教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「風を見るな」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 14章24節〜33節」
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。




イエス様がベッサイダの広野で、男だけ五千人ほど、婦女子を合わせれば数万人に奇跡を施して食べさせたあと、日が暮れたので弟子たちを強いて船に乗り込ませ、向こう岸のカペナウムに先に行かせてから、主は祈るために山に登られれました。

夜中の3時ごろになって、弟子たちの船は陸からもう何キロメートルも離れていましたが、向かい風が強く吹き、波が荒れていましたので、弟子たちがいくら力いっぱい櫓を漕いても船は進みません。弟子たちは海の真中で疲れ、くたびれてしまいました。そのとき、イエス様は弟子たちの船に向かって、水の上を歩いて来られました。

弟子たちは、水の上を歩いて来られるイエス様を見て、「あれは幽霊だ。」と言って叫び声を上げました。そのとき、イエス様が『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』(マタイの福音書 14章27節)と言われました。するとペテロが、答えて言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイの福音書 14章28節)

イエス様が『来なさい。』言われるや、ペテロは大胆に船から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。ところが、途中で風を見て、こわくなるや、ただちに水に沈みかけました。イエス様がすぐに手を伸ばして、ペテロを掴みながら『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』と叱られました。そしてペテロを連れて船に乗り移られると、風が止み、なぎになりました。

この出来事を通して、こんにち、私たちが学ばなければならない教訓があります。




第一、信仰の冒険

信仰は、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、御言葉に拠り頼んで大胆に前進するときに実を結ぶのです。

ペテロは、思いもよらない凄い信仰の冒険をしました。漆黒の暗闇(くらやみ)の一寸先が見えない夜、風が吹きまくり、波が荒れ狂うガリラヤの湖で、主が水の上を歩いて来られるのを見て、大胆に要求したのです。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と。ほかの弟子たちはみな、怯え、恐れて、船の片隅に小さくなっていました。

ペテロは、『来なさい。』と言われた主の御言葉を聞いて、船から出ました。そして主に向かって水の上を歩き出しました。ペテロは人類歴史上、水の上を歩いた最初の人になったのです。主の御言葉に拠り頼んで進んで行くとき、海の水までも、彼を溺れさせることができませんでした。「ローマ人への手紙 10章17節」は、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』と記録しています。

御言葉に拠り頼み、主だけを見つめて進めば、どのような環境であろうとも奇跡が起こるようになります。ほかにも弟子たちがおりましたが、ペテロだけがこの奇跡を体験したのは、強く、雄々しく、大胆な信仰をもって冒険を敢行したからです。信仰とは冒険です。行いが伴わない信仰は、死んだ信仰です。主の御言葉に拠り頼み、イエス様だけを見つめて、大胆に実践してこそ、神様の奇しきみわざと奇跡が起こるようになるのです。

こんにち、私たちが置かれている立場も、波風が荒れているガリラヤの海と同じです。IMFという荒波が襲ってきて、我が国が破産の危機に直面しているのです。このようなときに、主がイスラエルの民たちを訪れ、あいは弟子たちを訪れたように、私たちのところにも訪れて来られます。我が国に五萬の教会があり、一千二百万の聖徒がおります。この数多い聖徒が荒波に襲われたのに、主がそのまま捨て置かれるでしょうか。

主は今、私たちと共におられます。主は我が国に来ておられます。ですから、このようなときに私たちがしなければならないことは、イエス様を見つめ、神様の御言葉だけに拠り頼むことです。私たちが、環境とか感情に捕らわれてはなりません。ひたすら主の御言葉に拠り頼まなければならないのです。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」は、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記しています。この御言葉を記憶し、心に刻み込まなければなりません。

イエス様が、私たちのために呪われたものとなられたのですから、私たちは環境がどうであろうと、アブラハムへの祝福の中にいるという事実をかたく信じ、御言葉の上に堅固に立って暮していかなければなりません。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」は、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記しています。

イエス様が、私たちのために貧乏を担われたのですから、キリストにあって私たちは富裕を得ることができる、というこの事実をかたく信じなければならないのです。『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』(ヨハネの手紙 第三 1章 2節)と言われた御言葉を確実に信じなければなりません。

どのような環境に直面しようとも、私たちの主は、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、そして健康にしてくださるという神様の御言葉に、私たちは拠り頼まなければならないのです。「マタイの福音書 6章25節〜34節」はこう記しています。

『 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

この御言葉を通して、主が私たちに与えてくださる教訓は何でしょうか? 結局、衣食住は主が責任を負ってくださるということです。どのような環境に置かれていても、天と地を造られ、その中のすべてを主管しておられる神様が、私たちを祝福して下さるというのです。私たちが神の国とその義とを先ず第一に求めれば、私たちは天の民であり、神様が私たちを治めてくださり、暮して行けるようにしてくださるのです。

神様は、私たちに日用の糧(かて)を与えてくださることができない、そのような無力なお方ではありません。ですから私たちは、イエス様だけを見つめながら暮して行かなければなりません。「ヘブル人への手紙 12章 2節」は、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記しています。

私たちも、イエス様の御言葉を口ずさみ、主だけを見つめながら暮して行けば、どのような逆境も奇跡的に克服して前進して行くことができます。




第二、風を見て、こわくなり、沈みかけた

ペテロは、間違った選択をしました。ペテロが船から出て水の上を歩き出した当初も、暗闇の中で風と波は強く荒れていました。しかしそれは意に介せずに、主の御言葉を心の中にしっかりと受け入れ、主だけを見つめて歩いていくことにしました。ところが、歩いて行きながら主の御言葉を信じながらも、主を継続見つめずに風と荒波を見てしまいました。信仰を選択した彼が、感覚を選択するや、彼は信仰の人でない、感覚的人間に変わってしまいました。

それで、主はペテロをお叱りになりました。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』(マタイの福音書 14章31節) 御言葉を放したら、信仰が薄くなります。そして、主を見つめずに感覚に拠り頼んだら、疑いが入ってくるようになります。

御言葉を読んでこそ、信仰の人になり、主を見つめてこそ、疑わないようになるのです。環境を見て恐れたら、問題が生じるようになります。環境に因る恐れは、イエス様との関係である信仰を奪い、奇跡をなくしてしまいます。「ヨハネの手紙 第一 4章18節」は、『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』と記しています。

私たちが主だけを見つめ、主の御言葉を口ずさめば、主の愛が私たちの心にあり、すべての恐れがみな追い出されてしまうのです。天地と万物を造られたイエス様が私たちと共におられ、私たちを愛してくださるのに、どのような恐れがあり得るでしょうか。

「ヨブ記 3章25節」を見ますと、ヨブは『私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかった・・・。』と言いました。私たちが恐れ怯えたら、悪魔はすぐに、私たちが恐れ怯えたそれを成就するようにするのです。いつも、落ちぶれることを恐れる人は落ちぶれます。負けることを恐れる人は負けます。事故に遭うことを恐れる人は、事故に遭ってしまうのです。

このように、恐れには刑罰がついてくるのです。心の中に恐れがあったら、私たちは信仰から離れるようになります。ですから恐れがあるときには、主の前にひざまずいて悔い改め、言い表し、熱い信仰を祈り求めなければなりません。そして迅速に恐れを払い除けるようにしなければなりません。

私たちが現実だけを見たら、経済的危機状況は天下に蔓延しています。我が国も、経済的崩壊に伴う退職、失業、不渡り、企業の破綻、家庭の破綻、それに加えて暴雨まで襲ってきて、洪水による被害も莫大なものです。それで、TV、ラジオ、新聞、雑誌などから「風」の音がそれはそれは騒々しく聞こえます。経済的崩壊の「風」の音、退職、失業、不渡り、企業破綻、家庭破綻、洪水・・・の「風」の音、すべてに否定的な「風」の音が私たちにけたたましく聞こえてきます。

このような時、ペテロのように私たちが主を見つめ、御言葉の上に堅固に立つことを止めて、「風」の音に耳を傾け、周囲に目をやったら、私たちの心の中の信仰はすべて立ち去ってしまいます。「風」は吹いて来ては通り過ぎますが、イエス様の御言葉は、天が崩れ、地が消えても変わることはありません。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には何も触れるものがなくても、御言葉の上に立たなければなりません。イエス様だけを見つめなければなりません。

私たちは、互いに時間を出して集いを持ち、信仰にあって激励し合わなければなりません。また、御言葉を口ずさみ、そして絶えず祈ってください。「詩篇 50篇15節」は、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と記しています。ですから、継続して苦難に襲われる時には、主に助けを求めてください。主は私たちのところに臨んでくださいます。

また、すべて肯定的に考えなければなりません。否定的なことは私たちが思い起こさなくても、周囲に満ち溢れています。東西南北、どこを見ても否定的なものがあり、否定的なことが起こっています。それを見つめ、それらを受け入れる必要がありません。私たちは天の御国の民です。すべてを肯定的に考え、肯定的な話しをし合う私たちとならなければなりません。

どのような環境にあっても、主の御前に立っているが如く、主の御言葉に従順に聞き従わなければなりません。雨が降り、風が吹き、水害に襲われ、すべてを失ってしまっても、長い目で見、遠くを見渡したら、主は私たちに、却って有益にして上げると仰せられました。従って、「もう駄目だ。」「お終いだ。」「出来ない。」と挫折し、絶望してはいけません。「出来る。」「為せば成る。」「やってみよう。」という肯定的な姿勢で考え、話し、実践するすことが重要です。

また、否定的な友人を避けなければなりません。いつも不平を言い、怨み、嘆く、そのような否定的な友人は、私たちに益となることが全くありません。私たちの心の中に、ひっきりなしに無用な考えを投げ入れてくれるだけです。否定的な話し、破壊的な言葉、他人を侮辱する言葉…等々、それこそ「塵芥にも及ばない」ものを投げつけるので、心の中の信仰を失ってしまい、憂鬱になり、悲しく、苦しくなるのです。サタンは人々を通して、私たちの胸の中に色々な「否定的なもの」を投げ込みます。このようなものを受け入れる愚かな人になってはいけません。

私たちの「生」の根源は、神様にあります。私たちは、地を見下ろして暮らすのではありません。あっちこっちの河川を見ながら暮らすのでもありません。天地を造られた神様を見上げながら暮らすのです。私たちが神様を見上げている以上、私たちは周囲の風を見ることはありません。したがって、この風が家族を通して吹いて来ようが、お隣りを通して吹いて来ようが、友人の口を通して来ようが、一切「風」を見ないようにしなければなりません。




第三、主よ、助けて下さい

ペテロは、主を見つめ、御言葉の上に立たずに、風を見渡し、こわくなって、水に沈みかけてしまいました。いのちの危険に瀕しました。ペテロは、自分の過ちをすぐに悔い改めました。主は、ペテロの薄い信仰をお叱りになりました。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』(マタイの福音書 14章31節) 疑いが入って来たのは、主を見つめずに感覚に頼ったからです。目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、手で触りながら感覚に頼れば、疑うようになるのです。

「ヤコブの手紙 1章 6節」に、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。』と記されています。

ですから、私たちがもしも、信仰に失敗して患難と苦痛の洪水に溺れたなら、直ちに、主に私たちの間違った信仰を痛く悔い改め、率直に告白して、正しい信仰に立ち帰らなければなりません。私たちが失敗や絶望の海に溺れ、沈み込むときには、不実な信仰と不従順を悔い改めなければならないのです。人は、霊と心と肉体とでなっています。元来、アダムとエバが最初に造られたときは、霊的「人」でありました。ところが、アダムとエバが堕落して霊が死ぬや、人間の知恵と知識と聡明と手段と方法、即ち、感覚だけに頼って生きて行くようになったのです。

信仰とは、霊的暮しです。神様は「霊」であられます。ですから、霊的に暮す人は、神様と同行する人です。神様の御霊が臨めば、無いものを有るようにし、死者を生き返らせる奇跡を施してくださいます。最高の偉大な力が霊にあるのです。それで、私たちが聖霊さまに従順に聞き従って暮すようになるとき、私たちは失敗や失望に打ち勝って暮して行けるようになります。

私たちは、感覚に頼ってはいけません。今年の暴雨を通して私たちは、人間の力とはあまりにも無力なものである、ということを知るようになりました。人間の知恵と感覚は、大きな自然の力の前では「風前の灯火(ともしび)」のようなものです。

ペテロが海の水の中に沈みかけたとき、彼はその間の感覚的「生」を悔い改め、人間の知的「生」を悔い改めて、再び「霊」に立ち返りました。主だけを見つめるようになったのです。そうするや、主が彼に御手を伸ばして救い出してくださいました。自分の知恵によって水の中から出て来たのではありません。

こんにち、人間の知恵と聡明によって暮して行くのは、あまりにも間抜けたことです。しかし聖霊さまが臨まれたら、死者を生かし、無いものも有るようにしてくださるのです。霊的「人」となって、イエス様を信じ、神様の御言葉を受け入れ、祈り、従順に聞き従えば、聖霊さまが来られてみわざを働かしてくださり、すべての問題が解決されるようになるのです。

神様は「霊」であられ、人間は神様に型取り造られましたので、人間は根本的に「霊的存在」なのです。アダムの堕落によって神様との関係が断ち切られたとき、人間は自分の知恵に頼り、自分の感覚を杖にして生きることを余儀なくされました。それで、いつも不安・恐怖に震え慄きながら暮して参りました。しかし、イエス様を信じるようになってから、私たちの霊がよみがえりました。私たちは霊的「生」を持つようになり、神様を「お父さま」と呼び、イエス様を救い主として迎え入れ、聖霊さまと同行することができるようになったのです。

霊的「生」は、神様の御言葉の上に堅固に立って暮すことであり、信仰で暮すことであり、主の御教えに従順に聞き従う暮しであり、奇跡を産出する暮らしです。従って、神様が私たちと共に人生の船に乗ってくださったら、あらゆる荒波が鎮まり、目的地に無事に到達することができるのです。神様の奇跡が起こるようになります。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、私たちの父なる神様! 私たちの環境を見渡しますと、全天地に風が休みなく吹きまくっています。その風を見て、至るところで数多い人たちが荒波に溺れ、沈みかけています。色々な難儀と失敗にぶっつかって、すべてを放棄し、絶望と挫折におちいっている個人と団体の数が数えきれないほどです。

私たちが、人間の知恵と知識と力量に頼らずに、霊的「人」となって、主にだけ拠り頼む人生を暮すように導いてください。お父さまの御言葉の上に堅固に立って暮らし、主イエス・キリストを徹底的に信じ、聖霊さまと同行する暮らしを営むことができるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!