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「むなしい働き」
 






■聖書箇所

「詩篇 127篇 1節〜2節」
127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。




私は、今日、皆さんと一緒に『むなしい働き』と言う題目で御言葉を分かち合おうと思います。

農夫が、汗水流しながら働いて農作しましたが、実りの時期に旱魃や洪水に遭って何も得られなかったとしたら、農夫の一夏中の苦労は「むなしい」ものになってしまいます。

事業家が、夜もろくに眠らずに働き、苦労しながら会社を発展・成長させましたが、突然襲って来た不景気により会社が不渡りを出したら、その間の働きや苦労が「むなしい」ものになってしまいます。

この世を暮して行きながら、私たちが体験して良く知っている事ですが、人がいくら苦労し、熱心に働いたとしても、それが必ず成功すると言う事はありません。「箴言 16章 1節」に、『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。』と言われ、「箴言 16章 9節」には、『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』と記されています。神様のお恵み、神様の祝福がない事には、人間のすべての苦労が「むなしく」なるのです。




第一、『主が家を建てるのでなければ…むなしい。』

第1に、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』と言われました。皆さん! 天地万物を造られた主である神様は、家を建てられる神様なのです。私たちの神様は、「宇宙」と言う家を自ら建てられました。「創世記 1章 1節」に、『初めに、神が天と地を創造した。』と記録されています。

宇宙は、神様が住んでおられ、活動しておられる「家」です。そして万物は、神様が親しく造られました。「エデンの楽園」は、神様が親しく建てられた家です。主は、アダムとエバのためにすべてを備えられ、不足することがないように建てられた「家」です。このように主は自ら、親しく家を建てられます。

「カナンの地」も、主である神様が建てられた「イスラエルの家」です。イスラエルの民たちがそこに来て神様に仕えながら暮すように、主がカナンの地を造られました。将来、私たちが入って行く「新天新地・永遠無窮の世界」も、私たちの父なる神様が建てられた「家」なのです。

皆さん! 神様は家を建てる事を願われる神様であり、家を建てて、それによって喜ばれる神様なのです。人間も、一生涯、家を建てる者たちです。この世に生まれてから、死ぬまで、いつも家を建てています。この世のすべての人たちは「家を建てる者たち」です。「創世記 2章24節」に、『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』と記録されています。人は結婚して家庭を持ち、家を建てるのです。

また人間とは、職場とか職業という経済活動の家を建てます。また、私たちが社会に出て行って社会団体を組織し、社会の中に身をおいて生きて行く家を建てていきます。そして国家と言う大きな家も建てます。「使徒の働き 17章26節」に見ますと、『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。』と記されています。神様が決められ、定められた時代と境界に従って、人たちは民族をなし、民族が暮す家である国家を建てるのです。

神様が家を建てる事を願っておられますが、こんにち歴史を通して見ますと、多くの人たちが神様を取り除いて、神様なしに人本主義・人間の力で、自分が住む家を建てて暮そうと無謀な事を仕出かしています。神様なしに「家」を建てる人たちはすべて、バベル塔の教訓を記憶しなければなりません。

ノアの洪水以後、ノアの子孫たちがシヌアルの平地に集まって、バベル塔を建て始めました。彼等は、頂きが天に届く塔を建てて、洪水が起こっても死ぬ事がなく、神様が自分たちを全地面に群がって暮せと言われたけれども、全地面に散らされる事なく一つ所で暮そう、そして名を上げよう…と心を一つにして、煉瓦を焼き、熱心にバベル塔を建てて行きました。

しかし神様は、人間が神様を取り除いて家を建てる事を許されません。『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』のです。彼等は熱心に塔を積み重ねて行きましたが、神様が降りて来られ、ご覧になられて、人間のはかりごとをくつがえしてしまわれました。彼等の言葉を混乱させられたので、協力しあう事ができず、ついにバベル塔を建てる事を止めて、言葉が通じる同族同士が集団をなして全地面に散ってしまいました。

現代史を振り返って見ましょう。ドイツが、全ヨーロッパを武力で統一して、ドイツが支配する「国家・家」を建てようとしました。神様を無視して、勝手に武力で「ヨーロッパを統一」して自分たちが支配しようとしましたが、そのドイツは滅び、凄惨な結果を招いてしまいました。

また日本も、大東亜共栄圏と言って、東南アジア全地を手に入れて勝手に支配しようとしました。しかし、神様を取り除いた日本の計画は崩れてしまいました。その後日本は、蟻のように、蜜蜂のように勤勉に働き、相当な金持ちの国になったと思いましたが、神様が共に居られず、天の御国の「十分の一」を差し上げなかった結果、今は世界屈指の債務国に転落する現実を迎えました。

そして、ソ連共産主義をご覧下さい。マルクス・レーニン主義を中心にして、ソ連は地球全体を共産主義で支配しようとしました。神様なしに、神様を取り除いて共産主義と言う理論の家を建てようとしましたが、彼等は70年目に惨めに崩壊してしまい、共産主義同盟国家に属した各国民を貧困と飢えで塗炭の苦しみに追い込みました。

神様がおられると言うことを知らず、神様を除き、神様に背を向けて国家と言う家をいくら建てようとしても、建てる者の働きは結局むなしくなってしまった事実を、歴史を通して私たちは知る事ができます。聖書は言われます『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水溜を、水をためる事のできない、壊れた水溜を、自分たちの為に掘ったのだ。』神様を離れて、人間がいくら水溜を掘っても、それは壊れた水溜なので水をためる事ができません。

皆さん! 私たちが人生を正しく暮すためには、神様と共に家を建てなければならないのです。神様は、家を建てようと願っておられます。神様は、家を建てるのが楽しいのです。ですから私たちの生涯を神様にお委ねして、神様と共に家を建てなければなりません。

「イザヤ書 64章 8節」に、『主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。』と記されています。神様の御手にお委ねしておけば、陶器師が粘土で美しい器を作り出すように、神様が私たちの人生を美しく、幸福にして下さるのです。

私たちの家庭という家も見ましょう。神様が私たちと共におられて家庭を造ってくださったら、夫婦が互いに愛し、父母と子たちが尊敬と幸福で美しい家庭になる事ができます。その家庭が心から神様に仕え、神の御国とその義とを先ず第一に求めれば、神様がすべてを増し加えてくださって、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、いのちを得るにしても豊かに得る、そのような家庭にして下さるのです。

「詩篇 115篇14節〜15節」に、『主があなたがたを増やしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。』と記されています。

また「申命記 28章 2節〜6節」を見ますと、『あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』と言われました。

皆さん! 職業とか事業と言う家もまた、神様と一緒に建てなければなりません。神様を除いて自分で就職し、神様を取り除いて自分勝手に事業を始めるとしたら、それはむなしいものになってしまいます。悲しみと苦しみだけが残ります。しかし神様が共にいて下さり、神の国とその義とを先ず第1に求め、そして職業や事業を通して先ず、主の日を覚えて聖く守り、十分の一を盗まず、神様に栄光と賛美を捧げる、そのような職業や事業をしたら、神様がお恵みと愛と財宝を与えて下さいます。

「箴言 13章22節」に、『善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者の為にたくわえられる。』と記されています。私たちが主に仕える善良な人になれば、子孫に譲りの地を残すことができるように、神様が祝福とお恵みを与えて下さると言うのです。神様が「同業者」になって下さるのですから、皆さん、失敗する事があるでしょうか。神様が「同業者」になって下されば、成功するしかありません。

また、民族とか国家と言う家も、神様と一緒に建てなければなりません。民族と国家の中に、神様が共にいて下さってこそ、義と平安と喜びがそこにあり、信仰、希望、愛が満たされるようになるのです。神様が共にいて下されなければ、正義が去り、真実がなくなり、不正腐敗が湧き起こり、結局は国と民族が滅ぶようになるのです。

「申命記 15章 4節〜6節」に、『そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。』と言われました。

民族と国家が神様と共に建てられたら、神様の祝福が臨んで貧しい人がなくなり、多くの国々に貸すことはあっても、借りることはないのです。こんにち何故、私たちがIMFの寒波に会ったのでしょうか? 我が民族が神様に背を向け、神様を無視し、生意気だったので、このような困難な目に会うのです。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしいのです。

私たちは、毎日こう祈らなければなりません。「父なる神様! 私たちと一緒に私たちの家庭を建てて下さい。」「天のお父さま! 一緒に職場・事業を運営して下さい。」「主と共に暮す我が国家・民族となるようにして下さい…!」 神様に背を向けて捨てられる悲惨な目に会い、働きがむなしくなるような愚をおかしてはなりません。




第二、『主が町を守るのでなければ…むなしい。』

2番目に、聖書には、『主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。』と記されています。守る者がいくら見張っていても、神様が守って下さらなければ、いつ崩れるか知れません。

巨大な帝国バビロンをご覧下さい。当時は、バビロンより強い国がありませんでした。ネブカデネザル王が建てて、天下に号令したバビロンでありました。その子ベルシャツァル王の時代に、富貴栄華が極に達しました。ベルシャツァル王は数多い軍隊を動員してバビロンを鉄壁のように守り、そして貴人たち千人を招いて大宴会を催す途中、「父ネブカデネザル王がエルサレム王宮から奪ってきた、金、銀の器を持って来い。」と命令しました。

ここにいるすべての王たち、貴人たち、王妃も、そのそばめたちも、それで一緒に酒を飲もう、と言い出したのです。彼らは、神様の神殿から奪ってきた金、銀の器、神様にお供え物を捧げたその器で酒を飲み始めました。そして自分たちが作った金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。

すると突然、人間の指が現われて燭台の向こう側の所に物を書き始めました。物を書く手の先を見るや、人たちは皆怯え上がってしまいました。ベルシャツァル王もひどく怯えて、腰が抜けそうになりました。王は国中の呪文師、星占い、すべての知者たちを早速呼び寄せて、その書かれている物を読むように命じましたが、誰も読めず、解釈する事もできません。

その時、王の母が来て、「王よ。あなたの父上の時代、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあるダニエルと言う人がいました。その人は今も生きています。その人を召して下さい。そうすれば彼が解き明かしを致しましょう。」と言いました。それでダニエルが連れて来られました。ダニエルがその文字を見て、解釈しました。

『その書かれた文字はこうです。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」と言うことです。「メネ」とは、神様が王の治世を数えて終わらせた、と言うことです。「テケル」とは、王が量りで量られて目方の足りないことがわかった、と言うことです。「ウ・パルシン」は、王の国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる、と言うことです。』

ベルシャツァル王が自分の富貴栄華の極致を誇り、自分の強力な軍隊をバビロン全国に配置して守備するようにしましたが、彼が神様を無視し、蔑視する行ないをするや、神様はその国が滅ぶようになさいました。その夜、ベルシャツァル王は殺され、バビロンの国はメディヤとペルシヤに分かれました。

皆さん! 歴史的に見ても、主が守るのでなければ、いくら鉄壁の城であり、強力な軍隊が守っているとしても、結果はむなしいものです。北朝鮮が、いくら原子爆弾やミサイルを生産して私たちを撲滅しようとしても、神様が私たちと共におられ、神様が守って下されば、そのミサイル等は一発も発射することができません。神様が私たちを守って下さるのです。

人たちには、守る城がたくさんあります。健康の城、地位と名誉の城…等を守ろうとするのです。しかし神様が守って下さるのでなければ、人間の健康も色々な病気で崩れてしまいます。地位、名誉…が弊履のようになるのを、こんにち私たちはTV、新聞、ラジオを通して見ています。前職高官たちが落ち葉のように散り、羞恥と困却に会うのを見ます。

ずっと前の事ですが、ある立派な御仁がキリスト教の放送局で、このような話をしました。マイクを前にして、「皆さん、私が皆さんに長寿する秘訣をご披露させていただきます…。」と言って、倒れてしまいました。奇怪なこともあったものです。その方はマイクを手にしたまま、その場で息を引き取ってしまいました。『あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。』『あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。』

職業と財産もそうです。神様が守って下さるのでなければ、人が守ろうとするのでは、それ等もむなしいものです。皆さん! 韓国の30大財閥のうち、今回のIMFを通して11個の財閥が消え去ってしまったのです。あんなにも堂々と競い合っていた11の財閥が、そのまま跡形もなくなってしまいました。神様が守って下さるのでなければ、財閥と言う城も一瞬間に崩れてしまうのです。

「伝道者の書 5章13節〜16節」の御言葉です。『私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。母の胎から出て来た時のように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来た時と全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。』

家庭も同様です。家庭も神様が守って下さるのでなければ、むなしいものです。神様なしに、人間の力でたくさん稼いで妻にお金をどっさり持って行って上げる、子供たちにお小遣いを充分に与えたらそれで「良し」と思うのですが、それは不正と腐敗、挫折と絶望をもたらすだけです。神様が守って下さるのであれば、義人の貧乏が金持ちの財宝よりましなのです。まことの幸福があってこそ、意味があります。幸福が伴わない財宝や地位や名誉は、何の価値もありません。

国家も、神様が守って下さるのでなければ、人間が築いた城であっては崩れ去ってしまうのです。我が国・大韓民国が「6.25朝鮮戦争」以後、今まで数限りなく北朝鮮の侵攻に会ったかも知れない「隙」がありました。それにも拘らず、神様が守って下さったのでこんにち私たちが暮しているのです。私たちが、私たちの政治や、私たちの社会を信じたのであったら、とっくに崩壊したでしょう。神様が守って下さったのです。

神様が守る城は、絶対に崩れることがありません。エリシャが「ドタン」にいる時、アラムの王がエリシャを捕らえよ、と厳命を下しました。それでアラムの馬と戦車と大軍が「ドタン」を、夜のうちに来て幾重にも包囲しました。エリシャの召使が、朝起きて外に出て見ると、何と、馬と戦車の大軍が「ドタン」全域を完全に包囲しており、敵陣の旗幟が無数に天に聳え、はためいておりました。

魂消てしまったその若い者が家の中に飛び込んで入り、エリシャに「ああ、ご主人さま、どうしたらよいのでしょう。もう私たちは殺されました…。」と泣きながら報告した時、エリシャは、『恐れるな。私たちと共にいる者は、彼等と共にいる者より多いのだから。』と召使を鎮静させて、神様に祈りました。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにして下さい。』すると、主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、何と、アラムの大軍勢とエリシャの間には、神様が遣わされた火の馬と戦車がいっぱい満ちていました。

皆さん! 神様は、私たちを助けるために天にいる天使たちをいつでも送って下さることができるのです。ですから、私たちが神様に拠り頼めば、神様は天にいる天軍・天使たちを私たちに遣わして下さいます。救われた私たちを助けるためなのです。

こんにち、私たちがイエス様に拠り頼んだら、皆さんと私を守る「見張り」が十字架を通して来ます。十字架から赦しと義の見張りが飛んできて、私たちを守ってくれます。天の御国と聖霊の見張りが下ってきて、私たちを取り囲んで守ってくれます。喜びの見張りがきて、私たちの心を喜びで守り、健康の見張りがきて、癒しと健康で守り、祝福とお恵みの見張りが降りて来て、私たちをアブラハムへの祝福とイエス・キリストのお恵みで守ってくれます。又、復活と天国の見張りが来て、死から私たちを救い出してくれるのです。

私たちがイエス・キリストを信じ、拠り頼んだら、十字架の上で身を裂き、血を流されながら主が私たちに与えて下さったそのお恵みの見張りたちが降りて来て、私たちの霊とたましいと体を守ってくれるのです。




第三、「愛する者には、眠りを与えて下さいます。」

第3番目に、『愛する者には、眠りを与えられる。』と言われました。私たちが神様なしに、『早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。』と言われました。しかし主と共に家を建て、主と共に町を守る人には、神様が眠りを与えて下さいます。眠りは、平安と休息を意味するのです。

「詩篇 116篇 7節〜8節」に、『私のたましいよ。お前の全きいこいに戻れ。主はお前に、良くして下さったからだ。まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。』と記されています。神様を「父」と呼ぶ人には、平安が満ち溢れます。神様は全知全能であられます。この神様が父となられて、私たちを顧みておられるのですから、私たちは平安であるしかありません。

「詩篇 90篇 1節〜2節」に、『主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。』と言われました。この神様が私たちの住いとなられ、私たちの父となられ、私たちは神様が顧みられる「子」になったのですから、私たちは心の中に平安を持つしかないのです。

それだけではありません。イエス様を救い主として受け入れた人には、平安が溢れます。イエス様は、神様の愛の御手です。神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。「ひとり子イエス様」はまさに神様の御手なのです。イエス様を救い主として受け入れた人は、神様の愛を受け入れた人です。神様の愛が私たちと共にいたら、その神様の限りない愛が私たちを守り、顧み、保護して下さいます。

「ヨハネの福音書 17章26節」に、『そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。』と言われました。イエス・キリストを愛された神様の愛が、イエス様を信じる人たちの中に臨んでおり、イエス様も私たちと共におられるためである、と言われたのです。

「ピリピ人への手紙 4章 6節〜7節」に、『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』と言われました。父なる神様とイエス・キリストに拠り頼み、神の国とその義とを先ず第一に求めながら暮らす人たちには、神様がその心の中に溢れる平安と、休息と、眠りを与えて下さいます。

神様が私たちと共におられたら、誰が私たちに敵対できるでしょう。私たちのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んで下さらないことがあるでしょうか? ですから皆さん! 神の国とその義とを第一に求めながら、強く雄々しく大胆に神様に拠り頼んで下さい。

すべての人たちは、家を建てる人たちです。すべての人たちは、町を守る人たちです。神様と共に家を建て、神様と共に町を守るときだけ、平安に眠ることができ、平安に人生を暮して行くことができるのです。

ですから、私たちはいつも、こう祈らなければなりません。「主よ! 私個人も、家庭も、職業及び社会生活の家も、神様と共に建てることができるように助けて下さい。父なる神様! 私の家庭、事業、生活…すべてを守って下さい。我が国も神様が守って下さい…。」

主である神様に拠り頼めば、神様が私たちを顧みて下さるのです。『あなたがたの思い煩いを、一切神に委ねなさい。神があなたがたの事を心配して下さるからです。』と言われました。神様が全知全能・無所不在なる御力で顧みて下さったら、私たちは平安に暮して行けるのです。

無神論者の愚に従ってはいけません。高慢な者の高慢を追って行ってはいけません。私たちは、ひとえにイエス様にあって「万軍の主・私たちの父なる神様」に仕えながら、神様を讃美し、神様に感謝し、神様の栄光のために生きるようになる時、神様も私たちのためにみわざを働かして下さるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられ、栄光であられる、我が父なる神様! 神様は、家を建てる事を願われ、町を守る事を願われ、さらに、私たちに平安を与えようと願っておられる神様であられます。神様の前に、私たちは伏し拝み、お祈り申し上げます。私たちの「人生の家」を主が共に建てて下さい。私たちの「人生の道」を主が共に居られて守って下さい。私たちに、満ち溢れる平安を与えて下さい。

天地と万物を造られた、万軍の主である我が神様! 主は私たちの神様であられ、私たちのお父さまです。私たちの主・イエス様を通して、私たちを罪から救い出して下さいました。私たちをみな受け容れて下さり、私たちの人生の家を守って下さい。私たちの中に神様の祝福と平安を満たして下さり、神様の栄光が溢れる暮しをするように助けて下さい。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!