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「一年を顧みながら」
 






■聖書箇所

「詩篇 1篇 1節〜6節」
1: 1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1: 2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1: 3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1: 4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1: 5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1: 6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。




今日、私は皆さんと一緒に、「一年を顧みながら」と言う題目で御言葉を分かち合おうと思います。

過ぎし一年を振返りながら、私たちは自然と自分の生活の周辺を整理してみます。机の引出しの中に重ねられている古い書類や、不必要な領収証などを整理して、きれいに整頓します。箪笥の中も一度整理してみたり、家の中の隅々も見まわします。お店を経営している人は在庫整理もし、事業をする人は年末決算をして1年間の実績を総整理します。

このように、私たちは「旧年」を送りながら、その間過ごして来た生活の裏側を見回して、もしも、間違った生活の跡を発見したら、これを悔い改め、直すようにしなければなりません。

「詩篇 1篇」は、『幸いな人の生きる条件』を提示しています。それと同時に、「不幸な人の生活態度」もはっきりと見せております。

今日、私たちは、今年の最後の「聖日」を過ごしながら、私たちの心の中の「在庫整理」をしなければならないと思います。本当に、「幸いな一年を暮して来たか?」そうでなければ、「不幸な生き方をして来たか?」を顧みながら、新年を迎えるにあたって、心を新しく整理しなければならないと思います。




第一、不幸な人は、悪者のはかりごとに歩んだ人です

第1に、不幸な人は、悪者のはかりごとに歩んで来た人です。悪者とは、神様に背を向けて「人本主義」で暮す人を言います。「エレミヤ書 2章13節」に、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水を溜めることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と記されています。皆さん! 神様に背を向け、人本主義に立って、人間の力で人生を生きて行こうとする時、この人は悪者のはかりごとに歩む人です。

皆さん! 神様に背いた政治の害悪を歴史が証明しているではありませんか? 政治家たちが神様に背き、神様を拝まず、人本主義に立って、人間の知恵で政治をしようとします。どんなに大きな悪を犯し、その悪を通して人類にもたらす害毒が如何に大きいかを、私たちは良く知っています。無神論的「共産主義」が、この地球の上に残した害悪は余りにも良く知られています。

旧ソ連の共産主義が、世界をどんなに「血みどろの悲惨な世の中」にしたかを、私たちはあまりにも良く知っております。又こんにち、北朝鮮の共産主義と、その共産主義がもたらした「飢餓」を私たちは良く知っています。共産主義政権は、神様を無視し、神様を認めません。人本主義に立って、その恐ろしい害悪を欲しいままにしております。

北朝鮮では、1998年・1ヶ年の間に、飢え死にした人の数が150万から300万人に及ぶと言われています。私たちが援助して上げた殆どの食糧が、上層部、軍部に回されるか、蓄えられてしまって、一般庶民たちは着物はおろか、飢えで栄養失調にかかって死にかけており、特に老弱者たちは殆どが死に、無数の子どもたちが犠牲になっております。これがまさに、悪者のはかりごとに歩んだ政治の害悪なのです。

皆さん! 神様に背いた経済の害悪も、私たちは良く知っているではありませんか。私たちにIMFが何故、訪れたでしょうか? 政府や企業が神様に逆らって人本主義に立ち、貪欲の奴隷になったために、政経癒着も起きました。蛸足配線のような「したい放題の事業拡張」も流行りました。その結果、こんにち経済的破綻がもたらされるようになりました。

さらに、IMFによる経済的苦しみに会うようになってから、家庭が瓦解し、人たちが互いに騙し合い、正常的には理解できない行動をします。これが、神様に背を向けたこんにちの経済的害悪であることを私たちは知っています。

神様に逆らった教育も、如何に悲劇的なものですか? ダーウィンの進化論は、恐ろしい害悪を持ってきました。ダーウィンが神様に逆らって、すべての生物はアメーバから進化して出て来たものだと言います。人も小さな単細胞から進化して出て来た物質的存在であると、学校で教えました。その結果、人間の尊厳性はなくなりました。人を殺すことは、アメーバを殺すことと差がありません。

アメーバから進化して出て来た存在に過ぎないので、人間の尊厳性はどこにもありません。それで、ヒットラーは600万人のユダヤ人を殺すことができました。スターリンは自分の同族3千万人を殺すことができ、毛沢東は同族5千万人を殺すことができたのです。人は、神様に型取り造られたのではなく、一つの物質に過ぎず、その物質はいつでも殺して構わない、と言うことです。

さらには、科学が発達して、最近、論争の対象になっている「複製人間」のその非倫理性は、言葉では言い尽くせません。もう複製人間の時代が来て、結婚をせずとも、処女がひとりでいくらでも子を産むことができます。聖書の言葉は、『処女がみごもっている。そして男の子を産む。』とのことですが、もうそれは、聖書にだけある言葉ではありません。普遍的に「処女が子を産む」ことができるのです。

伝統的「家庭思想」がすべてなくなります。父・母という思想がなくなります。そして、自分と全く同じ複製人間を造って、自分が必要なときに目を抉り出して使用し、肝臓も取り出して使う、心臓も摘出して使用する、このような非道徳的、非倫理的なことがどこにあるでしょうか? 神様に背を向けて人本主義に立てば、限りない悪の行為が進行されるようになるのです。

また、神様に背を向けた文化というものは、淫乱、世俗、放縦の流れを防ぐことができません。皆さん! この頃インタ−ネットを通して、若い人たちがどんなに放蕩しているか、ご存知だと思います。女子大学生や家庭主婦までもが身体を売り、顔も知らない人同士が「対話の間」を通して互いに会ってからは、社会の既存秩序を破壊する…等、神様に背を向けた文化は「淫乱の文化」「世俗の文化」「放縦の文化」であります。

私たちは、口でだけ「主よ。主よ。」と言いながら、行為にあっては主を取り除いて自分勝手に考え、話し、商売し、生活して参りました。私たちは、悪の罠に引っ掛かっているのです。人本主義で暮したら、悪は私たちから離れません。悪は、自分も他人もすべて苦しめます。

私たちが「1年を過ごしながら」神様中心に、神様に仕えながら暮さずに、自己中心に暮し、自分の知恵で暮らしたのであれば、私たちは悪者のはかりごとに歩んだことになります。この世は悪者の支配下にあります。私たちが人本主義で暮したら、この悪者の手に捕らわれ、私たちの人生が悪の恐ろしい破滅の害悪に露出されて、悪の奴隷になってしまうのです。そうなったら、私たちの人生にはどうすることもできない「悪の芽」が吹き出し、その結果、無数の苦しみに会い、お隣も苦しめるようになります。

このような「1年を過ごした」のであれば、私たちは、それこそ大いに悔い改め、告白して、この悪かった生活を清算しなければなりません。『わたしの民は二つの悪を行なった。涌き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水を溜めることのできない、壊れた水溜めを自分のために掘ったのだ。』と、主は言われました。人本主義によって、いくら政治、経済、教育、文化、軍事、産業の水溜めを掘っても、結局は水を溜めることができずに、失敗してしまうのです。




第二、不幸な人は、罪人の道に立った人です

2番目に、不幸な人は、罪人の道に立った人です。罪とは、神様の戒めを知っていながらも、それを犯したことを言います。私たちが、神様の戒めをすべて知っています。その戒めを知っていながらも守らず、罪人の道に立って暮らすのであれば、神様の祝福が臨むことはできません。

神様が、私たちに確かに与えられた「十戒」があります。勿論、「十戒」を守ることによって救われるのではありません。イエス・キリストを信じることによって、代価なく救われるのですが、神様の掟と定めを守ることによって神様に喜んでいただき、それで神様と交わることができ、従って神様から祝福していただくことができるのです。救いは、信仰によって代価なしにいただくのですが、祝福は、神様の掟と定めを守ることによっていただくことができるのです。

神様の「十戒」には、『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』とあります。人たちは、「私はほかの神を持たない」と言います。しかし、その「私」が神になることがあります。神様よりも自分を拠り頼み、自分を信じ、それで「自分を神とする」人が意外にもたくさん居るのです。

『偶像を造って、それらを拝んではならない。』と言われました。私たちはこの世に暮しながら、地位、名誉、富貴、栄華、権勢を偶像にして、それらを神様よりももっと崇拝し、それらに仕えたことがいくらでもあります。口では「主よ。主よ。」と口癖のように呼ばわりながら、生活の中ではお金が神様よりも先であり、権勢が神様よりもっと重要だとしたことが、いかに多かったでしょうか? こんにち、あまりにも数多い人たちが偶像崇拝をしております。従って、私たちは主の前で不幸な暮しをして来たことに間違いがありません。

『主の御名を、みだりに唱えてはならない。』 自分の思う通りにならないと、神様に抵抗し、恨み言を呟く人が少なくありません。自分の意のままになったら、嬉しくて直ぐに「ヘヘヘ…。」と笑い、そうでなかったら直ぐに神様の御名をみだりに唱える…、抵抗する…、このような行為は大きな罪です。

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』 私たちは六日の間は働き、七日目には神様のもとに出て来て礼拝を捧げ、お仕えしなければなりません。今日の皆さんのように、神様のもとに出て来て礼拝を捧げ、また仕える時、神様が皆さんを迎え入れてくださり、大いに喜んでくださり、祝福してくださるのです。

『あなたの父と母を敬え。』 こんにち、社会の最大の病弊は、「孝行」が消え失せたという事実です。父母を敬わずに、却って父母を無視し、父母を顧みない人たちがいくらでも目につきます。聖書には『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。』と記録されています。

父母を敬えば、神様が祝福して下さいます。親不孝の人は、神様の怒りを呼びます。親孝行が私たちの倫理と道徳の根本です。親を敬う人は、先生も敬い、先生を敬う人は、先輩・後輩を知り、社会の法律と秩序を守ります。最近、先生という「教職」を忌避するようになりました。学生たちが先生に反抗し、先生に暴力をふるい、「110番」にダイヤルして先生を告発する…等、この頃、全く尊敬されない先生たちは、学校で学生を教える意欲を喪失してしまいました。これは、父母を敬わない子どもが、学校に行っても先生を敬わないからです。『あなたの父母を敬え。』この戒めを、私たちは必ず守らなければなりません。

『殺してはならない。』と言われました。私たちが直接手を出して殺人はしないけれども、「殺してしまいたい」と憎む、それも殺人です。私は、新聞を読んで本当に驚いてしまいました。16歳の女学生が、その間交際してきた男の学生が別れたがるとして、その男の学生をナイフで刺し殺した、と言うのです。男性が女性を刺し殺したと言う事件はたくさん見てきました。ところが、中・高等学校の学生が、それも女学生が男の学生を刺し殺した、と言うことは「恐ろしい」ことです。

『姦淫してはならない。』 「性的」道徳は既に崩れてしまいました。韓国の社会で、「性的」道徳が守られていると思う人はいません。特に携帯電話で、名前も知らず、一面識もない女子大学生や若い家庭主婦までもが「紹介屋」を通して、倫理・道徳が地に落ち、崩壊する数多い事件を私たちは新聞、TVニュースで見ています。

郊外の山麓とか湖畔には、至る所に"ラブホテル"が建てられています。政府がなぜ、そのような建物や営業を許可したのか知りません。その"ラブホテル"というところが、淫乱・放蕩の巣窟であることを知らない人はなく、それらは今も盛業中です。放蕩に身を委ねてはいけません。姦淫してはなりません。それらは生活を破壊し、家庭を破壊し、終局には社会を破壊してしまうのです。

『盗んではならない。』 皆さん! この頃は銀行等、金融機関を信じてお金を預けることがこわくなりました。昨日のニュースでしたが、ある「信用組合」に預金をしましたが、コンピューター操作をして預金全額を抜き取って持ち逃げした、と言います。3千万ウォン、6千万ウォン…と、骨を折り、汗水流して貯金したのを空中に吹き飛ばしてしまいました。誰一人、あの人は間違いない、信用できる、と言いきることができる人がどこにもいません。

国民が、政府を信じますか? 信じません。国会を信じますか? 夜昼彷徨する国会を、誰が信じますか。公務員も信じられません。水害をこうむった地域に、全国民から募金した支援金を送りました。ところが公務員たちが「それに手をつけた」とのことです。一方、水害地域で3千万ウォン配当しながら、その被害家庭から200萬ウォンのコミッションを受け取ったとも言われています。腐敗が根もとまで浸透しています。頭の頂きから足裏まで、疵だらけです。

皆さんご自身が、もしも腐敗してはいないか? 省察すべき時点です。私はその間、40年間を牧会して参りながら、盗賊がお金持ちになったことを見たことも、聞いたこともありません。盗人の家族や子孫の中で、滅ばない人を見たことがありません。

鷲が一匹、肉一片を啄ばんで、雛鳥に食べさせようと急いで巣に戻りました。ところがその巣に火事が起こって雛鳥がみな焼死んでしまいました。何故だったでしょうか? その肉片は、祭壇の上にのせられていたもので、炭火がついていたのです。それを知らずに、そのまま巣に持って来たので、巣に火がつき、雛鳥がみな焼かれてしまいました。盗んだものには火がついています。神様の審きの炭火がついているのです。

『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』 私たちは平素、罪を犯しています。針小棒大して隣人の罪を大きくし、罪がない人まで偽りででっち上げて言いふらし苦しめる…などしますが、このようなこともするなと、神様が戒めておられるのです。

『あなたの隣人の家を欲しがってはならない。』と言われました。 隣り人に良いことがあれば、それを妬んでけちをつけ、悪くなることを望みます。韓国には、「従兄弟が田地を買ったら、腹が痛む。」という諺があります。ある牧師先生は、「従兄弟が金持ちになれば、腹が痛む程度でなく、下痢をする。」と、韓国人の嫉妬心を風刺して笑わせたことがあります。隣人の所有物まで欲するので、隣人が自分より良くなったら、嫉妬心でとても堪らなくなります。

私たちは、神様の戒めに自分を映してみて、間違ったことは悔い改め、正しい道に立ち返らなければなりません。「今日」を送りながら、私たちは戒めの鏡に自分を映して見て、不幸な人として暮してきた「1年」を、悔い改めなければなりません。

「申命記 7章 9節〜11節」に、『あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。』と言われました。

私たちが幸いな人になるためには、罪人の道に立ってはなりません。その間の間違ったこと、犯した過ちをすべて悔い改めて、聖く、清潔な心で新年をお迎えするようになりますよう、主の御名によって祈願します。




第三、不幸な人は、嘲る者の座に着いた人です

3番目に、不幸な人は、嘲る者の座に着いた人です。他人を嘲る人は、自分を誇大評価し、自ら自分を高めます。醜いくせに自分がきれいだと思って、自分を誇大評価し、どこにでも顔を出したがります。他人に対して横着で、無礼なことを平気でやってのけます。隣人をさげすみます。また、神様に栄光を帰さずに、自ら栄光を自分のものとします。

このような人は、バベルの塔を積み上げている人です。バベルの塔は、必ず神様の審きを受けます。ノアの子孫たちがシヌアルの地に来て、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と言いました。そして協力してバベルの塔を建てるとき、神様がその塔を建てることができないように彼等の言葉を混乱させ、彼らを散らされました。

人が、隣人を嘲り高ぶったら、既にその中には神様の「滅亡の種」が蒔かれているのです。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と「箴言 16章18節」に記されています。私たちは、いつも神様に栄光をお帰しし、その前に自らをへりくだらせなければなりません。そうする時、神様は私たちを祝福して下さいます。

「詩篇 75篇 4節〜7節」の御言葉です。『わたしは、誇る者には、「誇るな。」と言い、悪者には、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。」と言う。高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。』 

高く上げたり、低く下げたりするのは、私たちの万軍の主・神様がなさることです。私たちが、自ら高ぶって傲慢になり、自分を高めるとして高くなることはできません。不幸な人が高ぶって「嘲る者の座に着く」のです。




第四、不幸な人は、主の御言葉を喜びとせず、その御言葉を口ずさまない人です

4番目に、不幸な人は、神様の教え、即ち、御言葉を喜びとせず、それを昼も夜も口ずさまない人です。

皆さん! 神様を知ることは、知恵と知識の根本であると言われました。神様の御言葉を通して神様を知るようになります。こんにち私たちは、神様を目で見ることができず、手で触ることができません。神様の御言葉を読み、口ずさむことによって、神様を知るようになるのです。人たちも、写真を見て「その人を知る」ことはできません。会って、話し合い、言うことを聞くことによって、その人を知ることができます。

私たちは、聖書を通して神様を知るようになります。「ヨハネの福音書 5章39節」に、『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』と記されています。聖書がまさに、神様に対して証ししているのです。聖書を遠くするのは、神様を遠くすることです。不幸な人は、神様の御言葉を喜ばず、口ずさむこともしません。その結果、神様と遠ざかってしまいます。

神様の御言葉は、私たちの道に光となり、私たちの足に灯かりとなります。神様の御言葉は、私たちに知恵となるからです。私たちが神様の御言葉に従順に聞き従って暮したら、暗闇に落ち込んだり、罠に引っ掛かったりしません。私たちが難しい問題に遭遇したとき、私たちが読み、口ずさんだその御言葉が与える知恵が、聖霊さまによって悟るようになり、危険を避けることができるようにしてくれるのです。

神様の御言葉は、霊の糧食となるのです。私たちがからだの糧食を食べて、健康を維持するように、霊的に神様の御言葉をいつも食べてこそ、私たちの心の中に信仰、希望、愛があふれ、義と平和と喜びが満ち、天の御国に対する望みでいっぱいになるのです。神様の御言葉を摂取しないことには、世俗が私たちをあつく覆って神様とは遠くなり、益々この世の風俗と世俗に従って暮すようになり、ついには神様から遠く離れてしまうのです。

私たちが、信仰が育つことを願うのであったら、御言葉を食べなければなりません。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのです。この信仰が私たちの心の中に入って来てこそ、私たちは信仰によって「力ある人生」を生きて行くことができるのです。

私たちは、1年を送りながら、私たちの人生から幸いを奪って行く「四つの霊の病気」を直していただいてから、新年を迎えなければなりません。私たちは「不幸な人」にならずに、「幸いな人」として新年を迎えなければならないのです。

「申命記 15章 4節〜6節」に『そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。』と言われました。

ですから私たちは、1998年を送る、この最後の聖日に、私がもしも、不幸な人ではなかったか、顧みながら、心を洗い清め、整頓して、新年を迎えるようにしましょう。『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』と、主は言っておられます。




お祈り

聖く、全知全能であられる、父なる神様! 私たちが新年を「幸いな人」として暮すようにして下さい。もしも、その間「不幸な人」であったのでしたら、徹底的に悔い改め、告白するように助けて下さい。

父なる我が神様! 人本主義の悪によって、主から賜った祝福を奪われた人が一人もないようにして下さい。神様の戒めを知っていながらも犯して、主の審きに会うことがないように助けて下さい。

その間、高ぶり、傲慢であったことを悔い改めて、悪魔が受ける審きの場に入ることがないようにして下さい。御言葉に従順に聞き従い、絶えず祈ることによって、神様といつも同行する私たちとなり、すべての点で幸いを得る暮しをすることができる私たちとなるように、祝福して下さい。

愛であられる神様! もしも、私たちが「幸いな人」になれなかったのでしたら、私たちが自らを省みて悔い改め、「幸いな人」になれるように、今日、今、変化を受けるように助けて下さい。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!