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「恐れないで、ただ信じなさい」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 8章49節〜56節」
8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
8:51 イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。
8:52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。
8:54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
8:55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。
8:56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。




私は今日、皆さんと一緒に、『恐れないで、ただ信じなさい』と言う題目で御言葉を分かち合おうと思います。

恐れには2種類があります。「正常的な恐れ」と「非正常的な恐れ」がそれです。「正常的な恐れ」は、私たちの生存の為に絶対必要です。IMF状況の下で、経済的苦しみを恐れて節約し貯蓄する、寒い時に風邪を恐れて衣服を暖かく着て外出する事などです。また道を横切る時、自動車事故を恐れて左右を良く見る事、このような恐れは絶対必要な恐れです。このように、生きて行く為に必要な恐れがあるかと思えば、完全に非正常的で、不必要な恐れがあります。

いつも理由もなく、「癌」とかその他、重病にかかりはしないかと、いつも恐れる事がそれです。或いは、突然不幸に遭って会社が倒産し、家庭に大きな患難が襲って来はしないだろうか、または、人たちから見捨てられ、愛されなくなるのではないか…等々、理由がない恐れがあります。このような恐怖は、とても破壊的です。聖書「ヨハネの手紙 第一 4章18節」に、『恐れには刑罰が伴っている…。』と記録されています。この意味は、「非正常的な恐れには、その恐れる事が実現になり刑罰を受けるようになる。」と言うことです。ですから「恐れ」は、そのまま放置する訳にはいかない恐ろしい「悪」になります。




第一、旧約聖書の中で「恐れた人たち」

先ず第1に、旧約聖書の中で「恐れた人たち」の姿を調べて見ましょう。最も代表的なのが、ヨブの体験です。ヨブは、信仰人格が立派な人でありました。「ヨブ記 1章 1節」を見ますと、『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。』と記しています。このような聖徒であれば、こんにちも最高の信者だと言えます。そしてヨブは、神様から祝福されて富豪でありました。「ヨブ記 1章 2節〜3節」に、『彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。』と記録されています。

ところが、ヨブに悲劇が襲って参りました。ある日、瞬間的に子供たちと財産をすべて失ってしまいました。体は、不治の病気にかかり、家からは追い出された状況に置かれてしまいました。何故、このような出来事が起こったのでしょうか?

「ヨブ記」の内容を見ますと、悪魔が神様の前に来てヨブを讒訴し、その結果、ヨブを打って、ヨブの身代を潰し身を滅ぼしました。何故、悪魔がヨブを神様の前で讒訴して、ヨブが滅ぶようにしたでしょうか?そこには、ヨブの告白がありました。「ヨブ記 3章25節〜26節」を見ましょう。『私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。』

ヨブは、あれほどまで神様のお恵みと祝福を受けて暮らしながらも、いつも、心の中で人知れず怯え、恐れていたのです。自分が、いつか、子供たちを失い、財産もなくして、そして不治の病気にかかり、外に追い出されるかも知れない…と言う、身の毛がよだつ恐れにおののいていました。その恐れおののきは、神様が与えたものではありません。

悪魔が、ヨブを破滅させる前に、先ずその心に理由もない恐れを植え付けたのです。悪魔がヨブの心に恐れを植え付けて上げて、その恐れによって心が否定的になり、おののいている時に、悪魔はヨブを神様の前に讒訴したのです。ですから皆さん、恐れは私たちを破滅させる刑罰をもたらす、と言う事を知ることができます。

イスラエルの民たちがエジプトを出て、「カデシュ・バルネア」に来た時、12人の偵察隊員を40日40夜「カナンの地」を偵察するように派遣した事実を、皆さんは良く知っておられます。その中の10人の偵察隊員は恐れでおののき震えていました。彼らは、恐れの目で見、恐れの耳で聞き、恐れながらすべてを偵察しました。その結果、彼らは悪魔の策略に引っ掛かってしまいました。

「申命記 1章28節〜33節」を見ますと、『私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、「その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。」と言って、私たちの心をくじいた。それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」』と記しています。

モ−セがこの世を去る前に、イスラエルの民たちに残した講演の内容です。イスラエルの民たちは、10人の偵察隊員の報告を聞いて、恐れ、おののき、彼らは皆、気落ちしてしまいました。その結果、彼らには禍がふりかかりました。恐れた事が臨み、怯えた事が実現したのです。彼らは、カナンの地に入る事ができずに、広野で40年間さ迷いながら、皆死んでしまいました。

しかし、強く雄々しく、大胆であったヨシュアとカレブをご覧下さい。彼らには恐れがありませんでした。「民数記 14章 9節」に、『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』と記されています。

その二人は断言しました。「恐れるな。神様が私たちと共に居られるのだ。何故恐れるのか。恐れてはならない!」 ヨシュアとカレブの胸の中には、神様に対する信仰が満ち溢れており、環境を見て恐れませんでした。その結果、彼らは恐れの奴隷にならず、恐れの策略に引っ掛かる事がなかったのです。

私たちの心の中に近寄ってくる「恐れ」と言うものは、私たちを盗み、殺し、滅亡させる悪魔の手招きである事を知らなければなりません。悪魔は、私たちに恐れを植え付け、心が否定的になるようにし、信仰を奪ってから、神様に私たちを讒訴するのです。そして悪魔は、私たちの恐れたものが私たちを襲い、私たちの怯えたものが私たちの身にふりかかるようにするのです。この悪魔の罠を私たちは、はっきりと知り、極力対抗しなければなりません。




第二、新約聖書の中で「恐れた人たち」

2番目に、新約聖書の中での「恐れた人たち」を、調べて見ましょう。

会堂管理者ヤイロの娘が、病気で死にかけていました。余りにもかわいらしく、とても愛していた娘の事なので、ヤイロは心が痛く、悲しみにたえられませんでした。それで、イエス様を訪ねて参りました。ユダヤ人の会堂管理者ともあろう者が、当時ユダヤ教では異端として烙印を押したイエス様を訪ねると言う事は、自分の全運命を投げ捨てた行動です。その会堂管理者がイエス・キリストを訪ねて来て、その前にひれ伏し、懇願して、イエスを自分の家に招いたと言う事が知られたら、そのままでは済みません。それにも拘わらず、ヤイロは愛する娘が死にかけていたので、自分の地位や名誉や権勢や運命などは意にかけずに、イエス様を訪ねて参りました。

彼は、群衆が集っている所でイエス様の前に来てひれ伏し、切に懇願しました。「私の娘が死にかけています。家に来て、娘に手を置いて治して下さい。」 それで、イエス様が会堂管理者ヤイロと共に彼の家に行く途中、その家から人が来て泣きながら、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(ルカの福音書 8章49節)と告げました。それを聞いて、ヤイロは心臓が止まるような思いでした。

その時、イエス様が言われました。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』(ルカの福音書 8章50節)これはどんなに重大な御言葉でしょうか。恐れないで、ただ信じさえすれば、あなたの娘は直ります。しかし、恐れて信仰を捨てれば、あなたの娘は死にます…。ただ信じさえすれば、イエス様が同行して下さって娘は助かりますが、恐れて信仰を放棄したら、悪魔の意のままになります。簡単な論理です。

「信仰」の反対は「恐れ」です。「恐れ」には刑罰が伴います。「恐れ」は悪魔の道具です。「信仰」は神様の道具です。神様は、『出来るものなら、と言うのか。信じる者には、どんな事でもできるのです。あなたの信仰とおりになります。』と言われました。ですから、信仰がどんなに重要であるか、言葉では言い尽くせません。『信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについての御言葉によるのです。』

この会堂管理者ヤイロは、イエス・キリストの言われることを聞いて心を整理し、信仰を堅持した結果、主は、会堂管理者と共にその家に入り、ペテロとヤコブとヨハネを連れて部屋に入られ、死んだ娘の手を取って、『子どもよ。起きなさい。』(ルカの福音書 8章54節)と言われました。すると、死んだ娘が直ちに起き上がりました。奇跡が起こったのです。信仰にはキリストが共に居て下さって、奇跡がほどこされるのです。

皆さん!「マタイの福音書 14章25節〜33節」を見ますと、ペテロが水の上を歩いて行く途中、恐がって、水に溺れた事件が記録されています。『夜中の三時ごろ、イエス様は湖の上を歩いて、彼ら(弟子たち)のところに行かれました。』 弟子たちは、湖を船を漕ぎながら渡る途中でありましたが、風が向かい風であり波が高いのでとても疲労し、悩んでいました。その時、イエス様が湖の上を歩いて来られたのです。

弟子たちは、イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり叫び声を上げました。その時、イエス様はすぐに彼らに話しかけて、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われました。すると、ペテロが答えて言いました「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」』(マタイの福音書 15章28節)

これは、大胆な信仰の告白です。主が、『来なさい。』と言われるや、ペテロは信じました。信じて舟から出て、夜の湖の上を歩いて行きました。奇跡が起こりました。信仰にはいつも奇跡がを伴います。ペテロが、その環境を見ながらも恐れずに、信じて船から出て行った時、主が共にいて下さったので水の上を歩いて主に向かって行きました。ところが、途中で一陣の暴風が彼の顔に吹き付けるや、瞬間、恐くなりました。主を見詰めていた目が、暴風と荒波を見て恐くなったので、ペテロは水に溺れてしまいました。

信仰と確信が彼を主と連結させましたが、信仰を失うや、直ちに神様の能力は消え去ってしまいました。次の瞬間、盗み、殺し、滅亡させる破壊的勢力が、彼を水の中に引きずり下ろしました。水に溺れたら死ぬのです。歩いて行けば生き、溺れたら死にます。信仰は水の上を歩いて行くようにし、信仰を失った恐れは水に溺れるようにします。主が私たちと共にいて下されば、人生の波の上を歩いて行けますが、主に対する信仰を失ったら、人生の波の下に溺れ込んでしまうのです。私たちがイエス・キリストを信じたら、IMFの荒波の上を歩いて行けますが、イエス様への信仰を捨て恐れたら、IMFの荒波の下に溺れ込んでしまうのです。信じるか、信じないかは、私たちの運命の岐路です。

イエス様の弟子たちをご覧下さい。3年半の間、イエス様に従い回りながら、色々と愛していただきました。そして、主のすべての奇しきみわざと奇蹟を目で見、耳で聞き、直接体験した人たちでありましたが、イエス様がゲッセマネの丘で、ユダヤ人たちとロ−マ軍人たちに捕らえられて行かれる時、弟子たちは皆、イエス様を捨てて逃げてしまいました。何故だったでしょうか。恐れたからでありました。彼らの心に恐れが入るや、イエス様に従っていた忠誠心をすべて失ってしまって、皆、四方八方に散らばってしまいました。

恐れは、私たちも主に背くようにします。立派にイエス様を信じ、祈りも熱心にし、忠実を尽くすように見える人も、その心の中に恐れが入って来たら、イエス様を捨てて逃げた弟子たちのように、人たちは皆主を捨てて逃げてしまいます。恐れとは、それ程に恐ろしい悪魔の道具なのです。




第三、恐れに勝つ為には

第3番目に、私たちが恐れに勝つ為には、どうしなければならないでしょうか。恐れは近寄って来ます。ある人たちは恐れを克服して暮らし、ある人たちは恐れの奴隷になり、刑罰を受けて破壊された暮らしをします。恐れに勝つためには、恐れよりもっと偉大な神様を信じなければなりません。全知全能でいたる所におられる神様を信じない事には、恐れに勝つ事はできません。

昔、私が田舎で小学校に通っていた時、家族たちは釜山に引越しして、私はお祖父さん、お祖母さんと一緒に暮らしました。私が学校から家に来るまでには、あぜ道を通り、山すその傾斜面を歩かなければならなかったのですが、そこは鬱蒼とした林があり、道の両側には共同墓地もあって、薄暗くなったらとても恐いです。当時の私は、神様もイエス様も知らない時でありました。

日暮れまで勉強してから、暗くなって家に帰る時には、いつも身の毛がよだつ思いで足早に歩きました。お祖母さんは年寄りなので、何の力もありません。しかし、そのお祖母さんがいつも私が帰る頃になると、家から相当離れている山の頂まで迎えに出て来て、「ヨンギ(繩)かーい。来るのかー!」と叫んでくれました。そのお祖母さんの声を聞いただけで、私の心の中には喜びが満ち溢れ、勇気が出ました。何故なら、私一人よりはお祖母さんが居てくれたら、万が一、狐や狼が来ても襲いかかることはないだろうと思われ、お祖母さんのお蔭で恐さが消え去ります。ましてや、天と地と世界とその中のすべてを造られた神様が居られる事を知り、その神様に拠り頼んだら、恐れは一つの道から来て、七つの道から逃げ去ってしまうのです。

「マタイの福音書 10章28節〜31節」に、『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。又、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』と記されています。雀さえ顧みられる神様が、私たちを顧みない事があるでしょうか。

ですから、神様を知り、神様の愛がイエス・キリストにあって私たちに現れる事を知ったら、私たちは心の中に平安を持つ事ができます。何故なら、神様は実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛されました。そのイエス・キリストを受け入れると言う事は、神様の愛を受け入れる事だからです。神様の愛が私たちの心の中に満ち溢れたら、恐れは去ります。

「ヨハネの手紙 第一 4章18節」に、『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』とあります。ご覧下さい。神様から溢れ出る愛が私たちに満ち溢れたら、恐れを締め出すと言われました。イエス・キリストにあって神様の愛が私たちに注がれたら、恐れは私たちから締め出されます。恐れは刑罰を伴います。恐れは必ず恐れに該当する刑罰をもたらすのです。ですから、私たちはキリストにあつて神様の愛に拠り頼み、私たちの心が常に恐れから解放されていなければなりません。

「ローマ人への手紙 8章33節〜39節」の御言葉を聞いて下さい。『神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたの為に、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてある通りです。しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべての事の中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。』

イエス様にあって現れた神様の愛の綱から、私たちを引き離す力は宇宙の中にはないと言うのです。イエス様を迎え入れ、イエス様を愛するその人は、神様の愛から切り離される事がないと言うのです。イエス様のほかには、神様の愛がありません。イエス様は、言葉では言い尽くせない神様の愛をもって私たちを支えておられるのです。

そして、私たちが御言葉と祈りを通して神様と交わる時、私たちの心から恐れは去ります。私たちが御言葉を読み、絶えず祈ったら、神様との交わりによって大胆になります。

「ヨシュア記 1章 5節〜9節」の御言葉です。『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄える為である。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちに記されているすべての事を守り行なう為である。そうすれば、あなたのする事で繁栄し、また栄える事ができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」』

私たちが恐れをなくす為には、聖霊充満でなければなりません。「ゼカリヤ書 4章 6節」に、『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。』と言われました。又、「使徒の働き 1章 8節」に、『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、わたしの証人となります。」』と記されています。

ですから、私たちが聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れて、拠り頼まなければなりません。聖霊さまは私たちの心を慰めて下さり、平安を与えて下さって、恐れから解放して下さり、強く雄々しい心を持たせて下さり、私たちを助けて下さる為に、いつも私たちと共に居られます。

聖霊さまが、今ここに来ておられます。聖霊さまを認めるのでしたら、ア−メンと言いましょう! 歓迎するのでしたら、ア−メンと言いましょう! 迎え入れるのでしたら、ア−メンと言いましょう! 助け主聖霊まさが、私たちを慰めてくださるのです。私たちを慰めて下さり、心を強く雄々しくして下さり、恐れる事がないようにして下さるのです。

そして私たちが今から、恐れに打ち勝つ暮らしをする為には、肯定的な心を持たなければなりません。神様に拠り頼み、強く雄々しくならなければなりません。

西洋にこのような寓話があります。ある農夫が馬車を引いてコンスタンチノ−ブルと言う都市に入ろうとする時、誰かが無断で馬車に飛び乗りました。振り返って見ると、凶悪な鬼婆(ばばあ)でありました。「あんた、何故ここに乗った?」農夫が驚いて聞きました。するとその鬼婆が答えました。『私はコレラを持って来たんだよ。私が町の中に入って、"何人"かの命を奪って行かなければならないんだよ。』「信じられんな。"何人"かだけの命を奪うと言う事が…?」『いや、本当だよ…。』と言って、悪魔が剣を一本渡しながら、『私が"何人"か以外に、もっと多くの人の命を奪ったら、私をこの剣で刺しなよ。したら私は死ぬから。』と言うのでありました。

町に入ると、鬼婆が馬車からぱっと飛び降りました。そして何日か過ぎました。コンスタンチノ−ブルの都市にコレラが流行ったという噂が立ち、間もなく数百人が死んでいきました。それでこの農夫が怒って、その剣を手にして鬼婆を探して駆け回り、ようやく居所を突き止めて、「お前が"何人"かだけを連れて行くと言ったくせに、数百人が死んだぜ。この剣を受けろ!」と一喝したところ、その鬼婆が平然として言いました。『私が殺したのは"何人"しかないよ。他の人たちは勝手に恐れて、死んでしまったんだよ。私が殺したのは本当に"何人"かしかないんだ。みんな噂を聞いて恐れて死んでしまったじゃないかよ。』

皆さん、第二次世界大戦当時、ドイツや日本と戦争したアメリカの将兵のうち、戦場で死んだ人は30万人でありました。ところが、その若者たちを戦争に送ってから、恐怖と不安で心臓麻痺などを起こして死んだ父母兄弟は、100万人に及ぶと言われています。「恐れ」がどれほど恐ろしい結果を招くかを、私たちは知らなければなりません。また最近、医学界の発表によりますと、恐怖に恐れ慄いている人は、心臓のポンプ作用が不規則になり、弱くなって、心臓麻痺や脳卒中を起こして死ぬ確率が多くなったと言います。

ですから、私たちは神様に拠り頼み、強く雄々しく暮さなければなりません。「ヘブル人への手紙 13章 5節〜6節」の御言葉です。『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、又、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』

「ヘブル人への手紙 10章37節〜38節」に、『「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなる事はない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」』と記録されています。恐れ退かずに、強く雄々しく暮さなければなりません。恐れは、心に侵入して来る悪魔の手段です。これをそのままにしておけば、悪魔は、私たちの人生を盗み、殺し、滅亡させます。

私たちは主イエス様の十字架のお恵みに与って、強く雄々しく大胆に、恐れを追い出し、信仰を持って暮らさなければなりません。そうする時、主が私たちと共に居られて、私たちがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るようにして下さるのです。大小を問わずに、私たちの心に近寄って来る恐れを、皆さん、受け入れてはなりません。恐れには刑罰が伴うからです。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! こんにち、私たちの社会は経済的危機により、恐れが拡散しています。使用者も労働者もみな、その心の中に恐れがあり、一般市民の心にも恐れが浸透しております。天のお父様! 恐れが私たちを破壊し、恐れの故に、私たちが強く雄々しく大胆である事ができず、萎縮しています。

主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。すべての方たちが益々はっきりとイエス様を信じ、神様のお喜びに与かる事ができるように助けて下さい。私たちが心から主に拠り頼み、強く雄々しく大胆な信仰をもって、もっと熱く祈れるように導いて下さい。

そして、全知全能なる神様! 私たちの祈りを聞き叶えて下さり、私たちといつも共に居てください。私たちは、主がその右手の御力で私たちを支えて下さる事によって、私たちはすべての困難を克服し、勝利の生活を営む事ができます。天の父なる神様! 何事も恐れず、驚かず、ただ神様を信じ、拠り頼む私たちとなるように助けて下さい。

「死」それ自体も、私たちには恐れの対象にはなりません。イエス様が、死なれてから三日目によみがえられたからです。キリストのうちに恐れは無く、ひとえに神様の愛が恐れを締め出して下さる事を信じ、感謝しながら、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!