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「神の全ての武具を取りなさい」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 6章12節〜18節」
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。




人間が、この地球上に生存するためには、絶え間なく闘争しないことには存在する事ができません。フランスの有名な文豪ビクトル・ユ−ゴ(Victor Marie Hugo:1802〜85)は、人生に対してこう言いました。「今日のあなたの使命は何ですか? 闘争です。」 「明日のあなたの使命は何ですか? 闘争です。」 「永遠のあなたの使命は何ですか? 死です。」 このような闘争は、私たちイエス様を信じる聖徒たちには、一段とさらに激烈です。その理由は、悪魔は神様の民たちを常に盗み、殺し、滅亡させようとして、吠え猛る獅子のように歩き回っているからです。私たちがこの様な試練に打ち勝ち、神様の前に堂々と立つことができるためには、神様のすべての武具を取らなければなりません。

悪魔は、空中に自分の国を建てておいて、自分たちの組織即ち、堕落した天使たちと悪霊たちで構成された軍隊組織で、執拗に私たちを攻撃しています。私たちの戦いは、物質的世界でない、その背後にある霊的悪魔の勢力たちとの戦いです。




第一、真理の帯を締めなさい

腰は、体の柱であり、中心です。腰に傷を負うと体は倒れ、力を発揮する事ができず、無力な者になってしまいます。私たちの信仰が、正にこの腰です。信仰が正しくあってこそ、私たちの人生全体が安定されます。何処から来て、何故生きており、何処に行くのかがはっきりし、人生を生きて行く態度がたしかなものになります。

信仰が動揺してはいけません。ところで、この信仰をどのようにしたら堅くたもつ事ができるでしょうか? 真理の帯を締めなければならないのです。間違った信仰は、私たちの人生を無力なものにし、永遠に破滅させます。「ヨハネの福音書 8章32節」は、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と記録しています。この真理が何でしょうか? 私たちの主イエス・キリストです。聖書に、『イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰一人父のみもとに来る事はありません。』(ヨハネの福音書 14章 6節)と記されています。

「真理の帯を締めなさい」と言う事は、私たちの信仰がイエス・キリストを中心にして堅く立たなければならないと言う事です。キリストを信じる信仰で、私たちは帯を締めなければなりません。神様の御子イエス・キリストが、乙女マリヤを通してこの世にお生まれになり、33年の人生を過ごされてから、十字架の上で死なれ、三日目によみがえられて、天に昇られ、再び私たちを救うがために再臨なさると言う、最も根本的な真理で私たちは帯を締めなければならないのです。偽キリストで帯を締めていては腰が折れ、信仰は崩壊してしまいます。主の再臨の時が近付いてくるほど、多くの偽預言者たちが現れて、「私がキリストである」とか「私が再臨したイエスである」と言っていますが、そのような偽りに騙されてはいけません。私たちは堂々と、聖書が言う「私たちの主イエス・キリストで真理の帯を締めて」、堅固に、揺るがされることがないように、堅く立たなければならないのです。




第二、正義の胸当てを着けなさい

義とは、神様の前に恥じる事なく立つ事ができる資格であり、悪魔の讒訴(ざんそ)を受ける事もなく、完全である事を言います。私たちがどのような努力をしても、神様の前に少しも恥じる事がなく立つ事ができる、そのような人にはなれません。悪魔が来て私たちの咎を発見する事ができない程に清廉な人格者はいないのです。

神様が、イスラエルの民をシナイ山に集めて、律法を与えられました。そして、律法を守る者は生きる、と仰せられましたが、その律法を守った人は一人もいませんでした。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができず、』(ローマ人への手紙 3章23節)と言われており、罪を犯さない義人は一人もいない、と言われました。アダムとエバ以後、堕落し、腐敗した結果、完全に義を行う人は一人も探す事ができません。なおさら、腐敗した世の中で生き残るために生存競争をしていますので、ここで真の義と真理と聖い心をもって暮らすことができる人は一人もいません。

神様の律法で私たちを映して見れば、すべての人が罪人である事がはっきりと現れます。自ら義に到達することができる人は誰もいません。それでは、私たちがどうすれば正義の胸当てを着けて、神様の前に立つ事ができるでしようか?

神様は、人間が律法を守ることができない事をあまりにも良く知っておられるので、私たちの主イエス・キリストを遣わされました。神様の御子イエス・キリストが人として来られて、人類のすべての罪を背負われ、十字架に上られて、永遠に私たちの罪を消してしまわれたのです。それは、過去1ケ月間の罪でもなく、1ケ年間の罪でもなく、10年間、100年間の罪でもありません。主は、永遠なる神様であられますので、人間の罪を永遠に清算してしまわれたのです。これが正に神様のお恵みです。これが正に神様の奇跡であり、神秘であるのです。

ですから、キリストの贖いのお恵みは、永遠なるものです。私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れたら、神様は、私たちの罪が永遠に、すべて清算されたものと認めて下さるのです。罪を犯したのにも拘わらず、醜悪であるのにも拘わらず、見捨てられて当然であるのにも拘わらず、イエス・キリストのもとに出てきたら、神様は永遠に私たちの罪を清算して下さり、その次には、聖霊様を私たちに与えて下さって、キリストの栄光のために暮らすことができるように、絶え間なく変化させて下さるのです。

救いは、ただ一回の信仰、即ちイエス・キリストを救い主として受け入れることによって受けますが、その次からは御言葉と御霊で、絶え間なく聖潔を得、変化される暮らしの過程を歩むようになります。「ロ−マ人への手紙 3章23節〜26節」は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』と記しています。

正義の胸当てを着ける事は、私たちはただ、イエス・キリストを信じる事によって赦された義人になった、と言う事です。胸当ては、敵の矢や槍や剣を防ぐ道具です。私たちが常に、赦された義人になった、と言う信念を強く持たなければ、私たちは悪魔の攻撃に負けて、倒れてしまいます。




第三、平和の福音の備えを履きなさい

裸足で人生を走る、と言うことは本当に苦しいことです。この頃、IMF寒波で職場を失ってしまえば、裸足で走るのと同じく苦しくなります。拠り頼むところがありません。裸足で砂利道を歩いて行くと言うことは、血みどろであり、挫折であり、絶望なのです。アダムがエデンから追い出されるた時に、神様を失い、永遠のいのちも失い、健康も、生活の祝福も、夫婦の幸福も、愛も、すべてを失って、裸足の人生になってしまいました。

しかし神様は、キリスト・イエスにあって、私たちのために驚くべきお恵みと祝福を備えて置かれ、この平和の福音の備えを履きなさい、と言われました。「コリント人への手紙 第一 2章 8節〜9節」を見ますと、『この知恵を、この世の支配者たちは、誰一人として悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして、人の心に思い浮かんだ事のないもの。神を愛する者のために、神の備えて下さったものは、みなそうである。』と記録されています。

主は、私たちの想像を超越して、私たちの人生のために、平和の福音の備えを履きなさいと言われました。主は、私たちが裸足で人生を走る事を望みません。備えて置いた靴を履きなさい、と言われます。それでは、私たちの靴が何でしょうか? 赦されて義を得た靴、神様から愛され、聖霊充満になり、神様の家族の一員になれたと言う信仰の靴、肉体の病気と心の病気を主が代わりに背負って、癒して下さる約束の靴、挫折と絶望と呪いと貧困から解放して下さり、アブラハムへの祝福を下さったその靴、そして、死と黄泉を撤廃して、天国と永遠のいのちを与えたと言う靴、この信仰の靴を私たちが、毎日のように確認し、確実に履いて、人生を歩んで行かなければなりません。

「靴」は行為を言うのです。私たちが人生を暮らして行く時、人間の力で暮らしたら、血みどろになりますが、神様の御力の武具を着けて暮らしたら、私たちは充分に勝利を収める事ができます。ですから、人生を裸足で走らずに、平和の福音の備えである信仰の靴を履いてください。目には何の徴(しるし)も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、絶えず祈り、そして信仰の靴を履いて走りましょう。赦しと義の靴を履きましたから、救われたことに確信を持って走らなければなりません。

私たちが聖霊を受け、神様の家族の一員となりましたから、神様を父として拠り頼み、祈り、信じて、見捨てられたとか、孤児になったという心情でない、溢れる心の喜びを持って暮らして行くようになり、主が私たちの治療者となって下さったのですから、イエス・キリストによって霊肉共に癒されたと言う確信、その喜びと癒しの靴を履いてすべてを行なうのです。

そして、この世がいくら乱れていても、主が私たちにアブラハムへの祝福を与えて下さり、すべての呪いと絶望から解放して下さったと言う信仰の靴を履いて、感謝し、祈りながら暮らして行かなければなりません。永遠に生きる天国があると言う信仰の靴を履いて、強く雄々しく大胆に暮らして行かなければなりません。

このように、私たちが信じることで武装し、信じることで平和の福音の備えを履いて暮らして行けば、主は私たちと共におられて、みわざを働かせてくださり、もっと多くの奇跡と不思議を見せてくださいます。




第四、信仰の大盾を取りなさい

大盾は、敵の槍や剣、矢を防ぐ道具です。私たちは人生を暮らして行きながら、悪魔から絶え間なく、矢と槍と剣の攻撃を受けています。悪魔が来るのは、盗み、殺し、滅亡させるだけのためです。悪魔は、妻を通して、夫を通して、子供を通して、お隣りを通して、また、私たちが所属している社会を通して、様々な形で私たちに襲って来ます。ですから私たちは、信仰の大盾を取って、堅固に武装していなければなりません。

私たちは、環境を見渡すと動揺しやすくなります。目で見る、耳で聞く、臭いを嗅ぐ、味を見る、手で確かめる、このように暮らして行けば、問題が起こらない時は構いませんが、難しい問題にぶっつかれば、すぐに心が動揺するようになります。私たちが、悪魔の弓矢から身を守り、勝利の生活をして行くためには、いくら環境が変化し、お隣が変わり、人間の感覚や理性や知識では到底理解できない事が起きるとしても、私たちは、私たちを愛してくださる神様を絶対に信じながら暮らして行かなければならなりません。

神様から愛されており、神様の子になったと言う事実をはっきり悟り、『神を愛する人々、即ち、神様のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべての事を働かせて益として下さる事』(ローマ人への手紙 8章28節)を知って、気落ちせずに暮らして行かなければならないのです。神様の御力と愛、そして、変わる事がない御言葉を信じずに、風に吹かれるまま、水に流されるがままの無気力になり、軽く動揺したら、私たちは信仰を維持する事ができません。

シャデラク、メシャク、アベテ・ネゴをご覧ください。ネブカデネザル王が、「もし、あなたがたが偶像を拝まないなら、7倍も火を熱くした炉の中に投げ込む。」と言った時、シャデラク、メシャク、アベテ・ネゴは、どうしましたか? 「ダニエル書 3章17節〜18節」は、『もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出す事ができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ。ご承知下さい。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝む事もしません。』と記録しています。シャデラク、メシャク、アベテ・ネゴは、神様の愛と御力に対して絶対的信頼を持っていたのです。

神様が、私たちを愛すると言う事実は、ひとり子をお与えになった事によって証明されました。イエス様が、私たちを愛すると言う事実も、十字架に釘付けられて、血を流し、身を裂き、死なれた事を通して証明されました。私たちが苦しく難しい経済的危機に会いましたけれども、証明された神様の愛と、神様への信仰を持って暮らして行かなければなりません。環境を見て恐れてはならないのです。




第五、救いの兜と御霊の与える剣を取りなさい

兜は頭、即ち、考えの根源を保護するものです。悪魔は休むことなく私たちの頭の中に否定的な考えを注入しようとします。悪魔は言います。「あなたは滅びる。あなたは罪人だ。あなたは見捨てられた。あなたは無能力だ。誰もあなたを愛しない。あなたは挫折する。破滅だ…。」この頃、幼い学生たちが何故自殺するのでしょうか? 彼らの心の中に到底耐えられない挫折感と否定的な考えが入って来たために、耐え切れなくなって人生を放棄するのです。もちろん、環境が困難であったでしょう。母が家出をしたとか、父が大酒飲みで言行乱雑であったとか、色々様々な環境的・家庭的困難があったのは事実でしょうが、しかし、そのような難しい逆境の中でも、それを克服し、十分に忍耐しながら暮らす人たちもたくさんいます。それなのに、何故人生を放棄するのでしょうか? それは、否定的な考えが頭に一杯になって、それに支配されたからです。その誰彼を問わずに、心に否定的な考えが入って来て、憂鬱症に陥れば、人生が灰色に見え、生きて行く勇気と希望を失ってしまうようになるのです。

「救いの兜を被りなさい」と言う事は、イエス・キリストの十字架の尊い血と、その救いのお恵みを考え、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』(ヨハネの手紙 第三 1章 2節)と仰せられた、良き神様を信じて、肯定的な心で暮らして行きなさいと言うことです。積極的・肯定的・生産的な思考をもって暮らさなければなりません。そうして、いつも心の中に救いを成就すると言う考えでいっぱいに満たさなければならないのです。

罪から救いを、捨てられたところから愛を、病気から癒しを、貧困から富裕を、呪いからすべての幸いを、死から天国を…、このようにいつも肯定的に暮らして行く事を考えなければなりません。隣人に対しても良い事を考え、良い事を話せば、私たちの心が明るく、清く、朗らかで、肯定的になるのです。

心に喜びがあってこそ、人は人生を生きて行くことができる力が生じます。心の喜びは、ちょうど精神的ビタミンとも言えます。ビタミンは、疲労を防御し、回復してくれる役割をします。喜びを失ってしまえば、心が憂鬱になり、挫折するようになり、否定的になってしまいます。それで『いつも喜びなさい。』と言われているのです。イエス様の十字架を考えれば、感極まって、感謝が湧き上がり、その愛とお恵みに与かっていることを自覚し、そして、救われたとして喜ぶ事ができます。ですから、救いの兜である喜びの兜を、いつも被っている私たちにならなければなりません。主に、いつも喜びを与えて下さいと祈らなければなりません。喜びは、私たちの暮らしに大きな力になるのです。喜びを失ってしまえば、家庭は破壊され、人々は放蕩するようになり、自殺するようになり、怠けるようになります。救いの兜とは、まさに喜びの兜を言うのです。

そして、「御霊の剣を取りなさい」と言われました。御霊の剣は即ち、神様の御言葉です。「ヘブル人への手紙 4章12節〜13節」は、『神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えや謀(はかりごと)を判別する事ができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』と記録しています。

悪魔との戦いにあって、人間の理論は何の力もありません。悪魔に勝つためには、神様の知恵と力である真理の御言葉を持って対抗しなければなりません。「コリント人への手紙 第二 10章 3節〜6節」は、『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』と記しています。

ですから私たちは、神様の御言葉をもってすべての事を解釈しなければなりません。そうすれば、悪魔は一つの道から来ては、七つの道から逃げ去るようになるのです。御言葉以外に、悪魔に勝つ力がほかにはありません。

イエス・キリストを信じる聖徒たちは、点検してみなければなりません。私たちの腰が丈夫か? 信仰の腰がイエス・キリストを中心にして立っているか? また、胸に正義の胸当てを着けているか? 私たちが人生を暮らしながら、人間の知恵と知識と聡明と、人間の努力だけで暮らしているのではないか? そうでなければ、信仰の靴を履いているか? を毎日のように点検しなければなりません。頭には救いの兜を被っているか? も点検しなければなりません。それと共に、御霊の剣を取って、御言葉で敵対し、御言葉で解釈し、御言葉で処理しているか? も顧みなければなりません。そうした後に、全力を尽くして祈らなければならないのです。いつも、神様のすべての武具を取って完全武装をし、神様に祈り、神様に助けを求めれば、私たちは毎日の暮らしのなかで勝利する事ができるのです。




お祈り

全能であられ、聖なる、主である神様! こんにち、武装解除された聖徒たちが余りにもたくさんおります。突然、悪魔の攻撃を受けて粉々になり、盗まれ、殺され、滅亡される人が多いです。愛であられる、私たちの天のお父さま! 願わくは、困難な時であるほど、神様のすべての武具を取って武装する聖徒たちとなるように助けて下さい。

イエス・キリストで帯を力強く締めるように助けて下さい。すべての罪が赦されて、義人になったと言う確信を胸いっぱいに満たして暮らして行けるように助けて下さい。五重の福音の靴を履いて、信仰をもって暮らすように助けて下さい。喜びの兜を被って暮らして行けるようにして下さい。救いに対する希望と喜びの兜をしっかりと被って暮らすようにして下さい。

いつも御言葉を聞き、御言葉を読み、御言葉で武装し、御言葉の剣を取って祈りながら、敵悪魔を征服し、運命と環境を治めることができるようにして下さい。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、そして、いのちを得るにしてもゆたかに得る信仰生活をするように助けて下さい。

聖なるイエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!