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「主の懲らしめを軽んじてはならない」
 






■聖書箇所

「ヘブル人への手紙 12章 5節〜13節」
12: 5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12: 6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12: 7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12: 8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12: 9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
12:12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
12:13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『主の懲らしめを軽んじてはならない』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

こんにち、子どもたちを教育するときに、若い父母たちはほとんどが鞭を手にしません。学校でも先生が生徒に体罰を加えたら、その生徒の父母や父兄たちが反旗をひるがえして抗議し、甚だしくは、生徒までもが携帯電話でもって警察に申告する例があります。

ですから家庭では身体だけを育てて「甘ったれ」を養成し、学校では人格養成は後回しにして「ただ、知識だけ伝達する」機関に転落してしまいました。それでたくさんの若い人たちが教養がなく、権威を無視し、物質万能、快楽万能の利己主義的「非人格者」になっていきます。

昔、私たちが育つときには、家庭でも父母の教訓に逆らったら罰を受け、ふくらはぎを血が出るほどに鞭で打たれました。学校でも先生の教えに従わず、規律を守らなかったら、間違いなく罰せられ、鞭で打たれもしました。その結果、父母と先生を恐がり、尊敬しました。そして、教訓と規律を守らなかったら「苦痛と不利益をこうむる」と言うことを知って、いつも注意しました。

大人も子供もみな、間違った言語・行動に対するそれ相応の罰を受けるときには、心の底から悔いるようになります。またと同じ間違いや過ちを犯すまいと決心し、努力するようになります。

私たちがイエス様を信じて神様の子となったら、神様は私たちが信仰にあって育つようにと願われます。それで、その成長過程にあって必ず神様が教訓してくださり、不遜で不従順な人には鞭打ちをなさり、懲らしめられます。




第一、なぜ、神様の懲らしめが必要でしょうか?

皆さん、なぜ、神様の懲らしめが私たちに必要でしょうか? 私たちが神様を敬い、神様の教訓を守るようになるためには、神様の懲らしめが必要なのです。1〜2回従順に聞き従がわず、反抗しても、そのまま捨て置くとしたら、人はすぐに神様を敬うことをせず、放埓になるために、結局には悪魔の罠に引っ掛かって永遠に滅亡するようになるので、神様は、主を敬い、主の御教えを守るようにするために懲らしめられるのです。

「ヘブル人への手紙 6章 7節〜8節」に、『土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。』と記録されています。

私たちの信仰生活が実を結ばず、いばらとあざみなどを生えさせるのに、神様がそれを捨て置かれるでしょうか。信仰の実を結ばないとしたら、それは滅亡であり、呪いであり、破滅です。それで神様が懲らしめられるのです。

また神様は、成熟した信仰の人となるようにするために懲らしめられるのです。幼い子供のように自分勝手に振舞わず、敬虔な人格者となるように養成するために懲らしめられます。そうして節制することを知る人格者にしてくださるのです。いつまでも成熟した信仰の人になれず、いつまでも子供のように放縦であるとしたらどうなるでしょうか? 成熟な信仰の人となるためには、教訓と鞭打ちがあってこそ成熟な信仰の人となることができるのです。捨て置いたら、神様を恐れず、敬わず、放縦な信徒になってしまいます。

「エペソ人への手紙 4章14節〜15節」を見ますと、『それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』と記録されています。

幼い子供の風情を捨てて成長することができるようにするためには、必ず神様の教訓と懲らしめがなければなりません。また、私生児でない「子」であることを現すために懲らしめがなければなりません。人は、自分の実子(生みの子)は懲らしめますが、私生児なんかは誰も懲らしめようとしません。見て見ぬふりをするか、捨て置きます。

私たちが神様から懲らしめられるときには、「神様が私を子として扱ってくださるのだ!」と心に悟らなければなりません。「ヘブル人への手紙 12章 5節〜6節」に、『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」』と記録されています。

父母から鞭で打たれて涙を流し、そして悔い改めたら、新しい人になります。私は今60歳が過ぎた年代ですが、少年時代に過ちを犯して父親からふくらはぎを鞭で打たれた記憶が生々しいです。幼いときのほかの事はほとんど忘れてしまいましたが、その鞭で打たれた記憶は今も心に鮮明に残っています。懲らしめられた記憶は簡単には忘れられないのです。

こんにち、子どもたちを教育するとき、鞭を使用せずにただ諭し、甘やかしたら、後にはどうすることも出来ない非人格者を養成する結果を招きます。神様が私たちを懲らしめられるのは、義の平和な実を結ぶようにするためです。罪と不義と醜悪と絶望を捨てて義の人となり、平和の実を結ばせるためなのです。懲らしめを通して悔い改め、義の道を選び、その結果心と生活に平安をもたらすようになるのです。

ひとりの青年が強盗を働く途中、人を殺しました。逮捕されて死刑宣告を言い渡され、監獄に閉じ込められて死の日を待っていました。そうした或る日、その青年の母が息子の面会に行きました。息子が刑務所の面会室の鉄の窓の向こう側で、母を見るや涙を流しました。それを見た母はあまりにも悲しくなって、胸を叩きながら声を出して泣きました。

暫くしてから、息子が母に、「お母さん、手に触らせてください…。」と言いました。それで母親が、鉄の窓の中に手を差し入れてあげました。すると、その息子は母親の手を握って引っ張り、口の中に母親の手を入れてから力いっぱいに噛んで、母の手の指を噛み千切ってしまいました。母親が手から血をたらたらと流しながら、大声で喚きました。「この野郎、何をするんだ。母の手を噛み千切るとは…?」

息子が低い声で、呟くように言いました。「お母さん、私が他人の家に忍び込んで何かを盗んで来たら、お母さんは私の背を叩きながら言いましたね。『見つからずに、良くやったねぇ!』と。そのとき、お母さんが私をほめずに、叱りつけ、鞭でぶっ叩いたりしたなら、今になって私は、殺人強盗を働くような人間にはならなかっただろうにな…。」

韓国には、「針泥棒が牛泥棒になる。」と言う言葉があります。針泥棒であるときに懲らしめてこそ、罪を悔い改め、義の道に歩み、平安な人生を生きるようになるのです。「箴言 3章 1節〜2節」に、『わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。』と記録されています。

私たちの過去を顧みるとき、厳しく私たちを教育してくださった父母や先生を本当に心から尊敬するようになります。何事にも「良かった。良かった。」とほめてくれるだけで、厳しく教訓し、懲らしめてくれなかった、そのような父母や先生を、私たちが尊敬するようにはなりません。

私は、外国人の前で英語で説教する度ごとに、心の中からいつも感謝する先生が居られます。中学校のときの英語の先生です。この先生は特に、英語の過去と現在と未来を正確に区別しなければならないと、念を入れて教えてくださったお方です。その先生は教室に入って来られるときにはいつも、藤の木の太い鞭を手にして入って来られました。宿題や予習をして来なかった生徒たちを容赦なくその鞭で殴りつけました。私も例外ではなく、何度も打たれました。

その当時、生徒たちのほとんどが心の中で、「あの先生、何かのはずみで早く死んでくれないかな。」と念願するほどに恐い先生でありました。年月が経って、私がこれ位英語を話せるようになったのは、まさにその先生のお蔭です。その先生が厳しすぎるほどに英語を勉強させるので、私は夜を明かしながら英語の勉強をしました。その事は私が大きくなりながら英語を独学するのに大いに力となりました。こんにちも私は、その先生を心から尊敬しています。

懲らしめは、愛の表示なのです。愛しないことには懲らしめもしません。生みの子は叱りもし、懲らしめもします。私生児を誰が愛し、懲らしめるでしょうか。ですから、神様から懲らしめを受けなかったとして自慢してはいけません。神様は、ご自分の子はみな鞭で打ち、懲らしめられるのです。




第二、神様が私たちを懲らしめる時

神様が私たちを懲らしめられるときは、霊的な夜を通るようになさることもあります。聖霊さまのみわざが止まってしまって、祈ろうとしても祈りが出ません。心霊が息を止めたように苦しくなり、神から捨てられたと言う絶望が襲って来て胸を圧迫することもあります。

サウルは、アマレク人との戦争で神様の命令に背き、弁明するや、神様は彼を捨てられてダビデに油を注がれました。主である神がサウルから離れて行き、悪霊がサウルに臨んだので、サウルは恐ろしい苦しみに会いました。サウルは神様の前で厳しく罰せられました。サウルが万が一、痛く悔い改めて立ち返ったなら、神様のお赦しを得たかも知れませんが、彼は最後まで弁明したので捨てられてしまいました。

ダビデが、バテ・シェバとのことで犯罪してナタンから責められるとき、ダビデは大いに悔い改めました。しかし主は、「あなたは赦されはしたが、敵悪魔によって大きい災難に遭うであろう。」と言われました。それで一生涯の間、神様の懲らしめの鞭打ちを免れることができませんでした。

「詩篇 51篇 9節〜12節」に、『 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』と記録されています。

霊的に神様が懲らしめられるときは、聖霊さまを取り去られます。祈りを捧げようにも祈りが口から出ません。心がなぜか苦しくなり、その苦痛は言い表わすことができません。悔い改めることができないので、身悶えします。このような霊的な夜を通るようにして、神様が懲らしめられるときがあります。

そうでなかったら、肉体的な苦痛を通して主が懲らしめられるときがあります。すべての病気がみな神様の懲らしめではありませんけれども、しかし数多くの病が、神様の御前に罪を犯したことによって懲らしめられ、病に罹るときが少なくありません。

「ヤコブの手紙 5章15節〜16節」に、『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』と記録されています。

なぜ、罪を悔い改めなさいと言われたでしょうか? 私たちが過ちを犯し、罪を犯して反逆するとき、私たちが神様の鞭に打たれて病に罹るときが数多くあります。ただ、病気を癒してください…とだけ言わずに、大いに悔い改め、間違ったことを振り捨てて主のもとに立ち返り、あつく祈ってこそ疾病を癒していただくことが出来るからです。

または、神様は環境的「風浪」でもって私たちを懲らしめられるときもあります。家庭に近づいて来る暴風や、事業や生活に襲って来る鞭打ちもあります。ヨナをご覧下さい。神様がヨナに、ニネベの町に行って、大きく叫べ…と言われました。ところが彼は、タルシシュに逃げて行こうとしてヨッパに行き、そこで船に乗り、船底に降りて行って神様の御声を聞くまいとして目をつぶってぐっすり寝込みました。

そうしたとき、海に激しい暴風が起こりました。神様が言われるとき、私たちがその御言葉に聞き従わなかったら、私たちの環境に家庭的暴風や、事業、又は生活に巨大な風浪が近づいて来ます。ヨナは、遂には魚の腹の中にまで飲み込まれる試練と苦しみに会ったのです。

我が神様は、私たちを懲らしめられるときに、霊的に、または環境的に、鞭を振り上げて打たれるのです。神様から鞭で打たれるとき、私たちが何故打たれるのか…、心中に悟ることができます。鞭打ちに会いながら、何も知らずに「なぜ、打たれるのか知りません…。」と言う人はいません。

クリスチャンは、神様に反逆し、不従順して暮らしながら、「こうしたら、神様の鞭打ちに会うだろうがな…。」としきりに思うようになります。神様がそのように思うようになさるのです。「あなた、鞭に打たれますよ。」「そうしたら、もうすぐ、懲らしめに遭いますよ。」と言う声が聞こえると思うようになり、そうするうちに突然、鞭打ちに会うようになるのです。

「お前、お父さんから叱られるよ。」「こんなことしたら、お父さんが本当に怒りますよっ!」母親が忠告します。それでも子どもは、その忠告を無視して度を越した悪さを継続し、逆らいます。そうする或る日、父親が本当にかんかんに怒って、鞭を手にして目を怒らせながら、子どもの目の前に立ちはだかるようになるのです。

聖霊さまは、私たちに何回も警告なさるのです。悔い改めなさい、立ち返りなさい…、継続こうしたら神様から鞭で打たれますよ…! しかし、聖霊さまの御声に逆らって、人たちは欲しいままに振る舞い、神様が本当に怒るかどうか、試してみます。ここまでの事では、まさか神様が鞭打つようなことはなさらないだろう。そうするうちに、遂には大変な目に会います。

神様が怒りを発して鞭で打たれるときには、本当に痛いほどに打たれます。皆さん、懲らしめのために打つときには、なまやさしい打ち方はしません。懲らしめのための鞭打ちは、目から火花が散るほどに痛く打ちます。打たれたふくらはぎから血が流れ出ます。心に深く刻み込まれるように打ちます。その人が又と罪を犯すことがないように、神様は痛く懲らしめられるのです。

ですから私たちは、神様から懲らしめられることがないように、聖霊さまの警告をまともに受け入れながら生きて行かなければならないだけではなく、もしも懲らしめを受けるときには、私たちは確実に主のもとに立ち返らなければならないのです。




第三、神様から懲らしめられるとき、どうしたら良いでしょうか?

それでは、神様から懲らしめを受けるとき、私たちはどうしなければならないでしょうか? 第1に、涙で悔い改めなければなりません。生ぬるい悔い改めは聞き入れられません。胸を叩き、かきむしりながら、涙の悔い改めをしなければなりません。「イザヤ書 57章15節」に、『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」』と記録されています。

痛く悔い改めなければなりません。涙を流し、胸を叩きながら、「父なる神様!私が悪うございました。」「お赦しください。私が逆らいました。」主に立ち返り、繰り返してまた立ち返ってこそ、神様が私たちの心を生かしてくださるのです。「ヨハネの手紙 第一 1章 9節」にも、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と記録されているのです。

第2に、懲らしめを受けるとき、神様を恐れかしこみ、礼拝を捧げなければなりません。高慢に、欲しいままに振舞うのは、神様を無視する行動なのです。神様から鞭で打たれるときには、心から神様を恐れかしこまなければならないのです。心から神様を畏敬し、その時からは神様を本当に敬わなければならないのです。

今はそうではありませんが、私たちが幼かった時代には、父親を「厳親」と言い、母親を「慈堂」と言いました。母親は慈しみ深く、いつも愛でカバーしてくれますが、父親は厳しく、怖かったのです。父親は、その家では律法でありました。父親の手にはいつも、鞭が持たれているかのように思われました。それで父親のもとで暮らす子どもたちは、父親を尊敬し、恐れました。そして母親の愛のふところの中で正しく成長したのです。

イエス様を信じる私たちの信仰生活には、限りなきイエス様の愛と憐れみと慈しみだけがあるのではありません。そうだとしたら、人間は傲慢になり、生活が放恣に流れます。それで、父なる神様の怖いお叱りと、痛烈な鞭打ちとがあるのです。

ですから、私たちが神様から懲らしめを受けるときには、神様を恐れかしこみ、神様に心からの礼拝を捧げ、神様の御前で震えるようにならなければなりません。神様を信じながら生きて行かなければならないだけでなく、神様を恐れかしこみ、震えながら、私たちは救いを成就しなければならないのです。

「エレミヤ書 2章19節」に、『あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。・・万軍の神、主の御告げ。・・』と記録されています。主を捨てて恐れないのは、悪であると言うのです。

こんにち、私たちはあまりにも神様を恐れません。神様の愛をあまりにも強調して伝道しましたので、こうしようが、ああしようが、いつも愛してだけくださる神様だとだけ思っているのです。怖い神様、怒りを発する神様、鞭で打つ神様…と言うことを忘れて、高慢になり、勝手に我が侭な生活を営んでいます。そんな人たちが神様の御前で厳しく打たれ、狼狽するようになる実例が少なくありません。

第3に、神様から懲らしめを受けるときには、自我が砕かれ、御言葉に従順に聞き従うようにならなければなりません。「詩篇 123篇 1節〜2節」に、『あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。』と記録されています。

神様の前に完全に自我が砕かれ、そして悔い改めて、「主よ!過去も現在も未来もすべて主のものです。私は何ものでもありません。今は、私が正しいとか正しくないとか、決める権限も私にはありません。私は主の奴隷、雇い人、下男に過ぎない者です。主よ!私を主の奴隷として、下男としてご使用してください。」と、へりくだり、砕かれ、主の前に降伏する、そのような人とならなければならないのです。

そして第4には、懲らしめを受けるときには、罪なる人生を完全に清算して立ち直り、正しく生きて行かなければなりません。後悔と悔い改めとは違います。後悔は、罪を犯してから逮捕されたので後悔するのです。後悔する人は、機会があれば罪を犯し、また罪を犯し…するのです。

しかし、悔い改めは、完全に痛く悔いて罪を捨てることです。泥棒を働いた人は、又と泥棒を働きません。姦淫をした人は、又と姦淫を犯しません。人を殺した人は、又と人を殺すようなことをしないことです。私たちは、後悔と悔い改めを同様なものと考えてはなりません。悔い改めは、本当に胸をたたき、かきむしりながら、またと同じ罪を繰り返して犯さないことです。

私たちが神様から懲らしめられるときに、「そうしたことを犯さなかったら良かったのに…。」と思うときがあります。しかし、本当に悔い改める人は、「私が悪うございました。」「私が本当に死に値する罪を犯しました。」「私は鞭打ちに会って当然です。」と心から悔い改めながら、主よ!今から主を恐れて、本当に又と罪は犯しません、と誓います。そして主の下に立ち返ります。また新しい人生を生きて参ります…と、心の奥底からの熱烈な告白をするようになるのです。

第5に、懲らしめを受けるときには、落胆したり、自己憐憫におちいったりしてはいけません。神様から鞭打ちに会い、家庭に風浪が襲来し、事業が破綻し、からだが病に罹ったら、気弱く落胆し、挫折して、「神様が僕を捨てたのだ。」「もう私は信じる必要もない。」「私は捨てられた子なのだ…。」と沈み込むようになります。

そうなったら、自らを哀れに思い、涙を途切れがちに流しもします。こういう人は、心から悔い改め、主に立ち返り、力いっぱいに新しく生きて行こうとしません。落胆して、後ろに退く人生になります。

「ヘブル人への手紙 12章12節〜13節」に、『ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。』と記録されています。神様の懲らしめを否定的に受け入れてはいけません。肯定的に受け入れて新しい人となり、新しい人生を生きて行くようにしなさい、と言うことです。

第6には、懲らしめを施された神様の愛に、感謝しなければなりません。神様が懲らしめを施されることは、いかに有り難いことでしょうか。父母から鞭で打たれたら、父母に感謝しなければなりません。自分の子どもですから、悪い道に足を踏み入れないようにするために鞭で打つのであって、自分の子どもが憎いので鞭で打つのではないからです。神様は、私たちが罪から立ち返り、悪霊の奴隷から解放されて天国に行くようにするために、私たちを鞭打ちに会わせるか、または懲らしめられるのです。

神様は、主の御前で祝福を受けなさいとして、鞭で打ったり、懲らしめたりなさるのです。神様は、私たちを苦しめるために鞭で打ったり、懲らしめたりすることはなさいません。ですから、神様が懲らしめを施されるときには、私たちは痛いので涙を流したりはしても、心の中からは神様に大きく感謝しなければならないのです。

クリスチャンであったら、「私は悪い人間でして、私の肉の情欲に負けて罪を犯しましたけれども、私は心の中から、鞭で打ってくださった神様に感謝申し上げます。何故かと言えば、鞭で打たれる前には間違ったことばかりしでかしましたが、神様から鞭で打たれた後からは、私が義の道に正しく暮らして行くようになりました。いかに有り難いことか知れません…。」と、心からの告白をしなければなりません。

皆さん、鞭打ちに会ってこそ、人は正しく生きるようになります。鞭で打たれなかったら、正しく生きて行こうとしません。私が41年間牧会しながら、数多い聖徒さんたちを見て来ました。神様から懲らしめられてからは、ほとんどすべての人たちが正しく生きて行きました。鞭打ちに会う前には放縦で違法を犯すことに平気であった人たちが、鞭打ちに会ってからは悔い改め、立ち返って、正しく生きて行くのを数限りなく見て参りました。従って、ときには鞭で打ってくださる神様に、私たちはあつく感謝しなければなりません。

「詩篇 30篇 4節〜5節」に、『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。』と記録されています。夕暮れに、鞭で打たれるときには涙が流れても、悔い改めて変化されたら、朝明けには喜びが満ち溢れるようになるのです。

「ホセア書 6章 1節」には、『さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。』と記録されています。主が私たちを引き裂くのは、悔い改めなさいとして引き裂くのです。また主が私たちを打つのは、立ち返りなさいとして打つのです。悔い改めて、立ち返ったら、神様は私たちを包んでくださるのです。

第7に、神様から鞭で打たれるとか、懲らしめられるとかしたら、私たちの生活が変化されなければなりません。神様が鞭で打たれるのは変化されなさいとして打たれるのです。聖徒さんたちは御言葉で変化され、聖霊さまのみわざによって変化されますが、また懲らしめを受けることによって大いに変化されるのです。

ですから、神様は私たちを変化させるがために御言葉で教訓なさり、聖霊さまのお恵みを与えてくださり、そして打つことによって私たちを変化するようになさるのです。私たちの子ども教育も同じことです。教訓もし、愛しもしますが、子どもたちは強く鞭で打つときにも変化するようになります。厳しく育てた子どもが必ず親孝行をします。愛だけを施し、放縦、気ままに育てた子どもは大きくなって間違いなく父母に不孝するようになります。

私はあまりにも驚いたことがあります。私たちの教会に出席している若い青年の中に、田舎から上京して来て、学校教育もさせられなかったので工場で汗を流しながら働き、苦しい生活をしながらも小遣いを貯めて、父や母に生活費ですとして送って上げており、そうしてからは、秋のお盆の時やお正月には、私のところに来て按手祈祷を受けながら、母や父が田舎で苦労していますが、帰省しながら何のお土産も準備することができずに素手で帰省しますので、胸が痛くて堪りません…と言いながら涙を流して泣きながら祈祷を受けるのです。

それを見ますと、苦労をしながら育ったのにも拘わらず、苦労しながら育った子どもが親孝行をするのだと知ることができます。米国にまで留学させ、あらゆる豪華な生活を欲しいままにさせた子どもが、帰国してからは財産を分けてくれないとして不満を抱き、寝ている父親を斧で打ち殺して逮捕され、監獄に入れられた、このような実例もあります。絶対に放縦に子どもを育ててはなりません。間違ったことを仕出かしたときには鞭で打ち、厳しく懲らしめなければなりません。

こんにち、学校の教育も、学生が勉強もせず、学校の規律に違反したときには、先生がふくらはぎを鞭で打たなければなりません。そうしてこそ、人間になるのです。そうしたとして、学生の父母が学校に押し駆けて来て抗議し、或いは学生がまっすぐに携帯電話で申告して警察が駆けつけて来たりするのでは、どの先生が学生を懲らしめようとするでしょうか。また、そのような学生は人間になれません。間違った人生は変化されなければなりません。

「ローマ人への手紙 12章 2節」に、『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』と記録されています。

また「エペソ人への手紙 5章15節〜16節」には、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』と記録されています。変化を受けて、神様の御前に正しく立って生きて行かなければならないのです。

懲らしめを受けることは苦痛であり、悩ましいことです。もしもまかり間違えば、懲らしめを受けるときに愚かにも神様を怨むようになるときもあります。しかし神様の子として成熟して行くためには、神様の教訓と懲らしめは必ず受けなければなりません。懲らしめられる痛さがゆえに涙を流すことがあっても、私たちを私生児として扱わず、神様の御国の栄光にあずかる実子として扱ってくださる神様に感謝し、かえって従順に聞き従いながら生きて行こうと努力しなければならないのです。

「箴言 3章 7節〜11節」に、『 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。 あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。 そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。 わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。』と記録されています。

神様の懲らしめをないがしろにしたり、その叱責を厭うとしたら、見捨てられてしまうようになるのです。しかし神様が懲らしめられ、叱責なさるのは、皆さんと私がたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得て、天国に入って行くようにするがために、そのようになさるのです。懲らしめが初めは苦しいですけれども、鍛錬を受けた後には、それによって平安の実を結ぶことができるようになるのです。




お祈り

聖く、愛であられる父なる天のお父さま! いつも優しく愛に満ち溢れるだけの神様ではなく、私たちを厳しく教訓なさり、鞭で打ちもし、懲らしめてくださることもある神様であられることに感謝申し上げます。

全知全能であられる、父なる神様! 詩篇記者が、懲らしめを受ける前には罪の中を歩みましたが、神様から懲らしめを受けてからは正しく暮らすようになりました、と言いました。幼い子どもも鞭で打たれたら父母を恐れるようになり、敬うようになります。私たちが神様から懲らしめを受けた後には、神様を恐れるようになり、敬うようになり、神様の戒めを守るようになります。

主であられる神様! 私たちに愛を施してくださった主よ! 私たちは過去にも懲らしめを受け、現在懲らしめを受けている人もおり、将来にも不従順、不信仰によって懲らしめを受けることがあると思います。懲らしめてくださる神様に却って私たちは感謝申し上げます。

今、神様から懲らしめを受けている人がおりましたら、悔い改めて主に立ち返り、御言葉に従順に聞き従い、変化されるように助けてください。過去に懲らしめを受けた人は、その懲らしめを骨に刻み込んで、またと再び、罪を犯さないように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!