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「この宝を土の器の中に入れているのです」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 4章 7節〜11節」
4: 7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4: 8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4: 9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。




聖書「創世紀」を見ますと、神様が人を土で造られ、その鼻に「命の息」を吹き込まれて人が生き物となった、と記されています。人間を「土の器」にたとえていますが、土の器とは「土で作った器」と言う事です。人間は、それ自体に何かの意味があるのではありません。その中に何を入れ、何のために生きているのか? これが重要なのです。

アダムが創造された時には、その中に神様を迎え入れておりました。しかし、罪を犯して堕落してからは、神様の代わりに「空中の権威を持つ悪い霊」が入って来て着座しているようになりました。その日以来、人間は悪霊の器になってしまいました。そして、「悪霊がさせる通り行う」ようになりました。

しかし、二千年前にイエス様が来られて、十字架の上で人間の罪をすべて贖(あがな)われ、悪霊の権威を砕かれました。それで罪人がイエス様を迎え入れれば、その血潮によって罪を赦していただき、自分の器の中にいた悪霊が追い出され、イエス様が入ってきて住まわれるようになるのです。ゆえに聖書は、私たちの宝、即ち、イエス様を、土の器の中に持っていると記しているのです。

それでは、この宝であるイエス様を土の器のような私たちの中に迎え入れておれば、私たちの人生にどのような事が起こるようになるのでしょうか?




第一、四方八方から苦しめられますが、窮する事はありません

宝であられるイエス様が、土の器のような私たちの中に居られるので、いくら四方八方から苦しめられても、窮する事はないと言われました。四方八方から苦しめられる、と言う事は何を意味するのでしょうか? 人々は地上に暮らしながら絶え間なく、罪に取り囲まれて攻撃されており、罪の虜になって引きずり回されています。しかし、イエス様を救い主として迎え入れている私たちは、罪が取り囲んでも、私たちの中におられる宝により、聖霊さまの力が現われて、罪の絆(きずな)を木っ端微塵に砕いてしまうのです。

「ヘブル人への手紙 9章22節」に、『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』と記してあるように、私たちの中におられるイエス・キリストが、既に血を流された事によって、その血潮の前ではどのような罪も私たちを拘束することができないのです。

また「ヘブル人への手紙 10章10節」には、『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ捧げられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』と記録されています。罪がいくら私たちを取り囲んでも、私たちの中におられるイエス・キリストの中から聖なるものが溢れ出て、いつも罪を崩壊させてしまうのです。

私たちは、世の中で憎しみと敵に取り囲まれながら暮らしています。絶えずお互いにぶつかり、憎み、敵対する…、このような事が私たちを取り囲みます。しかし、私たちの中におられるイエス様の愛が、これらすべての憎しみとか敵対心などを皆滅ぼしてしまい、それらに私たちが捕らわれないようにして下さるのです。

「ローマ人への手紙 5章 8節」は、『しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださった事により、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』と記しています。神様の愛が私たちの心の中に溢れているので、その愛が、私たちの罪によって醸し出された敵意や憎悪などをすべて撤廃してしまうのです。

「エペソ人への手紙 2章13節〜14節」には、『しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にある事により、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、』と言う御言葉が記されています。敵なる隔ての壁をすべて打ち壊してしまって、いつも平和と愛をもっておられる「宝・イエス様」が私たちの中におられるので、そのお方に拠り頼む時、どのような憎しみや敵意もすべて取り壊され、崩れ去ってしまうのです。

同じく、病気が私たちを四方八方から苦しめても、私たちは窮する事はありません。それは、私たちの中に居られる「宝・イエス・キリスト」から癒しのみわざが溢れ出るからです。「マラキ書 4章 2節」は、『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』と記しています。義の太陽から癒しの光が発せられて、私たちを襲うすべての病気を退治してしまうので私たちは病気に取り囲まれたりはしないのです。キリストが私たちの病を負って行かれたので、キリストが私たちの中に居られたら、キリストの御力によって私たちは「病気の壁」を取り壊してしまう事ができるのです。

呪いが、私たちを四方八方から苦しめても、窮する事はありません。「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」にも、『キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記されています。

死の恐怖が、私たちを取り囲んで陣をしいても恐れる理由がありません。私たちの中におられる「宝・イエス様」のよみがえりの御力の前に、死の勢力はみな崩れ去ってしまうからです。イエス様は、死を退けて勝利をおさめ、そしてよみがえられたからです。「コリント人への手紙 第二 5章 1節」には、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記されています。




第二、途方に暮れていますが、行き詰まる事はありません

天地が真っ暗になって、息が詰るほど途方に暮れる時があります。イスラエルの民がエジプトから出て、紅海の前で途方に暮れました。前には紅海と言う海があり、後ろからはエジプトの大軍が押し迫っていました。もう逃れる道がありません。袋のねずみでした。イスラエルの民全体が泣き叫び、嘆き崩れました。

その時、モーセが祈りました。すると、神様が紅海のまんなかに道を造って下さいました。途方に暮れていても、行き詰まる事がないのは、神様が共にいて下されば道が現われるからです。この宝が、私たちの中にあるのです。この宝を、私たちの土の器の中に持っているのです。この宝であるイエス・キリストは、『わたしが、道です。』と言っておられます。従って、どのような場合にあっても、私たちがイエス様を信じて、祈り、拠り頼めば、キリストは、私たちが想像する事もできないみわざを働かせて下さって、私たちに道を開いて下さるのです。

また私たちが、周囲の人々から誤解を受けるとか、中傷される時もあります。イエス様も誤解され、中傷されて、十字架に架けられて死なれましたが、勝利を収められてよみがえられました。それで、私たちがイエス様にだけ拠り頼めば、どのような誤解や中傷に遭っても、キリストが誤解・中傷に打ち勝たれてよみがえられた、その栄光が私たちの心を支えて下さいますので、私たちはすべての誤解・中傷に打ち勝ち、勝利する事ができるのです。

「ペテロの手紙 第一 2章19節〜21節」は、『人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれる事です。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。』と記しています。

私たちがイエス様を信じながら正しく暮らしているのに、人たちが私たちを誤解して色々と中傷するので途方に暮れ、堪えられない時には、既に2千年前に、そのような途方に暮れるしかない目に遭って、十字架で死なれたイエス様のことを考えて下さい。神様にだけ拠り頼み、堪えた結果、主イエス様はよみがえられて、すべての誤解と中傷を払拭して、勝利をもたらされました。

ですから、途方に暮れる事があっても、私たちの中にイエス様が居られるので、私たちは気落ちする事がありません。気落ちする事ができないのです。キリストのよみがえりの栄光が、どのような「途方に暮れる」事もすべて取り除いてしまうからです。




第三、「迫害されていますが、見捨てられる事はありません」

イエス様が私たちの中におられたら、私たちの生涯に近づいて来る迫害も、最後には栄光に変えられます。「ヘブル人への手紙 12章 2節」は、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記しています。

私たちが、迫害を恐れず、こわがらずに、主を見上げ、信仰を持って、力強く生きて行けば、私たちの中に居られ、宝であられるイエス様が、私たちに勝利を得させ、そして神様の御座のそばに座るように、お恵みを与えて下さるのです。聖書に、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』(詩篇 23篇 5節)とあります。迫害はかえって、私たちに「杯があふれる人生」を与える機会となってしまいます。主は、迫害を栄光に変化させる御力となって私たちと共に居られるのです。

パウロとシラスが、ピリピで福音を宣べ伝える途中、捕らわれて奥の牢に閉じ込められる迫害に遭いました。その時、彼らは真夜中ごろ、神様に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。すると突然、牢が地震で揺れ動き、皆の鎖が解けてしまい、たちまち牢のとびらが全部開いて、パウロとシラスが自由のからだになりました。そして、彼を監視していた看守たちが悔い改めて主のもとにたちかえる、驚くべき状況が繰り広げられました。歴史的に、教会と聖徒を迫害した個人や国はみな見捨てられましたが、教会と聖徒は見捨てられなかった事実を、私たちは良く知っています。

聖書「ペテロの手紙 第一 4章12節〜14節」は、『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われる時にも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまって下さるからです。』と証ししています。

イエス・キリストの御名のために迫害されるのは、大いなる祝福であり、栄光です。迫害される時に聖霊さまが私たちと共に居て下さり、迫害される人は神様が覚えて下さって、後に、迫害された事以上の驚くべき栄光を与えると言われたのです。

歴史を通してみる時、ローマ時代に10人の皇帝(37〜312年)が教会を迫害しました。ヒットラーが教会を迫害して、聖徒たちを投獄し、主のしもべたちを殺しました。日本帝国主義が我が韓国を迫害して教会を閉鎖し、数多い聖徒たちを投獄する等、苦痛を加えましたけれども、韓国ではご存知のように、こんにちも教会は旺盛に成長しています。共産主義は、到る処で教会を閉鎖、聖徒たちを投獄、「神は死んだ」と叫び喚きながら宣伝しましたが、かえって共産主義がこの地球上から消え去りかかっています。そして、そんなにも迫害された教会は、この地上で益々旺盛に成長・リバイバルしているのです。私たちは迫害されても、キリストに拠り頼めば決して見捨てられる事はありません。




第四、倒されますが、滅びません

敵たちが、イエス様を十字架に掛けて殺しましたが、イエス様はよみがえられました。当時の人たちは、イエス様を十字架に釘付けにして殺してしまえば、福音宣教などは消滅すると考えましたが、イエス様は十字架で死なれてから三日目によみがえられ、聖霊さまを遣わされて、福音が全世界に宣べ伝えられるようになさいました。従って私たちの生涯に、私たちを滅ぼそうとして近づいて来る試練、艱難、苦痛等は、イエス様により私たちに力が与えられていますので、私たちは充分にそれらを克服し、それらに打ち勝つ事ができるのです。

今、我が国が破産する危機に瀕していますけれども、私たちが安心して良いのは、我が国に宝であられるイエス様が来て居られるからです。大韓民国という土の器の中の、「5万の教会」「10万の主のしもべ」そして「1200万の聖徒」を通して、宝であられるイエス様が来て居られますので、私たちは、倒されても滅びません。過去、私たちは6.25朝鮮戦争で倒されましたが、滅ばず、経済危機に会って滅びそうでしたが、立ち直り、再起しました。私たちの中にイエス様が来て居られるからです。

「ヘブル人への手紙 13章 5節〜6節」は、『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』と記しており、「ローマ人への手紙 8章31節〜32節」は、『では、これらの事からどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで下さらない事がありましょう。』と記しています。又「ローマ人への手紙 8章37節」にも、『しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべての事の中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』と記されています。

私たちが何故、突然、悲惨な経済危機に陥ったのでしょうか? 私たちは胸に手を置いて深く反省し、心からイエス・キリストの前にひざまずいて悔い改めなければなりません。イエス様だけが、私たちの誇りであり、信仰であり、まことの霊であり、私たちの希望です。私たちはイエス・キリストの御名によって立ち上がり、四方八方から苦しめられて倒れそうになっても、これに打ち勝って立ち直らなければなりません。イエス様が私たちの中に居られると言うことは、「力の源泉」が私たちの中に居ると言うことです。死なれ、よみがえられて、天と地と海とその中のすべての権威を持っておられるイエス様が私たちの中に入ってきて居られるのです。

私たちは、宝を持っている人たちです。私たちの中に居られるイエス様は永遠であられ、全知全能・無所不在なる神様です。四方八方から苦しめられる、途方に暮れる、迫害される、倒される、そのような事が私たちに襲って来ても、少しも恐れる事はありません。私たちが信仰を持ってイエス様に拠り頼めば、私たちの中に居られる、これらのすべてに打ち勝たれたイエス様から驚くべきいのちのみわざが湧き起こり、満ち溢れるようになって、すべてを克服し、最後の勝利と栄光を主が私たちに与えて下さるからです。

目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、そして前途が真っ暗闇のようであっても、決して環境を見渡してはいけません。運命と環境を変化させる偉大なイエス・キリストが、まさしく私たちの中に来て居られるのです。主は、『わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。』(ヨハネの福音書 14章11節)『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』(ヨハネの福音書 14章18節)『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。』(マタイの福音書 28章20節)と仰せられました。

私たちが、キリストを目で見、手で触ることはできませんが、聖霊さまとして、私たちの中にイエス様は確実に来て居られるのです。ですから、イエス・キリストに私たちの罪をすべて告白し、悔い改め、私たちの一生をお委ねして、イエス様の御名によって祈り、信じ、気落ちせずに、夢と希望を持って力強く生きて行かなければなりません。

また聖書は、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。』(ヘブル人への手紙 10章38節)『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんな事でもできるのです。』(マルコの福音書 9章23節)『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんな事でも、あなたがたにできない事はありません。』(マタイの福音書 17章20節)『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(マルコの福音書 11章24節)と主は仰せられたと記しています。

このようなイエス様が私たちの中に居られる以上、私たちは、四方八方から苦しめられても窮する事がなく、途方に暮れる事があっても行き詰まらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びはしません。宝であられるイエス様が、私たち・土の器の中に居られるからです。




お祈り

愛であられ、聖なる、天のお父さま! 歴史も環境も変化しますけれど、昨日も今日も、いつまでも同じであられるイエス様が、私たちの中に居て下さって有り難うございます。私たちを愛されて、身を裂き、血を流して下さったイエス様が私たちと共に居られ、我が国と共に居られる事に深く感謝いたします。

この宝を、私たち・土の器の中に迎え入れております。素晴らしい力が、私たちにあるのではなく、私たちの中に居られる宝の中にあります。

主である神様! 私たちがイエス・キリストを信じ、拠り頼み、感謝し、賛美しながら、キリストの手を取りすがって暮らして行く時、どのような勢力も私たちを倒す事ができません。イエス様が、このすべての勢力と戦って勝たれたからです。

永遠なる勝利者であられ、王の王、主の主であられるイエス様が私たちの中に来て居られ、私たちの運命と環境を支配しておられる事を私たちは知っております。

四方八方から苦しめられ、途方に暮れている時、「紅海を分けて道を開けられる」神様の奇跡が、私たちにも起こった事に感謝します。道を開けられる主よ! 継続して、私たちのために道を開いて下さい。私たちを主の道に導いて下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!