令を執行する王であるのです。「ペテロの手紙 第一 2章 5節」に、『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえを捧げなさい。』と記されています。

キリストにあって、皆が祭司なのです。動物をいけにえとして捧げるのが祭司ですが、私たちは罪の為のいけにえ、罪過の為のいけにえ、全焼のいけにえ、和解の為のいけにえを、昔のように別々に捧げる必要がありません。イエス様が、私たちの罪の為のいけにえであり、罪過の為のいけにえであり、全焼のいけにえであり、和解の為のいけにえとなられたからです。イエス様の御名によって、神様に礼拝と感謝と賛美を捧げるのが、こんにちの祭司の義務なのです。

私たちは、私たちの兄弟・姉妹の為に祈り、指導し、彼らを教える、このような事をする王のように、そして、神様の前では祭司として、私たちの本分と責務を全うしなければならないのです。




第三、「あなたがたは、聖なる国民、神の所有とされた民」

国が成立される為には、領土がなければなりません。大韓民国は、白頭山を起点として、豆満江、鴨緑江から済州島までが領土です。それでは、天の国の領土はどこにあるでしょうか。『あなたがたが、聖なる国民』だと聖書に記されていますが、神様の領土はどこでしょうか。神様はすべてを造られました。当然の事ながらすべてが神様の所有です。今、聖書を通して『あなたがたが、聖なる国民』であると言われました。『わたしたちが、天の国の領土』なのです。天の御国が遠いところにあると思わないで下さい。イエス様の血潮で贖い、聖霊で証印を押され、御父と御子と聖霊さまが臨んでおられる私たちが、天の御国なのです。

聖書に、『「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』(ルカの福音書 17章21節)と記されています。御言葉の通りです。私たちが聖なる国民であり、神の国です。神の国は益々、その領土が拡張され、大きくならなければなりません。神の国を拡張させ、大きくするためには、私たちが熱心に伝道しなければならないのです。私たち各自が、一人でも多く主の御国に入るように伝道すれば、それだけ天の御国が拡張するのです。

神様が天と地とその中のすべての物を造られ、所有しておられますが、神様が特にお喜びになられるのは、失った子たちが再び戻って来ることです。放蕩息子が帰って来た時、その父は「死んでいた子が生き返り、いなくなっていた子が見つかった」と言いました。私たちが、アダムとエバに因ってみんな「死んでいた子たちであり、いなくなっていた子たち」なのです。しかし、私たちが聖霊さまのみわざに与かり、イエス・キリストを救い主として迎い入れることによって新しく生まれれば、神様には、死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見つかったことになるのです。

放蕩息子が帰って来た時、盛大に祝宴を開いて、肥えた子牛をほふり、村人を全部招いて音楽を奏(かな)でる、踊る、しながら喜んだ父の心が、これが、私たちに対する神様の心情です。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見つかったことを、喜ばれるのが神様であられます。そして私たちのために、肥えた子牛をほふって、私たちと共に楽しもうと願われる、良き神様であられます。

私たちはもう、神様の所有物です。悪魔の所有物でもなく、この世に所属しているものでもありません。イエス・キリストの血潮で贖われた、神様のまことの所有物なのです。従って、神様が私たちを重宝がられ、私たちを顧みて下さるのは当然の理です。

私たちの教会の王様は、イエス様です。ですから、私たちは霊的子どもたちをたくさん伝道して、栄光を帰さなければなりません。「ヨハネの福音書 15章16節」に、『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』と記されています。神様が私たちをお選びになったのは、栄光をお受けになるためなのです。

神様のすべての関心は、私たちに注がれています。それは、私たちが、私たちの主イエス・キリストを迎え入れているからです。それで、私たちがキリストの御国とその義とのために神様に求めれば、神様は、耳を傾けて、聞きかなえて下さり、答えて下さるのです。私たちは、神様と共に暮らす民であり、神様が所有しておられ、顧みて下さる民であり、神様のお恵みと愛を頂いて暮らしている存在なのです。

『神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(マタイの福音書 6章33節)と聖書に記されています。私たちに、このようにお恵みと愛と関心を注いで下さるのは、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方の素晴らしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためである、と言われました。

「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」であることを悟った私たちは、全世界にこの事実を宣べ伝えながら、神様の民にふさわしく、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得ながら暮らして行くことができるのです。

自分の「身分」を守り、堂々と祈りを捧げ、信仰をもって宣言し、力強く話しながら暮らして行く時、天国の栄光と力が、私たちの人生の中に現われるようになるのです。




お祈り

聖く、全能であられる我が父なる神様! 数多い聖徒さんたちが自分の身分を知らずに、敗北主義者のように人生を暮らしております。私たちは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神様の所有とされた民となっている事を皆が悟るように助けて下さい。

それで、この世の中で捨てられた者でもなく、侘びしい者でもなく、賤しめと蔑(さげす)みを受けるべき者でもなく、神様から愛される人、神様が親しく選んで下さった、神様のまことの子たちであり、王である祭司、聖なる国民、神様の所有とされた民である、自分の位置をはっきりと知って、キリストにあって貴重な存在であることを悟るようにして下さい。

強く、雄々しく、肯定的で、積極的で、創造的である姿勢で、信仰をもって祈りを捧げながら暮らす私たちとなるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!