教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「愛といのち」
 






■聖書箇所

「ヨハネの手紙 第一 3章 1節〜2節」
3: 1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3: 2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。




今日、私は皆さんと一緒に、『愛といのち』という題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

聖書は、『神様は、愛であられる。』と記録しています。神様の愛が、天地を造り、万物にいのちを与えられました。皆さん! 長閑(のどか)で麗らかな「5月の春」である今日、山川草木、また、いっぱいに咲き誇っている各種の花を見渡すとき、それらが皆、神様の愛を囁いているのです。神様の愛の息遣いによってそれらが成長し、花を咲かせるのです。愛だけが、いのちと豊饒の源泉になります。

夫婦間の愛が幸福の泉であり、子女生産の根源です。友人間の愛が人生を侘びしくないようにし、楽しくします。父母の愛が子供たちを養育し、成長させます。神様の愛が、ひとり子イエス様を通して人類を救う驚くべきみわざをほどこして下さいます。




第一、愛の属性

第1番目に、愛は、独特な属性をもっています。この属性は、愛から分離しようとしても分離することができない、そのような要素です。愛は数多(あまた)の咎を覆い、保護する働きをします。父母が子供を愛するあまり、子供の咎を何とかしてでもカバーしようとします。それは愛するからです。

 愛さなかったら、咎を全部暴露します。憎しみは、人の罪をすべて暴き出そうとしますが、愛は、一つ残らずみなカバーしようとします。保護しようと努力するのです。「ペテロの手紙 第一 4章 8節」に見ますと、『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記されています。ですから、隣人の罪を暴露するのは憎しみです。愛ではありません。どのようにしてでも隣人の罪をカバーして上げようとするのは、愛の属性なのです。

愛は、献身し、奉仕し、養育し、そして保護することです。父母が子供を愛するとき、子供に対する献身は、それは表現できるものではありません。子供にたいして尽くす苦労を、父母は苦労とは思いません。自ら、その功を衒うことなどもしません。愛するので、自分を犠牲にしてでも愛する子供たちを立派に教えようとします。奉仕し、養育し、あらゆる力を尽くして保護することは、愛の属性なのです。

愛はまた、愛する相手を喜び、楽しくします。愛する子供たちと一緒にいたら、嬉しく、楽しいです。お祖父さん、お祖母さんが、孫たちを見ながら喜び、嬉しがります。愛は、愛する相手を見ながら、喜び、嬉しがるものです。

「ペテロの手紙 第一 1章 8節」に見ますと、『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』と記しています。イエス様の御名を聞いただけでも嬉しくなります。それは、イエス様を愛するからです。海外旅行のとき、外国でイエス様を信じる人に会ったら、そんなに懐かしく嬉しいことがありません。

「ヨハネの福音書 10章10節」に、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と言われました。イエス様は、私たちを愛しておられるので、私たちにいのちを得させ、またそれを豊かに持たせようと願っておられるのです。

「エレミヤ書 32章41節」に、『わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。』と記されています。主を愛する人は、主の喜びです。主は、その人を益々祝福して上げ、この地に植えようと願っておられます。ですから私たちは、この「愛の属性」を知ってから、主イエス・キリストを知らなければなりません。




第二、神様の愛

2番目に、今日、私たちが考えて見たいことは、「神様の愛」です。『神は、実に、そのひとり子をお与えになった程に、この世を愛された…。』と言われました。神様の愛は、そのひとり子イエス様を通して現われましたから、イエス様はまさに神様の愛であるのです。イエス様を受け入れた人は、神様の愛を受け入れたのです。イエス様を拠り頼む人は、神様の愛を拠り頼む人です。

皆さん、神様は愛であられます。神様はイエス・キリストを通して、私たちの罪過を暴き出すのではなく、私たちの数多(あまた)の罪を赦し、すべての咎を覆って、義として下さるのです。神様は、十字架を通して私たちのあらゆる罪過を赦して下さったのです。「エペソ人への手紙 2章 4節〜5節」に、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・』と記されています。

人が、イエス・キリストを救い主として受け入れれば、その人は、すべての罪過が赦されて、義の人となってしまいます。また、神様の愛によってその人の中にいのちが満ち溢れるようになるのです。美しい花が咲くように、いのちが咲くのです。神様の愛はまた、イエス様を通して人類を育て、保護します。父母が愛する子供を育て、顧み、養育するように、神様が人類を愛しておられます。

神様の愛であられるイエス様を受け入れたら、イエス・キリストは私たちの中に入って来られて、神様の愛のみわざをほどこして下さいます。それで、神様の愛が私たちを育てで下さるのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか…、このような問題は、神様の愛がすべて解決してくださるのです。

「ヘブル人への手紙 13章 5節〜6節」に見ますと、『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』と記されています。

ですから、愛は私たちのたましいの中に光りを発し、私たちの胸の中に希望を与え、私たちの唇が讃美を歌うようにしてくれます。何故かと言えば、神様の愛が私たちのいのちを破滅させることは絶対にないからです。愛は、いのちを豊かに得るようにしてくれます。

また、神様の愛は、イエス様を信じる私たちを余りにも喜ばれます。「ゼパニヤ書 3章17節」に、『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』と記されています。イエス様を救い主として受け入れている私たちには、神様の愛がキリストを通して満ち溢れているのです。

神様は、私たちを愛するあまり、私たちに最高の人生と最善の希望を与えようと願っておられます。愛は、もっとも良いものを与えたいと願います。憎い相手には、良いものを上げたくありません。愛する時には、良いものを、それも最高の良いものを与えます。夫が妻を愛したら、もっとも良いものを与えたくなります。父母が子供を愛したら、子供に最高の教育を受けさせ、最善の道に歩ませたいと願います。愛は、悪いものを与えません。

「イザヤ書 61章10節」に見ますと、『わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。』と記されています。神様が、私たちに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせて下さったのが、花婿が栄冠をかぶり、花嫁が宝玉で飾ったように華やかで美しいと言うのです。

罪を犯し、不義を行ない、醜悪極まりなく、捨てられて当然な私たちを、神様はイエス・キリストを通して、このように美しく飾って下さると言うのです。私たちに最高の生活と、最善の希望を与えて下さる神様なのです。

「エレミヤ書 29章11節」に、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』と記されています。神様に背き、罪を犯し、神様から遠く離れて行くからさばかれるのです。神様を愛し、神様に拠り頼めば、聖徒たちに災いではなく、平安と将来と希望を与えようとしているのが神様の御心である、と言われたのです。

イエス様を通して、神様の愛が私たちに注がれていることを知り、その愛の中で喜び、感謝し、その愛に拠り頼んで強く雄々しく大胆に暮して行かなければなりません。愛には恐れがなく、完全な愛が恐れを追い出します。ですから、イエス様を救い主として受け入れて、神様の愛の中に入って来ている人は、何も恐れることなく暮すことができるのです。この世の中に神様よりも強く大きいものはありません。




第三、イエス様を信じる人は決して捨てられません

第3番目に、イエス様を信じる人は、決して捨てられることがありません。「ローマ人への手紙 8章37節〜39節」に記されています。『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

神様が、キリストにあって私たちにほどこして下さる愛がいかに強いのか、なにものもその神様の愛から私たちを引き離すことができないのです。

皆さん!このような喩えがあります。イエス・キリストのうちに現われた神様の愛が、こぶしに力を入れて私たちを守ります。『来い。わたしとわたしの子供たちとの間を引き離すことができる者があったら、来い!』すると、真っ先に「死の恐怖」が来て言いました。「私が、イエスのうちにある神様の愛と民たちとの間を引き離すことができます。」

その時、神様が言われました。『死の恐怖か。わたしがわたしのひとり子イエス・キリストを通して、既に死亡を滅ぼし、陰府(よみ)を廃してしまい、それでわたしのひとり子イエスがよみがえったのだ。近寄って見ろ。』神様の一言で死の恐怖は逃げ失せてしまいました。

「テモテへの手紙 第二 1章10節」に、『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。』と記されています。

その次に、神様がまた言われました。『次に、誰がいるか?』今度は、この世の「いのち」が来て言いました。「私が人たちを誘惑して、神様の愛から引き離して見せます。」この世の「いのち」と言うものは、この世の暮しの誘惑です。人がこの世を暮す中で幸いを得るようになったら、数々のたくさんの誘惑が押し寄せてきます。富貴、栄華、功名、肉の快楽…が押し寄せてきて誘惑します。そうして、神様の愛から人たちを引き離そうとします。

しかし、神様は言われます。『とんでもない。この世の「いのち」が来て、キリストのうちにあるわたしの愛から人たちを引き離す? わたしが与える「いのち」は、この世が与える「いのち」より、もっと素晴らしく美しいのだ。世の中で腐敗した水を飲む人が、わたしの生ける水を汚すことができようか。やって見よ!』

この世の誘惑がいくら強いと言っても、神様の愛よりもっと強く素晴らしいものはありません。ですから、この世の「いのち」には、人類を神様の愛から引き離す力がありません。イエス様が好きであり、慕わしいのをどうしますか。この世の「いのち」も、このイエス・キリストのうちにある神様の愛から、人たちを引き離すことはできません。

その次には、天使たちが現われました。堕落した悪魔の手下たちです。「私たちが引き離します。」そのとき、神様が言われました。『よし、やって見なさい。キリストのうちにあるわたしの愛から、人たちを引き離して見なさい。飛びかかって見なさい。』 皆さん、悪魔がキリストを滅ぼそうとしましたが、十字架で武装解除され、一つの道から攻撃して来ては、七つの道に逃げ去ってしまったのです。悪魔は、神様の愛から人たちを引き離すことは絶対にできないのです。

その次には、権力者たちが出てきて、「私たちがキリストの愛から、人たちを引き離すことができます。権力が如何に素晴らしいですか。この世で権力を得たら、イエスを信じる信仰などは投げ捨ててしまいます。」と言いました。

皆さん、この世の権力がいくら素晴らしいと言っても、10年と続くことができません。その権力には、イエス・キリストのうちにある永遠なる神様の愛から私たちを引き離すだけの力がありません。過去、ローマ帝国時代を起点にして数多い権力が聖徒たちを誘惑し、迫害し、殺しましたが、権力に押さえ付けられて神様の愛を放棄した例(ためし)がありません。

「ヘブル人への手紙 11章37節〜38節」に、『また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、 ・・この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。・・荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。』と記されています。権力がいくら誘惑し、又は迫害するとしても、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。絶対に、キリストの愛から引き離されることはありません。

それから次には、「現在の事柄」が現われました。この世の「関心事」がどれ程多いですか。これらが、神様の愛から人たちを引き離すことができる、と言うのです。「ペテロの手紙 第一 1章24節〜25節」に見ますと、『「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。』と記されています。

世の中の事柄、世の中の関心事、それらがどれ程長続きしますか。瞬く間に去ってしまうのです。すべての人生は、草のように萎れ、花のように散ります。十日間を赤く咲く花がありません。ですから、このような、この世を暫くしてから過ぎ去る「現在の事柄」が、私たちをイエス・キリストの愛から引き離すことはできません。

『それでは、「将来の事柄」が出てきて見よ…。将来の不確実な不安が、イエス・キリストの愛から人たちを引き離すことができるか?』 皆さん、「ローマ人への手紙 8章24節〜25節」に、『私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』と記録されています。

私たちには、望みがあります。私たちには希望があるのです。将来、いくら不安な黒雲が覆い被さってきても、私たちには、天の御国に入って行く栄光なる希望がありますので、その希望の中でイエス・キリストの愛を堅く握り掴んで待ちます。将来の不安が、私たちをキリストの愛から引き離すことは絶対にできません。

今度は「能力」が現われて、「力」で強制的にイエス・キリストの愛から人たちを引き離して見せる、と言います。「ヨハネの手紙 第一 4章 4節」の御言葉です。『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』

どのような力が来て、私たちを強制的にイエス・キリストの愛から引き離そうとしても、キリストの力がもっと強いので、私たちを引き離すことができません。この世の力がどのようにして、私たちをキリストから引き離すことができるでしょうか。

その次に、「高さ」が来ました。「我らがどんなに高いか、知っているか? お前たちを抑え込んでやる。」しかし、「高さ」の高慢は何の価値もありません。神様より高いものがどこにあるでしょう。高い天の上の御座に着いておられる神様が、私たちを愛しておられるのです。その愛から私たちを引き離す、もっと高く強い力はどこにもありません。

すると、「深さ」が言います。「私が、イエスの愛から引き離してみせます。深い落胆と挫折で、イエスの愛から人たちを引き離します。」

「テモテへの手紙 第二 1章 7節」に、『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』と記されています。恐れる心が襲って来ても、絶対に私たちは挫折しません。それは皆さん、いくら「深さ」が来ても、イエス様はもっとも深い地獄も征服して立ち上がられました。ですから、そのキリストの愛から私たちを引き離すことができません。

神様がまた、仰せられました。「世界のどんなものでも、やって来い。イエス・キリストにある神様の愛から、主の民たちを引き離すくらいの力があるものは、やって来い。この宇宙のなかにそんなものがあったら、来てみよ!」

「ローマ人への手紙 8章39節」に、『高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』また、「マタイの福音書 28章20節」に、『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。』と記されています。

皆さん! 生きておられ、死なれてから、そしてよみがえられる事によって、生と死の権勢をすべて持っておられるイエス様に打ち勝つ力が、宇宙のどこにあるでしょうか。このイエス様のうちにある神様の愛が、私たちに注がれているのです。この愛から私たちを引き離すことのできる力は、天地の間のどこにもないのです。神様は永遠の愛で、キリストを通して皆さんを愛しておられ、皆さんがイエス・キリストを胸に抱いている以上、神様の愛から皆さんを引き離すことができるものがありません。

主が親しく言われました。あなたがたをわたしに下さった方は、万物よりも大きく、わたしの手から奪うことのできるものはいません、と。私たちが、自ら主に背を向けるのでしたら、それは止むをえません。しかし、私たちが神様に背かず、イエス・キリストが私たちと共にいて下さる以上、キリストにある神様の愛から私たちを引き離すものは、決してこの世にはありません。

皆さん! このように大きな愛をいただいている人が、クリスチャン以外にどこにあるでしょうか。皆さんと私は、どんなに大きなキリストの愛の中にいるかを、悟らなければなりません。愛は、証明されなければなりません。神様が、私たちを愛された証拠がここにあります。イエス様が私たちを愛されて、私たちの代わりに十字架に釘付けられ、その身を裂き、血を流して下さいました。

ご自分が死なれ、私たちを救う、これが愛です。主はその身を裂き、血を流しながら、私たちを悪魔と地獄と永遠の刑罰から救って下さったのです。私たちにただお恵みで、ただ信仰で、私たちを救って下さったのです。

今日、私たちが聖餐に与かるとき、この聖餐の中に現われた神様の愛を、私たちが食べ、そして飲むのです。裂かれた「身」を食べるときに神様の愛を食べ、この「杯」を飲むときに神様の愛を飲むのです。

そして、その愛にあって皆さんと私は、生き返るようになるのです。愛は、私たちを限りなく生き返らせる神様のいのちのみわざとなるのです。




お祈り

愛であられる、我らの天のお父さま! 父なる神様の愛が、イエス・キリストにあってこのように溢れるまでに現わされたことが、口では言い尽くすことができない「感謝」です。主である神様! 私たちイエス様を信じる人たちが、口では「主よ。主よ。」と呼ばわりますが、本当に、神様の愛がいかに大きく、栄光で、力があるのかを、心から理解することができません。

全知全能であられる神様! 今日、この愛を心の中に悟り、この愛の中で喜び、感謝する、私たちとなるように、助けて下さい。

未だ、この愛を受け入れることができない人は、あまりにも愚かな人です。神様の愛に背いては、世の中に出て行って居所を探し当てることはできません。宇宙の孤児になり、永遠に捨てられてしまいます。

我が天のお父さま! 今日、現わして下さった神様の愛を、私たちが皆、胸の中に深く受け入れて神様の子となり、そして完全に救われるようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!