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「神様のお望みと心の健康」
 






■聖書箇所

「テサロニケ人ヘの手紙 第一 5章16〜18節」
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。




今日、私は皆さんとともに『神様のお望みと心の健康』という題目で恵みを分かち合いたいと思います。

経済的苦しみは、今や心の荒廃と家庭の崩壊をもたらしています。最近親に傷害を与える事件が次々と起こっていますが、それは聞いている人々の心を痛めます。親子のけんかで父を殺してしまう事件になったり、母の無関心が原因で子供が火事を起こして妹を焼け死にさせたり、近隣とのけんかで、しまいには相手を殺すまでに至る事件もありますね。このすべてのことは私たちの心が荒廃し、痛んでいるという明らかな証拠なのです。今こそ私たちが心を取り直す時期だと思います。どうすれば荒廃化して行く私たちの心を取り直すことができるのでしょうか。




第一、「いつも喜んでいなさい。」

第1番目に、聖書には、いつも喜ぶ姿勢をもつ人生は心の健康をもたらすと書かれています。栄養失調になると体から力が抜けてぐらついてしまうように、心が栄養失調になると心がぐらついてしまいます。喜びこそ私達の心に一番大切なビタミン剤なのです。これがなければ、心が痛んでしまい、バランスが崩れてよろけながら、心が荒れて行くのです。心の喜びとは、あらゆる病気に効く薬である、と聖書は教えています。

「箴言 17章22節」には『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす』とあります。私達は多くの時間を思い煩い、恐れ、不安、苛立ち、絶望の中におります。この思い煩いと悩みで私達はしばしば骨にまで痛みを感じます。言うまでもなく骨が痛むならば体も痛むのです。現在、数多くの病は心の悩み、思い煩い、不安、苛立ち、絶望などから及ぶストレスが原因で生じます。これを薬で治そうとしますが長くは持ちません。ですから、心にいつも喜びがとどまるような心の姿勢を持たなければいけません。喜んでもいいし、喜ばなくてもいいというのではありません。聖書は「いつも喜んでいなさい」と教えています。

そして心の喜びは幸せの源となります。皆様、心の中に喜びがあってこそすべてのことが美しく見えます。空が美しく見え、雲、花、木、鳥の鳴き声や、川の流れる音も楽しく聞こえます。夫を見ても、妻を見ても、子供を見ても美しく見えて、幸せを感じるのです。心に喜びが消えてしまいますと、いくら美しい所にいても決して美しく見えません。気分が冴えなく、悲しい人が花を見てもきれいだと思うのでしょうか。鳥の鳴き声を聞いて、楽しい気分になれるのでしょうか。悲しんでいる人が夫や妻、子供を見て喜ぶことができるのでしょうか。こういうわけで、心の喜びは幸せの源になります。

一時事業が破産し、自殺しようとした人の相談に乗ったことがあります。彼はあまりにも深い絶望の淵に落ちて、生きる希望まで失ってしまいました。彼は常に自殺だけを考えていました。しかしながら彼が神様の御言葉を聞いているうちに、聖霊様に触れられたのです。心が開いて、彼は罪を悔い改め、そしてひれ伏して大声で泣き出しました。それから聖霊が彼の心の中に宿られて喜びに満ち溢れた彼は、私にこう言いました。「牧師先生、あの空があんなに美しいとは今まで思いもしなかったのです。庭に植えられている松の木を見て、あれほど調和があって、美しく見えたのは初めてです。そして石ころさえも喜びに満ちて叫んでいるように見えます。僕の手を見たら、手が笑っているように見えるのです。こんなに幸せで嬉しい気持ちになったのが自分でも信じられません。

なんでもっと早くイエス様を信じなかったのかと後悔しています」それで、私が聞きました。「でも事業が破産して絶望のあまりに死にたかったんじゃありませんか」すると彼は「その思いはもうすっかり消え去りました。人間って事業に失敗したり、人生にはいろんなことが起こるものでしょう。まあ、山あり谷ありってことでしょう。今回は失敗してしまったけどやり直せばいいし、また失敗することもあるでしょうけど、それは大したことじゃありません。肝心なのは僕の心に喜びがあって、力があれば不可能なことはないってことです。」と言うのでした。心の喜びは幸せの源なのです。富や栄華は私たちを幸せにすることなどできません。いくら富や栄華を持っていても心に喜びがなければ、それは苦薬に過ぎません。たとえ、貧乏暮らしをしていても心に喜びさえあれば、天国に住むような幸せで楽しい人生になります。

心の喜びは人生の力になります。『さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい、何も用意できなかったものにはごちそうをやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」』(ネヘミヤ記 8章10節)私たちはなぜ人生に力を失ってしまうのでしょうか。なぜ家庭の主婦が力を失って、子供たちを勉強するように励まないのでしょうか。なぜ主人が力を無くして酒に溺れてしまって絶望しているのでしょうか。それは心の中に喜びが無くなったからです。喜びは心のビタミンとなって働きますから、心の中に栄養がないから、力が抜けて、ぐらついてしまうのです。すなわち、生きていける勇気と力を失ってしまうのです。

自ら進んで苦難に耐えぬき、勝利することができるのは、心に喜びがあるためであり、貧しくてもこれを乗り越えて、前進し続けられるのも、その人の心の中に存在する喜びの力があるからです。どんな試練にあっても心に喜びを抱いていれば、若い人でも懸命に努力して人生を成功することができます。こういうわけで、心の中に喜びがなければ力を失ってしまうのです。スイスにビクトル・フランケルという有名な精神科医師がいました。彼は最近亡くなりましたが、以前ドイツの収容所に入れられたことがあります。収容所に入れられた人々は、皆激しい労働、迫害、栄養失調でほとんど死んでしまい、そうでなければガス室に入れられて殺されました。ドイツ人は死人の髪で布を作り、骨と肉で石鹸を作って使いました。このようにヒトラーは残酷極まる人間でした。そのドイツの収容所で同僚たちは皆死にましたが、ビクトル・フランケル博士は二次世界大戦の末まで生き残りました。どうして生き残ることができたのでしょうか。彼はドイツの収容所に入れられる直前、結婚しました。

彼の妻に対する愛と思いで心がいっぱいだったからです。それで監獄にいた時にも、いつも妻のことを思うと、心に喜びが満ちていたそうです。だからどうしても生き残って妻を幸せにしてあげようという希望が燃え上がったのです。こうして妻のことを思うたびに心に喜びが訪れました。妻を幸せにしてあげたい気持ちがあったから、毎日の労働、栄養失調、それに伴う苦しみを乗り越えて、耐え抜くことができたそうです。多くの仲間たちは喜びを失って、希望を捨て、死んでいきましたが、彼は生き残って妻と再会し、そして世界的有名な医師になりました。スイスに開業し、多くの人々に医療を施し影響を与えました。私たちは彼の言ったことを覚えておくべきです。一人の女性によって喜びを感じ、その人に会える希望を抱いて生きられたように、イエスに出会ってイエスを信じ、そこから与えられる喜びと永遠のみ国に行けるという希望を持つ人は、その喜びによってどんなことにも勝ち取る力が与えられます。

皆さん、人間は心の中に喜びがあってこそ、他人に喜びを与えることができます。聖書は、『心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ』(箴言 15章13節)と教えています。夫が会社から帰って来た時、妻が明るい笑顔で迎えると、一日会社での疲れやストレスも消えてしまいます。また、妻が疲れていた時も夫が笑顔で迎えてあげるとその心の疲れが去って行くのです。

皆さん、人生を生きる時、暗い性格の妻や夫は家庭に悪い影響を及ぼします。生まれつきの暗い性格の妻は夫の人生を駄目にしてしまいます。心の曇りは個人や家庭の墓穴を自ら掘っていきます。市内のある区役所が出した統計によれば、IMF(国際通貨基金)の援助以来、前年と比べて離婚率が40%も増えたそうです。「ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。」と聖書は告げています。三本の糸は切れないとも言っていますが、どうしてこんな苦難の中で団結しないのでしょうか。それは心の中に喜びが消えてしまったからです。喜びがあれば勝てるのに、それが欠けているため人生を諦めてしまい、こまかいことでけんかをして別れてしまうのです。

ある家庭訓練学校の結果によると「夫が望む妻」という調査で夫の30%が、家に帰って来た時妻が笑顔で迎えてほしい、励まして誉めてほしいと言います。多くの妻たちは夫を明るい顔で迎えません。自分の夫を誉めたり、励ましたりすることは夫を勇気づけることなのです。しかし夫の欠点を指摘してあげないとよくならないし、誉めたりすると高慢になると女性たちは言います。それは本当に思い違いです。皆さん、今私の申し上げることをお聞きになってそのような考えを変えて下さい。皆さんのご主人を笑顔で迎え、どうあろうとも誉めて励ましてあげて下さい。そうすることによってご主人の心に喜びが与えられます。喜びが与えられると生きる力が生じます。それゆえに皆様、心の中の暗い性格や挫折、絶望などは誉め言葉と理解によって喜びを与え、新しく心を取り直すことができるのです。

私たちが喜んでいるなら、体の中から「エンドルフィン」というものが生じます。そのエンドルフィンは私たちの心を快くし、楽しい気持ちにしてくれます。そして、体の老化を防ぎ、自然治癒を進め、薬の働きを高めます。こういうわけで、私たちの中に自然治癒の働きをするエンドルフィンは、私たちが喜んで楽しい気分の時、その数が増えて、私たちも快くなり、他人も快くし喜ばせることができます。ですから喜びは私たちが歩む人生に大きな力を与えるのです。

皆さん、神様は、「いつも喜びなさい」と命じられました。喜んでもいいし、喜ばなくてもいいという意味ではありません。「喜べ」という命令なのです。ですから私たちは神の御心に従って、喜びを持って生きる意志を心に持たなければなりません。いつも笑顔で喜びを持って歩む決心をされる皆さんとなりますよう主の御名でお願い申し上げます。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい』(ピリピ人への手紙 4章 4節)と主は常に喜ぶことを、私たちに頼みごとのように言われます。なぜなら喜びは私たちの人生を健全にし、心の中に栄養を与えるからです。心の荒廃化を防ぐからです。「どうしてもそんな気にはなれないのにわざわざ喜ぶことは出来ない」と皆さんは疑問を抱くでしょう。皆さん、喉が乾いた人に口先だけ、「喉の渇きから開放されよ」と言い続けても、何の変わりもありません。水を飲むことによって開放されるように、喜びも同じです。神こそ喜びの源であることを知るべきなのです。

『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります』(詩篇 16篇11節)主の前には喜びが豊かに流れており、主の右側には楽しみが満ちているため、私たちが神を心の中に受け入れるなら、神が私たちの喜びの源となって下さいます。主イエス・キリストを救い主として受け入れ、神の前に近づいて礼拝捧げる時、聖霊が私たちの心の中に喜びの泉として湧き上がります。私たちの罪が、神との間を隔てると喜びの泉も塞がってしまいます。私たちが罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じ、イエスを通して喜びを求めなければなりません。主は「あなたがたに与えられないのは、あなたがたが求めないからです」と言われました。「何でもわたしの名でわたしに求めればわたしがそれを行います」という聖書のことばを信じ、私たちの心に力の基である喜びを主に求めるべきです。求めてもないのにどうして与えられることができますか。「天のお父様、私に喜びを与えてください。荒れ果てている私の心に、命の雨が降り注ぐように喜びの雨を降り注いで下さり、あなたの喜びを与えてください」と祈れば皆さん方の心の中に喜びが満ち溢れるようになります。

したがって皆さん、神に喜びを求めれば、『あなたがたは今まで、何も私の名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです』(ヨハネの福音書 16章24節)と主は言われたのです。皆さんが喜ぶなら、神様はもっと大きいみわざを行ってくださいます。ですから、神は皆さんが求める時、喜びを豊かに注いでくださいます。神様が命じられた「いつも喜びなさい」とのみことばを心の中にしっかりと秘めて、喜びの基であられるイエス・キリストと神様を慕い求めて、いつも喜びを持って生きようではありませんか。




第二、「絶えず祈りなさい。」

第2番目に、神は「絶えず祈りなさい」と言われました。

皆さん、お祈りは霊的呼吸です。祈らないなら霊が世の汚れの中に沈んで、霊の命が枯れて死んでしまいます。しかし祈りとは聖い酸素呼吸に似ています。聖い命が呼吸し、生きることなのです。したがってイエスを信じる私たちが絶えず祈らなければ、その魂は世の汚れで死んでしまいます。なぜ祈るのかと聞かれます。それは命の源である神との交わりを、祈りを通して、命を吸い込むためです。神は私たちに命を与えてくださり、命を供給される命の源なのです。主は我が父であります。私たちが神様と親しくなりたいなら、神様とよく会話をしなければなりません。お互いに会話しなければ、親密な関係になれません。私たちが神のみことばを読み、いつも神に祈るなら、神が我が内におられ私たちが神の内にとどまり、互いに近づいていき、神様の命が私たちの内に満ち溢れるようになります。また、私たちが祈らなければいけない理由は、祈ることによって聖霊の豊かな働きが起こるということです。

聖書は、『彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした』(使徒の働き 4章31節)と語っています。私たちが神様に祈ってこそ聖霊充満になります。神の御霊は祈りというパイプを通して私たちに流れこみ、そして私たちが受け入れることができます。イエスは「渇いている者は私の所に来て飲みなさい。そうすれば、あなたがたの中に生ける命の川が流れます」と言われました。だから私たちが絶えず祈り、聖霊を求め、そして聖霊が私たちに豊かに注がれ、聖霊に満たされるなら、私たちは霊的に偉大なる力の中で生きて行けるのです。そして祈りはサタン・悪魔を追い払います。

『すると、イエスは言われた。この種のものは、祈りによらなけらば、何によっても追い出せるものではありません』(マルコの福音書 9章29節)とある通りです。今日サタンは数多くの悪霊を連ねて常に私達に襲い掛かってきます。汚れの悪霊、うそつきの悪霊、病の悪霊、数々の悪霊が私たちを襲います。聖書は、「イエスに聖霊と力を注がれたため、善を行い、悪霊に押さえられたすべての人々を解放されたが、悪霊は絶え間なく私たちを妨げる」と言っています。それゆえに私たちの人格が悪霊の影響を受けていくのです。人間の心ではなく悪霊に似ていきます。

最近とんでもないことをする人間が時に現れるでしょう。人間でありながらどうしてそんな行動ができるのでしょうか。先日起こった事件ですが、弟子がホモである教授を殺しました。これはサタンの心なのです。40才の男が九つの幼い少女をら致しようともくろんだが、うまくいかなかったため、少女の首を絞めて殺した事件など、とうてい信じられない事件が起こっています。これはサタンに似ていくことです。これらは普通の人間から見れば、想像もつかないことです。その人の心に悪霊が入ってひどい行動をさせるのです。悪霊は私たちが祈りを通して追い払うことができます。私たちが熱心に祈ればサタンと悪霊はしっぽを巻いて逃げます。ですから主は絶えず祈りなさいと言われます。のみなどの虫には殺虫剤を使いますね。お祈りはサタン・悪霊を追い払う神様の処方なのです。私たちの祈りの力によってサタン・悪霊は耐えきれず、追い払われてしまいます。

そして祈りとは神の助けをいただく道です。『私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる』(詩篇 55篇16節)『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げよう』(エレミヤ書 33章 3節)と聖書は教えています。祈ってもないことに主は答えてくださいません。私たちが神様に叫び、祈り続けることによって、道が開き、祈りが聞かれるのです。そして祈りを通して、隣人を助けることができます。わが国、全世界のために祈る時、雨が降り注ぐように答えてくださいます。

こういうわけで、私たちは常に祈るべきですが、正しい祈り方を知らないと言う人が沢山いらっしゃるようです。皆さん、感謝と賛美のお祈りは簡単にできます。聖書には『目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい』(コロサイ人への手紙 4章 2節)と書かれていますが、道を歩く時も、「主イエス様感謝します。感謝します」と祈り、また仕事をしながらもそのように感謝のお祈りを捧げてください。祈り方をご存じないなら、ただ、座って感謝のお祈りだけをしてください。「天のお父様感謝します。ありがとうございます。」ただそれだけを告白すれば、神様に喜ばれる祈りになり、正しい祈りになります。

それから願い事ですが、これも格好つけてする必要はありません。長老様の代表の祈りというのは、前もって準備してきた祈りですから素晴らしいと思われますが、皆さんが真似をすることはありません。そうすると複雑になってしまい、どんな祈りをしているかを自分でも忘れてしまうのです。

『また祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数がおおければ聞かれると思っているのです』(マタイの福音書 6章 7節)とあるとおり、複雑な祈りはいけません。簡単にすることでいいのです。もし皆さんが就職のことで祈るなら、こうすればいいのです。「神様仕事をください。仕事ください。お願いします」と一日中でもこれだけを祈りつづければそれで十分です。病気にかかっていれば、「天のお父様、癒してください。癒してください。癒してください。イエスの御名できれいに治してください」と祈ればいいのです。悪霊を追い出すにも「イエスの御名で出て行け、出て行け、出て行け」と祈ることです。そうすれば、皆さんはいつも祈り続けることができます。そして絶えず神の力と権勢が皆さんに臨まれます。

そして聖書は『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです』(テモテへの手紙 第一 2章 1〜2節)と教えていますが、これはとりなしのお祈りのことを示します。私たちの親、兄弟、友人、親戚のためにも常に祈るべきです。祈りはまさに神とともに生きる道なのです。そして天のみ国の栄えと力を体験できる道なのです。祈る人は神とともに行動し、神の栄光と力の中を歩むことができます。




第三、「すべてのことについて感謝しなさい。」

第3番目に、主はすべての事について感謝しなさいと教えられます。

皆さん、感謝とは芳ばしいいけにえを捧げることに似ています。『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう』(詩篇 50篇23節)こういうわけで、神に、あるいは恵みを施した人に感謝することにより、相手は崇められる気持ちになります。私たちが神のみ恵みに感謝すれば、神はもっと崇められるようになります。神様ほど崇められるべき方はいません。しかし私たちが感謝すれば、神の栄えにもっと多く栄えを増し加えることができます。こういうわけで感謝とはすごい力になるということがわかります。私たちが親、兄弟、妻、子供、また私たちに恵みを与えた人に真心から感謝すれば、感謝される方は栄光を受けるのです。大きな喜びを感じるのです。感謝とはもっと大きい恵みを受け、祝福される道なのです。

イエス様が十人のらい病人を癒されましたが、九人は感謝もせずに行ってしまい、一人のサマリヤ人だけが引き返してイエスの足元にひれ伏して感謝しました。そこで主は「十人癒されたのではないか、九人はどこにいるのか」と言われました。そしてイエスは「あなたの信仰があなたを直したのです」とその人を祝福しました。神学者たちが言うには、他の九人はただらい病だけ癒されたがこのサマリヤ人は引き返して来て感謝したため、らい病だけでなく彼の信仰の通りすべての病が癒され、くさって崩れ落ちた鼻が新しくできて、抜けた指、足指も新しくできたと言います。そのまま行ってしまった人はらい病だけを癒してもらいましたが、感謝を捧げた人は失ったものまで受け取れたというのです。

こういうわけで感謝すれば、神様はもっと豊かな恵みを与えてくださいます。それだけでなく、感謝は否定的な心と心の曇りを取り除く力となります。皆さんの心が暗くなり、暗闇の中にいる時「天のお父様感謝します。命を与えてくださり、み恵みを与えてくださったことをありがとうございます」と祈れば、神の御力が現れ、暗闇が取り除かれます。否定的な心を追い出して、明るく、楽しく、輝く心に、肯定的に変えてくれるのは感謝の力です。ですから私たちが恨んで、不平不満を言い、ため息をつくと暗闇が波のように風のように襲いかかってきます。そして人生が台無しになり、絶望に落ちてしまいます。しかし感謝は、この暗闇の勢いを完全に追い出して、輝く光を私たちに照らします。

感謝は人生という車の輪に油を塗ることです。皆さんはよい言葉で我らの人生に油を塗ることができます。妻に「愛しているよ。おいしい料理をつくってくれてありがとう」とこの幾つの言葉に妻は自身を持ちます。それは油を塗ることに似ています。疲れがとれます。夫が仕事場から帰って来た時も「あなた、本当にありがとう、あなたがこうして無事に帰って来てくれて嬉しいわ。本当に感謝していまわよ。あなたが側にいてくれて感謝してるわよ」と言えば、夫はこう思うでしょう。「まあ、嬉しいな。おれに感謝してるって、もっと頑張るぞ」と決心するでしょう。感謝は油を塗って、人生がぎくしゃくならないようにすべてを順調に進めます。

我々韓国人は感謝の言葉をあまり使いません。しかし皆さん、感謝の言葉をよく言うべきです。アメリカやヨーロッパに行けば、そちらの人々は感謝の言葉を本当によく使うことがわかります。スプーンを渡しても、「サンキュー」と言います。感謝の言葉が溢れています。このすべてが油に塗ることです。そして聖書はただ感謝するのではなく「すべての事について感謝しなさい」と言っています。それは良いことにも、悪いことにも感謝しなさいという意味です。

皆さん良いことに感謝するのは簡単にできます。自分自身によいことがおこり、また恵まれ、祝福されたことに感謝するのは当然のことです。しかし悪いことにも感謝する必要があります。なぜなら、感謝とは神のみ手に触れられる手段となるので、悪いことにも感謝すれば、神のみ力が臨みます。不幸な状況に恨み、不平不満を言いますと神の力は臨まず、もっと悪くなるばかりです。良いことはいいからそれでいいし、悪いことは神様がよくしてくださるからいいのではありませんか。ですから悪い時にも感謝捧げるべきです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』(ローマ人への手紙 8章28節)と主は言われました。こういうわけで私たちは物事がうまくいかなくても、暗闇の中でも祈りつづけなければなりません。

最近私に一通の手紙が届きました。ある男性の信者が私から按手を受けた後、会社からリストラの通知があったそうです。しかし彼はその通知の後にも主に感謝して祈ったそうです。「主イエス様、感謝します。首になったことも感謝します。すべてのことを感謝します。」と祈りました。ところがリストラを被った他の人々は解雇されましたが、彼はかえって昇進したそうです。もちろん、神様の特別な恵みによることなのですが、彼がそのリストラの通知を受けたことで絶望し、人生が終わったかのようにお酒に浸る生活をしていたら、できることも駄目になっていたに違いません。しかしその便りを受けてから家族皆が心を合わせて感謝の祈りを捧げたため、かえって良いことが起こったのです。

こういうわけで感謝の言葉は神のみ力を伴います。駄目になることも可能にする大いなる奇跡をもたらします。ですから私たちは今主がくださったこの三つの教訓を心の底に受け入れておかなければいけません。心の喜びと、すべてのことに感謝することが心の荒廃化を防ぎ、神様の御恵みが豊かに注ぐようにします。

いま環境に心が縛られゆとりを失っている私たちは、喜びと祈り、感謝の生活のために力を尽くすべきです。これは私たちに対する神様の御心なのです。なぜ私たちがアメリカと同じように感謝祭をおくるのでしょうか。1620年9月6日、イギリスから信仰の自由を求めて、メイフラワー船に乗って、男性78名、女性24名、合わせて102名が大西洋を九死に一生を得て渡り、新大陸にたどり着きました。彼らはインディアンに攻撃されて、大半の人が死んでしまいました。しかしその翌年彼らは立ち直って、親しいインディアンの力を借りて、農作し、荒れ地を切り開きました。その結果、その秋頃には大量の穀物を刈り取ることができました。彼らは家族を亡くして、散々苦労しながら生きてきましたが、神様に取り入れた供え物を捧げ、嬉しき感謝のお祈りを捧げました。そしてインディアンの皆を招いて和解して、感謝の気持ちを伝えました。これが今のアメリカをこんなに強大国にした根本的な力となったのです。アメリカが現在強大な力を持てたのは彼らの先祖が苦難を耐えぬき、恨まず、不平不満を言わず、神に感謝のいけにえを捧げたことにより、神様が崇められ、神様が救いの力を放って、全世界で一番強大な国となされたからです。

我らが経済的苦難に見舞われ、職場を失い、事業に問題が起こった時は一層心に喜びを覚え、もっと熱心に祈り、感謝しようではありませんか。心の資源である力ができて、ゆとりが与えられれば、私たちはすべての環境や運命を乗り越えて、前向きに進んでいけるのです。




お祈り

愛に満ちた天のお父様、今日人間誰もが不安と思い煩い、絶望の暗闇に覆われています。心にゆとりがなくて、ちょっとしたもめ事でも互いに噛み付いたり、踏みにじったりします。家庭が壊れてしまい、人殺しさえも簡単に犯してしまします。

天のお父様、あなたが私たちにくださった心のゆとり、心の栄養を受け入れることができるように助けてください。これは難しいことではないと思います。主にあって喜びを求め、喜びながら人生を生きる決心をし、絶えず祈り、良いことにも悪いことにあっても感謝するというこの三つのことに力尽くせば、私たちの心が豊かな水の流れる山のようになり、神様の力と栄えが私たちの人生に現れることを信じます。


このすべてのことがかならず実践できる私たちとなるように力を与えてください。主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。