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「幸福な家庭の道」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 5章22節〜6章 4節」
5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
6: 1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6: 2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6: 3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6: 4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。




韓国の五月は、「家庭の月」です。万物がすがすがしく育ち、天地に生気があふれ、希望と若さと喜びに満る季節です。ところが、こんにち私たちの現実はそうではありません。突然襲ってきた経済的寒波のなかで、人々が職場をうしない、会社は倒産し、挫折と絶望に堪えきれなくなった人たちがいのちを自ら絶つなど、あらゆる悲劇が我が国で演出されています。

それで、数多い家庭が土台からグラグラと揺らいでおり、生活苦の脅威にふるえおののいています。このような時であるほど、私たちの最後の砦は家庭です。傷ついた人生がいやされる、気落ちした時に希望と勇気を与えてくれる、温和な愛で抱きしめてくれる、そして理解と同情で迎え入れてくれるところが家庭であり、家族のふところです。ですから私たちは、家庭と家族の重要性をそれこそ切実に、悟り知らなければなりません。




第一、家庭の始まりと条件

すべてに、根源というものがあります。私たちの家庭の根源は、まさしく神様にあります。人を造られた神様は、人がひとりでいるのは良くない、と言われました。「創世紀 2章18節」は、『その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」』と言われた、と記しており、「創世紀 2章21節〜22節」にも、『そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。』と記録されています。

人は、神様のかたちに創造された存在です。ですから人は、神様にとってもっとも価値があるだけでなく、神様の栄光を盛り入れた器なのです。神様は、「三位一体」の神様であられます。御父と御子と聖霊さまがひとりの神様であられ、同時に三つの人格でおられながら、熱い愛で一つとなっておられるのです。それで、神様には三位の熱い愛の交わりがなされています。

神様は、私たちが一人で孤独に暮らすことを決して望まれません。夫と妻と子供があり、お互いが熱い愛のなかで交わりながら一緒に暮らすことが、まさに神様の御旨であり、神様のかたちに創造された人生であるのです。「創世紀 2章24節」には、『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』と記録されています。これは、家庭が構成される条件です。神様は、家庭を構成するためには男が父母を離れて独立しなさい、と言われました。経済的余裕がないために一つの家で暮らすとしても、心理的に独立をしてこそ、家庭が構成されるのです。

また、聖書には『男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる。』とあります。妻と法律的に結び合いなさい、と言われたのです。最近は、妻と法律的に結び合わずに「会う・別れる」ことを反復する乱雑な暮らしをしていますが、神様は、「そうしなさい」と言われたことがありません。「マタイの福音書 19章 4節〜6節」に、『イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」』と記されています。

聖書的「結婚観」は、神様が直接干渉して結び合わせてくださったものを、人が引き離すことはできない、ということです。そして、生活が結び合わされなければなりません。結婚して暮らすのであれば、「自分の気分」「自分のもの」がなく、一心同体となって暮らさなければなりません。生活が結び合わされず、互いに利己主義になって暮らすのは、夫婦ではないのです。

また、肉体的にも一つとならなければなりません。離れて互いに別の暮らしをしてはいけません。聖書にも『互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。』(コリント人への手紙 第一 7章 5節)と記されています。家庭は、神様の統制を受けてこそ正しくなるのです。




第二、夫婦の条件

夫婦には、義務と責任があります。この頃は「男女同等権」が主張されていますが、人間としての権利は同等ですけれども、私たちが人生を暮らして行くにあっては、男性と女性の義務と責任は相違するしかありません。聖書は、夫婦の条件を明記しています。『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。』(エペソ人への手紙 5章22節) これは、妻が夫より「劣る」ということではなく、一つの家庭を構成して暮らすためには、夫婦が各々全うしなければならない責任と義務がある、ということです。家庭を車にたとえるとしたら、一人は前で引き、一人はうしろで押さなければならないということです。

家庭が幸福で円満であるためには、神様が指示なさった通りに、妻は夫に、主に従うように従わなければなりません。それは、夫が妻のかしらであるからです。創造の順序をご覧ください。エバはアダムのために造られました。夫が妻のために造られたのでなく、妻が夫のために造られたのです。人格的に病気に罹っていない以上、夫の権威に妻が服従してこそ、家庭の構成が保持されるのです。

「エペソ人への手紙 5章22節〜24節」は、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。』と記しています。

従って、教会が主イエス様に絶対に服従するように、妻も夫に服従しなければなりません。夫の権威に挑戦したらり、夫の言うことに反発したり、夫と競争をするとしたら、それは家庭を破壊するもっとも根本的な要素になるのです。夫である男性たちは、夫の権威を無視し、夫と考えずに対抗し、夫の人格を踏みにじるとき、妻を憎むようになると言います。賢明な妻は、絶対に夫の権威を無視したりしません。夫を家庭のかしら、家族のリーダーとして尊敬し、柔和な言葉で助言し、仕えてあげながら、夫と共に家庭を営んで行きます。

そのようにして、夫の陰にかくれて、夫をうしろから押して上げ、立派な夫にしてあげたら、妻も同じく立派になるのです。IMF寒波で、ある夫が失業してしまい、一家の主人として、父親として、自信を失いかけていました。彼は、昼間いく所がありませんでした。挫折し、気落ちして、行くところもないまま、山登りでもしようとして家を出るのに、いそいそと出勤しかけていた奥さんが黄色い紙切れを一枚、手に握らせてくれました。山の上に登って、その紙切れを開いて見ました。そこには、こう書いてあったと言います。

「あなた! あなたは失業しても私の夫です。お金がなくても私の夫です。立派な人であっても、愚かな人であっても、あなたは私の夫です。あなたがおられるところに私もおり、あなたが行かれるところに私も行き、あなたが暮らしておられるところで私も暮らします。あなた、 絶対に気落ちしたりしないで! あなたはどこまでも我が家の主人よ! そして私たちのかしらなのよ! 私たちはあなたに仕え、あなたと一緒に生きてまいります…!」

その紙切れを読んだあと、彼はどんなに心に感動したか涙を流しながら、「そうだ! ぼくを認める妻がいるんだ。ぼくは勇気を失ってはならん。これから何でもしよう!」と決心した彼は、まっすぐに、道端で「アンコ・パン」を焼いて売る商売を始めたと言います。

夫は、妻から無視されるとか、蔑(さげす)まれると、人生を捨ててしまいます。しかし、どのような逆境にあっても、妻が夫として認めてくれる、相変わらず尊敬してくれるとしたら、夫はどんなに難しい仕事、力が要る仕事、危険な仕事をしても、少しも苦にしません。ですから妻は、夫を畏敬しなければなりません。「エペソ人への手紙 5章33節」に、『それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』と記されています。

知恵深い妻は、夫をこき下ろしたりしません。否定的に他人と比較したりもしません。夫の長所をほめ、夫を敬います。夫はいくら愚かであっても、妻から尊敬されている、という自負心があるので生きるのです。従って、妻が夫を、主に対するように待遇して上げるのは良いことです。こんにちIMF寒波のなかで、数多い夫たちが失業して、恐れおののきながら暮らしています。このような時に、大いなる力となって上げるのは妻なのです。妻が力強く支えて上げたら、夫たちは絶望せずに、運命の激浪を克服しながら強く生きて行くことができるのです。

それでは、夫たちはどうしなければならないでしょうか? 『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』(エペソ人への手紙 5章25節)と聖書を通し言われました。「父母と子供の間柄」と「夫と妻の間柄」は同じくありません。イエス・キリストが身を裂き、血を流して、救いをほどこして下さったように、すなわち、このイエス・キリストの位置から妻を見なければならないのです。

神様は、この世の夫たちに「自分の妻を自分のからだのように愛しなさい。」と仰せられました。人が、自分のからだに対する関心以上に、関心を注ぐ対象はほかにありません。自分のからだに、美味しいものを食べさせ、きれいに着飾らせ、いつも清潔にし、休息を取るようにする、楽しませる、これが最大の関心の的です。「エペソ人への手紙 5章28節〜30節」は、『そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。』と記しています。

妻に深い関心を傾けて上げるのが、夫の愛です。対話の時間を持ち、必要なものを供給して上げる、色々とかえりみて上げる、このような妻に対する関心と愛が、夫には必ずなくてはなりません。そして夫は、世の中に妻を誇(ほこ)らかに押し立てなければなりません。自分の妻をさげすみ、愚かなものと見下げるとか、人たちの前で恥かしい目に会わせるとかしたら、夫の資格がありません。

「エペソ人への手紙 5章25節〜27節」は、『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』と記しています。

イエス様が、教会を麗しく、聖く、栄光の教会として、ご自分の前に立たせるために努力なされたように、夫も妻を、美しく、しみや、しわがない、ほまれ高い存在として自分の前に立たせなさい、ということです。特に、夫自身の家族や親類たちの前で、お友だちの前で、誇らかに妻を押し立てる雅量を持っている夫になってこそ、まことに妻を愛する夫なのです。

妻たちが、夫に対して物足りなく思い、さらに憎くなる時には、自分の胸に空洞を感じると言います。すべてが虚しく、人生が無意味に感じられる時、妻は夫が憎くなると言うのです。その次に、夫が実家の母や父・家族たちを非難するとき、そのようなときに夫が憎くなると言います。ですから夫たちは、限りない理解と同情と愛を持たなければなりません。完全な夫と、完全な妻は、この世にはありません。この世で完全な方は、ただ神様おひとりだけです。

山を遠くから眺めると、青い木が鬱蒼としており、花が咲いています。しかし、実際に山に行って見てくださ。石ころ、腐った草の根、落葉…などで、見苦しい部分が至るところ目につきます。人も、遠くで見るときには美しくても、近くで見れば見にくい傷があったり、数多い欠点が目につきます。まして、ひとつの屋根の下で、ひとつ釜の飯を食いながら、朝夕顔を見合わせて暮らすようになれば、すべての不完全な人格・短所が露出されないでしょうか。

人格的に互いにぶつかりあい、不調和がかもし出されるとき、失望感が助長されます。相互非難とか強圧を通しては、絶対に相手を変化させることができません。神様は、各々に個性を与えてくださいました。その個性は、神様だけが変化させることができます。私たちはただ、相手を最大限に理解し、同情し、そして愛の手を取り合って暮して行かなければなりません。夫婦は、運動会で「二人三脚」の競争をするのと同様です。一人でも先走りしようとしては倒れるだけです。歩調を合わさなければなりません。夫が偉そうな顔をして、妻を引っ張って行けるものでもなく、妻が賢そうにそうすることができるものでもありません。お互いに理解し合い、同情し合い、愛し合いながら、歩調を合わして暮らさなければなりません。

夫婦間の喧嘩は、勝っても損、負けても損です。できるだけ喧嘩はしないほうが最善です。「ペテロの手紙 第一 4章 8節」に、『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記されています。相手のすべての罪をおおって上げ、愚かさも担って上げながら暮らさなければならないのです。そして、祈りを通して、神様のお助けをあつく請い求めなければなりません。




第三、夫婦と子供の条件

子供は、父母の愛によって生まれ出ました。子供は、強力な共通分母として夫婦の間を縛りつけるようになります。子供は、神様が下さった賜物です。父母の所有物ではありません。従って、父母には子供を良く育てて、神様に捧げなければならない責任と義務があるのです。「エペソ人への手紙 6章 4節」は、『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。』と記しており、「詩篇 127篇 3節」は、『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』と記しています。また「箴言 22章 6節」には、『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。』と記録されています。

父母は、神様の愛と、キリストの御言葉で子供たちを良く教え、模範を示して上げなければなりません。そして何よりも、キリストを心から信じ、神様を畏敬するように育てるのが、子供の教育にもっとも重要なのです。子供たちに、人生の意味と目的と価値とを悟らせなければなりません。盲目的に、大臣になれ、代議士になれ、判事・検事・お医者になれと、親が成し得なかったことを強要してはいけないのです。子供たちの素質を良く把握して、それを生かして上げなければなりません。

子供たちにも、父母に対する条件が付与されています。「エペソ人への手紙 6章 1節〜3節」は、『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』と記録しています。

父母は神様の代理人です。それで、父母を無視するのは、神様を無視することになります。父母を敬うのは、神様の御心に従って暮らすことになります。目に見える父母を敬わない人が、目に見えない神様を敬うということは考えられません。神様が、私たちに与えて下さった「十戒」のうち、四つの戒めは「神様と人とのあいだ」の戒めであり、あとの六つの戒めは「人間関係」に対する戒めですが、「人間関係」の戒めの中でもっとも重要なのが「孝行」に関する戒めです。

人間の倫理・道徳の根本が「孝行」にあります。孝行することを無視してしまったら、人間関係のすべての倫理・道徳ははじめから破壊されます。神様は、父母を敬うことに対して、祝福の条件を付与しておられます。ただ、父母を敬うことにだけ付与されている祝福の条件です。『「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』(エペソ人への手紙 6章 2節〜3節) 神様が、父母を敬うことをどんなにお喜びなのかをリアルに見せてくれています。

幸福は、調和ある家庭と家族関係から生じるものです。家庭が混雑であり、動揺したり、破壊されたりしたら、厳しく寒いのに、暴雨が降りしきるのに行き所がなく、野原や道端に投げ捨てられた犬猫も同様になります。私たちは、環境や生活が難しくなればなるほど、益々、家族の一員として自分の位置を確固たるものにし、責任を全うして、家庭を力強く守らなければなりません。

家庭にあって、夫と妻、父母と子供の関係が確立され、キリストの愛で一つになれば、どのような暴風雨が襲って来ても、どんなに難しい環境におかれても、充分に克服することができます。前で引いて上げ、うしろで押して上げる、傷ついた家族を理解する、抱きしめ、慰め、いやして上げながら、一緒に暮らして行けるところが家庭なのです。

家庭ほど、無条件的に理解し、同情し、愛し、いやして貰えるところはありません。ほかのすべてのところでは、批評し、けなし、非難し、憎みます。競争します。しかし家庭はそうでありません。家庭では、大きな愛で、理解、同情、いやしの恵みを得ることができます。

神様が与えてくださった教訓(戒め)を通して、私たちは立派な夫、立派な妻、立派な父母、立派な子供になり、麗しく、そして主の栄光に満ちた家庭を建て、この世で「家庭楽園」をなして暮らす聖徒さんたちとなられますよう、主の御名によって祝福します。




お祈り

全知全能であられ、愛であられる、我が天のお父さま! 『神の国は、「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』と仰せられた御言葉を記憶します。私たちの主が支配なさり、経営なさる国が私たちの中に臨んでおり、私たちが小さい天国を所有するようにしてくださって有り難うございます。

主が、天国のその権威と御力で私たちを支配してください。赦しで支配してくださり、和解で支配してくださり、いやしと、祝福と、永遠のいのちで支配してください。主を心から信じ、拠り頼み、従順に聞き従いながら暮らして行きます。

私たちは、死のうが、生きようが、栄えようが、滅ぼうが、何がどうなろうとも、主の前にひれ伏して、私たちの一生をお委ねさせて頂きます。主が、私たちを支配してくださり、経営してください。主が支配してくださることにより、私たちがみな、小さい天国となれるように助けてください。教会天国となれるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!