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「虚像と実像」
 






■聖書箇所

「へブル人への手紙 11章 1節〜3節」
11: 1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11: 2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11: 3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。




今日、私は皆さんと一緒に、『虚像と実像』という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

「虚像」とは、偽りで虚しいものを言います。「実像」とは、真実でまことなものを言います。アダムは悪魔の誘惑に陥り、「虚像」を信じて、従ったがゆえに彼の人生が破綻に至ってしまいました。

神様の御言葉は「実像」です。神様は「善悪の知識の木の実を取って食べたら、必ず死ぬ!」と仰せられました。ところが悪魔は「それを食べたら、目が開け、神のようになる!」と、偽りであり虚しい事を事実めかしく話しました。神様のようになろうとする虚像に惹かれて、善悪の知識の木の実を取って食べたアダムは、破滅されてしまいました。

神様の御言葉は、人間の心には偽りで虚しいもののように見えますが、その実像は、真実なものであり、まことなのです。その反面、この世のものは真実であり、まことのように見えますけれども、結局はすべてが、偽りであり、虚しい虚像にすぎないのです。

私たちが虚像に捕らわれたら、狼狽と失望に会ってしまいます。しかし、いくら虚像に取り囲まれていても、実像に取り縋って暮して行けば、真実でまことであることに到達し、成功するようになります。




第一、アブラハムが体験した虚像と実像

第1番目に、旧約時代にアブラハムが体験した虚像と実像を考えて見ることにします。アブラハムは、神様から驚くべき約束をいただいた神様の貴重なしもべでありました。主である神様は、彼に形容することができない大いなる約束の御言葉を与えて下さいました。

「創世記 12章 1節〜3節」に、『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』と記されています。

神様の凄い祝福です。これは、環境がどうなろうとも真実でまことの実像です。実際に、アブラハムは祝福された人です。それで彼は、どのような環境にあろうとも神様の祝福がいつも彼と共にあるようになっていました。ところがアブラハムは、その実像を取り逃がしてしまい、環境という大きな虚像に捕らわれてしまいます。彼と家族たちの一行がカナンの地に着きましたが、そこはひどい飢饉に襲われていました。

太陽は照りつけ、水はすべて涸れてどこにもなく、山川草木は枯れ尽くされていました。そこに居ては死にそうでありました。悪魔は来て、アブラハムに囁きました。「ここに居たら、あなたも、あなたの家族たち一行も、みな飢え死にする。神様があなたに祝福して上げると言ったのは、まことではない。虚像なのだ。あなたは早くエジプトに下りなさい。そこには良い住処がある…。」

アブラハムは混乱に陥りました。神様はアブラハムに、言うことに従順に聞き従ってカナンの地に行ったら、祝福の根源となると言われました。ところがカナンの地に着いて見たら、祝福はおろか、飢饉と旱魃で住みつくことができません。神様の言われたことが実像なのか? 現実の環境が実像なのか? 

どちらを信じるべきでしょうか? 神様の言われたことが偽りで虚しい虚像なのでしょうか? 悪魔の言うことと現実が偽りで虚しい虚像なのでしょうか? ここでアブラハムは、一大混乱に陥ってしまいました。

目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、神様の言われたことが実像でありますから、実像にしがみついて、いくら太陽が照りつけようとも、旱魃が甚だしくて水が一滴もなくても、山川草木が焼けただれてしまっていても、アブラハムは神様から祝福して頂いた人ですから、「私はここに居座る。」として、そこに居座らなければならなかったのです。

神様の御言葉を実像としてしがみつき、取り縋らなければなりません。御言葉だけが実像です。それ以外の、すべての環境は虚像です。実際にはあるようにみえますが、偽りであり虚しいものなのです。

ところが、アブラハムは虚像に惑わされて神様の実像を手放してしまいました。実像は、彼はカナンの地で祝福された人でありました。しかし、彼は実像を捨て、虚像に従って、エジプトに行って暮すのが良策だ。エジプトでは豊かに暮せる…、と思い込んでしまいました。神様が、「エジプトに下って行って暮しなさい。そこに豊かな生活があるから。」と言われたことがありません。それは悪魔の誘惑であり、アブラハム自身の錯覚です。それは、偽りであり虚しい虚像です。

虚像に惹かれて、エジプトに下って行ったアブラハムは、そこで思いもよらない出来事に出会って、どんなに辛苦の目に会わなければならなかったか、形容することができないほどでありました。奥さんを奪われて、それはそれは惨めな環境に陥りました。アブラハムは、神様の御言葉から離れ、環境や感覚に従い、それを追求したら、どのような代価を払わなければならないかを悟りました。虚像に陥って、彼は言い尽くせない苦難に会ったのです。

そこでアブラハムは、相当の教育を受けました。神様の御言葉だけが実像であり、それ以外のすべてのことは、実際にはあるようであっても偽りであり、虚しいものである、と悟るようになりました。

アブラハムが年「100歳」になり、妻サラが年「90歳」になった時、神様がアブラハムに、『ひとりの男の子を与える。』と約束なさいました。ところが、アブラハムが考える時、とんでもない話しです。自分の年が100歳であり、妻の年が90歳であるのに、感覚的にも、理性的にも、経験からしても、子供を持つことはできません。

しかしアブラハムは、悟ったことがありました。神様の御言葉だけが実像なのだ。人が感覚とか、理性を通して考えることはすべて虚像なのだ。神様の御言葉だけが真実であり、まことであり、実像なのだ。それでアブラハムは、神様の御言葉の実像に強くしがみつき、取り縋りました。

「マタイの福音書 19章26節」に、『イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」』と記録されています。「ルカの福音書 1章37節」には、『神にとって不可能なことは一つもありません。』と記されています。

アブラハムは感覚と理性と経験という虚像を捨てて、断固として実像である御言葉にしがみついたのです。人々はみな、彼を「気が狂った。」と言って嘲笑いましたが、アブラハムは、御言葉だけが実像であると信じて、御言葉の上に堅固に立って暮しました。

「ローマ人への手紙 4章18節〜22節」に見ますと、『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』と記録しています。

アブラハムは望み得ないときに望み、信じ得ないときに信じました。それは何故か、実像を掴んでいたからです。神様の御言葉だけが、実像です。まことであり、確実な事実なのです。それ以外に、感じること、思うこと、経験することはすべて、偽りであり虚しいことです。みな虚像なのです。しかし、御言葉は偽りのようであり、虚しいもののようでありますけれども、実際には、御言葉は実像です。なぜ? 御言葉は即ち、神様であるからです。




第二、ガリラヤの湖での「虚像」と「実像」

第2番目に、新約聖書にある、激しい突風と荒波のガリラヤの湖で、イエス様の弟子たちが体験した虚像と実像を確かめてみようと思います。

「マルコの福音書 4章35節〜41節」の内容のうち、「35節〜38節」までを見ますと、『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」』と記録されています。

この記録の中で、主の御言葉だけがまことであり、真実である実像です。イエス様が『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われたなら、渡って行くのです。天地が崩れ、海がくつがえっても、渡って行くのです。なぜ? 主の御言葉は実像であるからです。

ところが弟子たちは、虚像に驚きました。湖を渡りながら、激しい突風が起こりました。空は真っ暗になり、波が山のように高くなっては、船に容赦なく被さってきます。船の中が水でいっぱいになりました。船が大きく揺れ動き、一方に傾きかけました。それで弟子たちは、船が沈没するという虚像に捕らわれて絶望しました。

感覚的には、船に水がいっぱいですから沈没します。理性的には、このように波が高いのですから、容赦なく船は沈没します。彼らは漁師ですので経験からして見ても、このような荒波では船は間違いなく沈没します。人間的には、全く絶望的でありました。

しかし、イエス様が『向こう岸へ渡って行こう。』と言われました。どちらを信じるべきでしょうか? 弟子たちの目には、水でいっぱいになった船が沈みかけています。それこそ、沈没直前です。虚像は偽りであり、虚しいものです。その虚像に、弟子たちは真っ青になりました。ところが、イエス様は枕をして、眠っておられました。

なぜ、イエス様は安らかであったでしょうか? イエス様は実像を知っておられました。いくら、何がどうであろうとも、実像は「渡って行く」ことです。実像を知っておられるので、イエス様は少しも動揺することがありませんでした。

弟子たちは虚像に惑わされて、甚だしく動揺し、絶望しました。眠っておられるイエス様を起こして、「助けて下さい。」と懇願しました。イエス様が起き上がられて、虚像に驚き狼狽している弟子たちを叱りました。

『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(39節〜41節)

虚像に驚きふるえ、「死にそうです」と叫んで慌てふためいている弟子たちをご覧になって、イエス様は叱りました。『実像を見ることができないのは、どうしたことか。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなくても、わたしが「湖の向こう岸に渡って行こう」と言ったら、行くのだ。わたしの言ったことが実像なのだ。これ以外に、わたしの言ったことと反対の現象は、いくら目に見え、耳に聞こえ、手に触れ、味わい、感じられても、それは虚像なのだ。なぜ、偽りであり、虚しいものにしがみついて、主の言葉を信じずに慌てふためくのか?』と主が叱られたのです。

皆さん! ヨナが魚の腹の中で捧げた祈りを聞いてみましょう。『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。』(ヨナ書 2章 8節〜9節)

ヨナは、魚の腹の中に入れられていました。魚が暴れ回り、胃腸の消化液が全身を包み、匂いが臭く、魚の心臓の鼓動が聞こえ、彼はいつ消化されるか知れません。そうした中で、ヨナは神様に祈りながら、言いました。『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます…。』と。

ヨナは言いました。「このすべてのことは、偽りであり、虚しいものである。魚の腹の中にいることと、魚の消化液が全身を包んでいること、魚の心臓の音が聞こえること、魚が暴れ回っている、このすべてがみな、偽りであり、虚しいものだ。私はこのようなことに心を留めない。神様がすでに私の祈りを聞いて下さり、私を救って下さったことを信じる。私は、御言葉を信じ、環境を信じはしない。」ヨナは、神様の約束の御言葉を信じたので、魚の腹の中から救い出されるようになったのです。

私たちが信仰生活をするにあって、必ず知っておらなければならないことは、私たちの感覚は、偽りで虚しいことがあるということです。私たちの理性も、経験も、そうです。何事でも、神様の御言葉にそぐわないことはみな、偽りであり、虚しい虚像に過ぎないのです。神様の御言葉だけが真実であり、まことです。

御言葉を知り、御言葉の上に立ったなら、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、御言葉の上に立って暮さなければなりません。御言葉に従って考え、御言葉に従って見、感じ、話さなければなりません。御言葉以外には、すべてが偽りであり、虚しい虚像です。御言葉だけが、まことであり、真実な実像なのです。




第三、十字架の下での「虚像」と「実像」

第3番目に、私たちは十字架の下での虚像と実像をはっきりと悟り、知らなければなりません。私たちは罪悪が満ちている世の中で生活しております。罪が人々を捕えて、腐敗させ、破壊させます。罪が私たちを滅亡に引っ張って行こうとします。

しかし、十字架の下では、罪は偽りで虚しい虚像に過ぎず、罪は既に、無力化されました。罪は、もう虚像です。偽りであり虚しいものなのです。なぜかと言えば、イエス様の尊い血潮によって赦しと義が成就されたからです。これが実像です。

イエス様が2,000年前に、十字架に上られてその身を裂き、血を流して下さることによって罪の代価を払われ、罪をすべて無力なものにしてしまわれました。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放してしまったのです。ですから実像は、私たちは罪から解放され、罪の赦しを得て義となった人たちなのです。

「ローマ人への手紙 3章23節〜24節」の御言葉です。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』 ですから、実像は、私たちは赦しを得、義となった人たちです。罪の脅迫と恐喝は虚像です。偽りであり、虚しいものです。罪を恐がる理由がありません。私たちはみな、義の人たちとなってしまったのです。

この世と悪霊の権勢は、偽りであり虚しい虚像です。この世の権勢が近寄って来て、世俗の波涛で私たちを神様から遠く離れて行くようにします。この世は、神様が居られないところです。アダムとエバがエデンから出て来たあと、この世を作りましたが、その世界には神様が居られません。

この世に暮す人たちの心の中には神様がなく、認めもしません。彼らの家庭にも、事業場にも、神様が居られません。神様から遠く離れたのが、この世です。この世の中で悪魔が人たちを誘惑し、盗み、殺し、滅亡させる働きをします。この世と悪魔の権勢がとても大きいようですけれども、十字架の下では「空威張り」に過ぎず、偽りであり虚しいものです。

それは何故かと言えば、イエス様が十字架の上で、この世と悪魔に勝たれ、私たちに天の御国と聖霊を与えて下さったからです。これが、実像です。キリストにあって、もう天の御国が臨みます。天の御国が臨む証拠として、神様が父となられ、イエス様が王様となられ、聖霊さまが助け主となられ、御言葉が私たちの中に入って来られ、天使たちが私たちを取り囲んで陣を敷く、新しい世界の中に私たちが入って暮すようになるのです。

私たちは、神様が居られない世界で生活しているのではありません。私たちの心に神様が居られ、私たちの家族に神様が臨んで居られ、私たちの生活に神様が居られる天の御国が臨んで居られ、聖霊さまが私たちに臨んで居られるのです。それで私たちは、イエス様がこの世と悪魔に勝たれ、私たちに天の御国と聖霊さまを与えて下さったのですから、この世と悪魔という虚像に捕らわれて生活しているのではありません。これが、実像です。

「ヨハネの手紙 第一 3章 8節」に、『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記されています。イエス様は、十字架の上で悪魔のしわざを滅ぼされたのです。

「コリント人への手紙 第二 1章22節」に、『神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。』と言われました。もう私たちの中には、この世が入っているのではありません。聖霊さまが充満に臨んで居られるのです。ですから、イエス様を信じる私たちには、どこを捜して見てもこの世がありません。聖霊さまが充満に臨んで居られますので、悪魔が私たちをどうする事もできないのです。この世と悪魔の権勢は偽りであり、虚しい虚像です。イエス様と聖霊さまが、実像として私たちに臨んで居られるのです。

悲しみと疾病は、偽りであり虚しい虚像です。この世は、心配、懸念、不安、焦燥、絶望、悲しみでいっぱいに満たされています。そして私たちの心も、生活も、病にかかっております。しかし、実像は、十字架を通してイエス様が人類の悲しみと疾病を清算なさり、人類に喜びと癒しの恵みをほどこして下さったのです。人々はこの実像を抱いて生活しなければなりません。虚像に捕らわれて生活してはなりません。

「イザヤ書 53章 4節〜5節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記されています。これが実像です。

キリストにあって悲しみから解放され、疾病は癒されて、神様から喜びと健康を得たのが、私たちの実像です。悲しみと疾病は、もう偽りであり虚しい虚像に過ぎないのです。虚像に脅迫されてはいけません。虚像に驚いてもいけません。皆さんは、キリストによって悲しみと挫折と絶望と疾病から解き放たれた人たちです。それが実像です。

神様の御言葉は、実像です。神様が皆さんに、『あなたがたは、悲しみから解き放たれた。』と言われます。また、『あなたが、今は病気にかかっているけれども、実際は、わたしの打ち傷によっていやされました。』と言っておられるのです。私たちは、虚像を信じるべきか、実像を信じるべきか、心に決定しなければなりません。

呪いと貧乏は、偽りで虚しい虚像です。この世に、呪いと貧乏が溢れています。また、職場を失い、実生活が貧しく、生きて行くのが苦しいのも、私たちの現実です。それらが骨に沁みてきます。しかし皆さん、私たちが十字架の下で神様を仰ぎ見るようになるとき、呪いと貧乏は偽りであり、虚しい虚像です。イエス様が呪いと貧乏を、私たちの代わりに清算なさり、私たちに幸いを与えて下さったからです。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記されています。これが、実像です。

実像は、イエス様が来られて私たちのすべての呪いと貧乏を代わりに背負われ、十字架できれいに清算なさいました。今、呪いと貧乏が大きな勢力をなして押し寄せて来るとしても、私たちはそれを見詰めて、こう言うことができます。

「この、偽りで虚しい虚像。お前たちの脅迫と恐喝に騙されないぞ。イエス様によって祝福されたのが、私の実像なのだ。私はイエス様にあって呪いに打ち勝ち、貧乏から脱け出たんだ。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえなくても構わない。私は何も恐れない。なぜ? イエス様が私と共におられる。これが私の実像であるからだ。そしてイエス様が、わたしがあたながたの病を代わりに負い、あなたがたの貧しさを代わりに担った、と仰せられたからだ…!」

実像と虚像の間でさ迷ってはいけません。私たちは、何が虚像であり、何が実像であるかを知り、実像に立って、「この偽りで虚しい虚像よ。ナザレ・イエス様の御名によって命じる! 私から離れ去れ!」と、虚像に向かって、指差しながら言うことができなければなりません。

死と陰府(よみ)は、偽りであり虚しい虚像です。人が死ぬのは、定められたことではないか? 死ぬことは事実ではないか? 私の家庭でも、お祖父さん、お祖母さんが亡くなられるのを見ました。父母兄弟が亡くなられた家庭があることも知っています。キリストがおられない時には、それが実像です。しかし、十字架の下で私たちがそれらを見たら、死と陰府は、偽りであり虚しい虚像です。

なぜ? 使徒パウロが言ったではありませんか。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 イエス様が何と仰せられましたか。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません…。』

また、イエス様は言われました。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

使徒パウロはまた、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と言われました。ですから死と陰府は、信じない人には実像のように見えますが、十字架の下に行けば、それは偽りであり虚しい虚像です。実像は、イエス様が死と陰府を征服なさり、復活と永遠のいのちと天の御国を与えて下さった事実です。

私たちは、イエス・キリストにあって神様が成就なさった実像を信じなければなりません。私たちの感覚や、理性や、経験を通して見るとき、それがまことのように見えなくても、『神は真実な方である』とすべきです。目に見えるものは、すべてまことのようですが偽りであり、実像のようですが虚像です。しかし神様の御言葉は、偽りのようですがすべてまことであり、虚像のようですがすべて実像なのです。

それで、私たちが神様の御言葉の上に堅固に立って、御言葉を口ずさみ、御言葉を信じ、御言葉を話し、御言葉に従って生活したら、終局には、これがまことであり、実質的なものであることを体験することができるようになるのです。

あまりにも多くの聖徒さんたちが、感覚とか理性とか経験とかいう名前の虚像の捕虜になって、偽りであり虚しい生活をしておられます。実際がどうであろうとも、現実がどうであろうとも、神様の御言葉だけが真実でまことである実像なのです。神様の御言葉の反対であることは、すべて虚像です。虚像に見とれ、従って行く人は、みな神様の恵みをむなしくしてしまいます。

しかし実像を見詰めて従って行く人は、現実的には暗澹で真っ暗く絶望のようであっても、実際には、神様の力と栄光が現われて、暗闇は明るく、死は生に、敗北は勝利に、挫折は成功に変化されてしまうのです。私たちは、実像を掴んで暮して行かなければなりません。天地が崩れても、神様の御言葉は一点一画も変わりません。実像にしがみついて暮して行かなければなりません。

私が先日、「ドバイ」聖会で力を込めて説教したのがそれです。実像の上に立って下さい! 神様の御言葉だけが実像です。イエス・キリストだけが実像です。それ以外は、すべてが皆、偽りで虚しい虚像です。偽りで虚しいものに従って行く人は、後になって挫折し、絶望してしまいます。御言葉と、イエス様だけが実像です…と、私が説教したのがまさにそれなのです。

こんにち、イエス・キリストは、皆さんには実像です。その中で皆さんが赦されたのが実像であり、その中で皆さんが天の御国といのちをいただいたのが実像であり、その中で、喜びと癒しをいただき、祝福と恵みをいただき、復活と永遠のいのちと天の御国をいただいたのが実像なのです。ここで、力強く取り縋ってください。この中で、力強く立ちあがってください。これ以外には、すべてが皆、偽りで虚しい虚像に過ぎないのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! アダムとエバが堕落した以後、私たちは虚像で満ちている世の中で暮しています。この世の中は、偽りであり虚しいものです。この世の道は、偽りで虚しい道です。この虚像に捕らわれて、人たちは何かがあると思ってさ迷い、すべて皆、水の泡となって消え去り、地獄に落ちてしまいます。

全知全能であられる、我らの天のお父さま! 人たちは、地位や名誉や権勢やお金や、そして富貴が幸福の実像であると思って取り縋りましたが、それらは水の泡であり、虚像に過ぎません。イエス・キリストにあって、イエス様を信じて生活するそこに、まことの喜びと希望と愛と、それから幸福があるのです。これが実像です。

虚像である水の泡を掴んで、失敗し狼狽することがないように助けてください。実像である、キリストのうちにある神様の恵みと、愛にしがみついて、永遠の信仰、希望、愛、柔和、平安、喜びを得ることができるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!