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「私たちに与えられた新年」
 






■聖書箇所

「ヘブル人への手紙 11章 1節〜6節」
11: 1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11: 2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11: 3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11: 4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11: 5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11: 6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。




今日、私は皆さんたちと一緒に、『私たちに与えられた新年』と言う題目で御言葉を分かち合おうと思います。

私たちは、胸を逸らせる期待と興奮の中で新年を迎えました。多分、今年は良いことがあるだろう。もっと成功し、幸福で、喜ばしい新年になる。問題は去り、苦痛は和らぐだろう。神様の祝福が、今年は必ず訪れる…。

このような希望は、成就することもあり、成就しないこともあります。何故か言えば,新年を「幸いな年」として迎えることができる心の準備ができている人には、チャンスが訪れ、そのチャンスを捉えることができるでしょう。しかし、心に準備がない人には、いくら素晴らしいチャンスが臨んでも、その人には意味がありません。準備ができていないので、そのチャンスを捉えることができないからです。

ですから、私たちは今年の新年に、私たちに臨む祝福のチャンスをしっかりと捉えるために、確固たる心の準備をしなければなりません。

それでは、私たちはどのような準備をして新年を迎えなければならないでしょうか?




第一、確かな夢がなければなりません。

第1に、確かな夢があってこそ希望が成就する新年を暮すことができます。聖書に、『夢がない民は、滅びる。』と記録されています。それは、夢があってこそ「栄える」と言うことです。私たちは、心の中にどのような夢を持つことができるでしょうか? 神様は、アブラハムに、将来臨む祝福に対する確かな夢を持つように、と命じられました。

「創世記 13章14節〜15節」に、『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」』と記されています。神様はアブラハムに、東西南北をよく見渡して、心中に自分が所有するようになる土地に関して夢を持ちなさい、と言われました。

見渡したその地を、あなたとあなたの子孫とに永久に与える、と言われたのです。所有する前に、先ず見なさいと言うのです。あなたの物になる前に、先ず確実に夢を持ちなさい、と言われたのです。

神様は、ヨシュアに、占領する土地の有様をはっきり見せて下さいました。彼がカナンの地に入る前に、神様はヨシュアの胸の中に夢を刻み込んで下さったのです。

「ヨシュア記 1章 1節〜6節」に見ますと、『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。』と記されています。神様は、ヨシュアに確かなビジョンを与えられました。

このように神様は、アブラハムにも、ヨシュアにも、確かなビジョンを持って、それを見渡しながら前進して行くようになさいました。それでは、私たちに与えて下さった土地はどこにあるでしょうか? 1999年・新年に、私たちがどのような夢を持って前進し、何を私たちが占領しなければならないでしょうか?

皆さん! 神様は、私たちに十字架を通して得た祝福の地を提示しておられます。信仰の創始者であり完成者であられるイエス様から目を離してはいけません。イエス・キリストを信じる人たちの為に十字架で身を裂き、血を流して買って置かれた地を、私たちははっきりと見つめ、それを占領しなければならないのです。

主は、十字架の血潮を通して、私たちに赦しと義の地を備えて置かれました。私たちはキリストを信じることによって、この世の罪が赦され、義として下さるその地を見渡しながら、夢を持って、そこを占領しなければならないのです。

イエス様はまた、私たちに天の御国と聖霊を与えて下さいます。私たちは十字架を通して、天の御国を占領し、聖霊に仕えるというビジョンを持って暮さなければなりません。天の御国は、私たちのものです。「天の御国は、ここにある、そこにある、と言えるものではありません。天国は、あなたがたの只中にあるのです。」と言われました。天の御国と聖霊は、イエス様が私たちに与えて下さった地です。

私たちは又、イエス・キリストによって、すべての心配、懸念、不安、焦燥、絶望、悲哀が去り、体の苦痛と心の苦痛を癒して下さる「喜びと癒し」の地を占領しなければなりません。主が、この地を私たちに与えて下さったのです。まことに、主は私たちの病を負い、私たちの悲しみ、私たちの痛みを担って行かれました。主は代価を払って、喜びの地、癒しと健康の地を私たちに提示して下さいました。それを、私たちが占領しなければならないのです。それが、私たちに与えられた夢です。

主は又、私たちの為に十字架の上で呪いを担い、私たちの代わりに呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さり、私たちの貧しさを背負って一生を暮すことにより、私たちを富む者とならせる犠牲になられました。ここに、私たちが与えられた、占領すべき地があるのです。アブラハムへの祝福の地であり、すべてに幸いを得、富む者となる地を占領しなければならないのです。主が与えて下さった地です。これを、アブラハムのように、ヨシュアのように見渡しながら、入って行って占領しなければならないのです。

主は、死なれてからよみがえられる事によって、死と陰府(よみ)を滅ぼし、復活と永遠の命と天の御国を、私たちに「契約の地」として下さいました。私たちは、これを見つめなければなりません。入って行って占領しなければなりません。

皆さん! 私たちに、主が与えて下さった地が確かにあります。これは、主を信じない人は見る事もできず、聞く事もできず、心に思い浮かべる事もできません。しかし神様は、ご自分を愛する者のために、麗しい地を十字架を通して備えて置かれました。ですから私たちは、これを深く心の中で見つめ、心の中に所有し、祈りと信仰を持って、この地を占領しなければならないのです。

新年には、このような確かな夢を持って暮して行かなければなりません。夢がなければ、何も占領する事ができません。皆さんが、そのような夢を持って、信じ、祈り、賛美し、感謝しながら暮すとき、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを豊かに得るみわざが現われるようになるのです。

『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』天の御国に対する確かな夢を持ち、私たちが信仰により激しく攻め込んで、主が与えて下さった十字架の下の乳と蜜が流れるキリストのカナンの地を占領なさいますよう、主の御名によって祝福します。




第二、聖霊さまの手を取って生きて行かなければなりません。

第2に、新年には、聖霊さまの手を取って生きて行かなければなりません。エジプトを出たイスラエルの民が、雲の柱と火の柱の導きがなかったら、広野を進軍することは不可能だったのです。広野は太陽で熱く、全員が気を失ってしまったでしょう。しかし聖霊の雲が防いでくれました。夜には、広野は凄い寒さです。岩が、寒さで音を立てながら割れます。そのような所を聖霊の火の柱が暖かく照らしながら保護してくれました。

私たちが広野のようなこの世を生きて行く間、私たちの力でこの世の熱い太陽のような試練と、身を切る寒い夜のような苦難を克服するためには、聖霊さまのお助けが絶対必要です。聖霊さまは私たちを慰めて下さり、抱いて下さり、導いて下さるのです。

「ヨハネの福音書 14章16節〜17節」の御言葉です。『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』

私たちが、イエス様を救い主として受け入れる時、神様は、私たちを孤児のように捨て置かずに、もう一人の助け主を私たちにお与えになるのです。助け主とは、神様から遣わされて、私たちを助けるためにいつも私たちの傍に居られる方のことです。神様は、私たちを広野のようなこの世に投げ捨てずに、「第三位」であられる神様・「聖霊様」が私たちを助けるようになさり、その聖霊さまは、私たちを助けるために毎日毎時私たちと共に行動しておられるのです。

「イザヤ書 11章 2節」に見ますと、『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』と記録されています。皆さんに臨んでおられる聖霊さまは、「知恵の神様」です。主は、聖霊さまを通して皆さんに知恵を与えて下さり、問題が起こった時、解決することができる力を与えて下さいます。聖霊さまに祈り求めれば、聖霊さまは「解決の道」を私たちに見せて下さるのです。

また、聖霊さまは「悟りの神様」です。私たちから愚鈍な心を取り除いて下さいます。私たちが立場、環境を的確に悟り、現在と未来を悟り知って、聡明に暮して行けるようにして下さいます。

聖霊さまは「はかりごとの神様」です。私たちに「カウンセリング」して下さいます。こうしなさい、ああしなさい、と導いて下さり、私たちに助けとなる道を与えて下さいます。

聖霊さまは「能力の神様」です。私たちに「能力」を与えて下さいます。私たちを主の栄光のために働かせるだけでなく、何事でもやってのけることができる「能力」を与えて下さいます。父として、母としての能力、子供として、社会の一員としての生活能力を与えて下さるのです。

聖霊さまは「知識の神様」です。私たちに「知識」を与えて下さって、神様に対する真理を悟り、神様の御言葉を悟り知るようにして下さいます。 

聖霊さまは「主を恐れる霊」です。私たちがいつも「神様を畏敬」するようにして、神様に心から仕え、神様を愛することによって神様に従順に聞き従うことができる大いなる心の感激と変化を与えて下さいます。

聖霊さまは「聖なる霊」です。私たちが世俗の中に暮しながら、腐敗した世俗に汚染されず、この世に属することなく、この世から分離された暮しをするように助けて下さるのです。

新年を迎えて、私たちが成功する勝利の人生を暮すために、私たちを助けるために来ておられる「偉大な家庭教師」・助け主聖霊さまを、認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みながら、すべて聖霊さまに祈り、求める人生を暮す皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します!

「聖霊」とは、「文字」に過ぎない存在ではありません。神学的「用語」ではありません。聖霊さまは今も、ここ「教会」に来ておられ、皆さんと共におられ、皆さんの中にご臨在しておられます。

聖霊さまは黙々と静かに来ておられますが、皆さんが聖霊さまを認め、迎え入れて、拠り頼む時、聖霊さまは、或いは夢に、或いは幻に、或いは御声で、或いは啓示で、或いは頭の中に浮かぶ考えで、又は心に満ち溢れるアイデアで、私たちを導いて下さるのです。人生を一人で暮さずに、偉大なる教師・聖霊さまのお助けを戴きながら暮して行くとき、私たちはこの新年を、成功する勝利の年として生きて行くことができます。




第三、生活の順序を間違えてはなりません。

第3番目に、私たちが勝利の生活を営むためには、生活の順序を間違えてはなりません。「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記されています。

人生を暮して行くにあたって、先にすることと、後にすることがはっきり区別されています。この頃、家庭教育ができている家庭の子供たちは、食卓の前に座った時、父母が先に箸を取り上げてから、自分たちも箸に手を伸ばします。しかし、教育ができていない子供たちは、父母が先に食事を始めていないのにも、そんなことは構わずに勝手にさっさと先に食べ始めます。悪いことです。贈物が持ち込まれた時でも、先に父母が開けてみてから、次に子供たちが手をつけてしかるべきなのです。秩序が乱れてはいけません。

こんにち、学校で学生が、先生を「110番」に告発したり、先生を殴ったり…、これでは教育ができません。先ず先生を敬ってこそ、その次に学問も教わることができます。先にすべきことと、後にすべきこととが分別できないことには、すべてに失敗します。

人生に対して神様は、『神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。』と言われました。先ず、私たちは『神の国』を求めなければなりません。いつも、神の御国を慕わなければならないのです。私たちは、いつも御言葉を頻繁に読み、祈り、天の御国を慕うことをもっとも重要なことと認識しなければなりません。

朝、起きてからも、先ず、神様の御言葉を読み、神様に祈り、神の御国を先ず求めなさい、と言うことです。地上の神の御国は教会ですから、聖日を守り、教会での職務及び責任を熱心に全うして、地上の神の御国である教会に良く仕えなさい、と言うことです。そして、永遠の神の御国に対して強い期待をもって、近づいて来る新しい天と新しい地を慕うようにしなさい、と言うことです。

こうして、私たちの心の中に天の御国がいつも「第一の主題」になっており、私たちが先ず第一に、天の御国を慕い、求め、待ち望まなければならないのです。そして次に、神の義を求めなさいと言われました。神の義は、まさにイエス様です。

「コリント人への手紙 第二 5章21節」に、『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』と記録されています。私たちは、イエス・キリストが私たちの義となられるのですから、イエス様をあつく愛し、イエス様をいつも高く崇め、イエス様をどんな時でも伝道する人生を暮さなければなりません。イエス様と共に暮す人生を生きて行かなければなりません。

「神の御国とその義とを先ず第一に求める」暮らしをしたら、以後の問題は、私たちの主が責任を負って下さる、と言うのです。『何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。そういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と言われたのです。

「ピリピ人への手紙 4章19節」に、『また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』言われました。私たちが、神の国とその義とを先ず第一に求め、その次に、主に私たちの必要なものを祈り求めるとき、主は、私たちの祈りと求めに応答して下さり、助けて下さるのです。

私たちの神様は、私たちがみな、たましいが幸いを得ているように先ず神の国とその義とを求めなさい、と言われました。そして、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように私たちのために祈ると言われたのです。たましいが幸いを得ることができずに台無しになったら、凡てに幸いを得ても、健康であっても、何の益も得もありません。地獄の苦しみがあるだけです。

イエス様の最大の関心は、永遠に暮す皆さんのたましいがすべてに幸いを得ることです。皆さんのたましいが幸いを得たら、主はいくらでも、すべてに幸いを得、また健康であるようにと、益々皆さんを祝福して下さり、お恵みをほどこして下さいます。




第四、人生を肯定的に見つめなければなりません。

第4番目に、私たちが、新年を成功する勝利の年とするためには、人生をいつも肯定的に見つめなければなりません。皆さん! 暗く、否定的なものを見つめる人は、その暗い勢力に囚われるようになります。マスコミは常に、明るいことよりは、暗いことを報道したがります。それで人たちが、明るく肯定的な期待よりは、いつも眉をひそめて胸を叩き、嘆くようにしてくれます。このような事が改革されなければならないと思います。 

人類があってから今まで、悪いニュースはいつもありました。悲しいニュースもいつもあり、否定的なものもいつもありました。しかし、その否定的なものが助長されることによって、私たちの生活が良くなることはありませんでした。暗く否定的なことを絶えず見つめ、いつもそれを嘆いていたら、その、暗く否定的な勢力に囚われます。

「ヨブ記 3章25節」をご覧下さい。ヨブは、平素、自分の一族・一門が滅ぶことを心配したり、否定的な考えから恐れたりしました。結局、そのような目に会ったとき、『私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかった。』と、ヨブは告白しました。

「箴言 10章24節」には、『悪者の恐れていることはその身にふりかかり、正しい者の望みはかなえられる。』と記されています。ですから私たちは、一生を暮しながら、否定的な考えに囚われて暮してはいけません。いつも肯定的な思考を持って暮さなければならないのです。

他人の非を暴き出したり、非難したりせずに、他人の長所を見てあげ、褒めて上げる人にならなければなりません。私たちの日常にあっても、滅ぶかも知れない、出来ないかも知れない、絶望だ…と考えずに、火の燃え上がるような希望を与えることを探し出して、それを掻き立てるようにしなければなりません。

私たちは1998年・1年の間、IMFという凄い激浪を経て参りました。その中で私たちは、甚だしい陣痛を患いました。数多い否定的な勢力が、私たちの韓国社会を欲しいままにしました。しかし、そのような中で、私たちが希望の炎を見つめ、いつも肯定的に考えようと努力し、全力を傾注して来たので、こんにち、私たちがそのIMFを避けて行くことができる道が与えられるようになったのです。

私たちはいつも、「見つめる法則」を適用しながら、肯定的に見渡し、希望的な話しをし、希望の歌を歌わなければならないのです。常に、希望の中で肯定的に人生を見渡したら、肯定的な勢力に囚われて、その中に入って行くようになるのです。

「マルコの福音書 9章23節」に、『イエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』と言われました。「ピリピ人への手紙 4章13節」にも、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と記されています。どんなことでもできるのですから、私たちは否定的になることができません。

皆さん! カナンの地に12人の偵察隊員が入って行って偵察して参りました。偵察隊員12人は、全く同じカデシュで、同時に出発、同じく40日40夜、カナンの地を偵察しましたが、10人は否定的に偵察し、ヨシュアとカレブは肯定的に偵察をしました。

否定的に偵察して帰って来た10人は、民たちに否定的な報告をしました。それを聞いた民たちは、大声で泣き叫びながらモーセと神様を怨み、頭(かしら)を立ててエジプトに帰ろう、と言い出しました。それで、神様がその場に臨まれました。そして否定的な10人の偵察隊員を呼び出されて、その場で疫病で死なせました。それから、否定的な心のイスラエルの民たちを広野に回して、40年の間、広野を彷徨しながら滅ぶようになさいました。

一方、ヨシュアとカレブが報告した内容をご覧下さい。「民数記 14章 7節〜9節」の御言葉です。『イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』 なんと肯定的な報告でしょうか。

しかし10人の偵察隊員は、こう報告しました。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』 完全に悲劇的で、否定的な報告をしました。その結果、彼らは神様から捨てられました。

なぜ、このように、同じ所を、同時に出発して、同じ時間偵察して来たのに、その報告内容が、10人は否定的、2人は肯定的であったでしょうか。理由は、彼等の心の姿勢によるのです。私たちが神様を知り、信じたら、私たちの心の中には否定的勢力が入って来る隙間がありません。

「ローマ人への手紙 8章28節」に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』とあります。良いことも悪いことも、成功も失敗も、喜びも悲しみも、健康も疾病も、私たちのために神様は、すべてを働かせて益として下さるのです。ですから私たちは、絶対に肯定的であるしかありません。

『私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』と、使徒パウロ先生は言われました。ですから私たちは、神様を信じ、肯定的、積極的、創造的「人生観」を持たなければなりません。

クリスチャンである私たちは、「できる! 主が共におられるからどんなこともできる。」と言う信仰を持って暮して行かなければなりません。私たちは新年を迎えて、力強く、肯定的な心の姿勢を堅固に保ちながら暮さなければなりません。

新年は、個人的に、国家的に、世界的にすべてが多忙で渦巻く時代です。ヨーロッパが「ユーロ貨」で統一されて経済的対決状態に入り、全世界の経済成長が鈍くなって、難関が山々です。また、至るところに地震も起こり、飢饉も起こり、ラニーニョ現象で気候の巨大な変革も起こっています。

このような中で、私たちが生き抜いて行くためには、いつも、「暗いところ」を見ずに「明るいところ」を、「出来ない」を見ずに「出来る」を見ながら暮して行かなければなりません。神様の民であり、神様が共におられるのに、なぜ、私たちが後に退かなければならないことがあるでしょうか。聖書の御言葉です。『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』

私たちは、信仰によって神様を見つめながら暮して行かなければならないのです。神様は、良き神様です。『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んで下さらないことがありましょう。』と言われました。

人たちが言う「運命」とは、神様の御手に乗せられているのです。神様が戸を開けたら閉じるものがなく、神様が閉じたら開けるものがありません。神様は、準備ができている人にだけ、祝福して下さるのです。

「ヘブル人への手紙 11章 1節と6節」の御言葉を記憶して下さい。『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

神様は、皆さんと私に報いて上げようと望んでおられます。『あなたがたに対するわたしの考えは、わたしが知っています。それは、あなたがたに希望を与えることと、平安を与えることです。』と言われました。

新年には、充分に準備をして、どのような環境にあっても神様の御力とお恵みに拠り頼むことによって、祝福と勝利の人生を歩む皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、我が父なる神様! 新年が訪れて参りました。私たちは、新年を祝福の新年として上手に過ごさなければなりません。私たちが心の中に、十字架を通した「五重の福音」と「三重の祝福」の夢をはっきりと持つように助けて下さい。

私たちを助けるために遣わされた聖霊さまを、私たちがいつも認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼んで、聖霊さまのお助けに与かる私たちとなるようにして下さい。天のお父様! 聖霊さまによらないことには、勝利の生活を営むことができません。毎日毎時、聖霊充満な私たちとなれるように助けて下さい。

全知全能で、愛であられる、父なる神様! あまりにも多くの人たちが、否定的な人生観をもって暮しています。それらをすべて捨てて、主にあって、限りない希望と、肯定的人生観をもって暮す私たちとなるように助けて下さい。

そして、先にすべきことと、後にすべきことの区別を確かにわきまえ、その順序を間違えることがないように導いて下さい。神の御国と、その義とを先ず第一に求める生活をすることができるように助けて下さい。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!