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「虫けらのヤコブ」
 






■聖書箇所

「イザヤ書 41章14節〜16節」
41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
41:15 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
41:16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。




田舎では夏、梅雨が明けた後に、長い蚯蚓(みみず)が家の前庭を蠢(うごめ)きながら這って行くのをよく見る事ができます。みみずは気味が悪く醜い外観のために、あらゆる虫の中でも最も下等で嫌悪を感じさせます。しかし、みみずは相手を攻撃するとか、自分を防御すべき何の武器ももっておりません。目も、耳も、牙も、爪もありません。

獰猛な牙もなく、素早く逃げるための足とか、その他、身体に鱗(うろこ)もありません。このように、ひくひくのろのろと蠢きながら這って行くみみずが、瞬間的に鶏や鳥の餌食になるのを私は度々見ました。神様は何故、数多い虫の中で選りによってヤコブをみみずに譬(たと)えられたでしょうか?

ヤコブは果たして、みみずになったでしょうか? 神様は、人がみみずになったら、その時、積極的に助けると仰せられました。それでは、狡猾なヤコブがみみずになる過程をたどってみることにします。




第一、ヤコブは決してみみずではありませんでした

ヤコブは、狡猾ですばしっこい蜥蜴(とかげ)の様な人でありました。ヤコブは、母リベカの胎内にあった時から、兄エサウと競いあいました。産まれる時も、兄エサウの踵(かかと)を手で掴(つか)んで出てきました。それでヤコブと名づけられました。

「創世記 25章22節〜26節」に、『子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。』と、リベカがエサウとヤコブを身ごもってから産むときまでに体験した苦痛が記録されています。

既に胎内にいる時からエサウと争い合い、生まれる時から兄の踵を掴んで出てきたヤコブは、絶対に無能力なみみずではありませんでした。彼らが成長して青少年期に達したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となりましたが、ヤコブは母リベカを助けて、家の中で家事に励む日々を過ごしました。

ある日のことです。兄エソウが飢え疲れて野から帰ってきた時、ちょうどヤコブは煮物を煮ていました。兄エソウが、「その赤い物を私に食べさせてくれ。」と請いました。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言いました。ヤコブが煮ていた赤色の煮物は、レンズ豆の煮物でありました。長子の権利をレンズ豆の煮物一杯で売るとは、そのような常軌を逸したしわざが何処にあるでしょうか。いずれにせよ、ヤコブはレンズ豆の煮物一杯で兄から長子の権利を奪ったのです。

また、父イサクは老年になり、人生の終わりを迎えて、子どもたちに按手し祝福してあげようと思い立ちました。それで長子エソウに、「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」(創世紀 27章 2節〜4節)と言いました。

その話をリベカが聞きました。リベカはエサウよりもヤコブを愛しました。それで、エサウが獲物をしとめるために野に出ているあいだに、ヤコブを呼んで、イサクが好む料理を作ってやり、そして、エサウの晴れ着を着させ、毛深いエサウのようにヤコブの首と手に子やぎの毛皮をかぶさせて、長子の祝福をヤコブが代わりに受けるようにしました。長子の祝福をすべて受けたあとに、エサウが帰って来ましたが、既に全ての長子の祝福をヤコブが受けてしまいました。

エサウは、ヤコブを殺そうとしましたが、リベカが自分の兄の家にヤコブを避難させました。母の兄の家でヤコブは、どんなに数多い苦境に会い、争ったか知りません。そのように20年間を過ごし、彼の年40才が過ぎてから妻子と家畜の群れを引き連れて、母の兄の家から出ました。そのとき、ヤコブはまたもの衝突を避けて密かに脱出しました。

「創世記 31章21節〜24節」に、『彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」』と記されています。

母の兄ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブとラバンとの間に論争が起こりました。「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです…。」(創世紀 31章40節〜41節)と言い残して、ヤコブはラバンと訣別しました。

このように、今までのヤコブの生涯を見ますと、彼は決してみみずではありませんでした。むしろ、彼は狡猾であり、あらゆる人間の手段と方法とを総動員して自分の利益を占めました。




第二、ヤコブが会った患難とみみずに変化された体験

ヤコブは、妻子と家畜としもべたちを引き連れてヤボクの渡しに着きました。そのとき、ヤコブの耳に入った情報は、兄エサウが四百人の軍隊を引き連れて来る、と言うことでありました。背筋がすっかり寒くなりました。ヤコブは非常に恐れ、心配しました。

その夜、家畜の群れとしもべたち、それに妻子たちまでもヤボクの渡しを渡るようにしたヤコブは、そこに一人だけ残りました。その時までヤコブは、非情で狡猾な人でありました。

ところが、突然ある人が現れて、彼と格闘するようになりました。妻子を捨てて逃げようとする考えでいっぱいであったヤコブは、その人と夜通し格闘を続けました。夜が明けかけました。勝負がつかなかったので、最後にその人はヤコブのもものつがいを打ちました。ヤコブはもものつがいが外れて倒れてしまいました。立ち上がる事ができませんでした。びっこになったのです。そうなるや、ヤコブに大波のような絶望が押し寄せてまいりました。もうこれからは、逃げる事すらできなくなったからです。最後の望みの光まで消えうせるや、彼は突然みみずになりました。

もう、ヤコブはみみずのように、目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、牙もなく、爪もなく、走ろうにも足までもがなくなってしまいました。完全に見捨てられたみみずのようになりました。そうなったのにも拘らず、ヤコブは自分と格闘したその人に、祝福してくれなければ去らせないと言って、必死に縋りつきました。「私を祝福して下さらなければ、私はあなたを去らせません。私を祝福して下さい。」と言うヤコブに、その人は聞きました。『あなたの名は何と言うのか?』「ヤコブと言います。」『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』と言って、その人はヤコブを祝福してくれました。

ヤコブが夜通し格闘したその人は、他ならぬ主の使い、即ち旧約時代に現れた天使でありました。ヤコブは、みみずになってからはじめて、神様の使いである天使をみてとることができるようになったのです。彼の体が健康であり、人間の手段・方法をすべて動員することが出来たときには、自分と格闘する人が誰であるかわかりませんでした。みみずのように卑しくなって始めて目が開き、格闘した人が主の使いである事を悟るようになったのです。




第三、神様とみみずとの関係

もしも、私たちがみみずになればどうなるでしょうか? みみずになる前の私たちは、人本主義のうえに利己主義で暮らし、自分を自慢し、自己中心、自我一辺倒で暮らします。しかし、一旦みみずになれば、人本主義も砕かれ、利己主義も、自慢も、自己中心の自我もすべて砕かれてしまいます。その時になって始めて、神様の前にひれ伏して徹底的に悔い改めるようになります。今まで人本主義的に暮らして来た事を告白し、涙を流しながら振り返って見るようになります。そして、みみずになったら、全面的に神様に拠り頼むようになります。神様にだけ縋って祈るようになるのです。

自我を押し通している間は、自分だけを信頼しますが、それが砕かれた後からは、ヤコブがみみずになるや天使に寄り縋ったように、私たちもみみずになったら、全面的に神様に拠り頼んで呼ばわり、叫び、祈るようになるのです。「詩篇 25篇16節〜20節」に、みみずになった人の祈りが記録されています。『私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。』

みみずになったら、切に神様をさがし求め、神様に呼ばわり祈りたくなる、そのような心境になるのです。ところで、私たちがみみずになったとき、私たちを神様はどのようにして下さるでしょうか? 神様はみみずになった私たちをそれこそほんとうに愛して下さるのです。人々は、みみずになる前には、自分の知恵と、知識と、聡明と、自分の能力を依り頼みます。神様の存在を忘れてしまいます。私たちクリスチャンまでも、神様中心に暮らすと言いはしながらも、神様をただの装飾品のように思うときがあります。必要な時には祈り求め、そうでない時には神様中心でない人本主義、即ち自己中心に暮らすクリスチャンがどれほど大勢いるか知りません。

しかし、みみずになって完全に砕かれてしまえば、神様を切にさがし求め信じるようになるので、神様はみみずになった人を本当に愛し、喜んで受け入れて下さるのです。神様はみみずになった人に対して責任を負って下さるのです。「イザヤ書 41章14節」に、『 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』と記されています。

神様は、むしろみみずになった人に、恐れるな、と仰せられました。みみずになった私たちを助けて下さり、贖ってくださると言われるのです。人たちが自信満々になって、自分の手段と方法で暮らすときは、神様を必要としないだけでなく、神様が助けてあげようとして来られても、見向きもしません。しかし、みみずになって自我がすべて砕かれ、拠り頼むところがなくなって切に助けを求めなければならなくなったときには、神様である主に祈り求めるようになるのです。

また私たちがみみずになったら、主は私たちが打穀機になるようにして下さると言われました。「イザヤ書 41章15節〜16節」は、『見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』と記録しています。

みみずがどのようにして打穀機になれるでしょうか? それは私たちがみみずになって、神様に全的に拠り頼めば、みみずの祈りによって、歯が鋭い打穀機のようになると言われたのです。私たちがみみずになって、神様に全的に拠り頼めば、神様が、私たちに神様の権力と能力とを着させてくださって、私たちに押し寄せて来る問題の山々が粉々になり、私たちの祈りによって聖霊様の風が吹いてきて、つむじ風のようにすべての問題を吹き飛ばしてしまうと言われたのです。

「ゼカリヤ書 4章 6節〜7節」は、『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」』と記しています。

みみずになった人生は、目も,鼻も、耳も、歯もありませんが、しかし、みみずのような人生になって神様に祈れば、その祈りは歯が鋭い打穀機になると言われたのです。その祈りによって歯が鋭い打穀機となれば、近寄ってくる小さい山も粉々になり、大きい山も砕いて、つむじ風に吹き飛ばしてしまう偉大な力をもっている、力ある神様の人にして下さると言われたのです。

ですから、自ら歯があると言う人は、自分の歯で問題を噛むので、その歯が折れるか抜けてしまいます。しかし、歯がないみみずは神様に呼ばわり祈る時、運命と環境を変化させる偉大な力を得るようになります。そして、そのみみずになった人生は、自分に対して喜びません。自己自慢とか自分の能力を誇りません。ひとえに、神様にあって喜び、神様だけを誇りとするのです。

「詩篇 28篇 7節〜9節」は、『主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。』と記しています。




第四、イスラエルに変化されたヤコブ

ヤコブがみみずになった時、どうであったでしょうか? 彼はびっこを引き、髪の毛はぼうぼうと乱れ放題、全身が引っ掻かれ、傷だらけになり、可憐な片輪者になりましたが、太陽が昇るとき、彼は家族たちの前に現れました。過去の狡猾なヤコブではありませんでした。今や彼はみみずのようでありました。彼は自分を守る何の手段もなく、攻撃する力もありませんでした。みみずのように目も無く、耳もなく、歯もありません。今は踏みにじられたら、死ぬしかない彼でありました。

彼は、全面的に神様にだけ拠り頼みました。今や彼は、イスラエルになりました。神様との格闘で勝った者と言うのは、神様の前に降伏した者が勝った者である、ということです。完全に神様に降伏して、神様の権威と能力に支えられて彼は歩いて行きました。神様の天軍・天使が彼と共に進んで行きました。神様の能力の御手が彼の上にのせられて進んで行きました。

遠くでその様相を見たエサウの心から、憎しみが雪が溶けるように瞬く間に解けてしまいました。エソウは馬から飛び降り、走ってきてヤコブを両手で抱いて、「おい、兄を欺いて出て行って、20年の間他国で暮らしながら苦労しただろうに、なんだ、今このように片輪になってくるとは、どうしたのだ… なぜ、こうなったんだ?」と言いながら泣き出しました。彼ら二人は首を抱き合って泣き、和解しました。ヤコブ殺そうとして連れてきた四百人の軍隊は、かえってヤコブとその妻子一行を防衛するようになりました。神様が運命を変化させて下さったのです。

こんにち、我が韓国はIMF寒波という恐ろしい難局に瀕しています。まさに、ヤボクの渡しのヤコブも同様になりました。今韓国は、人間の手段と方法で問題を解決しようと、もがき、足掻いています。そうするうちに私たちは、ますますひどい片輪になって行きます。金融改革によって銀行が統廃合され、企業の構造調整で多くの会社がクロ−ズし、数多い失業者が生じ、韓国の経済がびっこをひくようになり、韓国民族が片輪になっていきつつあります。

今がまさに、私たちが神様に請い、祈り、求めるときなのです。すべての罪をみな悔い改め、砕かれて、「神様! 私たちから離れないで下さい。神様! 私たちを助けて下さい。 神様が私たちを祝福して下さらなければ、私たちは神様を離しません。」と、私たちがみみずになって、主に呼ばわり、祈り、叫んだら、主は私たちをイスラエルにして下さるはずです。

また、主が私たちと共に居てくださって、私たちの祈りを聞きかなえてくださり、私たちを歯が鋭い打穀機にして下さるはずです。私たちの祈りが鋭い打穀機になり、その祈りの歯を通してすべての難題、大小の山々が砕かれてしまって、神様の御力と権勢により、、もう一度再起する勝利のお恵みを与えて下さるはずです。

私たちが苦難に会う前には、肉の人ヤコブのようであり、すべての事に自信満々・慢心・驕慢でありました。 しかし、大小を問わずに試練や苦難に遭うようになれば、まことの自分の姿が露出されます。人間がどんなに無力であり、醜悪で、それこそ何の価値も無い存在であることを悟るようになります。そのとき始めて、私たちは全能であられる神様に請い求め、祈り、拠り頼むようになり、まことの信仰生活を始めるようになるのです。

ただひとえに、みみずになった人だけが、神様と共に暮らし、共に行動し、神様の祝福と能力にあずかるようになるのです。ですから、私たちに押し寄せて来るいろいろな試練と患難に会うとき、「私が責任を負ってやる。みみずの如き人生よ。わたしがあなたを助けて上げる。わたしはあなたと共に居る。私があなたを救い出してやる。私があなたのために戦ってやる。」と仰せられる神様を仰ぎ見てください。そうするとき、私たちは第二の人生を暮らすようになります。




お祈り

聖く、栄光であられる、天のお父さま! 私たちの自我が生きており、私たちが「できる」と思っていたとき、私たちは狡猾であり、驕慢と慢心でいっぱいでありました。しかし、私たちが自らを砕き、悔い改め、口に言い表して告白し、みみずになるとき、神様は私たちを助けてくださいました。

私たちの祈りが、歯が鋭い打穀機になり、大小の山々を砕き、神様に栄光をお返しする私たちにして下さったことに心から感謝申し上げます。父なる神様! 我が国が只今、甚だ難しい最中にあります。このようなとき、我が国民すべてが砕かれ、悔い改め、両手を挙げて神様の御前に出て来て、主に祈り、呼ばわり、叫び、拠り頼むように導いて下さい。

私たちがみな、聖霊充満になるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン。