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「歓喜と苦難」
 






■聖書箇所

「ヘブル人への手紙 12章 1節〜2節」
12: 1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12: 2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。




私は今日、皆さんと一緒に、「歓喜と苦難」という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

皆さんの周囲に居られる人の中で、よく笑い、楽天的な生活をしている方たちをご覧下さい。そのような方たちは、困難な出来事に遭遇しても立派に克服して行くことができます。

それとは反対に、なかなか笑わず、憂鬱になりがちで、悲観的な人生観を持っている人は、容易に苦難を克服することができません。

心の歓喜は、苦難を克服する力になるのです。生活が苦しく難しかしいほど、心に喜びが満ちるように度々、楽しく嬉しい機会をつくらなければなりません。心の歓喜以外に、生活の苦難を克服する「良い藥」はほかにありません。

IMF統治により、個人、社会、国家が憂鬱であるほど、私たちは喜びを得る事ができる道を開かなければなりません。心に喜びがあるなら、すべての苦難に打ち勝つ事ができる力が、私たちの中に生じるようになるのです。




第一、イエス様の歓喜体験と苦難に対する勝利

聖書に、イエス様の歓喜体験と苦難に対する勝利の記録があります。イエス様が、30歳になられた時、ヨルダン川に行かれて「バプテスマのヨハネ」から水のバプテスマを受けられました。そして水から上がられる時、天が開かれ、大勢の人たちが見ている前で、神の御霊が鳩のように下って来てイエス様の上にとどまり、イエス様が聖霊で充満になられました。

その時、天からこう告げる声が聞こえて来ました。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』 

イエス様は、この体験を通して、たましいの中に言い尽くせない恍惚感を感じられました。大いなる喜びを、心の中に受け入れられました。イエス様は、満天下の人々の前で神様から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』という宣言を頂いたのです。

イエス様が、この心の喜びがあったので、聖霊に導かれて荒野に上って行かれ、四十日四十夜断食なさった後、悪魔からひどい試みに会われましたが、それに悠々と勝つことができました。何故かと言えば、神様に会われたその驚くべき喜びの体験がイエス様の霊を捕らえていたからです。神様の御子イエス様さえも、ヨルダン川で体験したその驚くべき歓喜が、すべての試練に勝つことができる大きな力となったのです。

皆さん! イエス様が十字架を背負われ、苦難に立派に勝たれた事をみて、私たちは感嘆します。しかし、イエス様が十字架を背負われる前に、神様に会われた言い尽くせない歓喜の体験をなさった事実を、私たちは知らずに見逃しています。

イエス様が、最後にエルサレムに向かって行かれる途中、弟子たちの中からペテロとヤコブとヨハネとを連れて山の上に登られました。そして、そこで祈られました。その時、弟子たちが見ると、イエス様の御姿が変わりました。御顔は太陽のように輝き、非常に白く光る御衣は、世のさらし屋ではとてもできないほどの白さでありました。

そして、そのイエス様のそばに、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤが現われて、イエス様と話し合っているのが見えました。弟子たちは驚いてしまいました。モーセとエリヤは、イエス様に報告をしていました。イエス様がエルサレムに上られ、神様の御心に従って十字架に釘付けられて、身を裂き、血を流して死なれる事によって人類を救われる事と、三日目にはよみがえられる事を報告していたのです。

これを見た弟子たちは、非常に驚きました。そこでペテロが、イエス様に申し上げました。「先生。ここにいる事は、素晴らしい事です。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたの為に一つ、モーセの為に一つ、エリヤの為に一つ…。」その時、雲がわき起こってその人々をおおいました。彼らは雲に包まれるや、恐ろしくなって震えだしました。

すると、雲の中から声が聞こえて来ました。『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。』 そうして、瞬く間に雲はなくなり、モーセとエリヤも見えなくなり、イエス様だけがそこに居られました。

イエス様は、ここでもう一度、父なる神様から驚くほどの恵みを頂き、言い尽くせない歓喜を体験なさいました。天と地が創造される前に神様と共に居られた当時の御姿に変化される体験もなさり、モーセとエリヤが来て申し上げた報告も聞かれ、神様が更にまた、弟子たちに『…彼の言うことを聞きなさい。』と言われる事を聞いた、その歓喜がイエス様の胸を熱くしました。

イエス様は、この山の頂きで父なる神様と会われたその大きな歓喜の故に、エルサレムに上って行かれた後、弟子たちから見捨てられ、敵の手に捕らわれてアンナスとカヤパの庭でひどい受難と苦しみに会い、ピラトの前で侮辱され嘲弄されて、結局は、十字架を背負ってガルバリの丘の上に登り、その十字架に両手両足を釘付けられ、高く架けられて、血と汗を流しながら死ぬ、極限の苦しみに会われながらも、キリストがそれらの苦難に立派に勝ち抜く事ができたのは、変貌の山の上で神様と会われたその歓喜、その大きな喜びが、主の霊の中にあったからです。

神様の御子イエス様さえも、荒野で悪魔に試みられる前には、ヨルダン川で神様から認められる驚くほどの歓喜を体験なさいました。ガルバリの十字架に架けられる前には、山の上で変貌された時、神様に会って偉大な勇気と力を得る歓喜を体験されたのです。




第二、弟子たちの歓喜体験と苦難に対する勝利

イエス様の弟子たちも、同様でありました。彼らも歓喜を体験したので、言い表わすことができない苦しみと迫害に会いながらも、キリストの福音をエルサレムとユダヤと地の果てにまで伝えることができました。

イエス様が苦難に会われた後、弟子たちの絶望は想像を絶するものでありました。彼らの期待と夢は崩れ去ってしまいました。彼らはイエス様に従い回りながら、イエス様がエルサレムに「メシヤ王国」を建てられ、ローマ統治から解放させて、彼らはイエス様と共に12の御座に座ってイスラエルを治める高官となる、との夢が心を満たし、その期待でいっぱいでありました。

ところが、イエス様が十字架に架けられて死なれるのを見てからは、その夢と期待は粉々に砕け散ってしまいました。その上に、ローマ帝国と宗教指導者たちが激しく迫害しました。イエス様を信じる人を皆、逮捕して処刑しました。それで弟子たちは、安心して出歩く事もできず、この家からあの家の地下室にと隠れ回りました。

そして彼らは、イエス様を見捨てた事で身悶えしました。ゲッセマネの丘で、イエス様がローマ軍人たちとユダヤ人たちに捕らわれる時、弟子たちはイエス様を捨ててみな逃げました。3年半の間、キリストに従いながら、共に飲み食いし、御教えを頂いた弟子たちです。絶対にキリストに背かないと誓約した彼らでありました。所がイエス様を捨てて逃げたという罪責感は、彼らに堪えられない苦しみとなって襲ってきました。

また、彼らはそのままでは故郷に戻って行くこともできません。何故かと言えば、父母妻子をみな捨てて、精神異常者のようにイエス様に心酔して全国を巡り回った彼らです。それが今になって、敗北者のようになり、手ぶらで、故郷の地を踏むにはあまりにも体面が立ちません。もう誰からも見捨てられた身の上になりました。今すぐ食べていく方法もありません。弟子たちは今後どう生きて行くべきか、どうしたらいいか、全く判断もつかなくなりました。

ところが、彼らが「マルコの屋上の間」に集まり、約10日間ほど祈っていました。五旬節の日になりました。突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こりました。見ると、互いの頭の上に炎のような分かれた舌が現われました。そして、皆が全身に電気が流れるような感じを受けました。彼らの中に聖霊が下ったのです。聖霊が導くままに彼らは、他国の言葉で話し始めました。

彼らはその出来事を通して、神様が生きておられる事と、イエス・キリストが十字架で死なれてから、三日目によみがえられた事は偶然に起こった事件ではない、と言う真理を悟りました。そして、キリストにあって永遠なる希望があると言う事実を瞬く間に悟るようになりました。弟子たちの心の中に、とても言い尽くすことができない歓喜が満ち溢れました。希望が満ち溢れました。彼らは立ち上がって踊り、声を張り上げ、嬉し涙を流しながら、泣き喚きました。

この物音に驚いて、「マルコの屋上の間」の近所に大勢の人々が集まりました。いきなり戸を開けて、ペテロがそとに飛び出ました。そして群集に向かって説教をしました。「…今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです…。」ペテロの説教を聞いて、三千人ほどが悔い改め、主のもとに立ち帰りました。

「屋上の間」で聖霊充満になった驚くべき歓喜が、彼らを、自分たちの立場は顧みずに外に出て大胆に伝道するようにしました。その後、何回も投獄され、大勢の人々の前で公開的に鞭打ちに会い、そして殆どが殉教者となりましたが、誰一人キリストに背いたことはありませんでした。何故でしょうか? 五旬節の日、屋上の間で彼らが聖霊充満に与かった体験、その驚くべき歓喜が彼らの生涯を占領し、襲って来る数多い苦しみと迫害を克服して行くことができる霊的、精神的「力」となったからです。




第三、サウロが「パウロ」に変化したダマスコ途上での体験

皆さん! 使徒パウロも同じです。彼は元来「サウロ」と呼ばれた人物です。彼は熱心なユダヤ教徒でありました。彼は、イエスを信じる人は男女を問わずに、殺意を持ってどこまでも追跡して捕らえ、投獄しました。ステパノを石で打ち殺すときも、彼が指図しました。

パウロは大祭司から許可を受けて、隣国のダマスコに避難中のクリスチャンたちを見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るために、馬に乗り従者たちを連れてダマスコ近くまで来た時、突然、太陽よりももっと明るい天からの光が彼を巡り照らしました。余りにも眩しいので、彼は馬から落ちて地に倒れました。

その時、天から声が聞こえて来ました。『サウロ、サウロ。何故わたしを迫害するのか。』サウロは考える暇もなく、聞き返しました。「あなたは、どなたですか?」すると、お答えがありました。『わたしは、あなたが迫害するイエスである…。』

この時、サウロは限りなく感激しました。何も知らずに、教会とクリスチャンたちを迫害して来たが、今になって気づいたところ、イエスがメシヤであり、神様の御子であり、神様であることを…。それで彼の人生は、ダマスコで完全に変えられました。彼の目が見えなくなっていましたが、ダマスコにいるアナニヤと言う主の弟子から按手して貰って、目が見えるようになりました。

サウロはその後、名前がパウロに改名され、彼のたましいの中にキリストに会った歓喜、恍惚感、喜びがどんなに大きかったか、彼はその時から自分の生涯を完全にキリストに委ねました。そして、いのちを懸けて教会を建て、キリストを証しする伝道者になりました。

ご存知のように、パウロは異邦の国に出て行って、数もなく鞭で打たれ、監獄にも入れられ、石で打ち殺されて死んでから生き返りもし、破船して海の上を漂いもしました。最後には、ローマで殉教しましたが、キリストに背きませんでした。パウロには、ダマスコの途上でキリストに会ったその歓喜、恍惚、その体験が、彼の一生のすべての試練、艱難、辛苦を克服する事ができる根源的「力」となったのです。




第四、私たちにも、この歓喜の体験がなければなりません。

皆さん! 私たちも、主に会ったその歓喜を体験してこそ、成功的信仰生活を送る事ができます。心の中に、神様に出会った喜びがない事には、私たちはまことの信仰生活もできず、伝道者にも、勝利者にもなれません。

それでは、主に出会った歓喜を体験するためにはどうしたら良いでしょうか。

第1番目に、喜びの源泉であられるイエス様を自分の人生の深い所に救い主として受け入れなければなりません。主は私たちの悲しみを担われました。私たちの悲しみを、十字架ですべて清算なさったのです。私たちが心からイエス・キリストを救い主として迎え入れ、キリストに出会うことによって、私たちのたましいの中に喜びの泉が湧き上がり始めます。

「詩篇 16篇 8節〜11節」の御言葉です。『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』

イエス様を信じる私たちの特性は、心の中に永遠の喜びの源泉を持っている、と言うことです。お金で買える喜びではありません。地位、名誉、権勢、この世の快楽を通して得る喜びではありません。そのような喜びは、瞬く間に消え去ります。しかしキリストの中にある喜びは、永遠に湧き上がる喜びの泉となってくれるのです。このような喜びがあってこそ、この世の苦難を克服して生きて行くことができる力を得るようになるのです。

第2番目に、御言葉と祈りを通して、絶えず主と交わらなければなりません。毎朝起きたら、先ず御言葉を読み、キリストの前にひざまずき、ひれ伏して祈らなければいけません。私たちがこの世を生きて行くなかで、心配、懸念、焦燥、苦難がちりとごみのように私たちの心に降り注ぎます。しかし祈りは、このすべてを洗い清めます。私たちの心の中に立ち込む霧や雲を、すべて取り除きます。

毎朝、御言葉を通して神様と交わり、祈りを通して心をきよくしたら、喜びが湧き上がり始めます。キリストとの交わりがある時、その心の中に絶えない喜びを体験するようになるのです。

「詩篇 119篇 2節」に、『幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。』と言われました。また、「詩篇 119篇49節〜50節」には、『どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』と記されています。私たちが聖書の御言葉を読むとき、希望が生じ、御言葉が活き活きとした生きる力を吹き込んでくれるのです。

第3番目に、もっとも大きな喜びは、聖霊充満を体験し、聖霊と交わることです。皆さん! 五旬節の日に聖霊が臨まれると、マルコの屋上の間にいた弟子たちは苦しみと挫折と絶望から解放され、爆発する喜びをもって、いのちを懸けて福音を証ししました。聖霊充満は、喜びの源泉になるのです。

こんにち、私たちの「ヨイド純福音教会」が他の教会より爆発的にリバイバルし発展する事ができるのは、皆さんが聖霊のバプテスマをいただき、聖霊が与えて下さる喜びのために堪らなくなって、隣の人々を熱心に伝道し、人々を主のもとに立ち返らせるからです。この喜びがなくてはなりません。聖霊充満にしていただくためには、神様に切に祈らなければなりません。 

「ローマ人への手紙 14章17節〜18節」に見ますと、『なぜなら、神の国は飲み食いの事ではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。』と記されています。聖霊が臨んで下さったら、私たちの心の中に義と、平和と、喜びが満ち溢れるようになります。

第4番目に、主を愛し、主に仕える時、心の中に喜びが溢れます。人が肉的に異性同士で愛し合っても、たましいを奪われます。まして神様との深い交わりの中で神様の愛を体験し、そして神様を愛するようになったら、その喜びは言い表わすことができるものではありません。

実際には、愛される時よりも、愛する時に、もっと喜びが溢れるようになります。「詩篇 91篇14節〜15節」に、『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与えよう。』と言われました。私たちが主を愛したら、神様の積極的なお助けが私たちの生活の中に現われるのです。

また「使徒の働き 20章35節」に、『…また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われた御言葉を思い出すべきこと…。』と言われています。私たちが、関心を持って上げる、心配もして上げる、祈っても上げる、愛しても上げる、助けも施して上げる…などする時、私たちに主の祝福が訪れ、私たちの心に喜びが溢れるようになるのです。

「ルカの福音書 6章38節」に『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』と記されています。

ですから皆さん! 愛するように努力する時、ご自分の心の中に喜びが溢れるようになると言う事を知って下さい。愛されようとせずに、愛するように努力する皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します!

第5番目に、他人を喜ばせる時、自分も喜ぶようになります。他人を悲しめたら、自分も悲しくなります。他人を非難し、攻撃したら、自分の心の中にも黒い雲が覆うようになります。皆さん! 他人の顔に泥を塗ろうとする時には、まず自分の手に泥を着けなければなりません。

「ピリピ人への手紙 2章 3節〜4節」に、『何事でも自己中心や虚栄からする事なく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分の事だけではなく、他の人の事も顧みなさい。』と言われました。人は、この世を利己主義的に歩むなら、その人には幸福も喜びもありません。最大限に他人を助け、他人を喜ばし、幸いを得させる時、自分にも大きな報いが臨むようになるのです。

第6番目には、私たちが主を信じ、主の祝福が注がれる事を期待しながら暮す時、心に喜びが溢れるようになります。私たちは、天と地のすべての権威を持っておられる神様を「父」として暮しているのです。私たちを愛するあまり、私たちのために十字架の上で身を裂き血を流して、私たちを贖って下さったキリストを救い主として迎え入れているのです。

このイエス・キリストを通して、神様は私たちの「実の父親」となられ、私たちは神様の「実の子供」です。この「父なる神様」が私たちと共におられ、この「父なる神様」がイエス・キリストを通して、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、更に希望を与えて下さり、恵んで下さり、祝福して下さり、永遠の神の御国まで与えて下さる、と言う事を思うとき、私たちの心の中に喜びが満ち溢れるようになるのです。

皆さん! 「ヤコブの手紙 1章17節」に、『すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』と記されています。また、「ピリピ人への手紙 4章19節」にも、『また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』と記されています。

私たちが、心の中の心配、懸念…をすべて神様に委ねることによって、喜びが訪れます。心の中に心配、懸念…などがあったら、骨を枯らしてしまいます。私たちを愛し、助けて下さる神様がおられる事を知り、その神様にすべての心配、懸念などをお委ねする時、私たちはまことの喜びを得る事ができるのです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と、主は仰せられました。主に重荷をすべてお委ねして、何も思い煩わず、心配することがない時、心に喜びがあるようになるのです。

主にあっての歓喜の体験は、人生の車輪を回転させる油です。歓喜に溢れれば、どのような苦難にも勝つことができます。イエス様は、後に来る喜びの故に十字架の苦難に会われました。

この世で得る喜びは、その後にもっと大きい悲しみを伴います。この世の喜びは、苦難に勝つ力がありません。しかし、主にあって得る喜びは、人生を勝利に導く大きな力となるのです。それで聖書は、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』と記録しているのです。

聖徒の皆さん! 「喜び」は、私たちが個人として、家庭の一員として、社会、そしてこの難しい時代を生きて行く時、「大きなエネルギー」となります。私たちの心に喜びがある以上、敗北する事はありません。また失敗する事がありません。後に退くこともありません。「喜び」は限りない力となって、私たちに希望と勇気を与えてくれます。

まことの喜びは、私たちが主イエス・キリストにあって聖霊充満である時、所有する事ができるのです。ですから皆さん! いつも、「愛であられる神様! 聖霊充満になるようにして下さい。」「いつも主にあって喜ぶようにして下さい。」「喜びの暴雨に会うようにして下さい。」「喜びで充満になるようにして下さい。」…と祈って下さい。

すべての聖徒さんたちが、神様に喜びを与えて下さるように祈り求め、いつも主の喜びに与かり、運命と環境に打ち勝って、主に栄光をお返しする聖徒さんたちとなりますよう、主の御名によって祈願します!




お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる神様! 私たちの主イエス様も、神様のお喜びに与かって、試みにも、十字架にも、勝利されました。イエス様の弟子たちも、神様からいただいた聖霊充満の喜びの故に、一生を主に委ね、数知れない迫害、投獄、暴行、苦しみに会いながらも、すべてに勝ち、喜んで殉教しました。

主であられる神様! 私たちの心の中に喜びがなかったら、私たちは無用なものになってしまいます。我が父なる神様! こんにち、IMFによって韓国民たちの心の中から、喜びが去りました。怨み、嘆き、挫折、絶望の闇が、全国民の胸の中にいっぱい立ち込めています。生きて行く事ができる力と勇気を失ってしまったら、私たちの前途は真っ暗闇です。

我が父なる神様! 愛であられるお父さま! 金銀財宝から来る喜び、素晴らしい環境から来る喜びを求めているのではありません。天から来る喜びを求めます。もっとあつくイエス様を信じ、聖霊充満になって、天からの喜びを得る事ができるようにして下さい。

主が与えて下さる喜びをもって、運命と環境を克服し、すべての悪霊のしわざに打ち勝つように助けて下さい。永遠の喜びの国である天の御国まで行けるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!