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「無いものを有るもののようにお呼びになる神様」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 4章17節〜25節」
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。




今日、私は皆さんと一緒に「無いものを有るもののようにお呼びになる神様」と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

家庭において夫婦間の葛藤のもっとも大きい原因は、意見衝突です。心が互いに合わないと言うことです。旦那さんと奥さんの考えと思いが真正面から反対であると、静かな日がなく、甚だしいときには離別するようにもなります。夫婦二人が一緒に暮らして行くためには、ある程度考えと思いが一致しなければなりません。

神様と人間が共に居り、共に働くためには、人間が神様の御心に全幅的に降伏して従順に聞き従わなければなりません。私たちが恐れ多くも神様と互いに向かい合って相談し、意見を交し合うことは絶対にできません。神様は創造主であられ、私たちは被創造物でありますから、私たちは全的に神様の御心を知り、従順に聞き従い、服従しなければならないのです。

人が、神様の御心と行いに対して異議を提示することはできません。被造物が造り主に向かって、「何をするんですか?」と質問をすることはできないのです。従って私たちは、どのようにして神様を知り、どのように神様のなさることに適応し、どのように共に生きて行くべきかを勉強しなければならないのです。そして、神様がどのようなお方であるかを、私たちは知らなければなりません。




第一、 奇蹟の神様であることを知らなければなりません

第1番目に、私たちの神様に対する理解の根本は、神様は奇蹟の神様であられると言う事実を認めることです。神様は、天地と万物を造られるときに奇蹟で造られました。御言葉一言で、天と天の天を造られ、地と海とその中のすべてのものを造られたのです。神様は、自然万物の存在と運行の法則を造られた神様であられますけれども、しかしその法則に拘束されはしません。主はいつも、必要であればその法則を超越して奇蹟を行なわれる神様であられるのです。

「詩篇 40篇 5節」に、『わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。』と記録されています。そんなにたくさんの奇蹟を行なわれました。「詩篇 97篇 9節」には、『まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。』と記録されています。

主は、死んだ者を生き返らせる偉大な神様です。皆さん、死者を生き返らせることは、私たちの科学や理性では考えることができません。生きている人が病気にかかったとき、お医者は医術を通して、薬を通して直しますけれども、死者を人の力で生き返らせると言うことは全く不可能なことです。人類歴史上、人間の力で死者をよみがえらせたことはただの一度もありません。

しかし神様は、死者を生き返らせました。土で人を造られた神様は、完全に土にかえった人生もまた生気を吹き入れてよみがえらせることができます。それが、まさに私たち人間とは違うところです。そういうところが、まさに私たち人間の理性と科学を完全に超越するところです。

神様は死者を生き返らせました。エリヤはやもめの息子の病気が非常に重くなり、ついに息を引き取ったとき、彼が行ってその子の上に身を伏せて主に祈り、その子を生き返らせました。また、エリシャは女に預言通りに息子を与え、その子が病気で死んだときに祈って生き返らせました。神様は死者を生き返らせる神様であると言うことを証明したのです。

皆さん、「ヨハネの福音書 5章21節」を見ますと、『父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。』と記録されています。会堂管理者のひとりヤイロの娘が死んだとき、人たちは皆取り乱し、大声で泣きながら葬式の準備をしましたが、イエス様はその娘の父と母、そしてペテロとヤコブとヨハネを伴って入って行かれ、死んだ娘の手を取って「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われるや、死んだ娘がすぐさま起き上がりました。その娘の年が12歳位でありました。人がすることができないことを主はなさいました。

ナインの町のやもめのひとり息子が、死んで担ぎ出されていました。その息子の母親が地を叩き、胸を叩きながら、大声で泣いていました。イエス様がその行列と出会いました。イエス様はその母親を見てかわいそうに思い、近寄って行列を止めさせ、棺桶の蓋を開けるようにと命じられました。そして棺に手をかけられてから、「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われました。すると、その死人が起き上がって棺桶から出て来ました。イエス様は彼を母親に返されました。

皆さん、今の世の中でこのようなことがあったことを聞いたことがありますか? このようなことは神様でなくてはできないことです。神様は、死んだ者を生き返らせる神様です。

のみならず、死んだラザロが墓の中に入れられてから四日がたち、すでにからだが腐敗して臭くなっていました。そのようなラザロを誰がよみがえらせることができるでしょうか。彼の姉妹であるマリヤとマルタも「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と言いました。

それにもかかわらず、イエス様はその墓の石を取り除けさせてから「ラザロよ、出て来なさい。」と大声で叫ばれました。その一言に、死んだラザロが寿衣に巻かれ包まれたままで生きて出て来ました。イエス様がそれを見て、「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言われました。

このような数々の事実は、イエス様が神様であられることを証明して余りあることです。そしてイエス様が神様であられますので、イエス様の生涯は奇蹟の連続でありました。「使徒の働き 2章22節」を見ますと、『イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。』と記録されています。

ですから皆さん、こんにち、人類の歴史上、人間の力では死んだ者を生き返らせた例がただの1回もありません。しかし神様は、死んだ者を生き返らせます。死んだ者を生き返らせる神様に、ガンに罹った人が問題になるでしょうか? 関節炎患者を治すことが何の問題になるでしょうか。盲目者を見るようにし、つんぼが聞けるようにすることが何で難しいことでしょうか。びっこ引きと足なえの人を治すことが不可能でしょうか?

死んだ者を生き返らせる神様であることを私たちが知ったら、その神様は私たちの生の中で何事でもすることができると言うことを理解することができるのです。

ですから、神様をよく理解しなければなりません。或る人たちは「昔には神様がそのようなみわざを働かせたけれども、こんにちは神様のみわざの働きはない。」と言います。それでは、その神様は昔は生きておられたが、今は生きておられない、と言うことでしょうか? 主は変わられることがなく、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じ方なのです。それで、昔、死者を生き返せられたその神様は、こんにちもその権威と御力を私たちの中で働かせておられるのです。

聖書に「あなたの信仰が薄いので神のみわざを見ることができないのです。」と記録されています。私たちがこんにち、神様を確実に知り、堅固な信仰で生きて行くなら、我が神様は今も死者を生き返らせるその驚くべきみわざを私たちの中で施されるのです。ですから死ぬまで待つ必要がありません。

細胞が死んだらガンになります。そのガンを取り出して生き返らせてくださいます。心臓が死にかけたら、その死にかけていく心臓を生き返らせます。肺が死にかけたら、死んで行く肺を生き返らせてくださいます。脳ガンで脳が死にかけたら、脳ガンを取り除いて生き返らせてくださる神様なのです。従って、我が神様は私たちの中でこんにちも奇蹟を行なわれる神様であると言う事実を私たちは知らなければならないのです。




第二、無いものを有るもののようにお呼びになる神様

第2番目に、私たちが知らなければならないことは、神様は無いものを有るもののようにお呼びになる神様であられると言うことです。皆さん、私たち人間には、無いものは無く、有るものは有ります。無いものなのに「ここにある」と言ったら、それは嘘です。

私は幼いときから夢を見るのが好きでありました。或る日、私の従兄弟たちが私たちが暮らす果樹園に遊びに来ました。それで私が、「向こう側の外に出て行って見たところ、山の中に物凄く大きい虎が一匹いましたよ。目には火をつけて虎がこちらを見つめていたのを見ましたよ。」と言いました。

私は想像の中で「虎がいる」と考えてそのように話したのです。ところが、従兄弟たちが各々棒切れなどを持って私についてそこまで行って見ましたが、虎がありません。それで噂が立ちました。「趙繩(チョー・ヨンギ)は嘘つきだ。」

ところが、私としては忘れられないことがあります。その噂を聞いてお父さんが来られてから「ヨンギは嘘つきではない。」と言われました。「それじゃ何ですか?」と誰かが抗議しました。するとお父さんが「ヨンギは夢を多く見る人だよ。ヨンギが嘘をついたのではなく、夢をよく見るので、自分の夢ではそこに虎がいると夢を見ているんだ。だから悪いことではない。夢を多く見る人は後になって大きい事をするようになるよ!」

私はそのとき、私のお父さんがそのように解釈してくれるのがいかに心に感激であったか知れません。それで私は、「私は嘘つきではないんだ。」と思うようになりました。そのとき以後、私は成長しながら神様を信じるようになり、相変わらず夢をたくさん見ました。その夢は、無いものを有るもののように呼ぶのに必要なのです。神様は、まさに夢を見る神様なのです。

皆さん、神様は「アブラム」を75歳のときに呼ばれました。そうした後に、アブラムに預言なさいました。無いものを有るもののように言われたのです。神様はまさに夢を見る神様であり、神様はアブラムに神様の夢を与えられました。

「創世記 12章 1節〜3節」を見ますと、『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』と記録されています。

これは現実と違います。現実にはそういうものがありません。アブラムは75歳で、遊牧民族であり、辺鄙な田舎の年寄りです。その田舎の年寄りに向かって、この偉大な夢を神様は言われました。今のアブラムにはそう言うことが起こりません。しかし、無いものを有るもののように言われました。

神様は夢を見る神様です。アブラムは、その神様の夢を受け入れて、胸がいっぱいになって出発することができました。

カナンの地で、アブラムに与えられた神様の約束をご覧下さい。「創世記 13章14節〜16節」に、『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。』と記録されています。

このとき、アブラムはもう老人であり、夫人もお婆さんになっています。彼らにはまだ子どもがありません。それにも拘わらず、無いものを有るもののように、「東西南北を見渡しなさい。あなたが見渡している土地全部をあなたに上げます。そして、あなたの子孫は地のちりのようにたくさんになります…。」と言われました。夢のような話しです。しかし神様は夢を見る神様なので、夢のような話しをなさったのです。

夢のような話しを受け入れることができない人は、神様と共に働くことができません。神様は、神様の夢をアブラムに話されたのです。この夢をアブラムが受け入れたら、神様が彼を通してみわざを働かすことができるのです。神様は、アブラムに息子が無いのにも有るもののように言われました。夢のような話しです。

「創世記 17章 1節〜5節」に、『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。』と記録されています。

夢のような話しです。99歳のお爺さんが89歳の夫人を通して息子を生むとは、夢のような話しではありませんか。神様は夢を見る神様なので、夢のような話しをなさるのです。アブラムが神様の御声を聞いて、彼の精神は朦朧となり気が遠くなりました。夢か現実か、99歳にもなった私が、89歳の妻を通して子どもを生むであろうとは…。

それで、彼の名前を「アブラハム」即ち、「多くの国民の父」であると、神様がすでに、無いものを有るもののように呼んでくださったのです。このようなことは、ひとえに夢を見る神様だけが話すことが出来ることなのです。神様は夢のようなことを話されます。しかし夢のような話し、これがまさに神様がみわざを働かせる道なのです。皆さん、こうでありますので、私たちは神様を正しく知らなければなりません。

イエス様は、ペテロに向かって「あなたはペテロである」と言われました。彼の元来の名前は「シモン」ですが、シモンは性格が風にゆれる葦も同様でありました。しかし彼をペテロ、即ち「巌」と呼ぶようになさいました。今も尚、変化無双な彼に向かって巌と呼ぶようになさいました。人たちは心の中で、夢のようなことを言われる、と思いました。あの人が巌ですか? いつ笑ってはいつ泣くか知れず、いつ主を是認してからはいつ否認するか知れない彼を「巌」と呼びますか? 笑わせないでください…。

しかし神様は、夢を見られる神様です。無いものを有るもののように呼ばれる神様なのです。この神様の品性を私たちが知らずに神様と共に働くことはできません。神様は、死んだ者を生き返らせ、無いものを有るもののように呼ばれる方です。それで神様の奇蹟は無限です。そして神様は無いものを有るもののように呼ばれる、夢見る神様なのです。

こんにち、信じない人たちは神様の御言葉を読んで、「夢のようなことを言われる。」と言います。しかし、それがまさに我が神様なのです。神様は現実を超越して夢を見られ、その夢をもって新しい世界を造り出される神様なのです。




第三、神様と共に働くためには

第3番目に、私たちが神様と共に働くためには、心の中に神様が働かれることができる空間を備えなければなりません。死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神様が入って来られて働かれることができる特別な心の空間を作って差し上げなければならないのです。

私たちがこの世の人間として持っている理性と頭脳を持っては、神様と共に働くことはできません。神様が入って来られて働かれることが出来る空間を、私たちの心の中に作って差し上げなければならないのです。それでは、どのような空間を作らなければならないのでしょうか? 神様の奇蹟を信じる心の空間を作って置かなければなりません。

私たちはいつも、論理的であり理性的なことだけを受け入れるように訓練されて参りました。このような心の中には、神様が入って来られることができる空間がありません。人間は、何事でも理性的に考え、そして論理的に考えます。そして理性と論理に合わなかったら受け入れません。神様は理性と論理を超越した奇蹟を行なわれる神様ですので、奇蹟を行なわれる神様が入って来られることが出来る心の空間が作られていなければならないのです。

聖書「箴言 4章23節」に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と記録されています。この心の中に奇蹟を信じる空間が作られていなければなりません。どのように作られるのでしょうか? それは、聖書を勉強し、信仰によって、私たちの心の中に理性と人間の論理を飛び越える奇蹟の空間を作るようにしなければならないのです。そうしてこそ、神様がこの空間に入って来られることができるのです。

神様は、理性と論理の頭の中には入って来ることができません。皆さんの心の中に死者を生き返らせる奇蹟の神様を信じる空間を作って置いて、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、神様は来られてみわざを働かせるのだ、と言う信仰の空間が作られてこそ、その中に神様が入って来られてみわざを働かせることができるのです。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されています。信仰の空間、奇蹟を信じる信仰の空間を作ってこそ、神様がそこに住まわれます。理性、科学、論理だけをもって神様を判断しようとしたら、神様が入って来られて働かれることができないのです。

そして、また、どのような空間を作らなければならないでしょうか? 無いものを有るもののように呼ばれる神様を信じる空間を作らなければなりません。私たち人間は、この世の中で教育を受けるときに、無いものは無い、有るものは有る、と言うふうに教育されながら成長して参りました。神様は、「無いのに、有る。」と言われますので、私たちの日常的な考えでは受け入れることができません。

無いのに、どうして有ると言われるのか? 神様が私たちの中に来られて働かれることが出来るように、無いものを有るもののように呼ぶ空間が作られていなければなりません。「コリント人への手紙 第一 2章 9節〜10節」に、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と記録されています。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、心に思い浮かんだことのないものを、神様はすでに備えて置かれたのですから、時間と空間を超越してこれらを受け入れることができる心の心の空間がなければならないのです。皆さんも、無いものを有るもののように、そのように見、思い、話すことができるようにならなければなりません。

それは心の中に夢を持たなければできないことです。神様が夢を見られたら、私たちもその夢を受け入れて、神様が夢のようなことを言われるとき、私たちも夢のようなことを語らなければならないのです。夢と言う空間を受け入れなければなりません。夢を見なければなりません。心の中に夢の空間がなければなりません。皆さんは未来を夢見ることができるようにならなければなりません。

私たちクリスチヤンは、十字架を見つめて心の中に夢を見なければなりません。十字架のうえでイエス様が釘付けにされて身を裂き、血を流されたことを見つめて、赦されて義の人となった自分を見つめる夢を見なければならないのです。私は今は罪人であるけれども、イエス様の血潮を通して赦された義人になったのだ、と言う夢を見るようにならなければならないのです。

その夢の空間を持っていなければならないのです。皆さんが十字架を見つめて、聖霊が自分の中に入っておられ、天の御国が自分の中に入っていることを夢見るようにならなければならないのです。この夢の空間を心の中に持たなければなりません。そうしてこそ、皆さんの中に聖霊と天の御国とが入ってくることができるのです。

皆さんが十字架を見つめて、悲しみが離れ去り、喜びが訪れ、すべての疾病がみな癒され、私は健康になった、と言う夢を心の中に持たなければならないのです。たとえ今は病気に罹っているとしても、彼の打ち傷によって私はすでに癒されたのだ、と言う夢を見なければならないのです。夢の空間を持っていてこそ、その中に神様が入って来られて働かれることができるのです。

私が今、貧しく、襤褸をまとっており、飢えているとしても、十字架を見つめて、主が私への呪いをすべて取り除かれ、主が私のすべての貧しさを背負って行かれたのだ。だから主にあって私は豊かになり、すべてに幸いを得るようになったのだ、と言う夢を見るようにならなければならないのです。夢のような事を言うな、と言います。しかし、それが夢なのです。夢を十字架を通して所有するようにならなければならないのです。

皆さんは十字架を見つめながら、主がその十字架で死と陰府(黄泉)をみな撤廃なさり、復活と永生と天国を与えてくださった、と言う夢を持つようにならなければならないのです。私がイエス様を信じて、私は復活し、天国が私の家になり、永生が私のものになった、と言う夢を見るようにならなければならないのです。それがまさに、無いものを有るもののように思い、見、そして語ることができるのは、夢の空間があるからなのです。

皆さん、心の中に夢の空間を持っていない人は、絶対に神様と共に働くことができません。神様は夢の空間を持っている人だけを探しておられるのです。私たちは、私たちの感覚を飛び越えて、無いものを有るもののように体験することができる空間が必要です。この空間がまさに心の夢の空間です。私たちは無いものを有るもののように、いくらでも夢見ることができ、その夢を見るとき神様が共に居てくださって、みわざを働かせてくださるのです。

アブラハムもイサクもヤコブもモーセもみな、夢見る人たちでありました。ヨシュアとカレブは、乳と蜜の流れる地を夢見ることができたので入って行くことができ、イスラエルの民たちは乳と蜜の流れる地を夢見ることができなかったので、神様に背き、捨てられてしまいました。

今回のCGI大会に南アフリカ共和国から来られた「チアロムス牧師先生」の証しを聞いて見ました。彼が或る集会に行って神様の御言葉を宣べ伝えているとき、聖霊さまが臨まれて言われました。「この中に、乳がんの故に乳房を摘出した婦人がおるが、その婦人の乳房がまたできました。」このような神様の啓示が与えられました。それは現実として不可能です。

乳がんによって乳房をみな摘出してしまったのに、どのようにして乳房がまたできるでしょうか。そのようなことを語ったら、みんなが「あの牧師先生、夢のようなことを言うね!」と言うでしょう。夢見る空間を持った人だけがそのようなことが言えるのです。理性と論理的にはそのようなことは言えません。

彼は神様の御言葉を受け入れて、その神様の夢をそのまま話ししました。「ここに居られる姉妹さんの中に、乳房をみな摘出したお方が居られます。神様がそのお方に新しく乳房を与えられました…。」そうして彼は、集会を終え、みんな忘れてしまいました。

それから何ヶ月かが過ぎてから、見覚えのない夫婦が自分のところに来て、「牧師先生、いつかの集会のときに、乳がんによって乳房をみな摘出して乳房がないのに、神様が乳房を与えてくださいました、と言われましたね…。」「あ、そう言った覚えがあります。」「私がその本人です…。」

その夫人が言うには、「私は、乳がんによって乳房をみな摘出してしまい、乳房がありませんでした。しかし牧師先生の言われたことを受け入れて、私はそれを信じました。到底、人間の理性では不可能ですが、私は乳房が新しく出来たことを夢見ました。そして信じました。その時から私の胸がしきりに膨らみ始め、何時の間にか素晴らしい乳房が出来上がりました。私が乳房を摘出したそのお医者のところに主人と一緒に訪問しました。するとそのお医者が、あなたが確かにその人ですか?と言うので、はい、そうです、と答えました。

そのお医者は、本当ですか?と半信半疑しながら、「私が間違いなく、私の手であなたの両方の乳房を切り取ったのに、どのようにして、このように素晴らしい乳房がまた出来たのでしょうかね…。」彼は私の主人に向かって「私が夫人の乳房に触って見ても宜しいでしょうか?」と尋ねました。主人が「構いませんよ!」と答えると、そのお医者は近寄って来て、私の乳房のあちこちを触って見るのでした。

そして同僚の医者たちを彼は呼びました。「ここ来て見て…。私がこの夫人の乳房を確かに切除したんです。ところがこのように、この夫人に新しい乳房ができたんですよ…。」すると外の医者たちは笑いながら、とんでもない事を言うかのようにてんで相手にしませんでした。誰も信じないのです。「そんないたずら言うなよ…。」どの医者も信じません。

何故?医者たちは理論的に、論理的に訓練されていますので、彼らの心には夢の空間がありません。神様が夢のようなみわざを行なわれるとき、それを受け入れることが出来る夢の空間がありません。誰も信じませんでした。この病院で、乳房を摘出しておいて、また出来た乳房に触って見てからも、とても信じることができないと言う、そのような人たちを通しては神様は何の奇蹟も行われることができないのです。

皆さんの心の中に夢の空間がなければなりません。なぜ、アブラハムを神様が偉大な人にしてご使用なさったでしょうか。アブラハムは、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神様をはっきりと知り、信じ、主と共に同行したからです。

アブラハムは奇蹟を信じました。その故に彼の息子イサクが20歳位になったとき、彼をモリヤ山に連れて行って全焼の生け贄として捧げなさいと言われました。そのときアブラハムは躊躇することなく、イサクを連れてモリヤ山に行き、そこに祭壇を設け、息子を縛って薪の上に寝かせて、刀を振り上げて息子の首を断ち切ろうとしました。なぜ? 死者を生かす奇蹟の神様を信じたので、殺しておいてもまた生かして下さることを信じたらからです。

それで、アブラハムは神様を知っている人だと言われるのです。神様がアブラハムを愛されたのは、アブラハムが神様の奇蹟を信じる人であったからです。死者を生かす神様を彼は信じました。神様が、「その子を殺してはならない!」と叫ばなかったら、彼は自分の息子を殺したはずです。そうしたら、神様が生き返らせてくださったでしょう。アブラハムが「信仰の祖先」となったのは、その息子を殺しても、神様が生かしてくださると言う、奇蹟の神様を信じる信仰を持っていたからです。

そしてアブラハムは、無いものを有るもののようにお呼びになる神様に対して、自分も同じ夢を見ました。本当にアブラハムは、すべての人たちが見るとき「夢のような年寄り」でありました。年99歳になり、彼の妻が89歳になったのにも拘わらず、自分の名前をアブラムからアブラハム、多くの国民の父と変え、自分の妻の名前もサライからサラに、国々の母と変えて、その老人夫婦が互いに呼び合いました。

夕方の食事の時間になると、向こうの野原で羊を飼っている夫を妻が呼びます。「アブラハム!」と。村のすべての人たちがそれを聞きます。「アブラハムだと…?多くの国民の父だと…?」どうかしているな。可笑しくなっている。夢を見ているんだ。夢のようなことを言っているんだ…。89歳になったお婆さんが、99歳になったお爺さんに向かって「多くの国民の父よ!」と、完全に夢を見ています。

「サラかい?もう直ぐ行くよ!」何だと?多くの国々の母だと…?夫婦が似てもあまりにも似ています。夫人も夢を見ており、夫も夢のようなことを言います。彼らは夢のようなことを言い合いました。なぜ?神様は夢を見る神様であり、夢の空間を持っている中でだけ働かれるのです。

ここを見てください。「ローマ人への手紙 4章19節〜22節」に、『アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』と記録されています。

アブラハムは、夢を見る人でありました。それが故に神様は、アブラハムを通じて大きなみわざを行なわれ、彼を通じて地球のすべての人類が祝福していただくことができる「信仰の祖先」に造り上げることができました。彼は、死者を生かし、無いものを有るもののように呼ぶ、その新しい空間を持っていました。

私たち人類はほとんど皆が、論理的で、理性的で、感覚的で、体験的である、そのような頭だけを持っています。しかし、神様と同行しようとするなら、アブラハムのように、胸の中に夢の空間を持たなければなりません。死者を生かす奇蹟を信じることができる心の空間がなければならず、無いものを有るもののように見、話し、行動することができる、夢見る心の空間を持っていなければならないのです。

私たちは、イエス・キリストの十字架の下に来てイエス・キリストの十字架を見上げるとき、五つの主の祝福に満ち溢れるようになります。赦しと義のお恵みが、天国と聖霊のみわざが、喜びと癒しのみわざが、そして繁昌と祝福のみわざが、復活と永生と天国のお恵みが、十字架から私たちに満ち溢れるまでに注がれるのです。これを私たちは受け入れなければならないのです。どこから受け入れるべきでしょうか。頭の中で理論と知識では受け入れることができません。心の中の夢の空間で受け入れなければならないのです。

私たちがそれを信じると言ったら、信じない人たちは言います。夢のようなことを言うな。それは完全に夢のような話しだ…。良いです。夢のようなことを話すので、神様が共に居てくださり、みわざを施してくださるのです。このように信じる自分を見つめ、このように夢を見、その夢を神様が奇跡的に成就させてくださることを信じる人たちのために、神様がみわざを働かせてくださるのです。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」これは神様の夢です。この神様の夢を受け入れることができる人とならなければならないのです。私は主のお恵みによって、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、いのちを得るにしても豊かに得る人になりました…、と夢を見なければなりません。

そして、夢を見る人を通して神様は奇蹟を施してくださるのです。夢を見る人になってください。十字架の下でキリストを見上げて大胆に夢を見てください。「あなたの口を大きく開きなさい。わたしがそれを満たそう。」と言うことは、大きな夢を見なさい。わたしがその中にあってみわざを働かそう、と言うことです。なぜ、イエス様を信じる人が夢を見ないのですか?なぜ、奇蹟の神様を信じないのですか?死者を生き返らせる神様を信じなければならないのです。

それ以上の奇蹟がどこにあるでしょうか。神様は私たちのために、今も奇蹟を行ないたいと願っておられるのです。その奇蹟の神様を夢見てください。その神様と一緒に夢を見てください。心の中に、無いものを有るもののように受け入れてください。無いものを有るもののように考えてください。無いものを有るもののように信じてください。無いものを有るもののように、口で是認してください。

無いものを有るもののように受け入れて、祈ってください。無いものを有るもののように受け入れて夢を見る人の祈りは天の御座を動かします。

アブラハムは田舎の年寄りでありました。私たちのように教育を受けていません。辺鄙な田舎の年寄りであり、そして正式に教育も受けていませんでした。太陽と荒野と羊の群れしか知らない人でありました。そのような田舎の爺が、それも75歳になって、もう人生の黄昏に入った彼を通して、神様は「空の星、海辺の砂のように子孫を数多く増し加えよう。」と言われ、彼を通してイエス様がご誕生なさるようにし、全人類の「信仰の祖先」となるようになさいました。

全世界がすべて皆アブラハムを賞賛するのは、彼が素晴らしい学者なのでそうするのでもなく、知識が多いのでそうするのでもありません。彼が道徳君子なのでそうするのでもありません。彼は神様と同行したからなのです。

神様と同行する条件として、彼は奇蹟の神様を信じ、死者を生かす神様を信じ、夢見る神様を信じました。神様は、無いものを有るもののように呼ばれるお方です。彼は神様と共に夢を見ました。彼は胸の中に、奇蹟の空間、夢見る神様を受け入れる空間、無いものを有るもののように呼ぶ夢の空間を持っておりました。それが故に、彼は神様がご使用なさる偉大な人物になれました。

今日、私の説教を聞かれた皆さんの中に、偉大な主婦、偉大な夫、偉大な青年…、私たちが今まで想像することができない大いなるみわざを現すことができる人たちが数多く座っておられます。皆さんの人生は、今までよりはるかに偉大になることができます。それは、死者を生かし、無いものを有るもののように夢見られる神様のその夢を受け入れて、その神様と共に同行するとき、神様は皆さんを、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、はるかに素晴らしい人として、創造の世界の中に住まうことができるようにしてくださるのです。




お祈り

聖く、愛であられる父なる神様! たくさんの人たちが口では「主よ!主よ!」と呼ばわりはしますが、主と同行はしません。一介の田舎の年寄りであるアブラハムが神様と同行することによって「偉大な信仰の祖先」となったように、天のお父さま! 私たちも死者を生かし、無いものを有るもののように呼ばれる神様を、心の中に受け入れることができる心の空間を持つことができるように助けてください。

全知全能であられる、我が父なる神様! 神様と共に同行する人は、奇蹟を信じなければならず、夢を見ることができるようにならなければなりません。無いものを有るもののように夢見なければなりません。十字架のイエス・キリストの贖いのお恵みを、無いものを有るもののように受け入れ、夢見、そのすべての恩寵を享受して、五重の福音と三重の祝福をすべて所有した聖徒たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!