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「私のために食事をととのえられる牧者」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 5節」
23: 5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『私のために食事をととのえられる牧者』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

ある人から深い心の傷を負うようになった婦人が、怨みを晴らすことができずに夜昼となく復讐することだけを思い巡らしている途中、偶然に、聖書「ローマ人への手紙 12章19節〜20節」の御言葉を読むようになりました。『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。』

この聖書の御言葉を読んだ後、その婦人は復讐することを神様にお任せしました。その結果、彼女は心に大いなる平安を得るようになった、と言う証しを読んだことがあります。

私たちはこの世を暮らす間、大小様々な敵に会うようになります。この敵たちに対して、主はどう考えられ、どうなさるでしょうか?「詩篇 23篇 5節」に、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』と記録されています。




第一、「主は、私の敵の前で」

第1番目に、主は、私たちが敵の目の前に立つようになるとき、私たちを捨てるとか、私たちから離れ去ることはなさらず、私たちと共に居てくださり、敵との間に入って来られて敵の前に立たれるようになるのです。敵が私たちを打つとき、そこには主も共に居てくださるのです。私たちを打つ敵を見つめずに、私たちは共に居てくださる主をいつも見つめ、主にあずかって私たちは心の平安と力を得なければならないのです。

エリシャはいつも、神様の啓示をいただいてイスラエルの王を助けました。アラムの王ベン・ハダデが軍隊を動員して押し寄せて来る場所を告げて上げ、イスラエルがそこを攻略するようにして、アラムをいつも打ち負かしました。それでアラムの王が怒りに燃えて、どんなことがあってもエリシャを捕まえてくるようにと、全軍に命令しました。

ところが或る日、エリシャが召使の若い者と一緒にドタンで一夜を明かしました。エリシャがドタンにいると言う知らせを受けたアラムの王が大軍を動員してドタンの町を厳重に包囲しました。エリシャの召使が朝早く起きて外に出て見て、非常に驚いて肝をつぶしてしまいました。なんと、アラムの馬と戦車の大軍がその町を幾重にも包囲しているではありませんか。

それで、その若い者は慌てふためいてエリシャのもとに駆け込み、「ああ、ご主人さま、どうしたら良いのでしょう。大変なことになりました。もう私たちは生きてはこの町を出ることができません。ドタンの町がアラムの軍隊で厳重に取り囲まれています…。」と報告しました。

そのとき、エリシャが若い者に向かって言いました。「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者より多いのだから。」そしてエリシャは祈って主に願いました。「どうぞ、この若い者の目を開いて、見えるようにしてください。」それで主が、その召使の目を開いてくださったので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。

また、エリシャは「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」と、主に祈って言いました。すると、主はエリシャの願った通りにアラムの軍隊を打って、すぐに彼らを盲目にされました。それでエリシャは、アラムの全軍を引き連れてイスラエルの首都サマリヤに行き、彼らをみんな捕虜として捕らえてしまいました。

それからエリシャが言うとおりに、イスラエルの王はアラムの捕虜たちのために盛大なもてなしをして、彼らに思う存分の飲み食いをさせてから、彼らを帰しました。その後、相当な期間の間、アラムはイスラエルに攻めて来るようなことはしなくなりました。

このように、私たちがどのような敵の中におり、敵がいくら私たちを取り囲んで陣を敷くとしても、いつも知って置くべきことは、敵と私たちとの間に我が神様が私たちを取り巻いて陣を敷いて居られると言うことを悟らなければならないと言うことです。敵の真ん中にいるとき、主は私たちを捨てられず、私たちと共に主は居てくださるのです。

「ヨハネの福音書 10章11節〜15節」を見ますと、『 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。』と記録されています。

イエス様は、羊のためにいのちを捨てます、と言われました。いくら狼が来ても、他の人はみな逃げて行っても、イエス様は逃げることがなく、いのちを捨てることがあっても羊を守り、羊のためにご自分のいのちを捨てる、と言われたのです。ですから、敵がいくら私たちに攻め込んで来ても、私たちは少しも恐れる理由がないのです。なぜかと言えば、主がいつも私たちと共に居てくださるからです。




第二、「私の敵の前で、食事をととのえられる主」

第2番目に、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえられる。」と詩篇の記者は詠いました。この詩篇の御言葉を通して私たちは知らなければならないことがあります。まず、「食事をととのえられる」と言うことは、ご馳走を準備してくださると言うことです。敵が私たちを盗み、殺し、滅亡させようとするとき、その敵の前で主がご馳走を準備してくださると言うのです。何故、主がご馳走を準備してくださるのでしょうか? 敵を料理して私たちにご馳走を食べさせるためなのです。

私たちの主は、敵の前でご馳走を準備してくださり、敵を料理して私たちに勝利のご馳走を食べさせてくださるのです。ダビデをご覧ください。ダビデが、ペリシテ人たちの軍隊と戦う兄さんたちを慰問するために行ったとき、たまたまペリシテの大将軍ゴリヤテが出て来て、イスラエルを脅迫し、恐喝しました。

「サムエル記 第一 17章 8節〜11節」を見ますと、『 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』と記録されています。

イスラエルの人たちは、ゴリヤテの脅迫と恐喝に恐れおののいて後ろに退き、急いで隠れ場を探し回りました。そのとき、それを見たダビデは憤怒が破裂しました。「一体、割礼も受けておらず、神様との約束もない、このペリシテのゴリヤテが何なので、生きておられる神様の軍隊をなぶるのか…。」ダビデは大胆にゴリヤテに向かって出て行きました。

ダビデは知っていました。敵が近寄って来たら神様も近寄って来られると言うことを。そして神様は、敵を料理して盛大な饗応を準備され、もてなしてくださる、と言うことをダビデは知っていたのです。それでダビデは、強く雄雄しく、ゴリヤテに向かって出て行きました。

ダビデは、なめらかな石を五つ取り、それを羊飼いの使う投石袋に入れ、石投げを手にしてゴリヤテに近づいて行きました。そして、石投げで石を放ち、ペリシテ人の額に命中させました。ペリシテの大将軍ゴリヤテは、その場でうつぶせに倒れて死にました。ダビデは走って行って、ゴリヤテの上にまたがり、ゴリヤテの剣を奪って鞘から抜き、それでゴリヤテにとどめを刺してから、彼の首をはねました。

それを見たペリシテの軍隊は慌てふためいて逃げ出しました。遂にイスラエルは大勝利を収めました。まさにこれが、我が神様が敵の前で食事をととのえられると言うことです。神様はゴリヤテを屠って料理をこしらえられたのです。そして、それをダビデに食べさせ、イスラエルにも食べるようになさったのです。

聖書に記録されています。「私の敵の前で、主は食事をととのえられる」と。こんにちも、敵が来たら神様も共に居てくださり、敵を料理して私たちに盛大な饗応を準備してもてなしてくださるのです。敵を材料にして料理を作られ、それで盛大な饗応をほどこされるのです。ダビデのために神様はゴリヤテを料理されました。ゴリヤテ料理をダビデが食べるようになさったのです。

ネブカデネザル王の前でととのえられた「火の燃える炉の料理」も、皆さんは良くご存知のことと思います。ネブカデネザル王がドラの平野に、高さが30メートルにも及ぶ金の像を造って立てました。そして、太守、長官、総督、参議官、財務官、保安官、および諸州のすべての高官を呼び集めて置いて、もろもろの楽器の音を聞くとき、その金の像を拝めよ、と命令しました。

しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはバビロンの官吏ではありましたけれども、もろもろの楽器の音が鳴り響くとき、びくともせずに立ったまま、拝むこともしませんでした。聖書に「偶像を拝んではならない。」とある神様の御言葉を忠実に守ったのです。このことを聞いたネブカデネザル王は、大いに怒り猛りました。

「ダニエル書 3章13節〜15節」に、『 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」』と記録されています。

そうするとき、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは答えて言いました。『王様、もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。もし、そうでなくても、王様、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、敵と一緒に居るときに神様が共に居てくださり、敵の前で神様は食事をととのえてくださる、と言うことを知っていました。

ネブカデネザル王は怒りに満ち、顔つきが変わって、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを捕え、縛って、普通より七倍も熱くした燃える火の炉の中に投げ込みました。そうしてから、ネブカデネザル王は非常に驚き、急いで立ち上がりました。炉の中に3人を投げ込んだのに、瞬間、炉の中では四人の人が手を取り合って、そこで踊り回っていました。

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛った捕縄は跡形もなく、彼らは自由なからだになって第四の人と一緒に踊っていたのです。ネブカデネザル王は、「第四の者の姿は神々の子のようだ。」と言いました。ネブカデネザル王が、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。すぐ出て来なさい。」と言うや、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来ました。見ると、彼らには火の効き目が全くなく、頭の毛も焦げず、衣服も以前と変わりがありませんでした。

まさしく、神様は敵の前で食事をととのえられ、火の燃える炉を料理してしまわれたのです。ネブカデネザル王は火の燃える炉に投げ入れて、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを焼殺せと命令しましたが、神様は敵の前で火の燃える炉を料理して盛大な饗応を施され、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがそれらを食べるようになさり、勝利を博するようになさいました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの前にネブカデネザル王はひざまずいて降伏し、天におられる神様を信じる信徒となってしまったのです。

私たちはまた、ペルシヤのダリヨス王の前でととのえられた「獅子の穴の料理」を見ることができます。ペルシヤのダリヨス王の時代に、ダニエルが三人の大臣の一人でありましたが、際立って優れていたためにダリヨス王がダニエルを三人のうちの主席大臣に任命しようとしました。そうするや、それを嫉妬して大臣や太守たちは何とかしてダニエルを失脚させ、死地に追い込もうと躍起になりました。

それで彼らは、ダリヨス王に「ダリヨス王よ。今から30日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願するものはだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」と申し入れました。それでダリヨス王は「良し」として、その禁令の文書に署名しました。

それを知っていながらもダニエルは、いつものようにエルサレムに向かっている東の方の窓を開いて、日に三度、ひざまずき、祈りました。これを理由にして、ペルシヤの大臣たちや太守たちはダリヨス王にダニエルを告訴しました。

「ダニエル書 6章13節〜16節」を見ますと、『 そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」 このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。 そのとき、あの者たちは申し合わせて王のもとに来て言った。「王よ。王が制定したどんな禁令も法令も、決して変更されることはない、ということが、メディヤやペルシヤの法律であることをご承知ください。」 そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」』と記録されています。

ダニエルは讒訴されました。そして獅子の穴に投げ込まれました。しかし神様は、まさにその敵「獅子の穴」を料理してしまわれました。御使いを送って獅子の口をふさぎ、ダニエルには近づくこともできないようになさいました。

その翌日の夜明けに、ダリヨス王が獅子の穴に急いで行きました。そして悲痛な声でダニエルに呼びかけました。「あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか?」するとダニエルが、獅子の穴の中から答えて言いました。「王さま。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」まさにその獅子の穴が、神様が敵の前で食事をととのえてくださり、料理してくださったご馳走なのです。

神様はその「獅子の穴の料理」をダニエルが食べて、大いなる勝利を味わうようにされたのです。ですから、私たちはこのような事実を見るとき、神様は敵の目の前で食事をととのえられ、敵を料理してくださる神様であられることを知るようになるのです。ゴリヤテを料理された神様、ネブカデネザルの火の燃える炉を料理された神様、ダニエルの獅子の穴を料理された神様は、こんにちも私たちと共にいてくださって、私たちの敵を料理してくださるのです。

北朝鮮がいくら私たちを盗み、殺し、滅亡させようとしても、大韓民国に1千2百万の聖徒がおり、5万の教会、10万の主のしもべたちが祈っている以上、北朝鮮が私たちに押し寄せて来たら、彼らはすぐに料理されてしまいます。西海海戦(いくらか前に、北朝鮮の軍艦が南進して来たので、我が海軍がそれを迎えて戦った海戦)のときも、そこに神様が御臨在してくださり、主が食事をととのえてくださって、北朝鮮の軍艦らを料理してしまわれたのです。私たちの神様は一流の料理人です。何の味もないものも美味しく料理なさいます。それでいつも、私たちが盛大な饗応のもてなしを受けるようにしてくださるのです。




第三、「私の頭に油を注いで下さいます。私の杯は、溢れています。」

第3番目に、神様は食事をととのえられて私たちに料理を食べさせた後には、私たちの頭に油を注いでくださいます。「私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、溢れています。」と聖書に記録されています。油を注いでくださる、と言うことは、高めてくださることを意味します。イスラエルの民たちの中から選ばれた人たちは、油を注いでいただいて王となり、祭司となり、預言者となりました。

ダビデは、ゴリヤテと戦った以後に「ゴリヤテの料理」を食べ、その次に神様が彼に油を注いで高められて、イスラエルの大王となるようにしてくださったのです。万が一、ゴリヤテが向かって来なかったら、ダビデはイスラエルの奥地で一介の牧童として終わってしまったかも知れません。ところが彼はゴリヤテが向かって来たので、神様がこの敵の前で「ゴリヤテ料理」を食べるようになさり、その結果、ダビデに油を注がれて、ダビデがイスラエルの大王となるようにしてくださったのです。

ですからダビデには、ゴリヤテがイスラエルに攻め込んで来たことが大きな祝福の根源となったのです。もしもゴリヤテが攻め込んで来なかったら、ダビデは絶対に「ゴリヤテ料理」を食べることができなかったでしょう。従って、神様が彼に油を注いでくださり、彼の杯が溢れるようにしてくださることはなかったはずです。ですから、敵に会うと言うことは私たちには大いなる祝福となる、と言うことを悟るようになりますよう、主の御名によってお祈り致します。

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、「燃える火の炉の料理」を食べてバビロン州のもっと高い地位を得るようになりました。ネブカデネザル王が、このシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが燃える火の炉の中から無事に生きたまま出て来るのを見てあまりにも感動し、彼は悔い改めて主である神様を信じるようになり、そしてシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを大いに高めたのです。

「ダニエル書 3章29節〜30節」に記録されているように、『それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。』と、ネブカデネザル王は言ったのです。敵が来るとき、主はその敵を料理して食べるようにしてくださり、その結果、もっと高くなるようにしてくださるのです。

ダニエルは「獅子の穴の料理」を食べさせていただいて、ペルシヤ王国の総理大臣となりました。ダニエルの敵であった他の大臣や太守たちは、彼らの家族たちと一緒に獅子の穴の中に投げ込まれましたが、彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとく噛み砕いてしまった、と聖書に記されています。しかし、ダニエルは獅子の穴の中に入って行っても、神様がその獅子の穴を料理してくださり、ダニエルが偉大な勝利の盛大な食事を味わうようにしてくださったのです。その結果、どうなったでしょうか。神様がダニエルに油を注いで下さって、もっと高くなるようにしてくださったのです。

「ダニエル書 6章27節〜28節」を見ますと、『この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。』と記録されています。ダリヨス王もあまりにも感動して、彼も悔い改めて主である神様に仕えるようになってしまったのです。そしてダニエルを高めて、ダニエルは国務総理としてダリヨス王の時代だけでなく、クロス王時代の時まで異邦の国を支配したのです。

聖書は、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」と記録しています。敵が来ても神様はその敵を料理して私たちが盛大なご馳走にあずかるようにし、その結果、油を注いでもっと高めてくださり、終局的には、お恵みの杯が満ち溢れるようにしてくださるのです。なぜかと言えば、勝利と幸福な人生を、神様はその結果として与えてくださるからです。

「ヨハネの福音書 10章10節」に、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と記録されています。盗人が来たら、盗人の前で主は包丁を手にして盗人を料理なさり、盛大な食事を私たちが食べるようにしてくださり、私たちを高めてくださり、お恵みの杯が溢れるようにしてくださる、驚くべき偉大な牧者となられるのです。

「コリント人への手紙 第一 2章 9節〜10節」に、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と記録されています。

私たちは、目で見たことがなく、耳で聞いたことがなく、心に思い浮かんだことがなくても、神様は私たちにいつも勝利をするようにすべてを備えてくださるのです。

「ルカの福音書 11章11節〜13節」に、『あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』と記録されています。

神様はいつも私たちに聖霊を与えてくださって、かしらとならせ、尾とはならせず、ただ上におらせ、下へは下されず、貸すことはあっても、借りることはない、勝利の人生を生きるようにしてくださるのです。

皆さん、私たちが人生の旅路にあって敵に会いたくないのは、人情の常です。できることなら、敵に会わずに暮らすことが第一の最善です。しかし、自分の念願するところとは関係なく、敵の攻撃に会うときが稀ではありません。自分がいくら正直に、誠実に、忠実に暮らして行くとしても、私たちの周辺に敵が現れて、私たちを盗み、殺し、滅亡させようとし、私たちの肉を食べ、私たちの骨をひしごうとします。こうなので、私たちが敵の前でどのような身のふり方をしたら良いか、わかりません。

しかし、そのようなときには、私たちと共に居てくださる牧者・イエス様を大胆に信じて、敵とは妥協することがない信仰を実践しなければなりません。私たちの牧者であられる神様は、敵が押しかけて来るといって私たちを捨てて逃げ去るようなことはなさいません。敵に向かって私たちと一緒に前進してくださるのです。

そして、私たちの主は敵の前で食事をととのえてくださいます。料理用の包丁を取り出して敵を料理なさり、盛大な山海のご馳走をととのえられて、私たちに食べなさい、と言われるのです。敵が来なかったら、私たちは神様が料理してくださる山海の珍味を味わうことができません。神様は、敵が来たら必ずその敵を料理して私たちに食べさせてくださるのです。敵は神様の御手によって料理されるのです。

ですから、私たちは敵に自分で復讐しようとしてはいけません。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」と、主が言われたのです。従って、私たちは敵を主の御手にお任せして、私たちは敵を呪ったりせずに、かえって祝福して上げなければなりません。神様が必ず敵を料理されるからです。

ゴリヤテを料理なさった神様、燃える火の炉を料理なさった神様、獅子の穴を料理なさった神様は、こんにちも私たちと共に居てくださって、私たちの敵を料理してくださるのです。敵は何も知らずに、私たちを打ったら滅ぼすことができると思って襲って来ます。けれども、私たちの牧者であられる主が敵を迎え撃ち、それを料理して山海の珍味にしてくださり、私たちにそれを食べさせて勝利を味わうようにしてくださるのです。

もしもゴリヤテが来なかったら、ダビデがどこで勝利を満喫することができたでしょうか。燃える火の炉がなかったら、シャデラクとメシャクとアベデ・ネゴがどのようにしてそんな偉大な信仰の人物となることができたでしょうか。ダニエルが獅子の穴に投げ込まれなかったら、どのようにして神様が生きておられることをダリヨス王が悟ってダニエルを最高の国務総理に高めることができたでしょうか。敵は、私たちが神様から油を注いでいただいて高められ、お恵みの杯が溢れるようにしてくれる手段となる、と言うことを忘れませんよう、主の御名によって祈願いたします。

私たちの神様は、私たちが勝利のご馳走を腹いっぱい食べるようにしてくださり、かえって、敵の故に高めてくださり、お恵みの杯が溢れるようにしてくださるのです。敵が襲って来てこそ、盛大なご馳走もととのえられ、私たちが高められ、お恵みの杯も溢れるようになるのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてを働かせて益としてくださる」のです。「主は、敵の前で私たちのために食事をととのえられ、私たちの頭に油を注いで私たちを高めてくださり、私たちにお恵みの杯が溢れるようにしてくださる」のです。牧者がない人たちは、敵が襲って来たら、敵に食い裂かれ、噛み砕かれてしまうでしょうけれども、私たちには牧者であられるイエス様が共に居てくださるのです。イエス様は決して私たちを捨てず、私たちから離れて行かれません。

牧者・イエス様は、敵を征服するために十字架で身を裂き、血を流されて、死なれてからよみがえられた勝利者なのです。主が私たちと共にいてくださったら、主は敵の前に私たちと共に現れて、いつもその全知全能なる御力で敵を料理なさり、敵を食材にして私たちにご馳走をもてなしてくださいます。その結果、私たちは主から油を注がれ高めていただいて、私たちは満天下の人たちから崇められ、お恵みと祝福の杯が溢れるようにしてくださるのです。

それで、私たちの主イエス・キリストを牧者として暮らす人は、いかに幸福なのか筆舌では表現することができないのです。イエス様を信じる人は、この世を暮らして行きながら決して敵を恐れる必要がありません。敵は私たちの餌食だからです。




お祈り

愛であられ、父なる我が神様! 私たちがこの世を生きて行きながら、願おうが願うまいが競争社会の中で私たちを盗み殺し滅亡させようとする敵に絶え間なく会うようになります。私たちは敵を相手に緊張するようになり、その敵を前にして何とか復讐しようとするときが少なくありません。

しかし、「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」と、聖書に記録されています。また、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」とも、主は仰せられました。主は敵を料理して山海の珍味をつくられ、それを私たちに勝利の食事として食べさせてくださいます。ですから私たちが、敵の前で緊張せず、焦らず、不安がらずに、悠々と余裕をもって、敵を神様にお任せすることができるように助けてください。

全知全能なる、我が天のお父さま! 牧者であられるイエス様を私たちに遣わしてくださって有り難うございます。牧者がない羊のように捨て去られた私たちでないことに感謝申し上げます。牧者であられるイエス様がいつも共に居てくださって、鞭と杖で私たちを導いてくださり、守ってくださり、また、敵が現れたときにはそこに現れてくださって、敵を料理してくださり、私たちに勝利のご馳走を食べさせてくださり、敵が故に却って私たちが勝利を味わうようにしてくださり、お恵みの杯が溢れるようにしてくださる神様、心から感謝申し上げます。

聖き、我が主よ。永遠に栄光を受けてください。私たちの敵「死」が近づいて来たら、主はその敵を料理して私たちに復活の盛大なご馳走を食べることができるようにしてください。そして天国に高く上げられるように助けてください。もう私たちが、「死」を恐れないようにしてください。

私たちに恐れることが何もないように助けてください。「強くあれ。雄雄しくあれ。恐れてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである…。」と仰せられた、主よ。私たちが皆、主に拠り頼んで、何事にも恐れず、驚かず、神様に感謝しながら生きて行けるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!