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「あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」
 






■聖書箇所

「列王記 第二 4章 1節〜7節」
4: 1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
4: 2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
4: 3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4: 4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
4: 5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
4: 6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
4: 7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」




聖書には、飢饉とか物質的窮乏とか絶望状態に陥った人たちが、神様のお恵みによって、奇跡的に助けられた事件が数多く記録されています。

その代表的三つの例のうち、一番目が、「列王記 第一 17章 8節〜16節」に記録された事件です。イスラエルのアハブ王の時代に、全国がバアルとアシェラの偶像に仕え、それらを拝み、主の預言者たちを酷く迫害しました。それで神様の御怒りを引き起こし、預言者エリヤをアハブ王の所に遣わして、3年6ケ月の間、イスラエルに雨が降らないであろう、と仰せられました。一方、エリヤはシドンのツァレファテにいきました。そこで、最後の食糧である一握りの粉とほんの少しの油で、エリヤをもてなした一人の寡婦の家に、神様の祝福が臨みました。その結果、「主が地の上に雨を降らせる日まで、その家のかめの粉は尽きず、その家のつぼの油はなくなることがありませんでした。」

二番目が、「列王記 第二 4章 1節〜7節」に記録されている事件です。預言者エリシャの時に、預言者の輩(ともが)の一人が死にました。ところが、寡婦になったその妻と二人の子供が負債を返済する事ができないので、債権者が二人の子供を自分の奴隷にしようとしました。その寡婦は予言者エリシャの所に来て、助けてくださいと涙で訴えました。その時エリシャは、その寡婦に「あなたの家にどんな物があるか?」と聞きました。「ただ、油のつぼ一つしかありません。」とその寡婦は答えました。するとエリシャは、隣の人たちから、空の器をたくさん借りて来るようにして、神様に祝福してください、と祈り求めるや、空の器に油が満ち溢れるようになり、その油を売って負債を返済する事ができるようにしました。

三番目は、「ヨハネの福音書 6章 1節〜13節」にある事件です。イエス様の御言葉を聞くために、日が暮れるまで人々は帰ろうとしませんでした。ひもじくなっている人々を見て弟子たちは、イエス様の所に来て、どうしたら良いでしょうか? と聞きました。食べ物を上げなさいとの仰せを聞いて、アンデレは一人の少年のお弁当である「大麦のパン五つと、小さい魚二匹」をもって来ました。「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられました。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられました。」(ヨハネの福音書 6章11節) すると、男たちだけで五千人、女と子供を合わせたらその何倍にもなる人々を腹いっぱい食べさせたうえに、なお余ったものが12のかごに一杯になりました。

このような聖書の御言葉を通して、こんにち、経済的に甚だしい危機に瀕している私たち個人と国家が、生きて行ける知恵を得ようと思います。




第一、神様は、私たちの現実問題の答えとなられます

神様が、私たちの物質的現実生活に対して無関心である、と考えるのは大変間違った考えです。現在、私たちが暮らしているこの天地と万物は、神様が直接造られました。物質そのもの自体が悪であり、罪であるとすれば、どうして神様が造られたでしょうか? 物質それ自体は、悪でも、罪でもありません。その物質を使う人間が、悪く使えば悪いものになり、間違った使い方をすれば間違ったものになるのです。

物質は、神様が造られたすばらしい物です。神様は万物の中におられ、万物を超越しておられます。ですから、神様が物質の世界から離れておられると考えるのは、大変な誤解です。

「申命記 28章 1節〜8節」の御言葉です。『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。』

祝福の根源であられる神様は、ご自分に従順に聞き従う民に、祝福して下さるお方である事をはっきりと明らかにしています。ですから、私たちが祝福されるためには、神様を探し求めなければならず、神様だけがすべての祝福の根源であると言う事実を、心の中に深く悟り知らなければなりません。「申命記 8章18節」は、『あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。』と記録しています。

それでは、私たちが経済的に苦痛と挫折と絶望に直面している時、どうしなければならないでしょうか? 先ず、神様を探し求めなければなりません。私たちが神様の前に罪を犯したのでこのような事が起こったのですから、神様を探し求めなければならないのです。「ヨエル書 1章14節〜20節」は『断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。穀物の種は土くれの下に干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。穀物がしなびたからだ。ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。主よ。私はあなたに呼び求めます。火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです。』と記録しています。

私たちが物質的に困憊し、欠乏する時代に至った時は、神様の前に出て呼ばわり、悔い改め、祈りなさい、と聖書は記録しているのです。全教会、全国民がみな断食しながら、悔い改め、主の前に出て来て呼ばわり、祈り、祝福の根源であられる主を探し求めなさい、と言うのです。

そのように神様を探し求めたら、どんな結果が生じるでしょうか? 「ヨエル書 2章21節〜26節」に、『地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。』と記録されています。

私たちが悔い改め、主を呼び求め切に祈り求めれば、主は再び祝福して下さり、恥と困辱に会うことなく、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるようにして下さる神様である、と聖書は記録しているのです。ですから、私たちが困窮で難しい時こそ、神様に祈り求めなければなりません。神様に祈り、呼ばわり、叫ばなければならないのです。神様は、死者を生き返らせ、無いものを有るがごとくに呼ばれるお方です。こんにち、私たちがこのIMF傘下で、経済的に甚だしい苦痛と辛苦に瀕している時、神様に祈り求め、祝福の根源であられる神様の前に出て参りますと、神様は私たちの祈りを聞いて下さり、その全能の御手を差し伸べて御業を働かせて下さったら、無秩序は変化して秩序となり、死は生命に、貧困は豊麗に変化されてしまうのです。




第二、神様に、私たちの家にどんな物があるか、言わなければなりません

我が国の懸案問題は、余りにも沢山の資金を借り入れた事です。企業らが無謀にも手当たり次第に借金し、銀行や総合金融会社など金融機関も天文学的借金をして、その負債を国民が負担しなければならなくなりました。神様が私たちを祝福して下さる時、他から借りて来たもので祝福して下さる、とは言われませんでした。「あなたの家にどんなものがあるか、私に言いなさい。」と仰せられました。

我が国と台湾とを比較して見ますと、台湾は98%が中小企業であり、台湾の人たちの負債率は、自己資本の85.7%に過ぎません。これに比べて、我が国の企業らは平均317.1%の負債率を背負っています。台湾がこんにち、経済的に成長した理由もまさに、このような姿勢にあるのです。

今日の聖書の本文を見ますと、預言者のともがらの妻である一人の寡婦の家にあった油のつぼ一つに、神様は祝福して下さいました。その寡婦に借金をしなさいとは言いませんでした。家にどんなものがあるかを言わせてから、その油のつぼを通して、負債を全部返し、そして立派に暮らして行けるようになさいました。

また、ツァレファテの寡婦の家にある一握りの粉と、ほんの少し残った油で、3年6ケ月間の凶年を過ごせることができるようになさいました。外部から金や銀を借りて来たのでもなく、借金して来たのでもありません。家にある一握りの粉と、ほんの少し残った油、それを神様が祝福してくださって、飢饉を免れることが出来るようにしてくださったのです。

荒野で男だけで五千人、女と子供まで合わせたら数万人がいましたが、主がパンを借りて来なさい、麦を借りて来なさい、油を借りて来なさい、と言われたでしょうか? 群衆の中の幼い少年が持っていた弁当、大麦のパン五つと小さい魚二匹に祝福されて、数多い人々を腹いっぱい食べさせたうえに、余りが12のかごに残るようになさいました。

また、少年ダビテを記憶してください。ゴリアテと戦う時、サウル王は自分のよろいとかぶとを着させました。頭には青銅のかぶとを被らせ、身にはよろいを着けさせ、鋭い剣を与えました。しかし、ダビテは自分の羊飼いの着物そのまま、投石袋と石投げを手にして出て行きました。ダビテがゴリアテと戦うために出陣して行く時、他人の物を借りて行ったのではなく、自分が持っている物だけを持って行ったのです。神様はダビテが持っていた石投げと共におられたので、ゴリアテを石一つで倒す事ができました。

問題の解決は、どれほどたくさん借りて来るかにあるのではありません。自分にある物、それを祝福してくださる神様にあるのです。ダビテはいくらでもサウルのよろいとかぶとと剣を借りて行く事ができました。しかし神様は、ダビテに自分にある物だけを持って、そのまま行きなさい、と言われました。人間の目で見れば、全然勝算がないように見えましたが、巨人ゴリアテは倒れてしまったのです。

ですから、私たちは自分の家にどんな物があるかを、先ず、神様に告げなければなりません。そして、私たちにある物を通して祝福が臨むように祈らなければなりません。神様は、借りて来る物に祝福して下さるとは言われませんでした。ほんの少しの油があっても良い、一握りの粉があっても良い、大麦のパン五つと小さい魚二匹があってもよろしい、あなたにある物を祝福されると言われたのです。




第三、神様に、先ず自分の物を差し出さなければなりません

「箴言 3章 5節〜10節」は、『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。』と記しています。

私たちが神様に、先ず自分の物を差し出して、神様を先に崇め、そして神様の祝福をいただいて暮らさなければなりません。ツァレファテの寡婦をご覧下さい。ツァレファテの寡婦は息子といっしょに、最後に残った一握りの粉とほんの少しの油でパンを作り、それを食べて死のうと考えました。ところが壮健なエリヤが来て、主の御名によって水とパンを自分に持って来なさいと言いました。寡婦の立場から見ますと、あまりにも苛酷な要求でありました。かわいそうな寡婦とその息子の事情を完全に無視した要求でありました。

ところがその結果、神様はどのようになさったでしょうか? 雨が降る日まで、かめの粉が尽きず、つぼの油がなくならないように、祝福して下さいました。

先ず、神様に差し出す犠牲が必要なのです。一日中、イエス様につき従って歩いて来たので、群衆は昼食も食べられず、夕方になりました。ひとりの少年がその群衆の隅に隠れて、母が作ってくれた昼弁当を一人で食べようとしているところへ、イエス様の弟子であるアンデレが来て、食べ物を持っている人は出しなさいと言います。この少年は、自分ひとりが食べるのにも足りない食べ物を差し出しました。その結果、数万人の人々が充分食べたうえに、12のかごに残る奇跡が起こったのです。先ず、神様の前に犠牲的に差し出してこそ、神様が御業を働かしてくださるのです。




第四、神様に、私たちの口を大きくあけてこそ、満たしてくださいます

「詩篇 81篇10節」に、『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。』と言われました。私たちの環境がいくら乱れ、困難であるとしても、夢を失ってはなりません。私たちが夢を失って、嘆き、自分の生を放棄してはいけません。私たちが、神様から祝福していただくためには、どのような環境の中にあっても、神様を仰ぎ見、夢を育てなければならないのです。一握りの粉とほんの少し残った油で、エリヤと寡婦とその息子が、3年以上食べた事を夢見、信じなければならないのです。ツァレファテの寡婦は夢がある人でありました。人間的に考えてご覧ください。一握りの粉とほんの少しの油で、どうして3年6ケ月間を過ごす事ができるでしょうか? しかし、エリヤの言うことをそのまま信じ、夢を持ったのです。

私たちは、現在置かれた環境と立場に絶望してはいけません。私たちには何も無く、負債だらけであっても、放棄しようとしてはいけません。私たちに何があるかを知らなければなりません。私たちには、神様がおられるのです。神様が私たちのうちにおられ、その方の御言葉に従って行けば、限りなく大きな夢を持つ事ができるのです。明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より良くなると言う夢を持たなければなりません。

私たちが、このIMFの寒波で困難に直面した今、最も怖い事は、当面の困難よりも、国民たちが夢を失ってしまうことです。先ず、私たちを導いて行く政治家たちが夢を持ち、国民たちに夢を植え付けてくれなければなりません。「気落ちしてはいけない。」 「大丈夫、生きて行ける。」 「なせばなる。」と、夢を持つようにしなければなりません。聖書にも、『幻が無ければ、民はほしいままに振る舞う。しかし律法を守る者は幸いである。』(箴言 29章18節)と記録されています。

一握りの粉と小さいつぼの油だけでも、3年6ケ月の間暮らして行けると夢を持った寡婦を見なければなりません。預言者のともがらの寡婦が、すべての器に油が一杯になる事を夢見、信じた事を見習わなければなりません。小さいつぼに少しの油しか無いのに、預言者エリシャが、隣から器をたくさん借りて来て、そこに油を注ぎなさい、と言いました。寡婦はエリシャの言葉を聞いて信じ、夢を持ちました。そして、その言葉通りに油をたくさん得て、負債を返して暮らしていく事ができました。

考えて見てください。男だけで五千人、女と子供まで合わせたら数万人に食べさせる夢を持っていると言う事は、どんなに驚くべき事でしょうか。計算に明るいピリポは、そのような夢を持つ事ができませんでした。お金も無く、パンを買う所もないのに、どのようにして、この大勢の人々に食べさせる事ができるだろうか、想像もつかなかったのです。しかし、アンデレには夢がありました。お金もなく、パンを買う所がなくても、大麦のパン五つと小さい魚二匹に、主が共におられれば食べさせる事ができる、と言う大変な夢と信仰を持っていました。その夢と信仰を通してイエス様は、彼らを食べさせ、12のかごにまで余りを残したのです。

『私はあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。私が、それを満たそう。』(詩篇 81篇10節)と仰せられた神様を覚えましょう。今私たちは夢を持つべき時です。口を大きく開けて、神様が私たちを祝福して下さる事を信じて暮らして行かなければなりません。我が国には、5万の教会があり、1,200万の聖徒がいます。我が国に神様が共におられるのです。イエス様が私たちと共におられます。そうであるなら、主に拠り頼み、神の国とその義とを求めながら、私たちは夢を持たなければならないのです。私たちがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である事を夢見なければなりません。夢と信仰を持って、私たちが神様の前に出て行く時、主は私たちを助けて下さいます。

「コリント人への手紙 第二 9章 8節」は、『神は、あなたがたを、常にすべての事に満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与える事のできる方です。』と記録しています。

我が国が、この危機を克服して生き抜き、繁栄するためには、神様を探し求めるしか道がありません。神様だけが私たちの生命であり、祝福の根源であられるからです。外国からドルを物乞いする事が生きる道ではありません。神様は、外国に物乞いせずに、あなたがたの中に何があるかを告げなさい、と言っておられます。私たちには、五千万に近い国民がいます。私たちの土地があります。働こうとする中小企業連があります。私たちに有るものを持って、神様の前に出て行かなければなりません。

私たちにある極小さい物でも、それをもって神様に拠り頼みながら、暮らして行かなければなりません。神様の祝福が、私たちの持っている物に臨むと、大きな奇跡が起こるようになるのです。それで、羞恥と困辱から解放されて、祝福の道に歩んで行く事ができるのです。




お祈り

全知全能であられる、我が父なる神様! 私たちは個人的にも国家的にも大変な試練にぶつかっております。ツァレファテの寡婦と同じであり、預言者のともがらの寡婦と同じようになっています。荒野で食べる物がなかった群衆と同じ立場になっています。しかし、彼らはみな神様に拠り頼み、彼らに有るものを持って来て、先に、神様に捧げ、口を大きく開いて夢を持ち、信仰を持ちました。

そして、神様の大きな御業によってすべてが解決されました。私たちの問題も同じく、これまた解決される事と信じます。あなたにどんなものがあるか言いなさい、と仰せられた神様の御言葉を記憶して、私たちに有るものを先ず捧げます。

 父なる神様! 私たちが主を父としてあがめます。私たちが父のうちにあって、夢を持ち、信仰を持って暮らして行く事ができるように助けて下さい。主の民たちが口を大きく開く時、満たして下さい。我が民族をかえりみて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン。