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「信仰とは何でしょうか」
 






■聖書箇所

「マルコの福音書 11章20節〜25節」
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」




私は今日、皆さんとご一緒に、『信仰とは何でしょうか』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

イエス様は、弟子たちに信仰が何であるかを教えて上げたいと願われました。それでイエス様はある日、ベタニヤから弟子たちを連れて、朝早く、エルサレムに入って行く途中、オリーブ山の麓にあるいちじく(無花果)の木の団地を通るようになりました。そこには無花果(いちじく)の木がたくさん植えられてありました。

その中でもっとも葉の生い茂っている無花果の木の下に行かれて、イエス様が無花果の実を探されました。ところが聖書は確かに、「その時は無花果のなる季節ではなかった。」と記録しています。無花果のなる時期でないのにも拘わらず、主が無花果の木の下で無花果を探され、無花果が無いので主がその無花果の木に向かって、「今後、いつまでも、誰もお前の実を食べることのないように。」と言われてから、そのままそこを通り過ぎられました。

一日中、エルサレムで御使役なされた後、夕方にベタニヤに出て来られてから、その明くる日の朝、また弟子たちを連れて、何とも言わずに知らん顔をしてその無花果の木の団地を通り過ぎるようになりました。通りがかりにペテロが見ると、昨日、イエス様が呪われたその無花果の木が根から木の上まで完全に枯れてしまっていました。ペテロが叫ぶようにイエス様に言いました。「先生。ご覧なさい。あなたの呪われた無花果の木が枯れました。」

そうするや、イエス様はその場で弟子たちを見渡しながら、信仰に対する重大な教訓を教えられました。『「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」』

この主の御教えの中に、とても重大な信仰の秘訣が含まれています。このキリストの御言葉を詳らかに考えて見ることによって、私たちの人生の中にこんにち「信仰が何であるか?」を悟り知るようにならなければなりません。




第一、神を信じなさい。

第1番目に、私たちの主イエス様が「神を信じなさい。」と言われました。本来、神様を見た人がおりません。そうであるのに、どのようにして神様を信じることができるでしょうか? 皆さん、一生涯の中で見たことがないお方を信じなさい、と言ったとして信仰が生じるでしょうか?ところがここに、イエス様が「神を信じなさい。」と仰せられました。

歴史上、神様をありのままに見せてくれた方がこの世にただひとり居られます。その方がまさに、神様の御子イエス様なのです。私たちは神様を見たことがありませんが、イエス様は私たちが歴史的に見ており、御言葉を聞き、知っております。ところが、このイエス様を知っていることが神様を知っていることであり、イエス様を信じることが神様を信じていることです。神様とイエス様は一つであるからです。聖書はこのことに対して数限りなく証ししています。

「ヨハネの福音書 1章 1節〜3節」に、『 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』と記録されています。イエス様と神様は同時に共におられたのです。神様はイエス・キリストを通して万物を造られた。故に、造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない、と言われるのです。そして、イエス様は完全な神様が完全な人として来られたので、イエス様を見た者は神様を見たことになると言うのです。

「ヨハネの福音書 1章14節〜18節」を見ますと、『 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。』と記録されています。

ここで私たちが見るとき、神様のふところの中におられたひとり子イエス様が、神様を私たちに見せてくれた、と言われているのです。ですから、神様のすべての栄光はイエス様の中にあるのです。

「コロサイ人への手紙 1章15節〜19節」にも、『 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ…。』と記録されています。

ですから、御父がどこに居られるか? イエス様の中に居られるのです。イエス様と御父は分離しようとしても分離することができない一体であられるのです。

「ヘブル人への手紙 1章 1節〜3節」は、それに対して断固としてこのように記録しています。『 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』

イエス様は、神様の栄光の輝き、また神様の本質の完全な現れである、と記録しているのです。ですから主が、神様を信じなさい、と仰せられたのは、私を信じなさい、と仰せられたのと全く同じことなのです。イエス様を見た者は、神様を見たのです。

「ヨハネの福音書 14章 7節〜11節」に、『 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。』と記録されています。

こんにち、皆さんが、父なる神様を信じると言ったことは、まさにイエス様を信じると言ったこととおなじことなのです。イエス様を知ることは、まさに父なる神様を知ることです。御父の中にイエス様がおられ、イエス様の中に御父がおられるのです。御父とイエス様は一体であられるのです。二つの人格者であられますが、完全に一体として存在しておられ、みわざを働かしておられるのです。

また、神様を信じなさい、と言うことは、まさに神様がイエス・キリストを通して私たちに施してくださったそのお恵みを信じなさい、と言うことです。イエス・キリストを十字架に釘付けにして身を裂き、血を流されることによって、私たちに驚くべきお恵みを提示してくださいました。まさに、それを信じなさい、と言うことです。

どのようなお恵みを提示してくださったでしょうか? 神様は、キリストを通して私たちに赦しと義を提示してくださいます。無条件的に、信じたら罪を赦してくださり、義となる道を開いてくださるのです。イエス様の「十字架の犠牲」を通してあらわされた神様の愛と恵みを私たちは信じなければならないのです。

また、イエス・キリストを通して神様は、悪魔を追い出してしまわれ、世俗を追い出してしまわれて、そこに天の御国と聖霊で満たしてくださるお恵みを施してくださいました。これを信じなさいと言うのです。

神様を信じなさいと言うことは、神様がイエス様を通して私たちのすべての悲しみを追い出してしまって、喜びで満たしてくださり、私たちのすべての疾病を贖ってくださって、癒しと健康を与えてくださる、その神様を信じなさいと言うことです。

神様を信じなさいと言うことは、神様がイエス・キリストを通して私たちのすべての呪いのいばらとあざみをなくしてしまわれ、私たちへの呪いをイエス様の御身体で審いてしまわれて、呪いから解放してくださり、すべての貧窮から解放してくださり、すべてに幸いを得る祝福を与えてくださる神様を信じなさいと言うことです。

イエス様がまた神様を信じなさいと言われたのは、神様はイエス・キリストを通して死をなくしてしまわれ、葬ってしまわれて、死亡と陰府(黄泉)を征服なさり、三日目によみがえられて、天の神様の御座の右に座られることによって、私たちがイエス・キリストを通して、私たちも死亡と陰府(黄泉)に打ち勝ち、キリストにあって御座に座るようになったと言う、この事実を信じなさいと言うことです。

主が神様を信じなさいと言われたのは、まさにイエス・キリストを通して現された神様のその偉大なるお恵みを私たちが知り、信じなさいと言うことです。神様はこんにちも、御言葉を通して現されておられるのです。ですからキリスト・イエスを通して現された神様、御言葉を通して私たちに現された神様を信じなさいと言うことです。

「ローマ人への手紙 10章17節」に、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』と記録されています。ですから皆さん、私たちは神様を信じなければなりません。この世にあって私たち人間の理性や知恵や聡明や、人間の経験を信じて生きて行ってはいけません。青春を信じることもできません。すべてのことはみな変化されてしまうのです。

天と地を造られ、皆さんの一生の行くべき道を既に定めて置かれた神様を信じなければならないのです。イエス・キリストのうちにあって、私たちが神様を信じて生きて行けば、辱めを受けるようなことは決してありません。信仰とは何か? イエス・キリストのうちに現された神様を信じることを信仰と言うのです。イエス・キリストのうちに現された神様以外に、ほかのものを信じることはキリスト教的信仰ではありません。




第二、信仰とは、唇の告白です。

第2番目に、信仰とは何でしょうか? 信仰とは、唇の告白です。皆さん、一緒に唱えましょう。『信仰とは、唇の告白です!』 イエス様が、「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われることによって、再度、信仰とは唇の告白であると言うことを教えてくださっています。「だれでも」と言われましたので、男女・老幼・貧富・貴賎を問いません。イエス・キリストを通して神様を信じる人は、身分の如何に拘わらず、誰でも唇の告白をすることができます。

「この山に向かって、『動いて、海に入れ。』」…皆さん、山が動いて海に入るのをご覧になったことがあるでしょうか? これは、人間の考えでは不可能なことです。私たちの理性とか経験とかを通して見るとき、山に向かって、動いて海に入れ、と言ったとして、山が海に入ると言うことはあり得ないことです。

「この山…」とは象徴的に言われたことです。私たちの生涯の中で、到底不可能である、と思われること、自分の考えでは「とてもできない」と思われることでも、皆さんが信仰によって唇の告白をしたら、神様が告白を受け入れてくださって奇蹟を創出する、と言うことなのです。ですから「この山…」と言われたのは、皆さんの人生に押し迫って来る、到底克服することができない、人間の力ではどうすることもできない、泰山のような問題を指して言われたのです。

皆さんに押し迫って来た泰山のような問題が、神様の御力によって移されてしまうことができる、と言うことです。従って、これを移してしまうのには唇の是認を通して、そのことが起こると言うのです。私たちが心に信じ、これが成されることを信じて唇で告白したら、大きな力を発揮することができます。

「ローマ人への手紙 10章10節」にも、『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』と記録されています。私たちの救いまでも、私たちが信じて、口で告白したら、救われる、と言うのです。

「マタイの福音書 18章18節」に、『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』と記録されています。私たちがつないたり、解いたりすることを何をもってすることができるでしょうか? それは唇でつないたり解いたりすることができるのです。

私たちが口で告白し、地上でつないたら、天においてもつながれ、地上で解いたら、天においても解かれると言うのです。しかし私たちの口の告白を、何の信仰もなしにいたずらにしたら、それは効果もありません。疑いをもって口でいくら告白して見たところで、効果はありません。私たちが信仰をもって告白しなければならないのです。

「ヤコブの手紙 1章 6節」に、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。』と記録されています。また「ヘブル人への手紙 10章38節」に、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と記録されています。

皆さん、私たちが実定法的に見ますと、神様は御言葉の告白を通して天地を造られました。地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていたとき、主が御言葉の告白をなさいました。「光よ。あれ。」と仰せられたので、光ができました。「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられると、大空ができ、大空の下にある水と、大空の上にある水とが区別されました。また神様が、「地は植物、種を生じる草、種類に従って、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになりました。

「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために役立て。天の大空で光るものとなり、地上を照らせ。」と仰せられると、そのようになりました。「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられると、これもその通りになりました。

また神様が、「地は、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられると、その通りになりました。神様はその種類に従って野の獣、その種類に従って家畜、地のすべての這うものを造られました。ですから皆さん、宇宙を創造する根本材料は御言葉でありました。

イエス様の生涯を通して見てください。イエス様は御言葉を通して罪を赦されました。悪霊を追い出されました。病を癒されました。死者を生き返らせられました。荒れ狂う海を静かに鎮まらせられました。イエス様は、御言葉以外にほかの手段と方法でこのようなことをなさった例がありません。主が言われるや、神様がそれを成されたのです。

イエス様の弟子たちも、御言葉を持って使役をしました。皆さん、聖書「マルコの福音書 16章20節」に、『そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』と記録されています。

ペテロが五旬節の日以後、聖霊に満たされて、「美しの門」と言う名の宮の門に置いて貰っている、生まれつき足のきかない乞食に何と言いましたか? 「私たちを見なさい。金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい!」と言いました。すると、即時にその足のきかない男がおどり上がって真っ直ぐに立ち、歩き出しました。

ペテロが、中風で八年の間も床に着いているアイネヤと言う人に、「アイネヤ。イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」と言うや、アイネヤと言う中風の人がただちに立ち上がりました。

またペテロがヨッパに行って、タビタ(ギリシャ語ではドルカス)と言う女が死んで屋上の間に置いてあるところに行き、祈ってから、遺体のほうを向いて「タビタ。起きなさい」と言いました。すると、彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がりました。ペテロは言葉でみわざを働かせました。言葉以外に、ほかのものでみわざを働かせてはいません。

パウロも、ルステラで福音を宣べ伝えていたとき、生まれながらの足なえで、歩いたことがない人が御言葉を聞いているのを見て、その人に向かって大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい!」と言いました。すると、ルステラのその足なえの人が飛び上がって、歩き出してしまいました。

皆さんもよくご存知のことと思いますが、パウロがトロアスに行って、夜中まで説教をしました。そのとき、ユテコと言う青年が三階の窓のところに腰掛けていましたが、眠り込んでしまって、三階から下に落ちて死んでしまいました。その事で人たちが集まって騒がしくなるや、パウロが降りて来て、死んだ青年の上に身をかがめてから起き上がりながら、「心配することはない。まだ命があります。」と言いました。その青年は生き返りました。

このように、イエス・キリストも、また主の弟子たちも、言葉をもって使役をしました。口の告白を通して偉大なわざを施したのです。こんにち、イエス様を信じる人たちは、全く同じ神様の聖霊が私たちの中に臨在しておられ、全く同じ御言葉があるのですから、私たちの口の告白を通して神様がみわざを施してくださる、と言うことを知らなければなりません。

ですから、言葉を通して肯定的で積極的であり、創造的で生産的である、そして希望に満ちた言葉を語らなければならないのです。否定的で、敗北的であり、破壊的で、絶望的であり、怨みと不平を言う言葉は、恐ろしいほどに私たちのたましいと肉体と生活を破壊するのです。

私たちの口の言葉で私たちは縛られ、私たちの口の言葉で私たちが捕えられるようになったと聖書は言いました。ですから、信仰とは何か? 唇の告白です。「だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われたのです。

イエス様を信じない人たちの間にも、「言葉が種になる」と言うことわざがあります。何かを語ったらそれが植えられて、実を結ぶようになると言うのです。神様の御言葉はなおさらの事、言うに及びません。従って信仰の人は、言うべき言葉と言ってはならない言葉とを選別して、注意して語り、特に肯定的で創造的なことだけを話すようにしなければなりません。皆さんの言われる言葉が、皆さんの現在と未来の人生に至大な影響を及ぼす、と言うことを知っていただきたいです。




第三、祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい。

第3番目に、信仰とは何でしょうか? 信仰とは、祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じることです。皆さん、祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさいと言われましたが、祈りには、頭の中での祈りと、腹の中からの祈りとがあります。

私たちがただ、頭の中で祈ることもありますが、腹の中から感情がこみ上げてくるときの祈りもあるのです。ここで、祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい、と言うのは、頭の中での祈りではなく、腹の中からこみ上げて出て来る祈りを言うのです。腹の中からこみ上げて来る祈りを捧げた後には、既に受けたと信じなさいと言うことです。

どのようにしたら、腹の中からこみ上げて来る祈りをすることができるでしょうか? 目標を確かにしてこそ、腹の中からこみ上げて来る祈りを捧げることができます。目標が確立されていない、右往左往する祈りは頭の中での祈りです。

「ヘブル人への手紙 11章 1節」に、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』と記録されています。自分が望む事柄が確かであってこそ、信仰が生じるのです。

また、皆さんが腹の中からの祈りをすることは、簡単・明瞭に祈ることです。「マタイの福音書 6章 7節」に、『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』と記録されています。言葉数が多ければ、語ることに忙しくなってしまって、心の中から出る熱情的な祈りをすることができなくなります。

言葉数を多くするのが良いと思って、同じ言葉を繰り返し繰り返ししてはいけません。皆さんが祈りを捧げるときには簡単・明瞭に「救ってください。」「救ってください。」「癒してください。」「癒してください…。」または、「職場を与えてください。」「職場を与えてください…。」と、簡単・明瞭に、集中的に祈ってこそ腹の中からこみ上げてて出て来る祈りを捧げることができるのです。そうでなかったら、頭の中で考えながら祈るようになって、複雑になってしまい、腹の中からの祈りをすることができません。

また、この腹の中からの祈りは繰り返し繰り返し、頻繁に祈らなければなりません。皆さん、聖書を見ますと、お隣に住んでいる友だちのところに真夜中に訪ねて行って、「旅の途中に立ち寄ってくれた友人のために必要であるから、君。パンを三つ貸してくれ」と頼むとき、ただ頼んだのではなく、頼み続けたと言います。

「ルカの福音書 11章 8節〜10節」に、『すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』と記録されています。

ここでの「頼み続ける」と言うことは、恐ろしいほどの忍耐をもって、強硬に頼み、願い続けなければならないと言うことです。静かに、ただ求めてみてから、難しいと思われたらそのまま後ろに退いてはいけません。気落ちしたらいけないのです。聖書「ルカの福音書 18章 1節」には、『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために…。』と記録されているのです。

ですから、夜中に、友人のためにお隣の家に行ってパンを頼むが如くに、祈り続けなければならないのです。「駄目だ。できない。」と言われても、その「否」と言う答えに屈しないで、頼み、頼み、また頼み、継続して求め続けなければならないのです。

ひとりの寡婦が、神を恐れず、人を人とも思わない不正な裁判官のところに来て、「私の相手を審いて、私を守ってください。」と、彼女は懇請しました。繰り返し繰り返し、何度も訪ねて来ては継続願い続けました。その結果、その不正な裁判官は彼女の願いを遂には聞きかなえて上げました。このように皆さん、私たちは頭の中からではなく、腹の中からの祈りを捧げるためには繰り返し繰り返し、継続祈り続けなければなりません。

また、腹の中からの祈りを捧げるためには、恨みが骨髄に徹したような、緊迫した祈りを捧げなければなりません。心に、恨みが骨髄に徹したように、感情を集中しなければならないのです。すべての願いと悲しみと怨みを一つにしたような、そのような祈りをしなければならないのです。いたずらをするみたいに、祈ったり、止めたり、祈ったり、また止めたり…するような祈りをしては何の応答も得ることができません。

「ルカの福音書 18章 7節〜8節」に、『まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』と記録されています。恨み骨髄に徹したような、そのような、腹の中からこみ上げて出て来る祈りを継続して捧げなければならないのです。

ですから私たちは、腹の底に信仰が生じるまで祈らなければならないのです。頭の中での祈りでは主から答えていただくことはできません。「祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい」と言うことは、腹の底からこみ上げて来る祈りを捧げながら、目標を確かなものにし、簡単・明瞭に繰り返し繰り返しして、骨髄に徹した祈りを通して完全に敵悪魔を打ち破ることです。

そうしたら皆さんの心の中に、もう答えていただいたと言う確信が生じるようになります。そして平安に満たされるようになります。不安が消え去り、焦りや焦燥が消え去り、漠然とした信仰が消え去ります。また頭の中からの祈りでなく、腹の底からの祈りを捧げた後には、心の中に神様の平安と確信が満ち溢れるようになるのです。

「ヨハネの福音書 14章13節」に、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。』と記録されています。これも、腹の底からの祈りを指して言うのです。

「マルコの福音書 9章23節」に、『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』と記録されています。腹の中からの祈りを通して確信が生じたとき、その信仰をもって「何でもすることができる」と言うのです。

また「ヨハネの福音書 7章38節」に、『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と記録されています。腹の底から祈りますと、後には勝利を得るようになり、爽快な勝利のみわざが心の奥底から溢れ出るようになり始めるのです。

頭の中からの祈りと、心の底からの祈りとはそのように違います。頭の中からの祈りは通り過ぎて行く風のような祈りですが、腹の底からの祈りはちょうど川の水が溢れ出るように、腹の奥底から強力な祈りが湧き出て悪霊の陣を打ち壊し、神様の御座に上達するようにしてくれるのです。

このようになったら、その次には「無いものを有るもののように」強烈に夢を抱かなければなりません。聖書に、「祈って求めるものは何でも、受けたと信じなさい。」と言われました。目には何の証拠も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、既に受けたと信じなさい、と言うのです。これがまさにアブラハムの信仰です。アブラハムの信仰は本当に模範的信仰です。

「ローマ人への手紙 4章17節〜18節」を見ますと、『このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。』と記録されています。

「ローマ人への手紙 4章20節〜21節」を見ますと、『彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』と記録しています。

ですから皆さん、信仰と言うのは、アブラハムのように、彼の年が100歳になり、奥さんが90歳になろうがなるまいが、彼が腹の底から祈り、呼ばわって、神様から応答をいただいたなら、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、無いものを有るもののように強烈に心の中に夢を抱くことです。これが、信仰の総決算です。

無いものを有るもののように思い、見、話し、行動すべきです。これらはまさに皆さん、主が仰せられた通りに、強烈な心の底からの祈りを捧げた後になってから、成されるものであるのです。

また、私たちが祈るとき、いつも留意しなければならないことは、信仰は愛によると聖書が教えていると言う事実です。言い換えれば、憎しみが心の中にあったら信仰が去ってしまうと言うことです。ですから、神様と私たちの間に赦しと和解があり、また私たちの心の中の憎しみを克服して赦しと愛で満たしたら、信仰は極大化するようになり始めるのです。

信仰とは何でしょうか? イエス・キリストのうちに現された神様を信じることが信仰です。信仰とは、神様の御言葉を大胆に口で告白することであり、信仰とは、祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じて、無いものを有るもののように、強烈に夢見、信じて、口で是認することです。信仰とは、イエス様のうちに現された神様のお恵みを信じることであり、信仰とは、唇の告白です。

信仰とは、腹の底からの祈りを捧げ、既に受けたと信じて、無いものを有るもののように、強く心の中で夢見、思い、語り、期待することです。そうしたら、聖書は言われます。「あなたの信仰通りになりますように!」と。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 我らの主イエス様が弟子たちを連れて、オリーブ山の無花果の木の団地で信仰に関する講義をなさったように、今日、同一の御言葉を私たちのヨイド純福音教会の聖徒さんたちの前で宣べ伝えました。主である天のお父さま! 主が信仰の総体を私たちに教えてくださって有り難うございます。

信仰とは、イエス・キリストのうちに現された神様のお恵みを信じることであり、信仰とは、私たちが世俗と妥協することなく、強烈に口で告白することであり、また信仰とは、頭の中からの祈りではなく、腹の奥底からの祈りを捧げ、心の中にはっきりした信仰が生じて、無いものを有るもののように、強烈に夢見、思い、語り、期待することです。そうする時、主は「あなたの信仰通りになりますように!」と仰せられるのです。

全知全能であられる、我が神様! 主が教えてくださったこの信仰を私たちがすべて受け入れて、深く黙想し、思い、この信仰通りに生きて、神様の御力と権威とを私たちが生涯の中で体験するようにしてください。また、悪魔の鎖からみんなが解放されて、暗やみの圧制から救い出され、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、またいのちを得るにしても豊かに得るように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!