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「夢がある者だけが生存する」
 






■聖書箇所

「使徒の働き 2章17節〜21節」
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』




人間が動物と違うのは、人間は夢を抱いて生きている、ということです。夢とは、明日のことを今、自分の心の中に「現在あるが如く」映して見ることを言います。現在「無い」ことを、即ち未来のことを、あたかも現在「ある」かのように心に映して見るのが夢です。

夢を軽視する人が多いです。ところが我が人類文明の発展は、それが政治、経済、軍事、産業、科学、芸術…等、どれであろうと「夢見る」人たちによって造られ、発展されています。

私は40年の牧会生活を顧みるとき、現在、私が体験しているすべてが、一時、私が心の中に夢見ていたことたちでありました。難しい時代を過ごして参りながら、人力では解決することができない困窮な立場に陥ったとき、聖霊さまのお恵みに与かってそのすべてに打ち勝ち、勝利を博して堅固に立っている夢を、私はいつも心の中に描いて見たのです。

運命と環境が真っ暗闇のようで、全く前途が見えない数多い経験をしました。そのような時も私は、心の中の夢に酔っていました。過ぎし過去を顧みれば,聖霊さまが与えてくださったその数多い夢が、運命と環境を克服して新しい"明日"を創り出す力となりました。

現在、我が国は余りにも暗いトンネルを通過しております。私たちの暮らしには苦難と逆境が波のように押し寄せております。この激浪の中で生き残ることができる道は、神様が与えてくださる夢を胸に抱いて、がめついほどに根気強く希望の歌を歌いながら熱心に生きて行く道しかありません。




第一、75歳の老人アブラハムに与えられた神様の夢

「創世記 12章 1節〜3節」は、『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』と記録しています。

これは、本当に胸を熱くする夢でありました。到底、自分の考えでは想像することができない、明日に対する偉大な夢を神様はアブラハムの胸に植えつけてくださいました。それでアブラハムは、苦難のいばらの道をかきわけて、神様が与えてくださった夢に従い、妻の手を取り、甥を連れ、カランで得たすべての財産と人々を引き連れて、カナンの地に向かって出発しました。

カナンの地に着きましたが、途方にくれてしまいました。飢饉と旱魃で植物はすべて枯れ、井戸水も乾き切っています。ついて来た人たちは大いに失望して、故郷に帰って行きました。残ったのはアブラハムと、妻サライと、甥ロトだけになりました。アブラハムは、故郷に帰るつもりはありませんでした。神様が与えてくださった「夢」があったからです。

夢のない人たちは逆境に遭って力を失い、故郷に帰って行きましたが、胸に夢を抱いているアブラハムは、生存の道をたどって、エジプトに下って行きました。そこでアブラハムは、形容しがたい難儀に遭遇しました。 しかし、アブラハムは神様が与えてくださった夢を信じ忍耐したので、奪われた妻を取り戻して、夢のカナンの地に戻ることができました。

その後、甥ロトの牧者たちとアブラハムの牧者たちが互いに争うようになりましたので、アブラハムは甥ロトに提案しました。『そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」』(創世記 13章 8節〜9節)

そこで、ロトが目を上げて見渡すと、ツォアルに至るまで全地がどこもよく潤っていました。それでロトは、そのヨルダンの低地全体を選び取り、そちらに移動して行きました。

「創世記 13章14節〜16節」によりますと、『ロトがアブラムと別れて後、「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」』と、主はアブラハムに仰せられました。

再び、神様はアブラハムに胸を熱くする夢を与えて下さいました。今まで、カナンの地はアブラハムの手中に入ってはいませんでした。しかしアブラハムは、神様の仰せ通りに目を上げて東西南北を見渡し、そこがすべて自分に与えられたのだと、胸をとどろかせながら信仰によって所有することができました。

ある日、神様は老人であるアブラハムに、『息子を与えよう。』とはっきり約束してくださいました。「創世記 15章 5節〜7節」は、『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」』と記録しています。

このように神様は、人に祝福して上げようとなさるとき、先ず夢を植えてくださいます。その夢をしっかりと抱いていたら、どのような難関や苦しいことがその人に起こっても、その人を導いてくださり、神様の御心が成就するようにみわざを働かしてくださいます。夢を無視したら、明日はありません。

私たちは、どんなに難しい逆境に瀕しても夢を捨ててはなりません。第1次世界大戦が終わったあとアメリカでは、その当時の億万長者4千43名の生涯を調べました。各々違う環境にありましたが、一つだけ、同じ点がありました。それは、皆が生きるに当たって確かな目標があり、「胸の中に燃え上がる夢があった。」ということです。現実がいくら難しく、どのような逆境にあっても、簡単に手を上げたり、後ろに退いたりしない、根気強い忍耐心を持っていたと言います。

このような共通点が、彼等をアメリカで億万長者になれるようにしました。ですから、私たちが胸の中に抱いている夢は、虚(むな)しいものではありません。私たちが祈り、神様が与えてくださる夢を心の中に抱けば、いくら甚だしい逆境にぶっつかっても生きて行くことができるのです。




第二、神様はなぜ、「わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ。」と言われたでしょうか

イサクの妻リベカが双子を宿しました。「ローマ人への手紙 9章10節〜13節」は、『このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。』と記録しています。

全く同じ双生児の兄弟です。なぜ、神様がエソウは憎み、ヤコブは愛されたでしょうか? 外観的にエソウは男性的であり、体格もたくましく、好男子でありました。エソウに比べてヤコブは、女性的でありました。体格も小さく、肌色も白く、悪賢い人でありました。

しかし、エソウは夢がありませんでした。エソウは神様の祝福の脈を継ぐ長子の権利を軽蔑しました。「イスラエルの神」即ち、「アブラハムの神、イサクの神…」その次に、「エソウの神」とならなければならなかったのではないでしょうか。エソウは長子の権利をレンズ豆の煮物一杯で売り払ってしまいました。ところがヤコブは、神様の祝福の「世継ぎ」即ち、アブラハム〜イサクの「家系を継ごう」という切実な夢がありました。

「ヘブル人への手紙 12章16節〜17節」は、『不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。』と記しています。

「箴言 29章18節」は、『幻がなければ、民は欲しいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。』と記しています。エソウには、幻がありませんでした。夢がありませんでした。夢がないので、欲しいままにふるまった彼は、結局、神様から見放されてしまいました。

また、ヤコブの息子12兄弟のうち、ヨセフだけが夢がありました。11人の兄弟たちはただ、食べて飲んで遊びながら生きることだけで満足しました。彼らの胸の中には、明日への夢がありませんでした。

神様は、ヨセフに明日への遠大な夢を吹き込んでくださいました。兄弟たちはヨセフを殺そうとしましたが、夢を持っている彼を、神様は保護してくださいました。ヨセフは、兄弟たちによって奴隷に売り飛ばされ、ポティファルの家で青年になるまで奴隷暮しをし、濡れ衣を着せられて監獄にほうり込まれましたが、胸の中に夢を抱いている以上、彼は決して捨てられたのではありませんでした。結局、彼の胸に抱いた夢通りに、エジプトの総理大臣となったのです。

聖霊さまは、私たちに夢と幻を植えてくださり、私たちの人生を導いて行かれます。こんにち、私たちは難しく苦しい時期を過ごしています。政府や政治家や事業家、労働者…国民たちが、明日に対する夢を失い、欲しいままにふるまったら、誰も助けることができません。しかし、たとえ現在目には何も見えず、手には触れるものが何もなくても、夢を抱いていたら、その夢が神様の御手を動かすのです。神様は私たちの夢を通して、奇しきみわざと奇跡を行われるからです。




第三、こんにち、私たちにどんな夢がありますか?

十字架に釘付けられたイエス様は、神様の夢であり、私たちの夢です。聖霊さまは、十字架の夢を私たちの心の中に植えようと願っておられるのです。

神様がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、人類を救う夢を持っておられるからです。イエス・キリストこそ、神様の夢なのです。ですから、私たちが十字架を通して神様の夢を受け入れたら、その夢が私たちを通して神様のみわざを現わすのです。

私たちに対する神様の夢は何でしょうか? 先ず、十字架の贖いを人類が信じるようにして、赦しと義を賜物として受けさせよう、ということです。従って、神様の夢であるイエス・キリストを救い主として私たちが受け入れたら、神様の夢が私たちの中にみわざを働かしてくださって、私たちの罪をすべて赦し、神様の御前に義とされるようにしてくださるのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」は、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記しています。これは、キリストの十字架を通した神様の夢なのです。イエス・キリストを通して赦しを得、義と認められて、神様の民となって主のもとに立ちかえることを夢見ておられるのです。

また神様は、十字架の贖いを通して聖霊さまが支配する天国が私たちの心に臨むことを夢見ておられます。悪魔がこの世の王となって、盗み、殺し、滅亡させる苦痛で人類を支配して参りました。しかし、神様はイエス・キリストを遣わされて、十字架の上で身を裂き、血を流して、アダムが犯した罪をすべて清算させることによって、悪魔の支配と権威を滅ぼし、イエス・キリストを通して天の御国を建てられ、聖徒たちの胸の中に天国が臨むようになることを夢見られました。

「ローマ人への手紙 5章 5節」は、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記しています。

もう私たちは、世の中に住んでいる人たちではありません。世の中で悪魔の支配を受けることはありません。悪魔が私たちの王ではないのです。天国が私たちの中に臨んでおります。私たちの中に神様が入って来られました。神様が私たちを支配しておられ、治めておられます。私たちは神様に拠り頼み、神様と共に暮すのです。私たちを愛してくださる神様によって、患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣…このすべてに私たちは充分に勝つことができるのです。

また神様は、十字架を通して人類が悪魔のくびきから解放され、すべての疾病がいやされるようにと夢見ておられます。人類は心と肉体が病気に罹って苦痛に会っています。イエス様が十字架に釘付けになられて、私たちの罪を担われ、私たちの病気を負われました。神様はイエス・キリストを通して私たちの病気をいやすことを夢見ておられます。神様は心の中に、イエス様を通して私たちが悪魔から解放され、いやされるようにと願われ、そうなることを夢見ておられるのです。

そして神様は、アダムの呪いと貧乏から私たちが解放されて、アブラハムへの祝福とイエス様のお恵みに与かるようになることを夢見ておられます。イエス様を十字架に釘付けにして、アダム以後犯した人類のすべての罪により襲ってくる呪いを、イエス様が背負われました。イエス様をベツレヘムの動物小屋で生まれるようになさり、飼い葉桶に寝かされ、一生涯「枕するところ」もないようになさり、遂には十字架に架けられて、何一つ持ち物もないまま死なせられたのは、私たちの貧しさを代わりに担わせるためであったのです。

神様は、キリストの貧しさによって私たちが貧困から救われて、裕福に暮すようになることを夢見ておられます。神様の夢を、私たちは受け入れなければなりません。

神様は、私たちが呪いから解放されることを夢見ておられます。「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」は、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記しています。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」は、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と、私たちに対する神様の夢を説明しています。

私たちが十字架を通して、神様の夢を信仰により受け入れたら、神様の夢が私たちの中にみわざを働かして奇跡を産出するようになるのです。神様の夢は必ず、成就されます。

次に、神様は十字架の苦難を通して死と陰府(よみ)に打ち勝たれたイエス様を信じることによって、天国の栄光と永遠のいのちを人類が受け入れるようになることを夢見ておられます。神様の夢は遠大です。涙と心配と嘆きと、離別することや、泣くことや、患うことがない天国を備えられ、イエス・キリストの十字架の死とよみがえりを通して、人類が信じ、救われることを夢見ておられます。

私たちがイエス様を救い主として受け入れて、永遠のいのちと復活を得、天国の民となることを神様が夢見ておられるので、この神様の夢を受け入れたら救われて、神様の民になるのです。「ペテロの手紙 第二 3章13節」は、『私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。』と記しており、「ヨハネの黙示録 21章 4節」は、『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』と記しています。

また「ヨハネの黙示録 21章23節」は、『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。』と記しています。燦爛として美しく栄光である、その栄光の極致を準備された神様は、イエス・キリストを通して私たちが信じ、救われて、その栄光の中に留まるようになることを夢見られました。イエス・キリストを救い主として受け入れたら、神様の夢が成就されて、私たちの暮しの中に天国の栄光が充満するようになるのです。

歴史上、偉大な神の人たちは皆、神様の夢を受け入れ、その夢を信じ、祈りながら生きた人たちです。神様の夢は、私たちの胸の中で成長し、運命と環境に打ち勝ち、燦爛たる天国の栄光を必ず成就させます。

こんにちも聖霊さまは、若い人には幻を、年寄りには夢を見るようにしてくださいます。聖霊さまはいま、イエス様の十字架を通して私たちに神様の玲瓏(れいろう)な夢を植えてくださり、私たちを変化させ、導き、私たちの生涯の中に神様の夢が成就するように、みわざを働かそうと願っておられるのです。

ですから、いくら私たちの環境が暗く、それが漆黒のようであっても、十字架を受け入れ、神様が私たちに与えられた夢をキリストを通し、信仰を通して受け入れて、たましいが幸いを得ているように全ての点でも幸いを得、健康で、そしていのちを得るにしても豊かに得ることができる皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる天のお父さま! 歴史を通して、夢がない個人や民族はみな、滅んだことを私たちに見せてくださいました。しかし、如何に難しいときでも夢を捨てなかった人たちには、神様がその夢を育ててくださり、お恵みを施してくださり、成功させてくださいました。

アブラハムに夢を与えられた神様! イサクとヤコブに夢を与えてくださった主である神様! 私たちの胸の中に、イエス・キリストの十字架を通して夢を与えてくださってありがとうございます。私たちがみな、益々夢見る人たちになれるように助けてください。

現実がいくら真っ暗闇であっても、胸の中に熱く夢を抱いて、希望の歌、主を賛美する歌を歌いながら暮す私たちとなれるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!