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「彼等は私たちの餌食となる」
 






■聖書箇所

「民数記 14章 1節〜10節」
14: 1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14: 2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14: 3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14: 4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
14: 5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。
14: 6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、
14: 7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14: 8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
14: 9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
14:10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。




私は、今日、皆さんと一緒に、『彼等は私たちの餌食となる』という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

モーセがイスラエルの民たちを導いて、乳と蜜が流れるカナンの地に入る直前、パランの荒野のカデシュで彼らは民族的大危機に直面するようになりました。イスラエルと言う国が存在するか? 滅亡するか? の危機に瀕しました。

それは、『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。』と仰せられた神様の命令に従って、モーセが12人の偵察隊員を40日間、カナンの地を探らせましたが、彼らが帰ってきて、その中の10人の偵察隊員が悪く言いふらしながら、悲惨なほどに悲しい報告をしました。

「…その地に住む民は皆、背が高く、力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、その上に、私たちは強靭なアナクの子孫を見ました。そして、その地は住民を食い尽くす地です。私たちがそこで見た住民はみな、背の高い者たちでした。私たちには自分が蝗(いなご)のように見えました。私たちは、あの民のところに攻め上れません。あの民は私たちより強いからです。攻め込んだら、私たちはみな剣で倒され、私たちの妻子たちはさらわれてしまいます…。」

首を長くして、偵察隊員の帰還を待っていたイスラエルの民たちは、この報告を聞いて絶望し、落胆してしまいました。彼らは夜通し大地を叩きながら、声を出して泣き、叫び、喚きました。そして翌朝、「私たちはエジプトで死んでいたら良かったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ、私たちを剣で切り殺そうとするのか…。さあ、一人のかしらを立ててエジプトに帰ろう…。」と言い出しました。一大危機が造成されました。

そうする中で、一緒に探りに行って来た二人の偵察隊員・ヨシュアとカレブが立ち上がり、自分たちの着物を引き裂きながら、叫びました。「違う! 私たちが探って来た地は、本当に乳と蜜が流れる地だ。そして、そこの住民を恐れてはならない。何故なら、彼らの守りは彼らから取り去られているからだ。主は私たちと共におられる。彼等は私たちの餌食となる。入って行って占領しよう…!」 すると、全会衆が立ち上がって、二人を石で打ち殺そうといきり立ちました。

その時、主の栄光が天から燦爛と現れました。全会衆が怒り、猛り、喚いていましたが、主の栄光が雲の中から現われるや、瞬く間に鎮まりました。彼らが雲を見上げている時、雲の中から、主が仰せられました。『10人の偵察隊員は、前に出て来い。』 悪く言いふらした10人が前に出るや、主が、その場で彼らを死なせました。

そして、主が言われました。『10人の言いふらしを聞いて、否定的な心を抱き、恨み、嘆き、かしらを立ててエジプトに帰ろう、と主張した者たちは皆、荒野に回れ。40日間探った1日を1年として、あなたたちは荒野をさまよう…。ヨシュアとカレブは、わたしに完全に聞き従ったのだから、あなたたちは生きて、乳と蜜が流れるカナンの地に入る。』

イスラエルの民たちは、40年間、荒野をさまよいながら、第1世代はみな死にました。その後、第2世代をヨシュアとカレブが導いてカナンの地に入って行った記事が、聖書に記録されています。

ここで見られる通り、ヨシュアとカレブの「危機処理態度」は卓越でありました。10人の偵察隊員とイスラエルの民たちは、不安、恐怖、挫折、絶望、否定的になってうしろに退こうとしましたが、ヨシュアとカレブは、そうでありませんでした。二人は「強敵」を目の前にして、「彼らは私たちの餌食となる。」と言いました。強敵に立ち向かうことは、死ぬか生きるかの「苦難」に立ち向かうことです。

餌食とは、食べ物のことです。食べ物は、私たちが毎日摂取するものです。食べ物は、食べて力を得、健康を保ち、そして生きて行けるようにしてくれるものです。なぜ、ヨシュアとカレブは、「大きくて高い城壁を持ち、住民を食い尽くす地、背が高くて強い民たちが住んでいる」そこを、餌食と言ったでしょうか?




第一、信じる人に苦難は餌食となります。

第一に、皆さん! 信じる人には、苦難は餌食となるのです。なぜかと言えば、目に見える現象と実像は違うからです。目に見える現象は、非常に大きい城壁、背の高い住民たち、自分たちは彼らに比べていなごのように見える、その地は住民を食い尽くす地だ、と報告しましたが、こんにち、私たちの現実、即ち、目に見える現実と実在する事実は違います。

例を上げて言えば、人が死んだら、「無くなる」ように見えます。しかし、実状はそうではありません。実状は、たましいがその人から離れて、天国にいくか、または地獄に行くかします。このように、私たちが目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、味わい、手で触り…、体験する現実と、実状は甚だしく違うことがとても多いです。

皆さん! 宇宙空間は、ガランと空いているように見えます。そして歴史は、無秩序に過ぎ去って行くように見えます。しかし実状は、宇宙に神様がおられ、神様がアルファでありオメガとなられ、最初であり最後であられ、私たちの生死・禍福を主管しておられ、全世界とすべての宇宙万物を支配しておられるのです。これらは私たちの目には見えず、感じられもしませんが、しかし、それが実状なのです。

ですから、私たちはこの世に暮しながら、「現実」という虚像を見て恐れてはなりません。信仰を通して、実像である神様を見、神様に拠り頼んで暮していけば、私たちはすべてに勝つことができるのです。

聖書には、神様を信じなさいと記されています。何故でしょうか? 神様は実像です。この世に見えるすべてのものは虚像です。神様だけが、宇宙と万物を造られ、人間の生死・禍福を主管なさり、歴史を主張なさる実像なのです。だから、目には見えないけれども、実際には実像であられる神様を信じなさい、と言うことです。

聖書は、神様を信じなさいと言われました。人々は、「私は信仰がありません。」「信仰が弱いです。」と言います。みんな嘘・偽りです。「信仰がない人」に、信じなさいと言われるわけがありません。腕が無い人に、腕を上げなさいと言いますか? 足が無い人に、歩いて行きなさいと言いますか。神様が、私たちに「信じなさい」と言われたのは、私たちにはみな、信じる力があるからなのです。

ですから皆さん! 神様を信じなければなりません。現実に恐れをなしてはいけません。そして、神様に拠り頼まなければなりません。また、神様を見詰めたあとに自分の現実を見渡したら、現実はそんなに難しいものではありません。神様が私たちと共におられたら、現実は私たちの餌食となるのです。




第二、夢がある人に患難は餌食となります。

二番目に、夢がある人には、患難は餌食となるのです。夢は明日に対する希望です。皆さん、神を信じる人には、いつも明日に対する希望があります。

「ローマ人への手紙 8章31節〜39節」をご覧下さい。『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

このように、言い尽くせない愛で、神様がイエス・キリストを通して私たちを捉え、愛しておられます。天地と万物を造られ、宇宙の大主宰であられる神様が、キリストにあって私たちをこのように愛しておられますから、その神様を信じる私たちは、夢を捨てることができません。神様が私たちの手をとって行かれるのに、私たちの前途が暗く、私たちの前に断崖が現われることはないのです。

夢がない人には、患難は洞窟であり、墓です。洞窟には出口がありません。そこに入って行ったら、破滅してしまうのです。墓に入ったら、またと出て来ることはできません。

しかし夢がある人には、患難はトンネルであり、希望に向かって行く過程です。トンネルはいくら暗くても、その向こうには出口があります。ですから、真っ暗闇に出会っても、私たちはこれを「過程にすぎない」という希望を持つことができます。私たちに色々な患難が襲って来ても、神様がおられたら、それは一つのトンネルであって、洞窟ではないのです。

また患難は、自我が砕かれ、益々信じ、そして従順に聞き従うようにします。自分の強情そのまま、自分勝手に、自分の計画に従って生きて来た人生を、神様は患難を通して砕き、間違った道から神様の前に立ち帰るようにするのです。神様には、皆さんのために備えられた道があります。その道に歩むとき、神様は祝福して下さいます。しかしその道から逸れるときには、神様は顧みてくださいません。神様は、その道に立ち帰るようにするために鞭で打ち、試練を与えられるのです。

また患難は、信仰が成長し、信仰に堅固に立つようにしてくれます。皆さん、重いものを繰り返し持ち上げたり、下ろしたりしたら、腕に力が生じます。筋肉に試練を加えたら、力持ちになります。私たちの信仰は、患難を通して成長し、力ある信仰になるのです。患難は大きな希望をもたらす種です。

「ペテロの手紙 第一 1章 7節」に、『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』と記されています。ですから患難は、夢の「お膳」の上にととのえられた「食べ物」です。夢がある人には、患難はなにものでもありません。楽しみながら口に入れる「食べ物」となるのです。




第三、祈る人に患難は餌食となります。

三番目に、祈る人には、患難は餌食となるのです。何故かといえば、患難に会ったら、そのために益々祈るようになりますので、神様との深い交わりを持つようになります。患難に会ってから、祈らない人は一人もいません。いつも祈ることをしない人でも、患難や試練に会ったら、天を見上げて神様に助けを求めるようになります。それで、患難に襲われたら祈るようになり、神様と交わりを持つようになるのです。

「サムエル記 第二 22章 7節」に、『私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。』と記されています。患難は、益々私たちが聖霊充満になるようにしてくれます。いつもは聖霊充満でない人であっても、試練と患難に会ったら徹夜しながら祈り、或いは祈祷院に行って断食しながら祈り、そうして顔は明るく輝き、聖霊充満になるのです。患難に会ってからはじめて聖霊充満を体験する人が随分と多いのです。

また患難に会ったとき、悔い改めることによって世俗と悪霊をみな追い出します。患難に会う前には世俗にしたがって暮らし、罪を犯し、放蕩しましたけれども、患難に会うや痛く悔い改め、ひれ伏して祈り、すべてを告白しますので、世俗と悪霊が離れ去り、主の前にきよくなり、敬虔で聖なる生活をするようになる実例があまりにも多いです。

「サムエル記 第二 22章29節〜30節」に、『主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。』と記されています。

我が神様が共に居てくだされば、主は私たちのともしびとなられ、私たちは暗い道でのさ迷いから正しい道へと踏み入ることができるようになります。ですから患難は、私たちが悔い改め、口に出して告白し、変化されて正しい道に立ち帰るようになり、悪霊どもを追い出し、世俗を退けて、神様に拠り頼む生活をするようにしてくれるのです。

そして祈りは、神様の御手を動かして患難を治めるようにします。患難に会ったら、私たちは神様に呼ばわり祈ります。色々と患難や試練が襲って来たとき、呼ばわり祈れば、神様の御手を動かして私たちの運命と環境を治めるようになるのです。

「エレミヤ書 29章11節〜13節」の御言葉です。『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

神様に呼び求め、祈ったら、かなえられます。神様を熱心に捜し求めたら、神様に会えるのです。神様は、私たちに災いではなく、平安を与えようとしておられ、絶望ではなく、将来と希望を与えようと計画している、と言われたのです。ですから、祈りは神様の御手を動かして患難を治めるようにします。結局、患難は私たちの餌食となるのです。




第四、感謝・讃美する人に患難は餌食となります。

それから又、神様に感謝し、讃美を捧げる人には、患難は餌食となります。「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と言われました。皆さん! 私たちがこの世を暮しながら恨み、不平、嘆息をこぼそうとしたら、きりがありません。しかし、私たちがそのような中で神様に感謝と讃美を捧げたら、私たちは、さらなる神様の栄光の御力を体験することができます。

皆さん、感謝のいけにえを捧げる人が、神様のお助けをいただくことができます。イスラエルの民たちがエリコ城を六日間まわり、七日目に7回まわったあと、彼らが一斉に感謝と賛美のときの声を上げるや、神様がみわざを働かされて、エリコ城が崩れ落ちてしまいました。

ヨシャパテ王はどうでしたでしょうか。ヨシャパテ王は敵の大軍の侵略を受けました。アモン人とモアブ人、およびメウニム人の連合軍が死海の向こう側エン・ゲディに集結して、ユダに攻め込んで来ようとしていました。ヨシャパテ王は恐れをなして民たちと一緒に主の宮の庭に集まり、主に呼ばわり祈りながら助けを求めました。「私たちの父祖の神、主よ。主はすべての異邦の王国を支配なさる方です。私たちを助けて下さい…。」

すると、神様が預言者を通して仰せられました。『恐れてはならない。この戦いは、神の戦いである。明日、彼らのところに攻め下れ。この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたと共にいる主の救いを見よ…。』

それで翌日、ヨシャパテ王は戦場に出て行きながら、聖なる飾り物を着た讃美隊を構成して、武装した戦士たちの前を行進するようにしました。敵軍が攻め寄せて来るのを見て、ヨシャパテ王の軍勢は讃美隊と一緒に全軍が神様に、『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで!』と歌い、讃美し始めました。すると、敵軍の間に混乱が起こり、敵軍は彼ら同士で殺し合い、滅ぼし合うので、イスラエルの民たちは戦う必要もなく、ついに偉大な勝利をおさめました。

「詩篇 30篇 4節〜5節」に、『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。』と記されています。私たちが主である神様に感謝し、讃美を捧げるとき、神様は私たちの生活の中に現れて、私たちのすべての試練と患難を、私たちの餌食となるように変化させてしまうのです。

乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができなかった人たちや、入ることができた人たちは、すべてみな、彼らの生活態度によりました。患難に会ったとき、恐れたり、否定的になったり、怨んだりして、後に退いたら、その人は必ず荒野で死ぬようになります。

しかし、神様だけを見上げ、神様の約束を信じる人、夢と希望がある人には、患難は餌食となるのです。また、聖霊さまに拠り頼み、祈る人、そして神様に感謝し、讃美する人には、患難は転じて餌食になるのです。

皆さん! この世を暮す人の中には、大小を問わずに試練や患難に会わない人はいません。その試練と患難をどのように受け入れ、どう管理するかによって、興亡が決まります。色々と試練や患難は私たちに間違いなく近寄って来ます。そうした時、イスラエルの民たちのように怨んだり、不平を言ったり、嘆息したりして、自ら自分の人生を荒野にしてしまってはいけません。

患難や試練よりもっと偉大な神様を見上げ、神様に拠り頼み、患難は私たちが暫くの間通過するトンネルに過ぎない、トンネルを通過したら、もっと大きく偉大な人生が待っている向こうに出られる、という事実を知らなければなりません。

患難と試練に会ったとき、私たちは熱心に祈って、それを消化させてしまわなければならないのです。かえって、患難と試練の中にいることを神様に感謝し、讃美し、そしてますます心から礼拝を捧げなければなりません。そうして、神様の権威が現われ、私たちを助けて下さるようにしなければならないのです。





お祈り

全知全能であられ、愛であられる天のお父さま! 私たちが一生を暮す間に、ありとあらゆる試練と患難に会います。多くの人たちには、試練と患難が洞窟となって、その中に入ってみんな死んでしまいます。一方、他の人たちには、試練と患難は一時的に通過するトンネルとなって、そこの暗闇を通り過ぎたら、もっと広く大きい世界に出て行く機会ともなります。

聖なる我が神様! ヨシュアとカレブが、患難は私たちの餌食となる、と言ったように、私たちに近づいて来る大小の試練と患難がすべて、私たちの餌食である事を知って、それらを受け入れ、食べて消化させてしまうように助けて下さい。「餌食」を拒むことがないようにして下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!