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「イエス様の復活と道」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 14章 1節〜7節」
14: 1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14: 2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14: 3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14: 4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14: 5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14: 6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14: 7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」




今日、皆さんと一緒に、「イエス様の復活と道」という題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

鬱蒼とした森の中で、道を失った経験がございますでしょうか? そうでなければ、ビルの林の大都市の中で、道を知らないのでさ迷った経験をお持ちでしょうか? その時の狼狽、当惑、恐怖などは、何とも表現することができません。

ところが、人生を生きて行きながら、成功と祝福の道を失って狼狽し、挫折し、失望してさ迷うようになる時、本当にこれは悲しいことです。この世を暮すすべての人たちは、みな道を捜す人たちです。ある人たちは、道をはっきり知り、捜し当てて、成功と祝福の人生を暮し、ある人たちは、荒野のような世の中で、限りなくさ迷っております。

イエス様がこの世に来られて、死なれ、よみがえられたのは、私たちに真の道となられるためでありました。




第一、「赦しと義の道」になられたイエス様

第1番目に、イエス様は死なれてから、よみがえられることによって、私たちに赦しと義の道になって下さいました。人間は、生まれる時から罪の奴隷です。人間は、自我意識が生じる時から、良心の呵責と罪責感のゆえに苦悶するようになります。この世を暮すどのような人生も、その良心の罪責感のために苦しまない人は、誰一人いません。

このような問題を解決しようとして、道徳的努力と数多い宗教に頼ってみますが、しかし、義とされた人は一人もおりません。イエス様は、この世に罪を知らずに生まれました。そして、33歳の生涯の間、律法をことごとくすべて守られました。そして罪も咎もない生涯を生きられて、完全に全人類のための「いけにえ」となられることができました。

「ペテロの手紙 第一 3章18節」に見ますと、『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』と記されています。

義人であられる主が、不義な人たちの身代わりとなるために十字架に上られ、身体を裂き血を流して凄惨に死の目に会われました。私たちの罪により死の監獄に入られて、その罪をすべて清算なさり、3日目に死の監獄からよみがえって出て来られました。それで、もうイエス様は永遠の赦しと義の道になられました。

イエス様は道を教えられる方ではなく、主ご自身がまさに私たちの道になられたのです。イエス様を心の中に受け入れれば、赦しと義の道を私たちの胸の中に得たことになるのです。「エペソ人への手紙 1章 7節」に、『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです…。』と記されています。

こんにち、人たちは皆、赦しと義の道を捜すことができないまま、色々と努力をしており、汗を流しながら宗教の林の中をさ迷っています。しかし、イエス様はまさに私たちの道であられます。イエス様が赦しの道、義の道です。イエス様を救い主として受け入れた人は、まさに赦しの道に立ち入った人であり、義の道に立ち入った人です。そして正しい道を捜し当てた人です。

よみがえられたイエス様は、永遠に罪と不義と醜悪と絶望に勝たれて、人類に赦しと義の道になられました。イエス様を救い主として受け入れた人は、これからはさ迷う必要がありません。もうさ迷いません。イエス様がまさに人類の赦しと義の道になられたのです。




第二、「天国と聖霊充満の道」になられたイエス様

第2番目に、イエス様は、天の御国と聖霊充満の道になられます。アダムが堕落して悪魔の奴隷になってからは、人間は母の胎の中から既に悪魔の奴隷として宿り、悪魔の奴隷として生まれて生活しています。人たちは、悪魔の国であるこの世で悪霊たちと一緒に、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢に酔って生きて参りました。人たちは、この世と悪霊に心を占領されているのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節〜16節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記されています。

ところが、イエス様はこの世に侵略して参られました。攻め込んで来られました。そして、天の御国を宣べ伝えらえ、十字架の上で悪霊とこの世を抱きかかえて戦われ、死なれることによって悪霊とこの世を引き連れて、死を通してそれらを征服なさり、よみがえられることによって完全に勝たれました。

悪霊とこの世の最後の武器である死の中に入られて、三日目に死を撃破なさり、悪霊の武装を解除なさり、この世に勝たれ、よみがえられて、「天国と聖霊」を迎え入れる道になられたのです。イエス様が道を教えてくださるのではなく、イエス様がまさに皆さんと私の道なのです。天国への道であり、聖霊充満への道なのです。

人が、イエス様を胸の中に迎え入れたら、天の御国への道がその人の中に入って来ます。聖霊充満への道がその人の中に入って来るのです。その道を通して人たちは天の御国に入り、その道を通して聖霊充満に与かるようになるのです。

「使徒の働き 2章32節〜33節」に、『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』と記録されています。 

ですから、イエス様を受け入れた人はもう、その中に天の御国が臨んでおり、聖霊さまが臨んでおられます。皆さんの中に、天の御国が臨んでおり、聖霊さまが臨んでおられるのです。その証拠として、皆さんが神様を「アバ、父。」と呼び、イエス様を「王の王。主の主。」として信じ、「聖霊」が共にいてくださり、「御言葉」の糧(かて)を食べ、祈りを捧げ、また天軍・天使たちが周囲を取り囲んで護衛していることを知り、そのすべてを信じておられるのです。

このような知識が皆さんに与えられたのは、皆さんがキリストを信じ、悪霊とこの世が皆さんから追い出されたからです。




第三、「喜びと癒しの道」になられたイエス様

第3番目に、「喜びと癒しの道」になられたイエス様を、私たちが知らなければなりません。神様は生命の源泉であられます。神様に背を向けて出て来たアダムは、生命の泉から断ち切られて、限りない腐敗の行列の中に入って行くようになりました。霊が死んで腐敗し、心が腐敗して疾病にかかり、肉体が腐敗して死んで行きつつあります。

「エレミヤ書 2章13節」に、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と言われました。こんにち、人たちは、神様がおられない「人本主義」で暮し、人間の知恵と知識と聡明で暮そうとします。ところが、人間の知恵と知識と聡明はみな「こわれた水ため」です。

水を溜めておくことができません。そこでは、喜びも希望も、生きる目的も価値も発見することができません。喜びと希望がない人生は、悲惨なものです。この世の人たちが、富貴・栄華・功名を得て、暫くは喜ばしく見えますが、それは偽りであり虚しい虚像に過ぎません。このようなものの中に、悲しみと苦しみがいっぱい満ちているのです。

たましいの中に喜びが湧き上がるのは、イエス様がその人の中に入って来られた時だけが可能です。なぜかと言うと、イエス様は喜びだからです。『主の御前には喜びが満ち、主の右には、楽しみがとこしえにあります。』と言われました。それで、イエス・キリストにあって神様の喜びが私たちの中に溢れることができるのです。

心配、懸念、不安、焦燥、憎しみで心が満たされ、貪欲と悲しみでいっぱいなのが、こんにちの人生です。特に、各種の肉体の疾病により人たちは毎日、さいなまされています。ところが、イエス様がこのすべての苦しみを背負って十字架に架かられました。心配、懸念、不安、焦燥、絶望を主がすべて背負われました。人類の悲しみ、疾病、苦しみをすべて背負われ、人類の心の苦痛をすべて担われました。

イエス様は、この地上に生まれた人類の中でもっとも大きな悲しみと苦しみを背負われて、十字架の死の目に会われたのです。イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担って、十字架の上で死なれ、墓に葬られてから、三日目に、悲しみと疾病と苦しみをすべてみな征服し、それらに勝たれたのでよみがえられたのです。

負けたなら、よみがえることはできません。負けたなら、そのまま墓の中に捕らわれているはずです。しかし、イエス様はよみがえられて、私たちのすべての悲しみを清算してしまい、私たちの苦しみを清算してしまい、私たちの弱さも疾病もすべて清算してしまわれたことを証明してくださいました。

それでイエス様は、喜びと癒しの道を見せてくださるお方ではなく、イエス様がまさに「喜びと癒しの道」であられるのです。イエス様を信じる人は、まさしく喜びの道、癒しの道に入って来た人です。その道の上でイエス様に呼ばわり祈れば、喜びが溢れ、癒しと健康が満ち溢れます。その道の中に、主の恵みと祝福が満ち溢れるのです。

「ペテロの手紙 第一 2章24節〜25節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。』と記録されています。

「イザヤ書 12章 3節」には、『あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。』と記録されています。イエス様がまさに喜びの泉であり、まさに喜びの道です。イエス様がまさに癒しの道であり、健康の道です。その道を、私たちが歩いて行きながら、呼ばわり祈るとき、私たちの中に喜びと癒しと健康が満ち溢れるのです。

この道は、世の人たちには隠された道です。ただ心を砕き、悔い改めて主の御前に出て来るとき、聖霊さまが、この道になられるイエス様を見せてくださり、導いてくださって、隠されて見えない道の中に入って行くようになるのです。




第四、「幸いと祝福の道」になられたイエス様

第4番目に、イエス様は「幸いと祝福の道」になられました。イエス様は、幸いと祝福の道を見せて下さるお方ではありません。イエス様ご自身が、幸いと祝福の道になられたのです。世のすべての人たちは、人生の幸いと祝福の道を捜し回っています。もっと多くの学位を取らねばならず、もっと勉強しなければならず、もっとたくさんの背景を掴まなければならず…、そうして幸いと祝福の道に立ち入ろうと尽力しています。

しかし皆さん、アダムはエデンから追い出されたあと、貧乏と呪いの茨(いばら)の道を生き、こんにち人類も、その茨の道を歩んでおります。その茨の道から、幸いと祝福がある道を捜そうとさ迷いながら、血みどろになっています。

「エレミヤ書 17章 5節〜6節」に、『主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。』と言われました。このように、主から離れた人は呪いを受けて、彼がすることはすべて荒野になってしまうのです。

しかし、イエス様の十字架の死の代価は、まさしく皆さんと私を呪いと患難と貧乏から解放させてくれるのです。キリストは、ご自分の身体で呪いと貧乏を担われ、死なれてからよみがえられる事によって、すべての呪いと貧乏を葬られた墓の中でみな清算なさり、私たちに幸いと祝福の道になられました。

『キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべて呪われたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』(ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節)と言われました。

また、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(コリント人への手紙 第二 8章 9節)と、聖書に記録されています。

ですから、主は常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざに溢れる人たちとなるようにする為に、人類に代わって呪いと貧乏をその身に担い、十字架にかけられて死なれ、葬られて、墓の中ですべてを清算なさり、復活の勝利で立ち上がられて、こんにち、皆さんの幸いと祝福の道になられたのです。




第五、「永遠なるいのちの道」になられたイエス様

第5番目に、イエス様は、永遠のいのちの道です。イエス様はいのちの道を教える方ではありません。いのちの道なのです。この世に生まれた偉大な宗教家たちはみな、道を教える人たちでありました。孔子も、まことに生きる道を教えました。釈迦も、人生を悟って暮す解脱(げだつ)の道を教えました。しかしイエス様は、道を教えられたことがありません。イエス様はそのまま道なのです。私たちの永遠なるいのちの道になられたのです。

皆さん! 死の迷路の中に落ち込んだ人たちは、再び生き返ることができません。人は、死んだ後にはまたと生き返ることがありません。永遠の道を教えた先生や聖者や宗教人たちも、死に陥った以後に帰って来た人は誰もいません。

「使徒の働き 4章12節」に、『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』と記されています。イエス様だけが、死と陰府(よみ)に勝たれてよみがえられ、いのちの道になられました。

イエス様以外に、よみがえった人は誰もいません。イエス様以外に、復活の信仰を宣べ伝えた方がいるでしょうか。イエス様はこの世を暮されながら、人たちに詩1首、論文1ページも残されませんでした。しかし、キリストを通して救われた数多い人たちは、その復活の聖霊を通して霊感をいただき、偉大な詩人にも、偉大な創作の人にも、偉大な芸術家にもなりました。主はよみがえられて、私たちに永遠のいのちの源泉となられたのです。

「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」に見ますと、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記録されています。

私たちは、死を恐れて死の奴隷になり、不安と恐怖の中で慄(おのの)きながら暮しました。ところがイエス様は、人類のために身代わりとなられて死なれてから、よみがえられることによって、もう死の絆を断ち切られ、死の恐怖に震え慄く人類に永遠の解放と自由を与えて下さいました。

使徒パウロ先生は、『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』と、死を軽蔑し嘲弄しました。もう私たちは、死を恐れる必要がありません。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と、イエス様が自信を持って仰せられました。『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネの福音書 14章 1節〜3節)

死は、無くなり消え去るものではなく、我らの主イエス・キリストがよみがえられて備えて置かれた『父の家』に入って行く、一つの過程であると、イエス様が言われました。 

キリストの死とよみがえりは、人類の死が永遠なる絶望の洞窟ではなく、永遠のいのちがある向こう側に行けるトンネルであることを、私たちに教え、悟らせてくれます。私たちは死のトンネルを通って向こうの世に渡って行きます。もっと明るく、もっと希望に満ち、もっと喜びが溢れる世界に行くようになるのです。イエス・キリストのよみがえりほど、私たちに大いなる光りと希望を与える事件はありません。

神様は、道を造られる神様です。イエス様は、その道です。イスラエルの民たちが紅海のほとりまで来て、なみなみと漲る海の水を前にして途方に暮れ、挫折と絶望に陥ってしまいました。背後にはエジプトのパロ王が大軍を率いて、イスラエルの民たちを再び捕虜にしようとして押し迫って参りました。もう行く道がありません。

その時、モーセと一緒に全イスラエルの民たちが神様に呼ばわり、祈りました。神様が道を造られました。紅海の海水の真っ只中に道を造られました。私たちは「紅海が分かれた」と表現しますが、「海が分かれて陸地となった」その道が、他でもないイエス様なのです。

イエス様が言われました。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』神様はこんにちも、イエス様の死とよみがえりを通して、いのちと勝利と祝福の道を造られます。そしてその道が、まさにイエス様なのです。

イエス様の道を通して、赦しの川水が溢れます。イエス様の道を通して、義の川水が溢れます。イエス様は、道を造られるのではなく、道になられる方です。神様はイエス様の道を通して、私たちに天の御国でいっぱいに満たして下さいます。その道を通して、聖霊が溢れるようになるのです。

イエス様のその道を通して、天の喜びが私たちに降り注がれているのです。イエス様のその道を通して、私たちに癒しと健康が満ち溢れているのです。私たちは、その道を探し当てました。その道の中で、神様を信じなければなりません。イエス様のその道を通して、神様は幸いを注いでくださいます。その道を通して、祝福を注いでくださるのです。

私たちは、道を捜している人たちです。他のところからは、道を得ることができません。イエス様が、まさに幸いと祝福の道になられるのです。すべての人たちが、いのちの道を捜しています。ところが、イエス様がまさにいのちの道なのです。

イエス様を通して、神様は私たちに永遠のいのちを与えて下さいます。イエス様の道を通して、神様はよみがえりの道を私たちに与えて下さるのです。イエス様を通して、天の栄光を私たちに溢れるまでに与えて下さるのです。

ですから、こんにち私たちは、他の道を歩んではなりません。イエス・キリストの道の中に入って歩まなければならないのです。この道を心の中に迎え入れ、この道の中で神様を捜し、この道の中で神様に祈り、この道の中で信仰を持って神様に呼ばわり求めば、神様がこの道を通して、皆さんに今日も、赦しと義を満ち溢れるほどに注いで下さいます。天国と聖霊と、喜びと癒しと、幸いと祝福と、永遠のいのちと天国の栄光を、皆さんの中に満たして下さるのです。

「ヨハネの福音書 6章40節」に、『事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。』と記されています。ですから、父と子は一つなのです。

よみがえられたイエス様の中に神様がみわざを働かせられ、御子を通して私たちは神様のふところに抱かれるのです。イエス様は、2,000年前に墓の戸を開いてよみがえられる事によって、永遠に信仰、希望、愛の源泉となられ、私たちに将来生きて行く目的と方向と意味と、そして価値となられたのです。

イエス! イエス! イエス様だけが、私たちの人生の中に尽きることがない「まことの宝」となられたのです。今日、この道の中に飛び込んで来てください。この道の中に入って来た人は、この道を通して御父とダイレクトに通じます。ですから御父にすべてを告げてください。御父が、皆さんが呼ばわる祈りに答えてくださり、皆さんの胸の中の道を通して、キリストが成就なさった「五重の福音」と「三重の祝福」で満たしてくださいます。




お祈り

聖く、栄光であられる我が父なる神様! すべての人たちは「道」を捜して、荒野のようなこの世の中をさ迷っています。イエス様が、私たちの道になられた事に感謝します。私たちには、もう、さ迷う必要がなくなりました。

全知全能であられる、天のお父さま! イエス様がまさに、お父さまのところに行ける道になられました。従い、私たちに障壁となって取り囲んでいたすべての罪と疾病、呪いと絶望、そして死の陰の谷は崩れ、すべての障害物は取り除けられました。

今日、この道を通して、私たちが皆、神様の恵みと祝福の中に入って行けるように助けてください。イエス様にあって私たちが力強く呼ばわり、祈り、信じ、叫びながら、主が与えてくださったすべての恵みと、祝福をいただいて、神の民として、この世の数多い人たちに助けをほどこす私たちとなるように、助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!