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「洪水の上の御座に着かれた主」
 






■聖書箇所

「詩篇 29篇10節〜11節」
29:10 主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
29:11 主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。




この頃、特異な気象異変であるエルニーニョ現象により、世界各地で豪雪や暴雨に因る大洪水が発生して、橋梁が崩壊した、都市全体が水に浸かったという事件を、私たちはニュースを通してしばしば見ています。

今、我が国は自然現象の暴雨による洪水ではありませんが、金融危機という暴雨によって、「IMF洪水」が我が国の経済と社会全般を荒らしております。一つ間違えば国家経済が不渡りを出して、国民がみな危険に瀕するかも知れない状況です。我が国とほぼ時を同じくして金融危機に遭っている「タイ」や「インドネシア」は、「モラトリアム」即ち、国家不渡りを出す直前におかれていると言われています。私たちはこの危機状況にあって、どのように対処しなければならないでしょうか。




第一、洪水の上の御座に着かれた神様を仰ぎ見ましょう。

洪水は、恐ろしい速度で流れる溢れ出た水です。その上に、神様が着座しておられると言われました。私たちは、洪水の恐ろしい氾濫ととてつもなく凄い破壊力を見て、恐怖のあまりふるえ慄きながら、洪水の上に着座しておられる神様に気がつかない時が多いです。今日、聖書がこの事実を啓示して下さらなかったら、私たちは、襲いかかって来る洪水だけを見て挫折した事でしょう。しかし、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに私たちを愛される神様が、洪水を車としてその上に着座して、私たちに近づいて来られるという事を思う時、瞬く間に恐怖は消え去り、私たちの心の中に大きな慰めと平安が満ち溢れるようになります。

神様は、洪水を車としてその上に着座して、私たちにお現れになります。ですから私たちに押し迫ってくる艱難の洪水は、主が乗って来られる車であるという事実を知らなければなりません。従がって、洪水を恐れてはいけません。洪水を避けようとしてもいけません。洪水を受け入れて、その洪水を車として乗って来られる神様を、私たちは心の中に向かえ入れてこそ、洪水に打ち勝つ事ができるのです。

人たちは、「なぜ、神様が洪水という車に乗って来られるのですか?」という質問をします。神様が洪水を車として乗って来られるのは、その洪水に私たちに与えるメッセージがあるからなのです。洪水という道具を使用しなければ、私たちに教えることができないので、神様は洪水を車としてその上に乗って来られるのです。洪水が与えるメッセージを受け入れたら、主は洪水から降りて私たちのところに来られます。しかし、洪水が意味するメッセージを悟らなかったら、主は継続して洪水の上に着座しておられます。

洪水がなぜ、私たちに押し迫って来るのでしょうか? それは、艱難が私たちを砕くからです。洪水に見舞われる前には、傲慢で、自重しようとせず、生意気です。我が民族が如何に高ぶり、傲慢で、生意気だったでしょうか。少し豊かに暮らせるようになったとして、国内外で金持ち意識に酔い、傲然と頭をもたげて、あらゆる生意気な振舞いを欲しいままにしました。私たちが直面している洪水、即ち経済的危機は、私たちの傲慢と生意気を砕く道具です。私たちを散々に打ち砕いて、私たちのまことの姿を見極めるようにするのです。私たちが洪水に遭ってはじめて、主の御前に膝をかがめ、ひれ伏すようになるのです。

今回、私たちに押し迫ってきたIMF寒波は、まさに巨大な洪水となって私たちを打ち砕くのです。政府や事業家や労働者たちがみな砕かれて、神様の前にひれ伏すようにする為に、この洪水が襲ってきたのです。この洪水の艱難を体験してこそ、私たちは変化されるのです。私たちの思考と生活形態を変化させる為に、巨大な洪水が押し迫ってきたのです。

平安で安定した時には、人々の思考も変わらず、生活形態も変化しません。IMF寒波が押し迫って来、巨大な洪水が恐ろしく氾濫しだしたので、私たちの思考と行動が変わってきたのをご覧ください。政府の考え方や行動が変わり、財閥たちの思考や行動が変わってきて、彼らが構造調整をし始めました。労働者たちの思考も変わらなければなりません。いくらかの苦難に会うとしても、国の興亡盛衰と直接に関連する事ですから、思考と行動を変化させない訳にはいかないのです。集団利己主義の故に民族がみな滅んでしまうか。そうでなければ、犠牲が伴うとしても民族が共に生きるか。このような選択の岐路に立っているのです。どうして思考が変化せず、行動が変化せずにおられましょうか。

国難とも言える経済危機にあって、こんにち、国民たちが変化する姿をご覧ください。勤倹節約しだしました。豪華・贅沢・浪費が影をひそめるようになりました。救国運動として「金収集」を始めたところ、全国民的に呼応して、人々が大事に仕舞いこんでおいた色々な「純金製品」を誰彼なくみんなが持ち出します。このような変化が起こるということは、私たちの将来に確かに希望があるという事を見せてくれます。

「ローマ人への手紙 5章 3節〜4節」は、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』と記しています。今回の艱難は、私たちにもっと大きな希望をもたらす事と信じます。主が洪水に乗って来られる理由は、洪水の艱難が貪欲を追い出すようにするからです。艱難が迫ってきてこそ、私たちが心を一新するようになります。

人たちの心の中が貪欲でいっぱいになっていて、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢に完全に捕らわれている間は、とても直す事ができません。しかし艱難が襲ってきたら、、心を新しくするようになり、貪欲を追い出すようになります。洪水は私たちに変化しなさいと言っており、心を新しくしなさいと言っているのです。従がって、この洪水を通して私たちが変化されたら、私たちには希望がかがやくようになります。




第二、とこしえに王として御座に着いておられる神様

神様は、万物の創造主であられ、天と地とその中のすべてものを造られました。この世が偶然に生成されたという人たちは、本当に愚かそのものです。神様は万物の支配者であられ、アルファとオメガであられ、最初であり最後であられ、初めであり終わりであられます。それで、神様は私たちに迫って来る洪水を支配される王様であられる、と聖書は明記しているのです。

捕虜になって捕らわれて行ったユダ民族の中に、ダニエルの3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおりました。この3人は、ネブカデネザル王の下でバビロン州の事務官に任ぜられていました。ある日、ネブカデネザル王が金の像を造って、太守、長官、総督、参議官、司法官、保安官および諸州のすべての高官を召集、金の像の奉献式に出席させました。そして金の像の前にひれ伏して、拝むようにしました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは拝みませんでした。

彼らは、ネブカデネザル王よりも、王の王、主の主である神様をまことの王として畏敬していたからです。神様は、『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。偶像をつくって、それらを拝んではならない』と仰せられました。それで、イスラエル人であるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはどんな事があっても、その金の像を拝む事はできませんでした。

怒り狂ったネブカデネザル王は、「もしお前たちが、今からでも私が造った金の像を拝むなら、それでよし。もし拝まないなら、直ちに、激烈に火の燃える炉の中に投げ込まれよう…。」と脅しました。これに対して、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、ネブカデネザル王に『「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」』(ダニエル書 3章16節〜18節)と、大胆に答えました。

彼らは、大きな試練の洪水に会った時、決然として王であられる神様を見上げながら、神様に従順に聞き従うことに決心しました。ネブカデネザル王は怒りにみちて、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、普通より七倍も熱くした炉の中に投げ込みました。その時、どこから来たのか第四の人が来て、彼らと一緒に火の中にいるのが見えました。

ネブカデネザル王は驚いて立ち上がり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを火の中から呼び出しました。3人は、髪の毛一本焼かれず、火に焦がれた臭いもしませんでした。火を支配し、「神の人たち」を救われたその神様が、いま私たちに襲って来た患難の洪水の上に、王として御座に着かれておられるのです。私たちが、洪水の車に乗って来られた神様を「私たちの王様」として迎え入れれば、神様は洪水の車から降りてこられて、私たちの中に留まって下さるのです。そして、主人が降りた車がひとりで駆け回る事はできませんから、洪水の患難も終わるようになるのです。

私たちが心をつくし、思いをつくし、知力をつくし、いのちをつくして、神様を王として迎え入れて、お仕えしたら、神様は洪水に乗って来られる必要がありません。そのまま私たちの中に来られて着座なさいます。私たちが神様を王として迎え入れたなら、お仕えし、従順に聞き従がわなければなりません。今からでも、私たちが神様を私たちの王として迎え入れて、お仕えすれば、神様は洪水を捨てて私たちに来られ、私たちに祝福の根源となって下さいます。主の日を聖なる日として守り、十分の一を奉げ、絶えず祈りを捧げ、御言葉を口ずさみ、賛美し、伝道する…等、神様に仕え、毎日々々主の御言葉に従順に聞き従い、神様が与えて下さった十戒を確実に守りながら暮らせば、神様は、私たちが洪水から抜け出られるように助けて下さり、そして私たちと共に居られるようになるのです。

私たちは、口でだけ「主よ! 主よ!」と言わずに、心から神様にお仕えする暮らしをしなければなりません。『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。自分の為に偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。隣人のものを欲しがってはならない。』と言われた戒めを守る事が、神様を敬い、神様にお仕えする暮らしです。

「ヨハネの手紙 第一 3章24節」は、『神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるという事は、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。』と記録しています。

洪水を通して私たちが変化されれば、洪水は神様の御力となって、祝福の生ける水に変わってしまいます。今、私たちに襲ってきた大きな「IMF寒波」も、私たちが神様を心から信じ、従順に聞き従い、畏敬すれば、神様は、IMFが私たちの生ける水の根源となるようにして下さるのです。

「詩篇 30篇11節」は、『あなたは私のために、嘆きを踊りに変えて下さいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せて下さいました。』と記しています。洪水の時に、その上に乗って来られる神様を私たちが見上げ、その前にひれ伏して、へりくだり、変化し、心を開いて神様を迎え入れたら、洪水は止み、その洪水は私たちに大きな喜びとなり、踊りになり、祝福となり、生ける水になるのです。




第三、ご自分の民に力と平安をお与えになる神様

神様がご使用なさった人たちは皆、洪水を経験した人たちでありました。アブラハムは75歳の時に召されましたが、25年間、数々の洪水を経験しました。彼が100歳になった時にはじめて、神様は彼に満ち溢れる祝福を与えて下さいました。イサクはモリヤ山で、死という巨大な試みと艱難の洪水に会いましたが、それを克服してからは、神様が継続して彼にお恵みをほどこされ、祝福して下さいました。ヤコブは20年間、母の兄の家で試練と艱難に会い、ヤボクの渡しで「もものつがい」を打たれてびっこになる、そのような試練を経てから、彼に神様の祝福の御手が臨むようになりました。

ヨセフは13年の間、ポティファルの家でしもべ生活をし、濡れ衣を着せられて監獄に監禁される苦難に会いましたが、後日、彼はエジプトの総理大臣になって全家族を救う神様の道具になりました。モーセは40歳の時に、祖国を救おうとして失敗し、追い出されて広野で40年間を過ごしてから、神様は彼を取り上げてイスラエルを救い出す偉大な指導者にして下さいました。洪水を経験してこそ、力が生じるのです。洪水を経験しない事には、神様に従順に聞き従う力を得る事ができません。

「ヘブル人への手紙 5章 7節〜9節」に、『キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、』と記されています。神様の御子イエス・キリストも、苦難を通して従順を学ばれたのです。私たちは洪水の苦難を通してこそ、神様に従順に聞き従う力を得るようになるのです。

「詩篇 119篇49節〜50節」は、『どうか、あなたのしもべへの御言葉を思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、御言葉は私を生かします。』と記しています。患難に会ってこれを克服した人は、主の御言葉に拠り頼み、どのような逆境にあっても揺り動かされません。「詩篇 119篇71節〜72節」にも、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』と記録されています。

主が、私たちに洪水を送って砕き、へりくだらせるのも、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康になって、益々立派に神様に仕えながら暮らす人にならせる為です。「詩篇 84篇 5節〜6節」に、『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』と記されています。

私たちの主は、洪水に会った人たちに数多い祝福の泉が湧き溢れるようにして下さいます。主のご計画は、ご自分の民たちがこの世で安らかに暮らし、人生が終わったあとには天国に入って来て、とこしえに主と共に平安ないのちを享受するようにすることです。「エレミヤ書 29章11節〜13節」は、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』と記しています。

洪水の時に私たちがしなければならない事は、悔い改め、砕かれて、変化を受け、そして神様の前に心を開き、主に呼ばわり、祈ることです。「主よ! 私たちをこの洪水と艱難から救い出して下さい!」 私たちが呼ばわり祈れば、主は洪水から降りて、私たちの絶対的な王様として私たちの中の御座に着かれるようになるのです。

いくら荒々しく恐ろしい洪水であっても、その洪水の上に私たちの神様が着座しておられる事を知ったら、少しも怖くありません。神様は、私たちに良いものを与えようと願っておられるのです。『あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。又、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおの事、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』(マタイの福音書 7章 9節〜11節)と言われました。御子イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えて下さった神様です。従がって、神様が乗って来られる洪水は「良い洪水」なのです。

私たちは、「IMF寒波」を恐れてはいけません。これは神様が乗って来られた車なのです。私たちが、神様を心から迎え入れて、仕え、畏敬するようになれば、この車が変化して私たちに大いなる祝福の源泉になります。ですから、「IMF」期間中に砕かれましょう。悔い改めましょう。政府も事業家も労働者も… 国民全部が変化しましょう。集団利己主義と貪欲をすべて追い出して、心を空けましょう。そして王であられる神様を迎え入れて共に立ち上がりましょう。そうする時、神様は、私たちを、頭(かしら)となり尾とはならず、上にいて下へは下らず、貸すであろうが借りることはない、恵まれた神様の民にして下さいます。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 大洪水の時に主は洪水の上の御座に着かれ、とこしえに王として御座に着いておられる、と仰せられました。主は、ご自分の民に力をお与えになり、平安をもってご自身の民を祝福されると仰せられました。

私たちは個人的、家庭的、社会的に、また国家的に、IMFの巨大な洪水に会いました。この洪水だけを見たら、私たちは挫折し、絶望するしかありません。どうか、洪水の上の御座に着いておられる主を見上げて、恐怖を払い落とし、謙虚に、主を迎え入れるように助けて下さい。

そうして、我が国民全部が砕かれ、変化して、悔い改め、貪欲、集団利己主義等をすべて捨てて、聖く、空いた心を持つようにして下さい。神様が王として来られて、このIMF洪水を治めて下さい。洪水が主のお恵みと、愛と、祝福となるように助けて下さい。主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!