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「苦難と信仰人格」
 






■聖書箇所

「ヤコブの手紙 1章 2節〜4節」
1: 2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1: 3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1: 4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。




今日、私は聖徒の皆さんと一緒に、「苦難と信仰人格」という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。 

「水火をも辞さない。」という言葉がありますが、火の中を通り、水の中を通る苦難は、本当につらく恐いものです。しかし、強弱の差異はあっても、すべての聖徒たちは苦難を通して鍛錬されるようになります。そうしてこそ立派な信仰人格の人になることができるからです。

私たちは、海に襲ってくる巨大な暴風を嫌います。台風が吹いてきて海を覆し、かき混ぜることは、別に気持の良いことではありません。ところが、自然生態系が生き残るためには、台風が吹いてこなければならないと言うのです。そんなに騒がしく海水をかき混ぜ、覆すような台風によって海水が浄化され、水の中に十分に酸素が溶け込んでそこの魚介類が生き、海中の植物が生きていけるようにしてくれると言うのです。それで、巨大な暴風雨は、終局的に海に生命をもたらし、腐敗を防ぐ巨大な浄化機能を果たすと言われています。 

このように、私たちに近づいてくる色々な試練と患難は、その当時にはそれが苦しく悩ましいもののようでありますが、終局的には、私たちの霊と心と生活を新しくする大きな働きをするのです。なぜ、私たちに患難が必要なのでしょうか? その理由を、皆さんと一緒に確認して見ようと思います。




第一、「香ばしい信仰人格」の為に

まず、香ばしい信仰人格の人になるために苦難が必要です。皆さん、ぶどう酒とオリーブ油をどのように作るのか、よくご存知の事と思います。ぶどうの木からその実を取って、それを洗ってから大きな桶に入れて、足で踏みつけます。継続足で踏みつけてぶどうを踏み潰せば、ぶどうから甘い汁が出て来て、それがぶどう汁となり、そしてぶどう酒となるのです。

ぶどうをそのまま放って置いては、絶対にぶどう汁やぶどう酒にはなりません。ぶどうを踏みつけて潰さなければなりません。容赦なく踏み潰さなければならないのです。そうすれば香ばしく、立派なぶどう汁になり、美味いぶどう酒になるのです。

オリーブ油も同じことです。オリーブの木から棒でオリーブの実を落とし、それを搗き潰します。オリーブの実をひき臼でひいて潰すか、搗き潰さなければなりません。そうすれば、オリーブの実が砕かれ、潰されて、香り高い油が出て来ます。その油をもって、聖所でともしびの油として使い、祈りの油注ぎにも使い、食料品にも添付し、体にも塗り、石鹸などを作ることにも使用します。

このようにぶどうやオリーブの実は、いつも足で踏み砕き、搗き潰してこそ、香ばしいぶどう酒が出来あがり、オリーブ油が出て来るのです。それで聖書には、このことを例に挙げてクリスチャンの生活を喩えるときが多くあります。

それで、こんにち私たちの信仰生活が平凡なものではなく、神様が私たち聖徒たちをぶどうの実やオリーブの実に喩えられたのは、私たちを踏み砕き、搗き潰してこそ、私たちから香ばしい油や香りが出るからなのです。踏み砕かれ、搗き潰される人生の体験は、私たちに大きな変化をもたらします。私たちが平凡なときには、悔い改めることをしません。平坦な人生を送るときには、そのままその生活になじんで嬉々揚々と生きて行きながら、自分自身を顧みる機会がなく、痛く悔やむとか罪を告白するとかしません。しかし苦難が襲って来て踏み潰され、苦しくなれば砕かれます。そして悔い改めるようになるのです。

「ヤコブの手紙 5章13節」に、『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。』と記されています。私は41年間牧会をして参りながら、聖徒さんたちを見てきましたが、聖徒さんたちを変化させるもっとも大きな力は、苦難であることを知りました。苦難が襲って来て踏みにじり、搗き潰したら、どの誰も悔い改めない「強情者」はおりません。

「詩篇 34篇17節〜19節」を見ますと、『彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。』と記されています。

それゆえ、正しい人は多くの苦難に会い、その患難によって砕かれ潰されて悔い改め、自ら罪を告白するようになれば、神様がその人を引き上げて、もっと高く広い信仰の位置に移してくださるのです。ですから、踏み躙られ、搗き潰される人生の体験は、私たちの人生になくてはならない必要なことです。砕かれて神様に降伏するためには、私たちに襲って来る苦難が切実に必要なのです。

「へブル人への手紙 5章 7節〜9節」を見ますと、『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、』と記されています。

神様の御子であられるイエス・キリストは、傷も咎もない方でありますが、苦難を通して従順を学ばれた、と言われているのです。もちろんイエス様は、完全な信仰と完全な従順の持ち主ではありましたけれども、苦難を通されながらどれほど従順に聞き従い、信じられたかが証明されたのです。神様の御子でさえ苦難を通して信仰と従順が証明されたのなら、私たちのような者が信仰と従順を学び、あるいは信仰と従順を証明するためには、必ず苦難を通らなければならないのです。それゆえに、苦難が私たちを砕き、神様に両手を上げて降伏するようになるのです。

そして、苦難に会うとき、人は謙遜になり柔和な者に変化されます。そうでないときには、高慢で自分自身を自慢し、自分の地位や名誉やお金や健康や美貌に拠り頼むときが多いです。しかし苦難が襲って来て粉々に踏み躙られれ、打ち砕かれたら、生意気であったすべてが砕かれしまいます。そして謙遜に低姿勢になり、柔和になるのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 5節〜6節」を見ますと、『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』と記されています。神様は、恵みをほどこし、高めて下さるために、まず砕いて謙遜に作り変えて下さるのです。その謙遜にするための方法が、まさに苦難の激しい風に吹き晒されることです。

「ペテロの手紙 第一 1章 7節」にも、『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』と記録されています。私たちの患難の極めて軽い試練が、称賛と光栄と栄誉を私たちに与えるようになるのです。患難は、私たちのあらゆる生活の汚い垢を剥ぎ捨てさせます。堅い殻を砕き捨てさせるのです。そうして、柔和で温かく美しい人格の人に変化させるのです。

「詩篇 119篇71節」にも、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』とあります。苦難に会う前には、自分の思うままに無茶苦茶に振舞いますけれども、苦難に会ってからは、深く悔い改め、真理を悟り、神様の掟を恐れ、神様の掟を守るようになるのです。苦難に会う前には、聖日も守らず、十分の一も献金せず、神様に仕えもしなかった人が、苦難に会い砕かれた後からは、聖日を守り、十分の一を間違いなく捧げ、熱心に教会で奉仕・献身しながら、主に仕える信仰人格の人に変化されたのを私は無数に見ます。

それゆえに苦難は、私たちに襲って来て、香ばしい信仰人格の人に変化させてくれるのです。皆さん! どのような聖徒も、本当に香ばしく柔和で謙遜ですばらしい信仰の人であれば、その人は過去に数多くの苦難を通過した人であることを知ることができます。




第二、鋼鉄のような信仰人格のために

次には、私たちが鋼鉄のような信仰人格の人になるために、苦難が私たちに必要なのです。皆さん! 鉄はもともと鉱石を溶鉱炉に入れ、コークスと石灰石を入れて溶かせば、鉄になって出て来ます。しかし鉄には不純物が多く混じっています。この鉄を'鋼鉄'にするためには、継続して溶かし、火の中に入れたり水の中に入れたりして鍛造し、そして強圧力で叩いたら、それが鋼鉄になるのです。鍛えられて強化した鋼鉄になってこそ、これを橋にも使用し、電車線路、自動車、電車、その他兵器もこれでつくる等、このように言い尽くせない広範囲の必需品をつくることができるのです。

神様は、強い信仰の人を通してのみ、天の御国を建てることができます。強い信仰の人でなければ、天の御国を任せることができません。その人が倒れたら、天国がみな倒れるからです。それゆえに、天国での数多い栄光の働きを任せるためには、強い信仰人格者を造り上げなければならないのです。ところが、そのような強い信仰人格者がただでは、造り上げられません。溶鉱炉に入れて鉄を作り、それを打ち叩き、水に入れたり火に入れたりして強化してから鋼鉄にするように、数多くの苦難の火、試練の水を通すことによって、強い信仰人格ができ上がるのです。

「ローマ人への手紙 5章 3節〜4節」に、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』と記されています。また、「箴言 17章 3節」にも、『銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。』と記されています。金を練り、銀を練るが如くに、神様は私たちの心を患難の火で練ることによって、滓(かす)をすべて除き捨て、純粋なものに変化させて下さるのです。

私たちが聖書を見ますと、ヨセフのような人物は、苦難と試練を通して鋼鉄のような強い信仰人格者になったことが分かります。彼はエジプトの国民と父の家族を皆、生存させることができる強い信仰的指導者になりました。そのために、数多くの試練と患難に会いました。

ヨセフは、自分の兄さんたちの手によって売り飛ばされました。ヨセフがエジプトの隊商に売られるとき、兄さんたちに手をすり合わせながら、「売らないでください。助けてください。」と泣き叫び拝みましたけれども、兄さんたちは笑いながら、「こいつ、行ってしまえ。おまえの夢がどうなるか、見ようじゃないか。」ヨセフが兄さんたちから裏切られた、その試練と苦痛は、筆舌では言い表すことができません。愛する父のもとを離れ、若干17歳にしてエジプトに奴隷として売られて行くということは、あまりにも大きな試練でありました。

彼は、ポテファルの家で奴隷生活をしました。昔の奴隷生活は、獣のような扱いを受けました。奴隷は、いくら殴り殺しても何の責任も問われません。そのような奴隷生活をしながら、ヨセフは成長しました。ある日、ヨセフはポティファルの妻から濡れ衣を着せられて監獄に投げ込まれ、その監獄で数年をつぶしました。彼は17歳のときから30歳になるときまで、一時も安らかに暮らすことができませんでした。恐ろしいほどの火と水を通る苦難に会いました。しかし、この苦難がヨセフを強い人にしてくれたのです。

後に、自分を売った兄さんたちが自分のところに来て跪き、謝るとき、ヨセフはこのように答えました。『ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』(創世記 50章19節〜21節)

こうした答えは、偉大な信仰人格者でなければ答えられないことです。自分を、13年間という長い間奴隷生活をさせ、ひどい監獄生活の苦難に会わせた、その原因である兄さんたちに向かって、彼は却って丁重な言葉で慰め、彼らと彼らの子供たちを養いましょう、と言ったのですから、このような人格は、苦難と試練に練りに練られた強い信仰人格にならないことには、決してできないことです。

「ローマ人への手紙 8章28節」にも、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と言われています。ですから皆さん、苦難が皆さんと私を強い信仰人格者に造り上げてくれるのです。些少な苦痛にも崩れ、ちょっとした非難や攻撃にも膝を屈してしまう弱い人間ではなく、どのような逆境が襲って来てもそれに耐え得る信仰人格者にしてくれるのです。そうして、どのような逆境にも打ち勝つ力を持つようにしてくれるのです。




第三、ダイヤモンドのような信仰人格の為に

ダイヤモンドのような信仰人格にするために、苦難が必要なのです。ダイヤモンドは、平凡な炭素が強い地圧と数千度の熱い熱によって、美しく強固で光り輝く宝石になるのです。もとは普通の炭素です。炭も一種の炭素です。これが、どうしてぴかぴか光るダイヤモンドになるのでしょうか。深い地下で、ものすごく熱い熱と地圧の強い圧力によって、平凡な炭素が美しいダイヤモンドに変化されるのです。

ダイヤモンドは、多くの女性たちが喜ぶアクセサリーになり、工業用として金属を切り加工する切削道具になり、あるいは耐磨耗性の機械部品として使用されるようになります。この平凡な炭が強い地圧と熱い地熱によって変化されてダイヤモンドになるように、こんにち神様は、非常に強い忍耐力があり、燦爛と輝く指導者になるようにするために、私たちを苦難に遭うようになさるのです。

モーセをご覧ください。モーセは、本当にダイヤモンドのような信仰人格者でありました。彼は300万人のイスラエル民族をエジプトから導き出して、荒野を旅し、乳と蜜が流れる地に導いて行った偉大な指導者でありました。食糧もなく水もない荒野を過ぎる間に、あまりにも不平を言い、恨み、逆らい、嘆くその民たちを肩に背負って行くためには、その強靭な信仰による指導力がなくては決してできないことでありました。

神様は、モーセをこのような人に造りあげるために、彼が40歳の時にパロ王の脅かしを受けるようにして、荒野に追いやられました。彼は荒野という人里離れた所で、40年の歳月を羊飼いとして暮らします。エジプトの華麗な王宮で暮らした彼が、荒野に追い出されて、人気のない所、風の音、鳥の声だけを聞きながら羊を引き連れて、この山からあの山へと、またこの砂漠からあの砂漠へと移り歩きながら、果てしなく泣きました。そして彼の心は言い尽くせない苦痛の中で砕かれ、また砕かれました。40年間の荒野での苦しみの中で、彼は変化されました。

聖書の「哀歌」で、エレミヤはこのように言っています。『私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。』(哀歌 3章19節〜22節)

モーセはあまりに苦しい生活をしながら、地熱のような熱い試練と地圧のようなものすごい患難に打ち勝ち、80歳になったときには地上で最も柔和で温厚な人になっていました。そのように変化させてから、神様は彼を呼んで、イスラエルの民を導くよう使命を与えられたのです。

神様は、行き当たりばったりにモーセを呼び出して、「あなたが、イスラエルの指導者になりなさい。」と言われたのではありません。彼に激しい試練と極限の患難を通らせて、平凡な炭のような人生をダイヤモンドのように強力な人格に変化させてから、神様がご使用なさったのです。私たちの神様は、仕事を任せようとなさる時には、どの誰を問わずに、試練と患難を通して砕き、強靭な信仰人格の人に変化させてからご使用なさるのです。




第四、真珠のような信仰人格の為に

真珠のような信仰人格の人になるためには、必ず試練が必要です。真珠は、傷を負った貝によって作られます。真珠を作る専門家の話しによりますと、人工真珠を作るときには、真珠貝の舌の下に砂のような鋭いものを差し入れると言います。そうするとこれが絶えず肉に食い込むので、とても痛く苦しくなって、貝が自ら分泌物を出してこれを何とかなくそうと努力するのですが、そのときの分泌物が鋭いものを継続包み、それが丸くなって、最後にはとても澄んだ光彩を放つ美しい真珠になるというのです。

ダイヤモンドが出現する前には、真珠が最高の宝石でありました。このように、貝の中に鋭い砂のような異物を差し入れ、それが貝の肉を傷つけることによって貝が苦しくなり、貝が異物をなくそうとして分泌物をだして、それで絶え間なく異物を包み、それが徐々に大きくなって、遂に真珠になるのです。このように、真珠のような美しい信仰人格者になるためには、苦難に揉まれなければなりません。

苦難がないときは、私たちは祈りません。砕かれることがなく、神様の前にすべてをお委ねしようとしません。しかし苦難が襲って来たら、祈るようになり、祈りが苦難を包むのです。真珠貝が分泌物で鋭い砂をしきりに包むように、祈りを通して苦難がひっきりなしに包まれ、覆われ、また包まれることによって、その人の人格が徐々に、真珠のように美しく澄んで光彩を放つようになるのです。

大小を問わずに傷を受けて、それに打ち勝つためにたくさんの涙の祈りをするようになれば、その人の人格が真珠のように貴く美しくなるので、神様がそのようになさるのです。 「ヨブ記 23章10節」を見ますと、『しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。』と記されています。練られた後に、金のように、真珠のようになるのです。

「詩篇 84篇 5節〜6節」に、『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』と記されています。私たちが泉の水を飲み、泉の水で農業を営み、その水であらゆることをするではありませんか。涙の苦難に遭うとき、却って神様は、その人を人が飲んで生気を得、農業を営むことができる泉の所としてくださると言うのです。

私が考えるとき、使徒パウロこそ真珠のような信仰人格の持ち主の代表だと思います。パウロは数多くの傷を受けました。同族の迫害と宣教の危険と肉体のとげのために、彼は神様に身悶えしながら呼ばわり祈り求めました。船に乗って呼ばわり祈り、監獄の中で呼ばわり祈り、道を歩きながら呼ばわり祈り、福音を伝えながら呼ばわり祈り…、パウロは絶え間なく神様に祈りました。そうすることによって、彼にもたらされるすべての患難がみな、美しい珠玉のような実を結んだのです。

こんにち、新約聖書の大部分の珠玉のような神様の御言葉は、パウロ先生によって記録されました。パウロ先生が数多くの苦難を通して、その傷を包むために呼ばわり、祈りに祈った、その祈りの結果、神様は新約聖書というこの真珠を、パウロ先生によって作り出すようになさったのです。

「コリント人への手紙 第二 12章 9節〜10節」を見ますと、『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』と、パウロ先生は言っています。

数多くの試練と患難と窮乏と困窮に遭いながら、パウロ先生は祈ることによって神様の力強い御力を体験し、彼の人格は真珠のように変化されたのです。

天国は、多くの苦難を通して真珠になった聖徒さんたちが入って行くところです。天国の門は、12の真珠の門でできていると言われています。真珠は、苦しみを通して作られたものです。この世で数多くの苦しみに遭いながら、それを祈りと涙で勝ち抜いた人々が入るところが、まさに天国なのです。真珠になった私たちが、真珠の門を通って天国に入って、主と共に永遠に生きるようになるのです。

良く考えて見ますと、苦難は天国の宝を造り出す工場です。神様は、香ばしく、強く、強靭で、光り輝き、そして美しい聖徒さんたちを養成するために、苦難と言う「天国工場」を出入りするようにして下さるのです。皆さんには小さい苦難もあり、大きい苦難もあります。

しかし神様が、本当に「鋼鉄」のような、「ダイヤモンド」のような、「真珠」のような聖徒にするために、普通の人たちより、皆さんをもっとたくさんの試練、患難、苦しみの水と火の中を通るようになさるのです。また、平凡な聖徒たちの中から、「より香ばしく変化された聖徒」にするために、ぶとうの実のように、オリーブの実のように、踏み躙り、搗き潰してから、神様はそのような聖徒をご使用なさるのです。

ですから、聖書の御言葉の通りに、『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』

ですから、私たちの信仰人生は、一方では神様が私たちを祝福してくださって、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、そしていのちを豊かに得るようにしてくださるだけでなく、もう一方では、神様が試練と患難と苦難の火と水を通らせて、皆さんを香ばしく、また鋼鉄やダイヤモンドや真珠のような美しく価値ある聖徒にしてくださるのです。

このために、私たちが患難と試練と苦しみに会うときには、呼ばわり、祈り、そして変化されなければなりません。そして豊かな良き暮らしをし、幸福で、恵まれているときには、神様に感謝と賛美を捧げながら暮らさなければならないのです。

私たちの一生は、いつもバラの花の中を歩いて行くのではありません。また、いつも茨の道だけを歩いて行くのでもありません。自然界にも、暖かい太陽の陽射しが照らされる日があれば雨が降る日があり、風が吹く日があれば静かな日があるように、皆さんと私が神様の大いなる祝福の中で楽しみながら暮らすかと思えば、ある一瞬間、神様は私たちを試練と患難を通して砕き変化させて、私たちの信仰人格が成長するようにしてくださるのです。

私たちの信仰は、苦難を通して成長し、また祝福していただいて楽しみ、また再び苦難を通して砕かれ、変化されて成長し、また祝福をいただいて楽しみながら生き、そして永遠の天国・故郷の地に入るときには、私たちが皆、香ばしい聖徒として、鋼鉄のように、あるいはダイヤモンドのように、あるいは真珠のように貴く光輝く信仰人格の聖徒になって、天の御国へ入るようになるのです。




お祈り

聖く、栄光に満ちた私たちの父なる神様! 私たちにいろいろな試練と患難が襲って来ます。天のお父さま! 一方からは祝福をいただくと同時に、もう一方からは試練と患難と苦しみに遭います。私たちが試練に遭うとき、何か異常なことに出くわしたかのように思わないように、助けてください。私たちイエス様を信じる人たちの生涯は、試練を通してこそ砕かれ、変化されて、もう一歩成長し、発展する信仰の人になるということを知るように恵んでください。

全知全能で、愛であられる神様! 私達がもっと薫り高く、強く、ダイヤモンドのように高価で、また真珠のような美しい信仰人格の人になるためには、試練、患難を通らなければならないと言うことを教えてくださって、有り難うございます。これからは、苦しみに遭っても気落ちすることがないように助けてください。絶対に後ろに退くことがないように助けてください。怨むとか嘆くことがないように助けてください。

主である我が父なる神様! 私たちが益々砕かれ、悔い改め、そして変化されて、神様に感謝し、さらにはもっと成長するように導いてください。すべて、イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン