教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「みなが聖霊に満たされた」
 






■聖書箇所

「使徒の働き 2章 1節〜4節」
2: 1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2: 2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2: 3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2: 4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。




イエス様が、十字架で処刑されたことは、イエス様の弟子たちには耐えられないショックであり、絶望でありました。

弟子たちは、イエス様がダビデの子孫メシヤとしてイスラエルの国権を回復し、ローマの圧政から解放させてくれることと期待していました。それで、故郷も家族も生業までもなげうって、3年余のあいだ、イエス様に従ってまいりました。しかし、イエス様がこのように力なく、ユダヤ人たちとローマの軍人たちに捕らわれ、総督ピラトの裁判を受けて、十字架に釘付けになって処刑されるとは、夢にも思わなかったことでした。

死なれてから三日目によみがえられたイエス様が、40日のあいだ、色々なところに現われては見えなくなられるので、そのことも何故なのか推察がつかず、弟子たちの当惑と挫折感は深まっていくばかりでありました。よみがえられてから40日目の日に、500余の弟子たちが見るなかで、イエス様はオリーブ山から天に昇られてしまいました。

それと同時に、弟子たちの胸の中はがらんと空いてしまい、夢は消え去りました。そして、オリーブ山からエルサレム市内に帰り、マルコと呼ばれるヨハネの家の屋上の間に集まって、ユダヤ人が怖いので外部への扉を堅く閉ざして、みなが心を一つにして毎日のように祈りに専念しながら待つこと十日ほどしてから、ついに五旬節の日になりました。




第一、イエス様に対する画期的な啓示

弟子たちは、イエス様が死なれたのは偶然ではなく、また殉教だとか、失敗した死でないということを悟りました。聖霊さまが臨まれるやいなや、イエス・キリストが失敗し、殉教的な死に目に会ったという当初の悲観は変わって、イエス様が死なれたのは遠いむかしから既に、神様が定めておられ、神様の御計画によって死なれたのだ、という事実を悟るようになりました。

「使徒の働き 2章22節〜24節」の御言葉です。『イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです…。』と、ペテロは声を張り上げて叫びました。

聖霊さまが臨まれるや、ペテロは悟りました。「イエス様が、神様の御計画によって引き渡されたのだ」と。キリストの死は偶然ではなく、神様が、この世の基(もとい)が置かれるまえから計画され、神様の御心によって十字架にかけられたのだという事実を、今になって悟るようになったのです。そして、イエス様が死なれたのは、旧約の供えのいけにえの完成である、という事実を更に知るようになりました。

旧約時代の人々は、罪を犯したら神様の前に出てきて、「罪の為のいけにえ」を捧げました。罪の為のいけにえと言うのは、神様の律法を犯し、その犯した罪を赦していただくために動物をほふり、血を流させて罪の贖いをすることです。まさしくイエス様の死は、人類のために神様が備えられた子羊としての「罪のためのいけにえ」であり、それで人類の罪が永遠に赦され、義とされたという事実を、ペテロは瞬間的に悟ったのです。

イエス様の死はまた、「罪過のためのいけにえ」でありました。神様とすべての人たちが犯した罪を贖うためのいけにえであったのです。人と人とのあいだに絡み縺れている罪から人類を救うために、主がいけにえとなられて十字架に釘付けられて死なれました。

そしてまた、イエス様は「全焼のいけにえ」になられた、という事実を知りました。全焼のいけにえというのは、神様に心から献身し、忠実を尽くし、犯した罪を全部焼き尽くして消滅させるために捧げるいけにえです。私たちを神様に献身させ、私たちを神様に忠実を尽くす人たちとするために、そして、私たちの罪をまったく消滅させるために、イエス様が親しくそのいけにえとなられました。

また主は、「和解のためのいけにえ」となってくださいました。和解のためのいけにえというのは、神様と人とのあいだの「隔ての壁」を取り壊して和解するようにしてくれるためのいけにえです。「ヨハネの手紙 第一 2章 2節」は、『この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。』と記しているのです。

それで、イエス・キリストの死は、私たちの「罪過のためのいけにえ」「全焼のいけにえ」「和解のためのいけにえ」となってくださったのであることを知ることができます。

「使徒の働き 2章37節〜40節」は、『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。』と記録しています。

弟子たちは、聖霊さまが降臨なさるや、イエス・キリストを信じさえすれば神様の子どもとして新しく生まれるという事実を悟るようになりました。罪を犯し、不義を働き、醜悪極まりなく、捨てられてしかるべきであるのにも拘らず、罪を犯したそのまま、愚かであるそのまま、素寒貧そのものであっても、主の血潮に拠り頼めば、代価なしに赦され、義人とされて神様の子どもとして新しく生まれる、という事実をただちに悟るようになったのです。

こんにちも同様です。聖霊さまが来られて私たちの目を開けて下さってこそ、イエス様が神様の御子であられ、私たちのために十字架の上で犠牲のいけにえとなられたので、その血潮の御力によって赦しと義と救いを得ることができる、という真理を悟って、イエス様を救い主として迎え入れることができるのであります。




第二、自我に対する驚くべき啓示

弟子たちは、イエス様が十字架で死なれるや、捨てられたと思い、希望も目的もなくさ迷よっているところへ、聖霊さまが臨まれると、瞬く間に、信仰により赦しを得、義とされたということを悟りました。聖書は、『イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」』(使徒の働き 10章43節) 『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』(ガラテヤ人への手紙 4章 6節)と記しています。

私たちが神様に向かって「お父さま」と呼ぶことができるということは、聖霊さまが私たちの中に来られて証印を捺してくださったからです。イエス様を救い主として受け入れない人は、神様を「お父さま」と呼ぶことが絶対にできません。

また弟子たちは、イエス様が十字架に釘付けになられたことによって、悪魔の支配と権威をすべて滅ぼされた、それで悪魔から解放された、また、すべての疾病の苦痛と悩みから解き放たれた、という事実を受け入れるようになりました。主がそれを啓示してくださいました。ですから、もうこれからは悪魔の支配を受ける必要がありません。盗み、殺し、滅亡させる悪魔、罪に定め、醜悪で、汚れるようにする、悪魔から解放されました。

霊と心と肉体のすべての疾病から解放させるために、主が親しく、私たちの痛みを担われ、私たちの病(やまい)を負われて、十字架に釘付けになられて、その代価を支払われました。もう私たちは、これからは悪魔のしもべでなく、病と悲しみと苦痛の奴隷でもありません。

アダムとエバが、神様に背いてエデンから追い出されてから、土地は呪われていばらとあざみを生えさせ、人類は顔に汗を流して糧を得る苦痛と悩みの中で暮らしてまいりました。ところが聖霊さまが臨まれるや、キリストによって、この呪いから解放されたという事実を悟るようになったのです。それからは、神様のお恵みと祝福にあずかり、すべてに幸いを得ながら暮らすようになるという確信をもって、心が強く雄々しく大胆に、そして肯定的、積極的になりました。弟子たちはまた、イエス様の十字架の死とよみがえりが、彼らを死と陰府(よみ)から解放させ、天国と永遠のいのちを得るようにしてくださった、という事実を悟りました。

「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記されている御言葉の通りに、罪の奴隷となり、病にかかり、呪われ、貧しく、飢えにあえぎながら、死の絶望に瀕していた人生はすべて過ぎ去って、キリストにより救われ、赦され、義とされた人であり、聖霊さまから証印を得て神様の子どもとなり、神様のお恵みの中に入ってきたのだ、ということを知るようになったのです。それで彼らは、自分自身に対する新しいイメージを持つようになりました。




第三、神様からいただいた使命を発見

弟子たちは、天の御国の拡張に励めという使命を与えられた、と悟りました。神様は、この地に天国を成就させることを望んでおられます。最初に、エデンの天国を成就させようとなさいましたが、アダムとエバの犯罪によって霧散しました。イスラエルの天国も、民たちの不従順と不信仰により崩れました。「マタイの福音書 28章19節〜20節」は、『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』と記しています。

ですから、今からは誰でも、全天下の万民に福音を宣べ伝え、イエス・キリストを救い主として受け入れたら、霊的天国が成就されるのです。個人の心に「小さい天国」が成されるのです。「ルカの福音書 17章20節〜21節」に『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』と記されています。

私たちがイエス様を受け入れたら、王様であられるイエス様にあって、私たちは主の民となり、小さい天国になるのです。私たち、一人一人がみな小さい天国です。私たちの人生は、偶然に来てから偶然に行くものではありません。

主に私たちの人生をお委ねしたら、主は、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る摂理でもって、治めてくださるのです。ですから、キリストの福音を聞いて小さい天国になった私たちは、この天国の福音を多くの人々の心の中に植え付けて上げなければなりません。

また、私たちは「教会天国」を準備しなければなりません。「マタイの福音書 18章19節〜20節」は、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」』と記しています。教会は、イエス様を信じる2〜3人以上が集まる場所であり、キリストの御体です。したがって、イエス様が私たちの王となられ、私たち聖徒がイエス様の民とならなければなりません。




第四、権威ある暮らしの発見

イエス様の弟子たちは、誇りとするほどの知識も名誉もありませんでした。しかし聖霊さまが臨むやいなや、以前は想像することもできなかった驚くべき能力が臨んだことを、彼らは知るようになりました。聖霊さまが「助け主聖霊」として来られたからです。助け主聖霊とは、「神様が遣わされ、私たちを助けるためにいつも私たちと共におられる神様の御霊」を言います。

聖霊さまは、知恵の霊であり、知識の霊であり、聡明・謀(はかりごと)・才能の霊であり、主を畏敬するようにし、そして聖なる御霊です。この神様の御霊が弟子たちと共におられながら彼らを導き始めるや、漁師であり、税吏であったので誰からも尊敬されることがなかった弟子たちでしたが、どこの誰も彼らの霊的権威を嘲笑することがありませんでした。

アメリカの聖会に行ったときのことです。ホテルで、貧しい心になって祈っておりました。「主よ! 私は阿呆です。私は愚かなものです。ほかの人たちのようにたくさんの勉強もしておらず、学位もほんの僅かであり、ほかの人々のように地位も名誉もない私は、愚か者です…。」と言いました。そうするや神様が、『知っている、知っている。あなたが阿呆で、愚かな者であることをわたしは知っているよ。』と答えてくださいました。私はびっくりしました。ほんとうに驚いてしまいました。

「神様! 私が阿呆であることを神様がご存知ですか?」『知っている。あなたが阿呆で、愚かであるのを知っている。しかし、あなたを使用しているわたしは、阿呆でなく、愚かでない。』その御言葉に、私は言うに言えない勇気と力を得ました。私は阿呆であり、愚かでありますけれども、私をご使用なさる神様は阿呆でなく、愚かでもないのです。同じく、私たちの中におられる神様の御霊は阿呆でなく、愚かでもないのです。

神様の聖霊は、知恵の霊であり、聡明の霊であり、謀(はかりごと)の霊であり、才能の霊であり、主である神様を畏敬するように導く霊であり、そして聖なる御霊です。この聖霊さまが、私たちを教え、悟らせ、時にはお叱りになり、時には慰めてくださり、また私たちを導いてくださいます。ですから、私たちは普通の人たちではありません。無能力な人間ではありません。神様の能力の衣を着せられた人たちなのです。

「ヨハネの福音書 14章26節〜27節」の御言葉をご覧ください。『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』

聖霊さまが来られて、私たちに驚くべき力となってくださるのです。そして聖霊さまは、私たちに祈ることができるように恵んでくださり、伝道することができるように恵んでくださり、信仰のお恵み、愛のお恵み、奉仕、献身のお恵みも与えてくださるのです。

それだけではありません。聖霊さまは私たち各々に、特別で奇異な賜物を与えてくださいます。ある人には知恵の言葉が、ある人には知識の言葉が賜物として与えられます。またある人には信仰、いやしの賜物、奇跡を行う力、予言、霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられて、神様がこのような賜物を通してその人をご使用しようとなさるのです。

弟子たちは、五旬節の日に屋上の間で聖霊さまが臨まれるや、あまりにも驚くべき変化を体験するようになりました。あたかも、繭(まゆ)が蝶になって翔けあがるように、聖霊さまが臨まれるや彼らの人生は変化されて、新しい世界の中で新しく生きていくようになったのです。絶望であり、気落ちし、烏合の衆で、この世の教育も受けていなかった弟子たちが、聖霊さまが臨まれるや瞬く間に、驚くべき変化を体験するようになったのです。

彼らは、イエス様の死と復活に対する確かな意味を知るようになりました。何故イエス様が、十字架の上で身を裂き、血を流して死なれたのか、そして、イエス様にあって新しくなった自分たちの位置と、生きる意味と、価値と使命をはっきりと悟るようになったのです。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる神様! 五旬節の日、聖霊さまが臨まれると、すべての世の人々が嘲笑する烏合の衆であったイエス様の弟子たちが、強大なローマ帝国をキリストの前に跪(ひざまず)くようにしてしまいました。彼らの知識がそうしたのでもなく、彼らの財力がそうしたのでもありません。

彼らに、それだけの能力があったのでそうしたのでもありません。当時、世の人たちから卑しまれていた漁師たちと税吏たちが集まって、世界を変化させる革命的運動を起こしたのは、只々、聖霊さまが臨まれたからです。ヨイド純福音教会が、40年前に5人が集まって礼拝をささげましたが、こんにち、72万人の聖徒を擁する教会となり、全天下・万国に福音を宣べ伝えるのも、聖霊さまが臨んでくださったからであることを認め、告白します。

今、この時間、聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みます。ますます聖霊充満になるようにしてください。聖霊充満になって、世界中に天国を宣べ伝える私たちすべてとなるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!