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「神様と私たちとの関係」
 






■聖書箇所

「ホセア書 6章 3節」
6: 3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。




今日、私は皆様たちと一緒に、『神様と私たちとの関係』という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

私たちのすべての生活は、相互関係にあってなされます。父母と子供の関係、夫婦関係、兄弟関係、親戚関係、友人関係、社会団体相互関係、国際関係…等々、実に「蜘蛛の巣」のように絡み合った中でなされて行きます。私たち人生の幸福と成功も、この相互関係が円満である時に可能となるのです。現在、我が国の政府も、「北朝鮮」との関係を正常化させようとして、非常に努力しています。

しかし、このすべての人間的・現実的関係以上に、私達には最も重要な関係があります。それは、神様と人間との関係です。神様と人間との関係が断たれたり、間違っていれば、その人は現在と未来、そして永遠の暮しの中で、形容することができない悲劇と損失と災難をこうむるようになります。

ところが神様は、人間を幸せにし、希望を与えるために、「良き関係を結ぶことができるよう」にと、御子イエス様を遣わされて、十字架のいけにえとなさいました。それで、このイエス様を救い主として受け入れる時、罪人である人間が神様の前で、赦され、愛されるようになり、神様と驚くべき素晴らしい関係を結ぶようになるのです。

私たちの神様は、人間たちとどのような関係を結ぶべきかに関して、はっきりとご自身を啓示してくださいました。旧約聖書の「アドナイ」という御名は、まさに人間を贖い、救う、神様の御名なのです。神様は「アドナイ」という御名をとおして、私たち人間と、すべての面において関係を結ぶことができるように啓示しておられます。

ですから私たちは、主がご自分を啓示してくださり、私たちと良い関係を結ぼうと望んでおられる、その「聖なる御名」を通して、私たちは神様と確実な関係を結んで暮して行くようにならなければなりません。




第一、「アドナイ・イルエ」…(主が備えてくださる。)

第1に、神様は私たちに「アドナイ・イルエ」という御名を啓示してくださいました。これは、「私たちのために備えられる神様」という御名です。「創世記 22章14節」に、『そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。』と記されています。

神様は、「備えられる神様」として私たちと関係を結ぼうと願っておられます。ですから、私たちが神様を仰ぎ見るとき、「アドナイ・イルエ」の神様、私たちといつも共に居られ、「私たちのために備えられる神様」であるということをはっきりと知って、交わらなければなりません。

「アドナイ・イルエ」の神様は、アダムのために天地とエデンの園を造られた神様としてご自身を啓示なさり、イスラエルのためにカナンの地を備えられて、乳と蜜が流れる地に入って暮すようになさいました。また、罪人のために救いを備えられ、イエス様を遣わされて十字架の上で肉を裂き、血を流して、私たちが神様の恵みに与かることができる道を備えられました。聖徒のために、主は天国を備えて置かれました。私たちの生活を「初めから終り」まで備えられた神様であることを知って、この神様と交わらなければなりません。

「コリント人への手紙 第一 2章 9節〜10節」に、『まさしく、聖書に書いてある通りです。「目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして、人の心に思い浮んだ事のないもの。神を愛する者のために、神の備えて下さったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と言われました。

「詩篇 139篇16節」には、『あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』と記録されています。主である神様は、私たち一人一人のために備えておられる神様です。この神様と、私たちは関係を結ばなければなりません。ですから、私たちのすべてを備えておられる神様であられることを知り、また神様と正しい関係を結び、この神様に祈り求め、この神様にすべてを拠り頼まなければなりません。




第二、「アドナイ・ラファ」…(癒しの神)

第2に、神様はご自分を「アドナイ・ラファ」として私たちに啓示して下さいました。主は、「アドナイ・ラファ」としての関係を私たちと結ぼうと望んでおられるのです。「ラパ」と言うのは、「癒す」と言う言葉です。「出エジプト記 15章26節」に、『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、又その命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』と言われました。旧約聖書の中で、「癒しの神様」であられる事を私たちにはっきりと啓示しておられます。

「詩篇 103篇 1節〜3節」にも、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、』と仰せられる事によって、「アドナイ・ラファ」であられる事をはっきりと啓示しておられます。

「詩篇 107篇17節〜20節」にも、『愚か者は、自分のそむきの道のため、又、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』と記されています。

新約聖書にも、主は「癒しの神」である事をはっきりと見せて下さることによって、「アドナイ・ラファ」という御名で私たちと癒しの関係を結ぼうと望んでおられます。「マタイの福音書 8章14節〜17節」に、『それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と言われることによって、「主はラファ」であられることを私たちに現してくださいました。

「マルコの福音書 16章17節〜18節」にも、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、又、病人に手を置けば病人はいやされます。」』と記されています。教会の中で、今も「アドナイ・ラファ」即ち、癒しの神様は、癒す事で私たちと関係を結ぼうとしておられます。

「ヤコブの手紙 5章14節〜16節」には、『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』と記されています。これを通して主は、ご自分が「ラファ・癒し主」即ち「アドナイ・ラファ」であるとして、私たちがその神様と関係を結んで暮して行くようにと望んでおられるのです。




第三、「アドナイ・ニシ」…(主は私たちの旗)

第3番目に、主はご自身を「ニシ」であると啓示なさいました。「出エジプト記 17章15節」に、『モーセは一つの祭壇を築いて、その名を「主はわが旗」と呼んだ』(口語訳)と記されています。イスラエルが、レフィディムでアマレクと戦う時、モーセが丘の頂きに登って戦場を見下ろしながら、神の杖を高く上げて祈ると神様の権能が臨んで、ヨシュアが敵軍を打ち破って勝利を得ました。そこに神様が「わたしはアドナイ・ニシ」即ち、「勝利の旗」という御名を啓示して下さることによって、「私たちのために戦う神様」であるという関係を現わして下さったのです。

こんにちも、私たちがイエス様の十字架を高くかかげて敵悪魔の陣に立ち向かって、祈るとき、神様が私たちのために戦われて、私たちが勝利の旗を高くかかげることができるようにして下さるのです。神様は「ニシ」となられて、私たちのすべての戦いに戦って下さいます。私たちのために戦われ、私たちに勝利をもたらして下さる神様として、私たちと関係を結ぼうと望んでおられるのです。




第四、「アドナイ・シャロム」…(主は私たちの平和)

第4番目に、私たちの主は「シャロム」、即ち、私たちの平和であると啓示なさいました。「士師記 6章24節」に、『そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。』と記録されています。皆さん、力が無くては何の平和も築くことはできません。私たちがいくら北朝鮮を相手に「陽光政策」を打ち出すとしても、私たちの国に強大な軍事力があり、私たち自身を守るだけの力があるとき、北朝鮮は門戸を開いて私たちの「陽光政策」を受容しますが、もしも私たちに力が無かったら、北朝鮮は容赦なく攻め込んで来て我が国を占領しようとするでしょう。

力がない平和は、たやすく破れます。ただ、全能であられる神様の御支配のもとでだけ、恒久的平和が成就されるのです。神様は全知全能・偏在であられるので、誰も神様が行われることに逆らうことができません。

神様の敵になっていた罪人が、イエス様の尊い血潮により「罪が赦されて」、神様と和解するようになります。「コロサイ人への手紙 1章20節」に、『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』と記されています。ですから、神様の絶対主権のまえに従順に聞き従うとき、永遠なる平和があります。神様は「アドナイ・シャロム」として、即ち、私たちに平和をもたらして下さる神様として、私たちと関係を結ぼうと望んでおられるのです。




第五、「アドナイ・ロイ」…(主は、私たちの羊飼い)

5番目に、神様はご自身を「アドナイ・ロイ」として私たちに啓示して下さいました。即ち,神様が私たちの牧者であると言われたのです。「詩篇 23篇 1節」に、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』とあります。牧者は、羊を守り、食べさせ、保護し、育てます。

私たちがイエス様を救い主として信じたら、神様が私たちの牧者となられて、私たちを導き、守り、保護し、育てて下さいます。即ち神様は、私たちとの関係を「牧者と羊」の関係として維持しようと望んでおられるのです。

それで、『わたしは牧者であり、あなたは羊です。ですから、羊が牧者に従うように、あなたもわたしに従い、わたしを信じなさい。牧者が羊を導き、守り、育て、食べさせるように、わたしもそのようにします…。このような関係を結びましょう…。』このように、ご自分を「アドナイ・ロイ」として私たちに啓示しておられるのです。




第六、「アドナイ・メカデシュィ」…(主は、私たちの「聖」)

6番目に、神様はご自分を「アドナイ・メカデシュィ」と啓示して下さいました。神様は、私たちを聖くする神様であられると言われたのです。「出エジプト記 31章13節」に、『あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。』と言われました。主は「聖なる神様」であられますので、罪や世俗とは混じることができません。

神様は、罪と世俗で満ちているこの世の中には住まわれることができません。それで、イエス様の血潮で罪と世俗を滅ぼして、神様は私たちの中に来られるのです。十字架を通して、罪と世俗を滅ぼされました。イエス様の血潮によって私たちが洗い清められると、神様がこの世から私たちを呼び出して、神様の聖なる民として下さるのです。御言葉と聖霊で私たちを聖くしてから、神様の品性に与かるようにして下さるのです。

「ペテロの手紙 第二 1章 4節」の御言葉です。『その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。』

皆さんと私に、永遠のいのちと聖霊を与えて下さり、私たちが皆、神様のご性質に与かることができるようにして下さいました。聖くして下さる聖霊さまが私たちの中におられ、私たちを充満に満たし、私たちを導いて下さいます。聖霊さまによって、私たちは悪魔と世俗から離れ暮しています。水が油とは混じることがないように、私たちがこの世に暮らしていても、決してこの世とは混じることがありません。「アドナイ・メカデシュィ」の神様が、私たちをこの世から分離させて、聖くして下さるからです。

聖くないことには、神様を見ることはできない、と聖書は語っています。ですから、私たちはイエス・キリストの血潮によって、「アドナイ・メカデシュィ」の神様と徹底的な関係を結び、神様が常に私たちを聖くして下さる、そのみわざを体験しなければなりません。




第七、「アドナイ・チドケヌ」…(神様は、私たちの正義)

第7番目に、神様は「アドナイ・チドケヌ」という御名で、私たちと関係を結ぼうと望んでおられます。「エレミヤ書 23章 6節」に、『その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義。」と呼ばれよう。』と記録されています。皆さん! 神様は『絶対正義の神様』であられますので、不義を犯した罪人たちは神様の前に絶対に立つことができません。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。』(ローマ人への手紙 3章23節)と言われました。

また、『罪を犯した者は死ぬ。』と言われました。ですから、罪があるままでは決して正義の神様の御前に立つことはできません。しかし、イエス様が私たちに代わって、一生の罪をすべて背負って十字架のいけにえとなられ、身を裂き、血を流して、私たちの罪をみな清算してしまわれましたので、イエス様を救い主として受け入れる時、罪は消え去り、神様が義としてくださるみわざが私たちに現われるようになるのです。

「コリント人への手紙 第二 5章21節」には、本当に驚くべき御言葉が記録されています。『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』考えてご覧下さい。私たちがイエス様を信じたら、私たちが神様と同じく「義となる」と言われたのです。罪の泥沼に落ち込んで暮した私たちを、イエス様の血潮で洗い清めれば、イエス様の「義」を贈物として受け、神様が「義」であられるように私たちも「義」となると言うのです。従って、神様の前に出るときに少しも恥ることなく、堂々と御前に出ることができるようにして下さる神様であられると言うのです。

それで神様は「アドナイ・チドケヌ」即ち、「あなたがたを義として下さる神様」なのです。我が神様の愛とお恵みには限りがありません。それで、罪と咎により腐敗した肥やしの中の蛆虫のようにあえいでいた私たちを呼び出されて、キリストの血潮で洗い清めて下さり、神様のように「義」として下さったのです。これは贈物であり、信仰によって私たちがいただくようになるのです。「アドナイ・チドケヌ」として私たちと関係を結び、主の前に出る人は皆「義」として下さって、永遠なる神様と共に暮すことができるようにして下さると言うのです。




第八、「アドナイ・サンマ」…(主は、ここ(聖殿)におられる)

8番目に、私たちの神様は、「アドナイ・サンマ」と言う御名でご自分を私たちに啓示して下さいました。「アドナイ・サンマ」即ち、「聖殿におられる神様」と言う意味です。

「エゼキエル書 48章35節」に、『町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、「主はここにおられる。」と呼ばれる。』と記されています。神様は「聖殿におられる」と言うのです。皆さん! 神様はイスラエルが建てた幕屋におられ、ソロモンの聖殿におられました。しかしこんにちに至っては、神様は私たちのからだを聖殿にして、私たちの中におられるのです。神様は宇宙の向こうにおられるのではありません。神様は、イエス・キリストを信じ、その御名を呼ぶ者の中におられるのです。

皆さんのからだが、神様の聖殿です。今、神様は「移動聖殿」におられます。皆さんが教会に来たら、神様も教会に来られ、家に帰ったら、神様も家に帰られます。皆さんが旅行中であったら、神様も一緒に旅行中です。いつも神様が、私たちのからだを聖殿としておられるのですから、いつでも、私たちは神様を礼拝し、神様に仕え、神様に拠り頼み、神様に祈り求めることができるのです。

「コリント人への手紙 第一 3章16節」に、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』と言われており、「コリント人への手紙 第一 6章19節〜20節」には、『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』と記録されています。

神様はこのように、私たちと関係を結ぼうと望んでおられるのです。関係を結ぶ理由がなかったら、神様はご自分を私たちに啓示なさる必要がありません。神様は、「アドナイ・サンマ」の神様として、イエス・キリストにあって私たちと関係を結ぼうと望んでおられるのです。私たちと関係を結び、私たちと交わりを持とうと願っておられるのです。神様が、ご自分の御名を私たちに啓示なさったのは、その御名を通して私たちと関係を結び、私たちと交わりたいと望んでおられるからです。

「アドナイ・イルエ」の神様は、すべてを私たちのために備えられる神様として、私たちと交わりたいと望んでおられます。ですから私たちはすべてに、いつも神様が私たちのために備えて下さったと信じ、拠り頼み、感謝し、祈るとき、神様が備えられたもので私たちを祝福してくださるのです。

神様は、「アドナイ・ラファ」として、私たちと関係を結び、交わろうと望んでおられます。『わたしは、あなたを癒す神である。いつも"言葉"で癒して上げようと願っている。悔い改め、砕かれて、わたしを捜し、祈りなさい。そうするとき、わたしはあなたを癒そう。』このように主は、「アドナイ・ラファ」という御名でご自分を啓示しておられます。

「アドナイ・ニシ」の神様は、『わたしは、あなたがたの勝利の旗である。あなたがたがこの世に暮らしながら、数多い敵の攻撃を受けて苦しいとき、あなたがたの力で戦おうとせずに主であるわたしに任せなさい。そうしたら、主であるわたしがあなたのために戦って、勝利の旗をはためかすようにして上げよう。』と言っておられます。主は、私たちのために親しく戦って下さる神様として、私たちと交わりたいと望んでおられるのです。復讐するのはわたしの仕事である、と神様は言われました。

また、神様は「アドナイ・シャロム」と、その御名を啓示して下さいました。『わたしは、あなたがたの平和となりたい。イエス・キリストの血潮であなたがたの罪を全部赦し、あなたがたとの間の「隔ての壁」を取り壊したい。あなたがたの心に平和を与えよう。全知全能なるわたしが与える平和を奪うことができるものはいない。アドナイ・シャロム! わたしがあなたがたには「まことの平和」ではないか。お金、地位、名誉、権勢…このようなものが平和にはなれない。イエス・キリストにあってわたしと交わろう。わたしは『まことの平和を与えるアドナイ・シャロムである。』と神様は言っておられるのです。

その次に、神様は『わたしはアドナイ・ロイである。あなたがたの牧者になって上げよう。牧者が羊を顧みるように、あなたがたをわたしの囲いの中で保護しながら、食べさせ、着させ、育てて上げたい。このような関係を結びたい。いつもわたしを待ち望み、わたしを信じ、従順に聞き従い、わたしを礼拝したら、いくらでも良いものを惜しみなくあなたがたに上げる。このように交際しよう。』と、神様がご自分を私たちに啓示して下さったのです。

『わたしは「アドナイ・メカデシュィ」である。罪深く、汚れており、不品行で、放蕩そのものである世の中から、あなたがたをいつも「聖く」あるように守って上げたい。わたしと交わったら、わたしが聖霊をあなたがたの心の中に臨ませ、あなたがたを支えるようにして、世の中に住みながらも水と油のように、世の悪に染まないようにして上げることができる神である。』として、神様はご自分の御名を啓示して下さいました。そして、あなたがたはわたしと関係を結んで、わたしと交わろう、と神様は望んでおられるのです。

神様はまた、ご自分を「アドナイ・チドケヌ」として、その御名を私たちに啓示して下さいました。私たちを「義」として下さると言うのです。罪人としては、天の御国の主の前に立つことができないが、『わたしは「アドナイ・チドケヌ」即ち、あなたがたを「義」として上げることができる神である。わたしのひとり子イエスが十字架で身を裂き、血を流して、あなたがたの罪をすべて赦した。あなたがたがイエスの中に入って来たら、あなたがたは「神の義」となる。』と言うのです。「義」とは、罪を一切犯したことが状態を言います。「義」とは、悪魔から讒訴されることがない状態、神様の前に立つときにすこしも恥じらいなく立つことができる資格を言うのです。『このような資格を与えることができるわたしと関係を結んで、交際しよう。』と、神様は願っておられるのです。

そして神様は、「アドナイ・サンマ」であると、ご自分の御名を啓示して下さいました。『あなたがたの主を捜し求めるために、エルサレムとか、その他のどこをも彷徨する必要がない。あなたがたのからだが聖殿であり、わたしは「アドナイ・サンマ」である。あなたがたの中にいる神である。わたしはいつもあなたがたと一緒にいる。いつでも、わたしに呼ばわり、悔い改めたら、あなたの罪は赦される。わたしに呼ばわり、祈ったら、応答して上げよう。わたしはあなたがたと共におり、決してあなたがたを捨てることはない。』という意味で、「アドナイ・サンマ」即ち、聖殿である私たちの中におられる神様としてその御名を啓示しておられ、私たちとその御名で交際しようと望んでおられるのです。

皆さん! 私たちは神様と交わるために、世の中から召されて出て参りました。私たちの神様がどのような方であるか、はっきり知ってこそ私たちは神様と関係を結び、交際することができます。あまりにも多くの人たちが、イエス様を信じて救われはしましたが、神様がどのような方であるかを知らないので、神様と確かな関係を結ぶことができず、関係が結ばれていないから、神様と交際することができません。神様と交際しないから、神様が私たちのためにして上げようと望んでおられる「無限のお恵み」を、私たちは戴けずにいるのです。

私たちは、神様のお恵みを喪失しているのです。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』(詩篇 103篇 1節〜2節) 神様が良くして下さったすべてを知り、そして交わり、祈るとき、私たちの神様の御力と権威が、私たちに臨むようになるのです。

私たちに啓示して下さった神様の色々な御名は、その御名を通して私たちと特別な関係を結ぼうとなさる神様のご希望であり、ご計画です。この御名を通して、神様は私たちの中に親しく現われるようになるのです。ですから、愛する聖徒の皆さん! 今日から神様を知って下さい。主は、昨日の神様であり、今日は違う神様ではありません。主は、年月が変わり、天地が変わっても、変わらない神様です。『イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです。』(ヘブル人への手紙 13章 8節)

ですから、私たちは主を確かに知り、主の前にいつでも必要に応じて主の御名を呼ばわり、その主と関係を結んで暮して行きましょう。そうする時、主は、ご自分の御名を呼ばわり祈る者の訴えを聞き叶えて下さり、こんにちも、栄光と御力で現われて下さって、ご自分の民たちを救って下さるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! お父様が、私たちにご自分を「主である神様」として啓示して下さったことに感謝します。

父なる我が神様! 「アドナイ・イルエ」となられ、「アドナイ・ラファ」となられ、「アドナイ・ニシ」となられ、「アドナイ・シャロム」となられ、「アドナイ・ロイ」となられ、「アドナイ・メカデシュィ」となられ、「アドナイ・チドヌケ」となられ、「アドナイ・サンマ」となって下さって有り難うございます。

私たちが、我が神様を知り、我が神様と関係を結び、我が神様と交わりながら、主の前にイエス・キリストの御名によって祈るとき、我がお父様が啓示して下さった、そのすべての御名を通して、私たちに栄光と権威と御力をほどこして下さい。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!