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「外なる人と内なる人」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 4章16節〜18節」
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。




今日、私は皆さんとご一緒に『外なる人と内なる人』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様が人を造られるとき、土で人を形造り、その鼻に命の息を親しく吹き込まれるや、人が生物となった、と聖書「創世記」に記録されています。そしてその人は、「神様の形に創造された」と記録されています。

神様は「霊」であられますので、人間も「霊」として造られ、肉体の「土の家」に住むようになったのです。それで、自然と人は「霊の人、即ち内なる人」と「肉の人、即ち外なる人」にできているようになりました。

人の霊は神様を認識し、礼拝を捧げ、神様に仕え、神様と交わりを持つことができます。何故かと言えば、神様の霊が私たちを造られたので、霊と霊が交わりを持つことができるのです。

動物たちは霊がありませんので、霊であられる神様を認識することも、理解することも決してできないだけでなく、礼拝するとか賛美するとかは尚の事、全くできません。人類歴史があって以来、今まで動物が神様を信じたとか、神様を賛美したとか言うことは聞いたことがありません。動物は霊がありませんので、神様に対して認識することもできず、神様を悟ることもできず、神様と交わることもできないのです。

人はまた、肉体を着ていますので、肉体を通して目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、味わうなど、この世の中と交わることができます。私たちの周囲と環境と、物質的世界を私たちは収容し、それらを理解することができるのです。

最初に造られたアダムとエバは、霊が神様に仕え、肉体を完全に支配して、統一された人格で暮らしました。アダムとエバの人格の中には、分裂が全くありませんでした。しかし現在、私たちを見ますと、私たちは、私たちの中が分裂されていることを知ることができます。霊と肉が互いに対決し、闘争し、葛藤する姿を見ることができます。何故、このようなことが起こるようになったでしょうか?




第一、堕落がもたらした悲劇

先ず、私たちは堕落がもたらした悲劇を顧みなければなりません。私たちの主が人を造られてエデンの園に置かれてから、神様の絶対主権を象徴する、「善い。悪い。」と言うことを分別する“善悪の知識の木の実”を取って食べてはならない、と言われました。

主権者であられる神様だけが、宇宙で「善い。悪い。」を決定するのであって、神様に仕え、神様に従わなければならないしもべである私たちは、神様が指示する通りにしなければなりません。そうでなく。私たちが自ら主権者のように「善い。悪い。」を決定することはできないのです。それで神様が、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われたのです。

それにも拘わらず、アダムとエバは悪魔の誘惑に負けて、その善悪の知識の木の実を取って食べたら神様のように主権者になることが出来る、と考えて善悪の知識の木の実を取って食べ、神様の主権に挑戦したので、その霊は死に、エデンから追い出されてしまいました。それで「内なる人」すなわち、霊の人が死に、「外なる人」すなわち、肉の人としてだけ人間は生きるようになりました。

それで、その時から人間は、まことに悲劇的な存在になりました。人間は方向感覚を完全に失ってしまいました。どこから来て、何故生きており、どこに行くのか知りません。神様を失ってしまい、霊が死にましたので、自分が誰なのか理解することができません。従って人たちは、自分が誰なのか? どこから来てどこに行くのか? このような質問をするようになり、それに対する肉体的な答弁として「ダーウィンの進化論」と言うような仮説を提示しているのです。

すべての存在は小さいアメーバから始まり、それが進化し、進化し、進化して、こんにち人にまでなったと言う、愚かで、認めてもらえず、証明もされない仮説を提示して、人たちはこの仮説に従って行動して参りました。

そして、人は霊が死にましたので、神様から完全に捨てられた存在になってしまいました。神様と共に暮らさなければならない人が追い出されて、霊の世界から捨てられた人となってしまったのです。「創世記 3章24節」に、『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』と記録されています。

人は追放された存在になりました。歓迎される存在になれませんでした。いかに悲劇的なことでしょうか。また人は、絶望的な存在になりました。神様から追放され霊が死んでから、人間は罪の捕虜になり、罪の絶望に陥り、生きて行く意味を失って無意味の絶望に陥り、また人間は死ぬようになりましたので死の絶望に瀕して、人間は絶望的な存在に転落してしまいました。

聖書「ローマ人への手紙 7章 5節」に、『私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。』と記録されているのです。すべての人生は、肉の欲、目の欲、この世の自慢に追われて、肉体の欲望を追求しながら生きて行くので、永遠の死を招くしかありませんでした。

また人間は、感覚と環境の奴隷となって暮らして行きます。霊が死んだのですからもう神様に従順に聞き従いながら人生を暮らすことができず、肉体に従順に聞き従いながら暮らすのですから、肉体は感覚の奴隷となって生きるのです。感覚を通してだけ自己存在を認識し、環境の支配を受けながら人間は暮らします。腹はひもじく、年を取り、病に罹って、悲しい存在となってしまったのです。

「エペソ人への手紙 2章 3節」に、『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』と記録されています。

それだけではなく、堕落した人間は悪魔の奴隷となりました。「ヨハネの福音書 8章44節」に、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』と記録されています。

「テトスへの手紙 3章 3節」は、『私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。』と記録しています。これはみなが悪魔の法規です。堕落した人間は悪魔に占領されて、悪魔の奴隷として暮らし、悪魔の性癖を真似ながら暮らしました。

そして堕落した人間は、結局は死に至る病に罹った人です。「ローマ人への手紙 6章23節」に、『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』と記録されています。また「ヘブル人への手紙 9章27節」に、『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、』と記録されています。人間は、悲劇的な死を免れることができない、そのような存在になってしまったのです。

このような人間を誰が助けることができるでしょうか。堕落したために神様を知らずに暮らす人生たちは、すべての生活の中で不正と腐敗がいっぱいに満たされています。この絶望的な、腐敗した人生を誰が助けることができるでしょうか。哲学でしょうか? 宗教でしょうか? 教育でしょうか? 修養とか道徳とかでしょうか? 私たちが経験しており、知っていることは、このようなことなどでは人間が決して新しくなることはできないと言うことです。




第二、「内なる人」を生かすために来られたイエス様

それで、2千年前に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されて」、イエス・キリストを通して新しく生まれ、新しい人になるようになさったのです。古い人は、縫い直すとして新しい人になることはできません。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アダムとエバを造られた神様は、イエス・キリストを通して私たちを新しく造ってくださったのです。

イエス様は来られて、人が犯した罪を、代わりに十字架ですべて清算してくださったのです。「ヨハネの手紙 第一 2章 2節」を見ますと、『この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。』と記録されています。私たちの罪をすべて清算してくださり、神様と敵となった私たちを、神様と和解するようにしてくださったのです。

それで、神様がイエス・キリストの血潮によって私たちに近づいて来てくださり、私たちはその血潮によって罪を赦していただいて神様の御前に出て行くことができるようになったのです。そしてイエス様は、その十字架の苦難を通して「内なる人」を生かし、私たちを新しくしてくださいました。私たちの内なる人が死んで神様を一切知らない、また自分が誰なのかも全く知らない私たちを、イエス様が生かしてくださったのです。

イエス・キリストを救い主として迎え入れるや、永遠のいのちが私たちの中に入って来て私たちの霊が生き返り、瞬く間に神様を悟るようになり、イエス様を救い主と信じるようになり、神様を「アバ、父。」と認識するようになり、自分のまことの存在は肉体ではなく、神様に似るように神様の形通りに造られた永遠の霊であることを知るようになるのです。

「ヨハネの福音書 3章 5節〜6節」に、『イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です…。」』と記録されています。

私たちが父母から生まれたのは「肉によって生まれた」ことです。しかしイエス様を信じたら、霊として新しく生まれます。それで、私たちの霊が生き返ってその時からは神様に礼拝を捧げ、仕え、賛美するようになるのです。

私たちのからだを、イエス様が「神の御霊が宿る神殿」にしてくださいました。「コリント人への手紙 第一 3章16節」に、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』と記録されています。

イエス様を信じる前には、空中の権勢を握っている悪の霊たちが私たちの中に来て留まっておりました。悪の霊たちは、全く神様を知ることがないようにし、世俗に、世俗にと情欲と貪欲の奴隷になって生きてからは滅亡に陥る道に連れて行きました。すべての世の人たちの中にはこの悪の霊が留まっており、支配しています。

しかしイエス様が来られて、死なれてからよみがえられたことによって世俗を追い出し、悪霊を追い出されて、私たちの中に聖霊さまが来て留まるようにしてくださり、聖霊さまによって天の御国を悟り知るようにしてくださいました。「アバ、父。」を悟って礼拝を捧げ、そして仕えるように、聖霊さまが助けてくださるのです。

またイエス様が来られて、私たちが霊的生活を営むようにしてくださいました。私たちは、以前は知りませんでしたけれども、救われてからは御言葉を知り、聞き、読み、口ずさみながら暮らし、前にはそんなことがありませんでしたけれども、私たちはひれ伏して父なる神様にイエス様の御名によって祈るようになり、そして良いことがあっても、悪いことがあっても、すべてに感謝し、私たちが一生涯生きて行きながら主を賛美しながら暮らすようにしてくださったのです。

前には全くそんなことがなかったのですが、このような新しい人生が私たちの生活の中に入って来るようになったのです。皆さんがイエス様を信じる前に、いつ御言葉を読み、聞き、祈り、感謝し、賛美したでしょうか。それは肉によって生まれたので、霊とは関係がなかったからなのです。しかし霊が生き返った証拠として、今は御言葉を聞き、祈りを捧げ、感謝し、賛美するようになったのです。

聖書「詩篇103篇 2節〜5節」をご覧下さい。『 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』と記録されています。このような新しい生活が、神様と私たちの間でなされるようになるのです。

また、イエス様が来られて私たちが神様の特別な民となるようにしてくださいました。「ペテロの手紙 第一 2章 9節」を見ますと、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と記録されています。

ですから、私たちが今からは、神様が親しく選ばれた人、神様の聖なる国民、王である祭司であり、神様の所有となった民になりました。これはいかに驚くべき特権でしょうか。まさに神様は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に入って来るようにしてくださったのです。

もう皆さんと私が暮らしている国は、この世の国ではなく、神様の御子の国の中なのです。ですから神様が私たちの父であり、イエス様が私たちの王様であり、花婿であり、聖霊さまが私たちの中に入って来られて助け主となってくださり、天軍・天使たちが私たちの周囲を取り囲んでくれている中で私たちは暮らしており、私たちは神様のお恵みに与って生きている尊い民たちに変化されてしまったのです。

私たちはこのようになりましたから、今からは「内なる人」すなわち、霊の人として暮らし、「外なる人」すなわち、肉の人として暮らしてはなりません。この世の人たちは霊の人が死んだのですから、純粋に肉の人として暮らしますが、もう私たちは霊の人が生き返ったのですから霊の人として生きて行かなければなりません。




第三、「内なる人、すなわち霊の人」として生きるために

私たちが霊に人として生きるためには、どうしなければならないでしょうか? イエス様の贖いのお恵みの中に確固として立たなければならなりません。私たちの主イエス様が、十字架の上で身を裂き血を流して霊の糧としてくださった霊のお恵みを確実に知りながら暮らさなければならないのです。

それは、十字架を通して私たちが罪を赦していただき、義としてくださったお恵みに与っている、と言う真理を確固として受け入れなければならないのです。十字架を通して主は、世俗と悪魔を追い出してくださり、天国と聖霊を私たちに与えてくださったと言う事実を私たちは確固として受け入れなければならないのです。霊の人は、イエス様が十字架で私たちの悲しみをすべて追い出され、喜びを与えてくださったと言う真理を受け入れなければならないと言うことです。

霊の人は、イエス様が十字架で私たちの呪いを退かせ、貧乏をも退かせて、私たちにすべてに幸いを得る幸運と祝福を与えてくださったと言う事実を確実に受け入れなければならず、霊の人はイエス様が十字架で死亡と陰府(黄泉)を撤廃なさり、復活と永生と天国を与えてくださったと言うこの真理をはっきりと受け入れなければならないのです。

肉の人は全然、このような事実を受け入れることができません。人の理性もこのようなことは知りません。しかし霊の人は、イエス様が十字架を通して成就させてくださったこの五重の福音を受け入れて、私たちの人生にはいつもたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得ると言う夢で満ち溢れる人生を暮らさなければならないのです。

「エペソ人への手紙 2章 8節」を見ますと、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』と記録されているのです。神様が、キリスト・イエスを通して私たちに与えてくださった五重の福音と三重の祝福をはっきりと知って、それを信じ、夢見、口で是認し、享受しながら暮らすとき、霊の人として生きて行くことができるのです。

また霊の人は、御言葉を知り、信じて、実践しながら生きて行かなければならないのです。霊の人は、いつも神の御言葉、この御言葉を愛し、この御言葉を貴重に思い、読み、口ずさみ、信じなければなりません。神の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することができます。この御言葉が皆さんと私を聖潔にしてくださり、私たちを信仰の中で成長するようにしてくれるのです。

また内なる人として暮らす人は、聖霊さまと交わりを持ち、聖霊さまのお導きを求めながら暮らさなければなりません。聖霊さまが私たちを助けるために、助け主として私たちの傍に来ておられます。ですから、いつも聖霊さまを認め、歓迎し、受け入れ、拠り頼みながら生きて行かなければなりません。

「ローマ人への手紙 8章14節」に、『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』と記録されており、「ガラテヤ人への手紙 5章16節」には、『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』と記録されています。このように、聖霊さまが私たちを導いてくださるために来ておられるのですから、聖霊さまに従って暮らし、聖霊さまのお導きに従順に聞き従いながら暮らせば、聖霊さまが神様の愛とイエス様のお恵みの中で暮らして行けるように私たちを導いてくださるのです。

そして、霊の人は戒めを守りながら生きて行かなければなりません。霊の人は、神様の戒めを喜び、その戒めの中で暮らさなければなりません。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。偶像を作って、それらを拝んではならない。主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。隣人の家を欲しがってはいけない。霊の人から見るとき、これらは本当に守りやすいです。しかし肉の人としては、これらは全く守ることができません。 肉の人には、神の戒めを守るだけの力がないのです。

皆さんは、新しく生まれたのですから、霊の人になってからは、これらの戒めを守ることは少しも難しくありません。これらの戒めを守ることが楽しく、これらの戒めを守りながら暮らすとき、心の中に平安が訪れます。

従って、肉の人は戒めの前に皆がつまずき倒れ、戒めの審きを受けますが、霊の人はこの戒めが心に楽しみとなり、この戒めを守ることがとてもたやすく、また戒めによって生活の中に平安が訪れて来るのです。

また霊の人として暮らす人は、天国への希望に満ちていて、いつも天国の希望を伝えながら暮らさなければならないのです。「テサロニケ人への手紙 第一 5章 5節〜6節」に、『あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。』と記録されています。

私たちはこの世の眠りにおちて眠ってはいけません。罪悪の眠りにおち、貪欲の眠りにおち、肉体の快楽の眠りにおち、お酒に酔い、この世の罪悪に酔って、眠り込んでしまったら滅亡されてしまいます。私たちは眠りから覚めて、立ち上がり、このような眠りをすべて振るい落としてしまわなければなりません。目を覚まして我らの主を礼拝し、賛美し、祈りながら、主と共に暮らすのが霊の人の生きて行くべき道であるのです。

「テモテへの手紙 第二 4章 1節〜2節」に、『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』と記録されています。

私たち霊の人たちはいつも、近づいて来るこのキリストの御国を知っていますので、その御国に対する事柄を宣べ伝えなければならないのです。時が良くても悪くても、人々が地獄を避け、将来近づいて来る天の御国を受け入れるように、諭して上げなければならないのです。地獄に陥って、霊魂をうじ共が絶えずほじくり食い込み、消えない硫黄の火にあぶられてすべての人たちが苦痛の中で喚きながら身悶えする所があると言うことを教えてあげなければならないのです。

あなたたちはイエス様を信じずに肉のまま暮らしたら、結局は地獄に陥って、あなたがたの霊魂がうじ共にさい悩まされ、消えない火に焼かれ、言いようもない苦しみに会うと言うことを話して上げ、それを避けてイエス様を信じ、赦していただき、救われて、永遠の天の御国に入って行くようにしなければならない、と言うことを説き聞かせてあげなければならないのです。

それで、私たち霊の人たちはいつも目を覚ましていなければなりません。イエス様を信じる前には、完全な肉の人すなわち、外なる人として暮らしました。しかしイエス様を信じて内なる人が生き返るや、堕落し、腐敗した外なる人が猛烈に挑戦しながら、すべての事に干渉し、飛び掛って来ます。イエス様を信じる前には平安であったのですが、イエス様を信じるようになってからは、心に分裂が生じ、葛藤が生じます。

パウロ先生も、このように言われました。「ローマ人への手紙 7章18節〜24節」にある御言葉です。『 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』

これは、ひとえに新しく生まれた人たちだけが経験する体験です。新しく生まれる前には肉体が完全に私たちを占領しますので、肉体がさせる通りに引っ張られて行き、それで心に分裂を感じません。新しく生まれ、内なる人が生き返った人は、内なる人がしきりに天の御国に昇ろうとしますが、外なる人はしきりに地に引き下ろします。それで内なる人と外なる人は絶え間なく闘争をするようになるのです。

パウロ先生も、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆きました。しかし、我が主イエス・キリストの御名によって感謝すると言うことは、イエス様が十字架の上で外なる人を釘付けにして殺してしまったからなのです。私たちの外なる人を主がみな抱き込んで十字架に釘付けにし、死んで葬られ、内なる人すなわち、勝利の人として新しく生まれた私たちを、主がよみがえらせてくださったのです。

ですから私たちは、イエス・キリストを見上げて、私たちは断固として外なる人を十字架に釘付けにしてしまわなければならないのです。私たちは、私たちの想像の中で、私たちの外なる人がイエス・キリストと共に十字架に釘付けられて完全に死に、葬られてしまったと言うことを常に思い、私はキリストにあって新しく生まれて新しい人になり、内なる人として生きる、と言うこの事実を心の中に覚えて、いつも夢見ながら、語り、外なる人の干渉がある度ごとにイエス・キリストの十字架に釘付けにしなければなりません。

お前ら、外なる人の情欲よ、お前はキリストと共に十字架に釘付けにされてしまった。お前は私を支配することはできない。退け!外なる人が立ち上がる度ごとにイエス・キリストの十字架に釘付けにしなければなりません。お前はイエス様と一緒に十字架に釘付けになってしまったのだ。お前は私を支配することができない。お前は私を誘惑して罪悪に引っ張っていくことはできない。お前たち外なる人はみな退けっ…! と私たちは敵対しなければならないのです。私たちの一生はいつも、外なる人を繰り返し繰り返し十字架に釘付けにしてしまうことです。

パウロ先生も、「私にとって、毎日が死の連続です。」と言われました。毎日私たちは、私たちの外なる人を十字架に釘付けにしなければなりません。キリストと共に十字架に釘付けられた、とパウロ先生は告白なさったのです。ですから私たちは断固として、私たちの古い人を十字架に釘付けにし、内なる人として主と共に生きて行かなければならないのです。

パウロ先生は、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている、と言われました。外なる人は毎日毎日十字架に釘付けにしてしまい、それで外なる人は弱くなって行き、衰えてしまうと言うのです。内なる人は神の御言葉と聖霊と神様のお恵みによって日々新たにされて、生気溌剌とし、主と共に同行する人となるのです。

ですから、愛する聖徒の皆さん、私たちはアダムとエバの子孫として、完全に死に、捨てられて、どこから来て、なぜ生きており、どこに行くのか全く知らず、忘れられた者、死んだ者となってしまった私たちが、我が主イエス・キリストの、その驚くべきお恵みと祝福を通して、キリストにより、外なる人が一緒に十字架に釘付けになって死に、葬られてしまって、内なる人として主と共によみがえり、今は霊なる人として生き、いつかは外なる人の肉の幕屋が崩れたら、私たち内なる人はキリストと共に永遠なる天の御国に入って行って、極楽の主に仕えながら生きるようになるのです。

目に見えるものは暫くしたら見えなくなり、目に見えないものは永遠なのです。ですから、見える外なる人に従って生きて行かずに、目に見えない内なる人に従ってイエス様に仕え、聖霊さまのお導きに従って生きる皆様となりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる天のお父さま! 私たちは母の胎から生まれるときには霊が死に、肉で来て暮らす外なる人として生まれ出て、この世にだけ没頭して生きて参りました。この世だけがあるのだと思って暮らしました。

しかし、私たちの主イエス・キリストの御救いを通して、この世の向こう側に永遠なるたましいの世界、永生の世界、祝福の世界があることを悟り知るようになり、イエス様を通してその世界を受け入れ、私たちの内なる人が生き返るようになったことに感謝します。

全知全能であられ、愛であられる、我が父なる神様! 内なる人としては神様の法を、外なる人としてはこの世の法に従って生きる、このような闘争の中で暮らしておりますが、既に外なる人は十字架に釘付けにされた人であり、内なる人は既によみがえった人でありますので、私たちが常に外なる人を十字架に釘付けにして生きて行けば、私たちは充分に勝利の生活を享受しながら生きて行くことができます。

私たちの主であられる、父なる神様! 私たちの内なる人が神様の法を喜び、神様の法を慕い、神様の法を口ずさみながら、そして神様の戒めを守り、神様に仕えながら暮らす私たちとなって、祝福された信仰の道に歩むように助けてください。

主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!