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「菜 園」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 8章 1節〜9節」
8: 1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8: 2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
8: 3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
8: 4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
8: 5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
8: 6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。
8: 7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。
8: 8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。
8: 9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。




農村では、家の周辺に菜園があって、そこに野菜とか、さつま芋、じゃが芋、とうもろこし等を植えて、食生活を豊かにしています。主食である稲の農作は水田でしますが、副食や副収入は菜園で間に合わせます。農村生活に、菜園はなくてはならない祝福です。

私たちの信仰生活にも、「十分の一」は稲の農作と同じです。これは、私たちの生活の主なる「拠り所」であり、「種」です。神様は、色々な特殊事業のために私たちに菜園を提供してくださり、そこに特別な種を蒔くようにと望んでおられます。菜園を通して神様は、私たちの日常生活に素晴らしい収穫を与えてくださいます。蒔くことなしに、刈り取ることは絶対にありません。

種がいくらたくさんあっても、蒔く場所がなければ何の役にも立ちません。神様がある個人とか、団体に祝福して上げようと決められたら、彼等に菜園を準備してくださいます。そこに蒔く、蒔かないは彼等の自由です。ただ、蒔いたときに神様が祝福してくださり、30倍、60倍、100倍の収穫を得るようにしてくださるのです。

従って、神様が私たちに菜園を提供してくださったら、私たちは喜び勇んで種蒔きに努めなければなりません。




第一、アブラハムの菜園

信仰の祖先であるアブラハムは、神様を信じて従順に聞き従いながら、必ず「十分の一」を差し上げました。聖書を見ますと、アブラハムが自分の家で養い、訓練されたしもべども380人を引き連れて、ケドルラオメル王と彼に組する王たちを打ち破ってから凱旋するとき、シャレムの王メルキゼデクがパンとぶとう酒を持って迎えに出て来ました。メルキゼデク王は、いと高き神の祭司でありました。アブラハムは、戦利品の中から「十分の一」をメルキゼデク王に与えました。

メルキゼデク王は、イエス・キリストのかたちであり、モデルです。何故なら、このメルキゼデク王は父もなく、母もなく、その生涯の始めもなく、終わりもありません。アブラハムは、神様の前に「十分の一」を差し上げることによって、彼の一生の間、神様から祝福して頂くことができる道を開いたのです。

神様は、アブラハムに特別な祝福を与えるために、モリヤ山の菜園に行き、ひとり子イサクを全焼のいけにえにしてわたしに捧げなさい、と言われました。普通の人であったら、とても堪えることができない試みです。しかし神様は、アブラハムを祝福して上げるために、モリヤ山という菜園をアブラハムに提供なさいました。このモリヤ山に行ってひとり子イサクを捧げなさい、と神様が言われたとき、アブラハムは従順することも、不従順することも自由に決めることができました。その菜園に、ひとり子イサクを全焼のいけにえにして捧げることも、捧げない事も、アブラハムの意のままであったのです。

アブラハムの選択によることでありました。そのとき、アブラハムは神様の命令に従順に聞き従い、信仰によりその子イサクと一緒に三日間歩いて、モリヤ山に着きました。そして、そこに祭壇を築いて、息子イサクをいけにえとして捧げようとしました。神様が提供してくださったモリヤ山という菜園に、少しもためらうことなく、ひとり子イサクを「種として蒔く」ことに決めたのです。それで刀を手にして、いざイサクをほふろうとしました。

そのとき、主の御使いが天から『アブラハム。アブラハム。』と呼ばれてから、『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』(創世記 22章12節)と仰せられました。

「創世記 22章15節〜18節」を見ますと、『それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」』と記されています。

モリヤ山という菜園に、アブラハムがその子イサクを「種として蒔いた」結果、神様が与えてくださる祝福は形容しがたいものでありました。アブラハムとイサク、ヤコブ、その子孫ダビデを通してイエス・キリストがお生まれになり、それによって全天下が救いを得るお恵みを頂くことができるようになったのです。ですから私たちは、神様が提供してくださる菜園に必ず、種を蒔かなければなりません。




第二、ダビデと菜園

神様は、サウル王と彼の軍隊にゴリヤテという菜園を提供なさいましたが、彼等は従順と信仰の種を蒔くことを拒みました。しかし、ダビデは喜んでその菜園に彼のいのちを捧げ、一生を擲(なげう)つ種蒔きをしました。

ダビデは幼いときから、神様を畏敬し、神様の戒めをまもり、神様の御心にかなう生活をしました。「使徒の働き 13章22節」に『ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」』と記されています。

彼が「神様の御心にかなう生活をした」のは、神様に礼拝を捧げ、賛美し、神様に「十分の一」を必ず差し上げ、神様を畏敬することに少しも危惧することがなかったからです。それで神様は、ダビデを凄く喜ばれました。

サウル王のとき、ペリシテとイスラエルが大戦争をしました。ところが、ペリシテ軍の陣営から戦いを挑む者が出て来ましたが、その名はゴリヤテと言い、ガテ出身の巨人で、ペリシテ軍の大将軍でありました。彼は立ちはだかって、イスラエル軍に向かい「お前らは、なぜ、並んで出て来たのか。」と言いながら、「一人を選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはお前らの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、お前らがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」と大言壮語しました。

「サムエル記 第一 17章24節〜25節」は、『イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」』と記しています。

ダビデがそのとき、たまたま兄たちの安否を尋ねるために戦場に来て、ゴリヤテの大言壮語を聞き、そばに立っている人たちに聞きました。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。」(サムエル記 第一 17章26節〜27節)

神様が、サウル王と彼の軍隊にゴリヤテという菜園を提供なさいましたが、彼らは従順と信仰の種を蒔くことを拒みました。しかしダビデは、喜んでその菜園に従順と信仰の種を蒔きました。ダビデは、川から五つの滑らかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ペリシテ人に向かって行きました。ダビデは、神様がゴリヤテをイスラエルに提供してくださった菜園であることを信じましたので、剣や槍をもってゴリヤテを倒そうとはせず、神様の御力に拠り頼みました。

ダビデは、神様がイスラエルを栄えさせ、大勝利を与えるためにゴリヤテを菜園にされたのだと信じました。それで、神様に拠り頼み、従順に聞き従ったら必ず勝つとの信念がありましたので、ダビデは鎧も兜も必要としませんでした。剣も槍も必要がありませんでした。神様が一緒に戦ってくださるはずだから、信じ、従順に聞き従いさえしたら、必ず勝つ、と信じていました。

それで鎧も兜も必要とせず、手には剣も槍も持たずに、投げ石五つと石投げだけを持って立ち向かって行ったのです。ダビデは、『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。』(サムエル記 第一 17章45節〜47節)と相手に向かって叫びました。

そして、石を一つ取り、それを石投げで放って、ペリシテ人の額を打ちました。石は見事に額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに倒れました。ダビデは走って行ってゴリヤテの剣を奪い、彼の首をはねました。ダビデは信仰と従順の種を蒔きましたので、その結果、イスラエルの歴代の王の中でもっとも偉大な王となり、神様はダビデの血統を通して、私たちの主イエス・キリストを遣わされ、天下を救うみわざを施してくださったのです。

ですから、神様が私たちに与えられる色々な試練や患難や苦痛が、ほかでもない、まさに神様が私たちに、「種を蒔きなさい」と言われる菜園であることを知らなければなりません。私たちは、色々な試みとか患難とか難しいことが押し迫って来るとき、それらは神様が私たちに有益を与えようとしておられるのであることを悟って、祈りで種を蒔き、献身で種を蒔き、涙で、努力で種を蒔くとき、神様はそこに、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、そしていのちを得るにしても豊かに得る奇跡を施してくださるのです。




第三、ピリポとアンデレの菜園

ベッサイダの広野は、主の奇跡を産み出す菜園でありました。過ぎ越しの祭りが間近いある日、ベッサイダの広野には、イエス様の御言葉を聞こうとする群集でいっぱいでありました。男だけで5千名ほどでありましたから、婦女子まで計算にいれたらおよそ数万名に及んだであろうと推測されます。一見、大きな問題のようにしか見えませんが、その内面は神様が祝福して上げようとなさる菜園でありました。

イエス様が、ピリポに『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか』と聞かれました。主が『蒔きなさい』と命令なさったのです。ところがピリポは、この菜園に蒔くことを拒みました。ご自分では、しようとしておられることを知っておられたイエス様の問いに、「ヨハネの福音書 6章 7節」でピリポは、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えました。方法がない、ということです。

イエス様が、ベッサイダの広野で数万名を食べさせるという菜園を提供してくださったのに、ピリポは「種蒔き」を拒みました。しかしアンデレをご覧下さい。「ヨハネの福音書 6章 8節〜9節」に、『弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』と記録されています。

アンデレは、主が提供した菜園であるから、その方の御力によって問題が解決されるということを知っていました。神様が私たちに菜園を提供したら、その菜園の「種蒔き」「刈り取り」は神様の御力によって成されるのです。私たちの力でできるものではありません。

それでアンデレは、大麦のパン五つと魚二匹をもって、この菜園に種蒔きをしました。あまりにも信じられないことです。こんなに大勢の人たちを、大麦のパン五つと魚二匹で食べさせると決めて、それをイエス様のところに持ってきたアンデレを、人々は間抜けだと思ったかも知れません。しかしアンデレは、出来る限りの最善を尽くしました。

農夫が、苗も植えずに畦(あぜ)に座って「徹夜の祈り」「断食祈祷」をしながら"収穫を得させてください"と呼び叫ぶとして稲が生え出るでしょうか? とんでもない話です。神様は、『先ず、蒔きなさい。そうしたら、わたしが祝福して上げて30倍、60倍、100倍の刈り取りをするようにして上げよう。』と言われました。それで、アンデレが蒔いた「大麦のパン五つと魚二匹」が、その大勢の群集を食べさせたのです。「大麦のパン五つと魚二匹」が増やされ、また増やされ、また増やされて、その大群集を皆食べさせたうえに、なお余ったものが12の籠にいっぱいでありました。増やしてくださる神様なのです。

「種蒔き」をして、そしてお祈りで「水撒き」をすれば、神様が成長させてくださいます。「コリント人への手紙 第二 9章10節」は、『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。』と記しています。主は、「種蒔き」する者に種を与えてくださり、増やしてくださり、なお豊かにしてくださるのです。

私たちは、信仰生活をしながら「十分の一」農作にはいつも励まなければなりません。「マラキ書 3章10節〜12節」は、『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・ すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』と記しています。

私たちが主を信じず、十分の一を差し上げなかったら、神様はいなごを送って私たちの農作物をみな台無しにし、ぶとうの木の実が実る前に落ち、土地が荒廃するようになさいます。これは、神様に背き、神様のものである十分の一を盗み取ったので、神様がそれを計算して、取り返しをされるのです。人々が神様を信じず、自分勝手に振舞うとき、神様はそのままに捨て置かれはしません。「神様の時」が至れば、そのすべてを取り返してしまわれます。

しかし、私たちが熱心に十分の一を差し上げたら、神様は、私たちの生活を祝福してくださいます。時たま神様は、私たちが期待していない菜園を提供なさって、特別に「種蒔き」することを望まれます。これは、神様が特別な「祝福」と「有益」を与えてくださる手段です。私たちがアブラハムや、ダビデや、アンデレのように機会を逃さずに「種蒔き」をしたら、驚くべき、奇跡的な「収穫」を得るようになります。種蒔きをして刈り取る法則を神様が親しくご使用なさるのです。

神様は、私たちのたましいを救うために、十字架の菜園にイエス・キリストを種蒔きなさいました。蒔いてこそ、刈り取るのです。十字架にイエス様が架かられなかったら、キリストはこの世に虚しく来られてから、虚しく行ってしまわれたはずです。しかしイエス様が、その菜園にご自身を種蒔きなさって、身を裂き、血を流してくださったために、神様は、彼を通してこの世の数多いたましいを救うことができたのです。

こんにち、私たちはIMFという経済的苦難を通過しながら、神様の格別な祝福が必要です。神様が与えてくださった菜園がまさに宣教事業であり、私どもの教会で支援している国民日報、エリム福祉タウン、断食祈祷院、韓世大学校等のために「植える」ことが、神様が提供してくださった菜園に種蒔きをすることです。

これは、私たちが「蒔いて、奇跡を刈り取る」ことができる機会であると言うことができます。聖書はこのように勧めています。『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』(コリント人への手紙 第二 9章 6節〜8節)

神様は、私たちにこの驚くべき菜園を提供してくださいました。私たちがこの菜園に、蒔くか、蒔かないか、は私たちの決断によっています。蒔いたら、神様が成長させて刈り取るようにしてくださり、蒔かなかったら、菜園はそのまま通り過ぎてしまうでしょう。

十字架の菜園にイエス様を「植えて」、私たちのたましいを刈り取ってくださった神様が与えてくださる菜園に、アブラハムのように、ダビデのように、アンデレのように、種蒔きをして奇跡を刈り取る聖徒さんたちとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、我が父なる神様! 主であられる神様さまが私たちに菜園を与えてくださって有り難うございます。菜園はいろいろな形で私たちに近づいて参ります。試練、患難、苦痛のように、堪え難い要求を伴って近づいて来ることもあります。

しかし、この菜園は、神様が祝福してくださるために与えられるものであり、蒔く種も与えてくださり、蒔く力量も与えてくださり、刈り取ることができるようにしてくださるのも神様であられることを知っています。

我が主である神様! アブラハムのように、ダビデのように、アンデレのように、涙を流しながら種を蒔き、喜びの束を抱きかかえて帰る奇跡を体験するように、助けてください。

ますます主を畏敬し、ますます主の御言葉に従順に聞き従うことができるように、聖徒さんたちに知恵と聡明と明哲と力を与えてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン!