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「貴方が見渡しているこの地」
 






■聖書箇所

「創世記 13章14節〜15節」
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。




歴史上、最悪の経済危機を抱いて、「1998年・新年」を迎えるようになりました。我が民族に押し迫って来たこの思いもよらないひどい挑戦に、私たちがどのように対応するかによって、国の歴史が変わると思います。

1864年、デンマ−クは、オ−ストリアとプロシアの連合軍との戦いで負けてしまいました。その結果、沃土(よくど)である南部のシュレスウィヒとホルシュタインの二つの州を奪われ、莫大な戦争賠償金を払わなければならなくなりました。国民全体が挫折してしまいました。デンマ−クはもう地図の上から去る日も遠からぬ事のように見えました。彼らに押し迫ってきた試練と挑戦があまりにもひどかったからです。その時、この挑戦に応戦のラッパを吹いて出て来た二人の人がおりました。

一人は、クルントビヒ牧師でありました。彼は、祖国の危機を克服するために、混乱の中から憤然と立ち上がって、「神様を愛しましょう! 国を愛しましょう! 自然を愛しましょう!」という運動を展開しました。そうして、農民学校を建て、聖書を基本にした精神的資源を人々に供給してあげました。そうするや、数多い人たちが神様を信じるようになり、心に力を得るようになりました。

もう一人は、敗戦して帰って来たダラカス大佐でありました。彼も国民たちの前で、「国外で失った国土、国内で捜そう!」というスロ−ガンを掲げて、国民たちに呼びかけました。彼は、広漠とした沼地帯であり、凍土であるユ−トランド半島を開墾して木を植え始めました。彼は、必ず成功すると信じて捨てられた土地に木を植えました。しかし、あまりにも冷たい強風と露と霜のために、普通の樹木は育つことができませんでした。それでもダラカス大佐は絶望せずに、継続して研究開発し、新しい種類の木を植え、成長させました。彼の執拗な研究を通して、アルプスの樅の木を接ぎ木して、寒い凍土でも生き残る事ができる優秀な品種の木を開発し、その木をすべての北部の海岸に植えました。その木が成長して鬱蒼とした林を成し、ついには吹いてくる冷たい強風を防ぐ事ができました。

人々はその時から、その地に入って行って沼地帯の水を汲み出し、数多い苦難と戦いながら開墾して行きました。デンマ−クはその後100年目に、世界で最も模範的な酪農国に発展するようになり、また、資源を開発して工業国としても繁栄するようになり、こんにち世界で国民所得が最高の国に成長しました。神様を信じる信仰と夢を持って苦難を克服したので、こんにち、燦爛たる歴史を築きあげた先進国になったのです。

我が国も今、激しい試練に見舞われました。政府、労働者、そして国民が一つに団結して、この試練に勇敢に対応して行けば、デンマ−クで起こった奇跡が、我が韓国にも起こるようになります。私たちが一致団結して対応していくためには、私たちの中に精神的資源が必要です。精神的資源がなくては、経済的復興は望む事ができません。それでは、私たちは、どのような心構えで今年を生きて行かなければならないでしようか?




第一、夢を持ちましょう。

聖書に、夢が無い民は滅ぶと言われました。夢が無い人は目標もなく、明日に対する希望もありません。ですから、私たちは夢を抱いて前進して行かなければならないのです。アブラハムがエジプトで挫折して、絶望状態のまま、その妻と甥のロトを連れてカナンの地に上って来た時、神様は、アブラハムを呼ばれました。そして高い所に上らせて、『目を上げて、北と南、東と西を見渡しなさい。』と仰せられました。そして、『わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久に、あなたとあなたの子孫とに与えよう。』(創世記 13章15節)と言われました。神様は、アブラハムに見渡す法則を教えられたのです。心の中に見渡して夢見る、その事を神様が成就して上げよう、と仰せられたのです。

我が国は、1960年代の夢を再び呼び起こさなければなりません。1960年代の私たちの国民所得は、100ドルにも満たないものでありました。我が国民は、ぼろをまとい、食うに事欠き、無視と冷遇の対象でありました。どこの誰も、韓国人が先進国の隊列に入るだろうとは思いませんでした。政府では、「セマウル運動」を展開しながら、「我々も良き暮らしをしましょう!」と国民たちに希望を吹き込み始めました。都市、農村、漁村を問わずに、すべての国民が全部「セマウル運動」に参加しました。その結果、我が国は経済的に目を見張る成長と発展を重ねました。

ところが今、私たちはどのようになったでしょうか? 最大の経済危機に見舞われて、「IMFと言うメス」を受け入れなければならない羽目に落ち入りました。それにも拘わらず、神様は、私たちが心の中に確実な夢を持ち、希望を失わないなら、どのような逆境も克服する事ができると言っておられるのです。万一、私たちが夢を捨て、希望を失ったまま、政府は政府なりに、労働者は労働者なりに、財閥は財閥なりに、国民は国民なりに、ただ互いに恨み合い、噛み合い、争い合えば、この国は水の泡のように消え去ってしまうでしょう。

しかし、私たちが夢と希望を持って共に苦しみを分かち合い、互いに手を取り合って、"出来る! 成せばなる! やって行こう!"と確信を持って前進すれば、どのような逆境も私たちを止めさせる事ができないのです。私たちがイエス・キリストを信じる聖徒であれば尚更、キリストの十字架を見上げる時、夢を持つしかありません。

イエス・キリストは十字架の上で、血を流し、身を裂きながら、私たちに『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また、健康であるように祈ります。』(ヨハネの手紙 第三 1章 2節)と言われ、私たちを愛しておられます。イエス様は、私たちのたましいの為に、十字架で犠牲になられたのです。神様から無限なる霊的支援を得る事ができるように、イエス様が血を流して下さったのです。正義が霊的資源であり、真実が霊的資源であり、聖潔がまさに霊的資源であるのです。

主はまた、私たちにすべての点で幸いを得るようにして下さいます。私たちは何を食べようか? 何を飲もうか? 何を着ようか? 心配する必要はありません。神の国とその義とを先ず第一に求めれば、すべての点で幸いを得ることができるからです。主は十字架で、貧乏を背負われ、呪いを贖われました。富とすべての点で幸いを得る恵みを私たちに与えようと願っておられるのです。

私たちには、主が与えて下さった夢があります。『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』(ヨハネの手紙 第三 1章 2節)『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネの福音書 10章10章)と言う御言葉に因る夢です。私たちはこの希望を捨てる事ができません。

目には何のしるしも見えず、耳には何の声も聞こえず、手には触れるものが何もなく、周囲には患難がいっぱいに満ちていても、ガルバリの十字架を見上げれば、未来に対する遠大な夢が生じます。1998年には、ガルバリの十字架を力強く見上げながら、キリストの砕かれた肉と流された血を通して私たちに与えて下さる、この三重の祝福を受け入れて、夢と希望を育てながら暮らして下さいますよう、主の御名によって祈願致します。




第二、信仰を持ちましょう。

「ヘブル人への手紙 11章 1節」には、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』と記されています。神様は、アブラハムに信仰を与えられました。信仰は見渡す法則を使用しなければなりません。主は、アブラハムにカナンの地を与えられる時、先ず、東西南北を見渡すようになさり、見渡す法則を通して、あなたが見渡しているこの地全部を、あなたとあなたの子孫とに与えよう、と仰せられたのです。

アブラハムは年を取って、到底子供を産む事ができませんでした。しかし、神様はアブラハムを外に連れ出して、天を見上げるようになさいました。そして『星を数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。』と仰せられました。アブラハムは星を見渡す事によって、神様の約束を信じました。

私たちも、ガルバリの十字架を見上げる時、心の中に信仰が生じます。私たちは見渡す法則を使用しなければならないのです。周囲の環境だけを見渡して挫折や気落ちしてはいけません。私たちは常に、ガルバリの十字架を見上げながら信仰を持たなければなりません。そこに信仰があり、そこに真理があるのです。

信仰は口の告白です。「ロ−マ人への手紙 4章16節〜17節」に、『「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。』と記されています。息苦しい現実の故に、私たちが心を痛め、悲しみに陥る事があっても、日常にあっては希望的・積極的な言葉を使用しなければなりません。夢で満たされた話をしなければならないのです。信仰の宣言をしなければならないのです。"私たちは良くなる! 成功する! 勝利する!"と言わなければならないのです。

私たちは、後に退いてはいけません。「ヘブル人への手紙 10章38節」は、『私の義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。』と記しています。私たちの思考も、私たちの話す言葉も、後に退いてはいけないのです。

信仰は、確信に満ちた祈りを捧げるようにします。イエス様の御前に出て来たスロ・フェニキヤの女をご覧下さい。この女はイエス様の弟子たちに、主に申し上げて娘の病を癒して下さるようにして下さい、と願い続けました。イエス様は、イスラエルの失った羊の外には遣わされていないと答えられました。しかしスロ・フェニキヤの女は、その心の中に確実な信仰をもっていましたので、休みなく祈り続けました。彼女は、イエス様の足元に来てひれ伏し、「主よ。私の娘から悪霊を追い出して下さい。」と申し上げました。

その時、イエス様が言われました。『まず子供達に満腹させなければなりません。子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くない事です。』(マルコの福音書 7章27節) しかし、スロ・フェニキヤの女はすかさず答えて言いました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子供達のパンくずをいただきます。」(マルコの福音書 7章28節) この言葉を聞かれたイエス様は、『そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』(マルコの福音書 7章29節)と言って下さいました。このように、信仰は確信に満ちた祈りです。最後まで、信仰によって主に呼ばわり祈り求める時、神様は答えて下さるのです。




第三、苦難を避けてはいけません。

復活は、苦痛のあとに近づいて来るものです。イエス様の十字架の苦難と復活を記憶から呼び起こして見ましょう。十字架なき復活はあり得ません。どれほど苦痛が激しかったでしょうか、『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。』(マタイの福音書 27章46節)と叫ばました。しかし、イエス様はその苦痛に打ち勝たれ、3日目によみがえられて、全世界の希望、永遠なる光りとなられました。王の王、主の主になられたのです。

五重の福音の実は、十字架の苦難を通して近づいて来ます。十字架を通してこそ、罪が赦され、義の実が結ばれます。十字架を通してこそ、神様と和解する事ができ、聖霊充満になれます。十字架の苦難のゆえに、私たちは癒され、呪いと貧乏から解放され、天国と永遠のいのちを得る事ができるようになるのです。

「ヨハネの福音書 12章24節」には、『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』と記録されています。死があってこそ、実を結びます。苦痛があってこそ、新しい人生が出発します。新しい生命の出生には、分娩の苦痛が伴うではありませんか。

「ガテラヤ人への手紙 6章 2節」に、『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』と記録されています。経済的難局に遭った時、私たちは皆が苦痛を共に背負わなければなりません。苦痛を避けてはいけないのです。そして、断ち切るべきものは、断固として断ち切らなければなりません。大企業は「したい放題」のむやみな企業拡張の習慣を断ち切り、労働者は労働者なりに、整理解雇と言う苦痛と犠牲を覚悟しなければならないのです。国民たちは、耐乏と節約の苦痛を受け入れなければなりません。

何よりも、指導者層が率先して垂範しなければなりません。苦痛の十字架を負う人だけが、復活の朝を迎えるのです。「ピリピ人への手紙 3章10節〜11節」は、『私は、キリストとその復活の力を知り、又キリストの苦しみに与かる事も知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。』と記しています。我が国が新しくよみがえる為には、この苦痛を通して、間違った慣行がなくならなければなりません。




第四、忍耐しましょう。

聖書に、イスラエルの民たちがエジプトを出てからカナンの地に入るまで、忍耐しようとせずに、気落ちし、恨み、不平したと何回も記録されています。神様と指導者に対して反逆したこともあり、異邦種族に見習って堕落したり、後に退こうとした時もありました。その結果、わずか一週間もあれば入れるカナンの地までを、40年間もさ迷うようになったのです。

同じように、私たちが忍耐し、気落ちせず、怨んだり不平を言ったりせず、神様と指導者に反逆せず、堕落せず、後に退かずに、肯定的・積極的に暮らして行けば、IMF時代のこの難局は、もうすぐに克服する事ができます。しかしこの期間中、私たちが互いにすべてを他人の所為(せい)にし、恨み、不平を言い、嘆き、噛み合い、争い合えば、カナンの地に入るために数十年間をさ迷ったイスラエルの民のようになるしかありません。

「申命記 8章 1節〜6節」を見ますと、『私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。』と記されています。

「申命記 8章14節〜16節」は、『あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・』と記しています。

私たちがこの試練と患難を経るのは、神様が人を謙虚にへりくだらせ、真理を悟らせ、変化させて、遂には、私たちを祝福して下さるためなのです。これを知って、私たちは耐え忍ばなければなりません。試練と患難を耐え忍び、勤倹節約する苦難を耐え忍ばなければなりません。「ヤコブの手紙 5章10節〜11節」に、『苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』と記録されています。

ヨブは、子供と全財産を失い、妻にまでも見捨てられてしまいましたが、彼は神様を恨まず、その苦難の中で神様を待ち望み、忍耐しました。神様が自分を試みられた後には、自分は金のようになるとはっきり信じたのです。その結果、ヨブは試練に打ち勝ち、神様から後に2倍の祝福をほどこされました。

私たちに苦難が襲って来た時、この苦難を「良き機会」とする事ができる力は、正に心の姿勢にあります。私たちが確実な心構えで神様を信じるなら、どのような逆境の中でも、より良い生活を建設して行く事ができる資源を得るようになります。「ヘブル人への手紙 10章35節〜39節」に、『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』と記しています。

ですから、私たちが強い忍耐心をもって暮らして行けば、神様はその教訓と訓練をし終えられた後に、私たちを大地の上に堅固にそびえ立つようにして下さるのです。

私たちに1998年は、まことに大きな希望と新しい世界として近づいて来ると信じます。神様が私たちを訓練しておられるからです。私たちは夢を持たなければなりません。ガルバリの十字架から出る、希望に満ち溢れる夢を胸の中に抱かなければなりません。揺るがされない信仰を持たなければならないのです。苦難を恐れずに、苦難を共に背負わなければならないのです。私たちは、主が訓練をさせ終えられるまで、忍耐しなければなりません。そうすれば私たちに、麗しく栄光である、乳と蜜が流れるカナンの地に入って行ける機会が与えられるのです。




お祈り

愛であられ、聖なる、我が父なる神様! 1998年は、我が国と国民と教会と聖徒たちに大きな試練の年でありますが、一方、素晴らしい「機会の年」になる事と信じます。

父なる神様! 私たちがこの挑戦をどのように克服して行くかによって、未来の歴史が記録される筈です。この激しい挑戦に対応して、私たちが夢と、希望と、信仰を持って、苦難を共に背負い、忍耐して、立派に克服する事ができるように助けて下さい。私たちに襲って来たこの試練が、かえって、大きな祝福の源泉になるようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!