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「成功的な人間関係」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 5章38節〜42節」
5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『成功的な人間関係』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様は、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われました。それで人間は、最少限「家族単位」から隣人と社会と共に暮らして行くように造られました。或る社会学者が研究結果を発表したのを見ますと、「ひとりの人の社会的成功と失敗が、絶対的に人間関係にある」と言いました。もう少し詳しく言えば、ひとりの人の成功的な人生にあって、技術や能力はわずか18%しか影響力がなく、「82%が人間関係にある」と言うのです。

こんにち、数多くの家庭が破壊されています。その内容を見ますと、絶対的「数」が人間関係の不調和に因るものです。ですから私たちは、立派な人間関係を結んで行くために自我を省察し、長所を生かし、短所は直してこそ、正しい人間関係を結んで行くことができるのです。

無条件的に、自分の短所を「悪魔の仕業」にしてはいけません。過ちは心から悔い改めて、品性の変化のために祈らなければならないのです。

それでは、私たちがどのようにしたら「成功的な人間関係」を結んで行くことができるでしょうか?




第一、他人を考える心の姿勢

第1番目に、私たちは他人を考える心をいつも持たなければなりません。西洋では、大衆食堂にはほとんどの人たちがめったに幼い子どもを連れて来ません。もしも幼い子どもを連れて来た場合には、絶対に飛び回らないように注意をします。韓国では、食堂に行ってみたら幼い子どもたちが自分勝手に飛び回り、それで雰囲気が落ち着かず、騒々しいです。誰かがそれを制止したら、その父母が睨みつけてはかえって文句を言います。これは人間関係を形成することに絶対的な差し支えをもたらします。

教会の礼拝堂に来て、子どもたちが飛び回ったり、いたずらをしないようにすることは、西洋に行って見れば徹底的です。その子どもの親が目を怒らせたり、子どもの膝を指で突っつきながら、静かにするように教訓します。私たちの韓国の移民教会に行って礼拝を導いて行くときには、私が説教している最中にも子どもたちが講壇に上がって来ては飛び回り、私の服のすそを引っ張ったりします。それでもその父母たちはそれを見て、子ども可愛さに笑うだけです。制止しようとしません。他人のことはてんで考えないのです。

譲歩の美徳を徹底的に教えなければなりません。私たちはいつも、イエス様を中心として、他人を考えるようにならなければならないのです。自分を中心として、何事でも利己主義で通ろうとしては、絶対に良き人間関係を結んで行くことはできません。

「マタイの福音書 7章12節」に、『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』と記録されています。自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい、と言われました。そして、これが律法であり預言者だと言われました。ですから、いつも他人をおもてなしする心情を持ち、他人に対する深い関心を傾けるとき、良い人間関係を結ぶことができるのです。




第二、他人を否定的に批評してはいけません。

第2番目に、他人を否定的に批評しないように心掛けなければなりません。「囁き千里」「壁に耳あり」と言う言葉があります。自分がひそかに友人に他人に関する批評をしたら、その友人はまた自分の他の友人に言い、その他の友人はまたその他の友人に囁きます。それで、その批評は瞬く間に伝播されるようになるのです。

私たちは評価はしても、判断はしてはならないのです。評価は必要です。この人が能力があるか、ないか、仕事を良くするか、そうでないか、実力があるか、ないか…、評価は必要ですけれども、しかし判断はしてはならないのです。

「マタイの福音書 7章 1節〜5節」に、『 さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』と記録されています。

私たちはいつも、自分の過ちや間違いは棚に上げるか、背にして、他人の過ちや間違いだけを見て批評したり、指摘したりします。自分の過ちや間違いは意識しません。それで何人か集まったら、いつも容易く他人の欠点を批評し、判断します。このようなことが人間関係を破壊し、人間関係にあって悪い結果を招く原因となるのです。




第三、他人を利用してはいけません。

第3番目に、良い人間関係を持つためには、他人を利用してはいけません。真実を持って他人と交際しなければならないのです。真実を棄てて他人を利用したら、利用された人は後に少なからず侮辱感を感じて感情が傷つくようになるのです。

数多くの人たちが教会に来て礼拝を捧げながらも、神様を利用しようとします。私がいつだったか、病人のために熱心に祈って上げ、その人の家を訪問もしました。その病が癒されるやその人は教会に出なくなりました。それで私が尋ねました。「神様のお恵みにあずかって病気が癒されたのに、何故、教会に出席しないのですか?」すると彼は答えました。「私は、病気を癒してもらうために教会に行ったのです。もう癒されたのですから、これからは教会に行く必要がないではありませんか。」

その人は、神様を利用しようとして教会に出席したのです。神様は、1回は利用されるかも知れませんが、次には、またと利用されはしないと思います。

「マタイの福音書 22章37節〜39節」を見ますと、『 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」』と記録されています。神様を真実をもって愛し、隣人を真実をもって愛さなければなりません。利用してはいけません。

夫が妻を、自分の欲望の道具として利用し、自分の生活手段として利用するとしたら、その妻が夫を愛する筈がありません。また、妻は、夫がお金を稼いで来てくれ、自分を幸せにしてくれる手段として考えるのだとしたら、これは重大な間違いです。真実な愛が相手の心の中に真実を呼び起こすのです。他人を利用しようとしてはならないのです。人は利用されたと考えられるとき、人格的に侮辱感を感ずるようになるのです。

「ローマ人への手紙 13章10節」に、『愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。』と記録されています。真実な愛、これがすべてに通ずるのです。




第四、他人の長所を高く評価し、ほめなさい。

第4番目に、私たちがまことの人間関係を結ぶためには、他人の長所を高く評価し、ほめて上げることができる人にならなければなりません。ほめ言葉は、ほめられる人を光栄で満たし、また喜ばします。私たちがほめられるときに、私たちは嬉しがりながら、光栄だとする感情で満たされるのです。

ほめ言葉は、聞く人の生活に勇気と喜びの油を注ぐようになります。「箴言 17章22節」に、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と記録されています。

また「箴言 18章20節〜21節」には、『人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。』と記録されているのです。

私たちが人間関係に良い油を注ぐ行為は、相手の長所を見つけて高く評価して上げ、またほめて上げることです。旦那さんが奥さんに向かって、いつも奥さんの長所を見つけてはほめて上げたら、その奥さんは心の中に光栄と喜びを感じるようになります。心の中が温かい和やかさで満たされるようになるのです。

また奥さんも、旦那さんの短所を指摘しながらしきりに責めたり、愚痴をこぼしたりせずに、旦那さんの長所を取り上げてほめ、尊敬し、心からあやかりたいとしたら、旦那さんの心がどんなに満足し、光栄を覚えるようになるか知れません。

ほめ言葉は皆さん、私たちの生活の中に勇気を与えてくれる、また喜びを感ずるようにしてくれるのです。ですから、成功的な人間関係を持つためには、他人の長所を高く評価し、ほめて上げることを疎かにしてはなりません。




第五、他人の言うことに耳を傾けなさい。

第5番目に、成功的な人間関係を結ぶためには、他人の言うことに耳を傾けなければなりません。一般的に人たちは、自己主張や弁明ばかりします。他人が何か言おうとしたら、いや待て、いやちょっと待て、私の言うことを聞いてみなさい…、と言って、他の人には話す機会を与えて上げません。強圧的に自分の主張だけをします。

私のところに信仰相談のために来る数多い姉妹さんたちの大部分が、このような哀訴をします。「口惜しくて堪りません…。」と。なぜかと言えば、夫がいったん話し出したら、一方通行的に自分の言いたいことだけを言い、奥さんが何か話そうとしたら強圧的に抑圧してしまって、全く聞いてくれないと言うのです。それで「口惜しくてたまらない…。」と言いながら泣くのです。

また、中・高等学校の学生たちも私のところに信仰相談に来ては、「私のお父さんとお母さんは、私の言うことを中々聞いてくれません。私の言うことは聞いてくれずに、一方的に、あれせよ、これせよ、と指示するだけです。それでも何か話そうとしたら、黙っていなさい…と言って、全然私の言うことは無視してしまうのです。それで、家が嫌なのです。」と言います。

皆さん、相手の言うことに耳を傾けて上げると言うことは、そんなにたやすいことではありません。それでも、私たちは自己主張や自己弁明だけをする習慣を棄てなければなりません。「箴言 10章19節」に、『ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。』と記録されています。

そして、他人の言うことを聞いて上げ、理解しようと努めることが、良い人間関係を築いて行くのに必要な要素です。「ローマ人への手紙 12章15節〜16節」に、『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。』と記録されています。




第六、助けを施そうと努力しなさい。

第6番目に、良い人間関係を結ぶためには、他人に助けを施そうと努力しなければなりません。しきりに、自分に助けを施してくれ、と言わずに、他人に助けを施すときに良い人間関係を結んで行くことができるのです。ちょっとした慰めや激励の言葉が相手には凄く助けになるのです。

心が重苦しく苦痛であるときに、短い言葉であっても、理解してくれる、同情してくれる、激励と勇気を与える言葉がその人を新しくしてくれるのです。「箴言 12章25節」に、『心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。』と記録されています。ですから、お隣の人が何かの不安で沈み込んでいるとか、苦しがっているときに、皆さんがいくらでも親切な言葉を言って上げることは何も難しいことではありません。このようなことが、とても人間関係を良くしてくれるのです。

また能力があるときには、皆さん、相手の人を助けて上げなければなりません。「箴言 3章27節」に、『あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。』と記録されています。能力が足らなかったら仕方がありませんが、能力がある限りは力いっぱいに助けてあげなければならないのです。

「詩篇 112篇 5節〜6節」に、『しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。』と記録されています。下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい…と、聖書に記録されています。

それで或る人たちは、「そうしたら、人がどんなに生活して行きますか?」と言います。しかし皆さん、イエス様の言われることを誇大評価してはいけません。御言葉その通りに解釈しなければなりません。

下着をくれと言ったら上着もやる…。着古した下着なんか、幾らにもなりません。上着もそんなに価値があるものではありません。くれと言ったら、やる…、そうしたら簡単なのです。5Km行こうと強いられたら、10Km行って上げなさい…。5Km行って上げたついでにもう少し行って上げることはそんなに問題になることではありません。

そのようなことを拡大解釈して、北朝鮮の共産党たちがソウルを明けてくれ、と言ったら、済州島まで明けて上げ、人たちが来て自動車を貸してくれと言ったら、住宅まで貸して上げる…、と言った風に拡大解釈をしてはいけません。至極小さいもの、生活して行くのに有っても良し、無くても良し…と言ったそのようなものをもって、断ったり忌避したりしてはならない、と言うことです。

私は、友人の中でも「キム・ジャンファン(金章煥)牧師先生」を特に尊敬します。キム牧師先生を見ますと、力のあらん限りを尽くして他人を助けて上げます。ある時には「あの人、阿呆じゃないか?」と思われるほどに、他人から頼まれたことに対して尽力します。出来そうにないことも、出来ようが駄目だろうが構わずに、最後までやって上げます。

また、誰かが監獄に入れらたとか、何か難しい目にあっている人があったら、必ず訪ねて行って礼拝を捧げて上げ、顧みて上げる、そのような立派な品性を持っています。それで、キム牧師は数多いお友たちを持っています。キム牧師を敬遠する人は別におりません。




第七、義務を超越して働きなさい。

第7番目に、立派な人間関係を結んで行くためには、義務を超越して働かなければなりません。皆さん、必ず「指示された」ことだけをして、それ以外のことはしない…、このような人は良き隣人を作って行くことはできません。自分の家の前を掃除するとき、自分の家の前だけをほこりを舞い上がらせながら掃除して、お隣の家の前は境界線で区切られてでもいるかのように捨て置くような人は、良い隣人だとは言えません。自分の家の前を掃除するとき、隣人の家の前も共に掃除して上げる…、このような人が良い人間関係を結んで行くのです。

フィラデルフィアの或るデパートに、家具屋がありました。雨が降るのでお客もなく、それで主人がしょんぼりと椅子に腰掛けているところへ、老婦人がひとり入って来ました。「…家具を買いに来られたのですか?」「いや。雨が降るので、運転手が自動車を持ってくるまで時間つぶしをしているんです。」家具屋の主人は「あ、そうですか。それじゃ、ここにお座りください。」と言って、立派なソファに案内してその老婦人を座らせました。

そうしてからその家具屋の主人は、「自動車のナンバーが何ですか?」と聞いて、それをメモしてから外の駐車場まで行き来しながら、そのナンバーの自動車が来るのを待ちました。運転手が自動車を運転して到着するや、家具屋の主人は老婦人を案内して駐車場に行き、安全に乗って行くように助けて上げました。この家具屋の主人は何の関係もない老婦人に、自分の役割でもない親切を施しました。

それから何日かが経ちました。その家具屋に1通の手紙が配達されて来ました。その手紙の内容は、「私の会社で事務用家具が必要です。ところが私の母が、是非あなたのお店から買入れなさいと言われます。それであなたにお見積もりを要請します…。」と言うことでありました。ざっと見積もっても「数百万ドル」相当のものでありました。そして署名は、鋼鉄王「カーネギー」のものでありました。雨の降る日の老婦人が、他でもなく「鋼鉄王・カーネギー」氏の母親であったのです。

その日から、この家具屋は想像を越える繁昌を遂げました。「棚からぼたもち」とはこのようなことを言うのです。小さな親切が凄い報いを招きました。

このように私たちは、どのような立場にいようとも、いつも主人意識をもって暮らさなければなりません。お手洗いに行っても、主人意識を持って清潔に使用しなければなりません。自分のものではないとして、ちり紙や巻紙なども無駄使いしたりしてはいけないのです。主人意識を持って暮らしたら、そのような人は良い人間関係を結ぶようになるのです。「ルカの福音書 16章10節」に、『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』と記録されています。

「箴言 28章20節」に、『忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。』と記録されています。ですから、義務または指示されたこと以上に、忠実に働かなければなりません。自分に任された使命を飛び越えて、もっと多くの努力を傾けて働いたら、天の御国の神様が大いに報いてくださるのです。




第八、助けてもらった事に、心から感謝を表しなさい。

第8番目に、助けて貰ったことに対して真実な、心からの感謝を表する人は成功的な人間関係を結ぶことができます。助けて貰ってから、助けてくれた人の悪口を言う人が少なくありません。助けて貰わなかった人は悪口を言わないのに、かえって助けてもらった人が、助けてもらった…と言う劣等意識と挫折意識、それらを拭い去るために助けてくれた人を悪く言うのです。私は、そのような人を数多く見てまいり、またそのような目にも随分会いました。

数多くの人たちに「援助」をして上げて、そして戻って来るのは「悪口雑言」であったことが私には少なくありません。「自分が、そんなこと、少し助けてくれたと言って、何で威張っているんだ…。けち臭い。」そして又、「神様が自分に大きな教会を建てさせてくれたのは、私たちみたいな人たちを助けて上げなさい、としてそうなさったのだ。自分一人で牧会せよ、としてそうなさったのではないんだ…。」このように私は、良いことをして上げてからは、悪口を聞いたことがたくさんあります。そのような人たちは、良い隣人ではありません。

一方、助けてもらってから、いつまでも忘れずに感謝する人がおります。私の弟子たちの中で、私が育てて牧会の一線に出して上げた弟子が何年が経っても、私に「感謝します。」と言う人がいます。そのような人のためには、何でも又して上げたい心が湧きます。皆さん、助けて貰ったなら、助けてくれた人に深く深く心から感謝してこそ、良き隣人となることができるのです。

助けて上げたのに、それをきれいに忘れてしまう人がいます。恩知らずです。このような人になってはいけません。このような人は、成功的な人間関係を結んで行くことができないのです。

「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と記録されています。神様も、私たちに助けを施されたとき、私たちが感謝したら喜んでくださって、益々もっともっと祝福してくださるのです。

「コロサイ人への手紙 3節15章」に、『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』と記録されています。私たちは、助けを受けたことに絶え間なく感謝し、報恩したいと念願しなければなりません。特に、私たちを生んでくださり、育ててくださり、勉強させてくださった父母のお恵みに対しては、いつも感謝し、報恩したいと思うようにならなければならないのです。

父母に不孝し、父母の助けに感謝しない人は絶対に成功的な人間関係を結びながら生きて行くことはできません。自分の父母を敬わず、感謝しない人が、誰を敬い、誰に感謝することができるでしょうか。まして見えない神様に、そのような人は敬うことも感謝することもできないのです。




第九、礼儀正しい言葉を使い、謙遜な姿勢を保ちなさい。

第9番目に、成功的な人間関係を結ぶためには、「済みません。」とか「失礼しました。」とか「恐れ入ります。」とか言う謙遜な姿勢を保たなければなりません。私たちが無礼を行なったら、絶対に成功的な人間関係を結ぶことはできません。傲慢無礼で、いつも肩を怒らして歩き回ったら、すべての人たちの忌避人物になってしまうのです。

「コリント人への手紙 第一 13章 4節〜5節」に、『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず…。』と記録されています。ですから私たちは、私たちの生活の中で小さいことに対してでも「済みません。」「恐縮です。」と言うようにならなければならないのです。

自分の妻だとして、自分が間違ったことを話してからは「済まない。」と言えない理由がどこにあるでしょうか。妻にも、「済まないね。」「私が悪かった。赦してな。」と言うようにならなければなりません。また夫にも、「赦してください。」「私が悪かったわ!ご免ね。」と言うようになれば、その家庭は愛と平和に満ちるようになります。

ある人は、「夫婦とは一緒に暮らす間柄である。それなのに、事新しく他人行儀になって、何?済みません?赦して…だと…?そんなことは要らないよ。」と言います。これは絶対に間違った考えです。近い間柄であるほどに、「済みません。」「赦してください。」「ご免なさい…。」を惜しみなく使用しなければなりません。

この単語はほんとうに立派な単語です。もっとも「済みません。」「恐れ入ります。」を良く使用する民族が日本人たちです。日本に行って見ますと、日本人たちは「済みません。」「失礼しました。」「恐れ入ります…。」と、いつも自分を低める姿勢を取ります。それで、この世の中で一番親切な民族であると認められているのです。

ですから皆さん、私たちは「済みません。」「恐縮です。」「失礼します…。」を連発しながら暮らさなければなりません。いっぱいの人たちで複雑な通りを、人を掻き分けて進んで行きながら、韓国人は「除け、除け。」と言います。「済みません。」「失礼します…。」「ちょっと道を開いてください…。」と言いながら通って行ったらどんなに良いでしょうか。米国人は、すれ違いながらも「失礼します。」と言います。「チョッと通らせていただきます。」とこちらで頼んだのにも、「どうぞ!」と言って、自分が失礼でもしたかのように素早くからだをかわしてくれます。

「箴言 16章32節」に、『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。』と記録されています。ですから、直ぐに「怒る」ことは凄い損害をこうむるようになるのです。「ヤコブの手紙 1章19節〜20節」にも、『愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。』と記録されています。

人はいつも、怒ってから、その後に悔やみます。怒りを発した後には、自分が愚かに見えます。ですから、出来る限り最後まで怒りを発しないのがもっとも良いのです。




第十、他人の長所を学ぼうと努力しなさい。

第10番目に、私たちが他人との良い関係を結ぶためには、他人の長所を学ぼうと努力しなければなりません。自分より立派な人を妬んだり嫉妬してはいけません。私が大きな教会で牧会していますので、小さい教会の牧会者たちが、私に関する悪口を言うのを聞きました。私個人の人格を攻撃したり、私個人の欠点を暴きだして悪口を言ったりするので、本当に、人たちの前に立って行動するということがどんなに骨の折れることか知れません。

小さい教会で牧会している人は大きい教会に来て、どのように説教し、どのように組織を運営しており、聖徒たちをどのように導いているか…、を研究し、学ばなければなりません。そうしてこそ自分の有益となるのです。

成功した人を見ますと、その人はいつも自分より優っている人を心から尊敬し、愛し、学ぼうとして努力する人でありました。そういう人たちが少なくありません。自分より偉い人を慕い、尊敬し、何をどのようにして私より成功したのだろうか…?と、学ぼうと努力する人、このような人は必ず成功するようになります。そしてこのような人が成功的な人間関係を結ぶことができる人なのです。

ですから皆さん、「ピリピ人への手紙 2章 3節」に、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』と記録されている御言葉通りに、他人を自分よりすぐれた人だと思う、そのようなへりくだった人になって、何事も学ぼうと努力しなければならないのです。

旦那さんは、奥さんから学ぼうとし、奥さんも、旦那さんから良い点は学ぼうとしなければなりません。甚だしくは、子どもたちからも学ぶべきことが少なくないのです。まして、隣人からは学ぶべきことがどんなに多いか知れません。

他人には優れた点がある、と言うことを忘れてはいけません。謙遜になって、それを学ぼうと努力しなければならないのです。また、他人の長所を高く評価し、ほめる…、そのような人生を生きるとき、私たちは成功的な人間関係を結ぶことができます。

私たちは、人間社会を離れて生きて行くことができません。何でも一人で処理しながら生きて行ける人はいないのです。互いに引き合い、押し合い、助け合い、拠り頼み合いながら人生を生きて行かなければならないのです。そうしなければ、隣人がみな離れ去ってしまって、至極孤独で、わびしく、棄てられた人となってしまいます。

ですから、今日、私が皆さんに述べさせていただいた通り、第1に、他人を考える心の姿勢を持ち、第2に、他人を否定的に批評せず、第3には、他人を利用せず、第4には、他人の長所を高く評価し、そしてほめて上げ、第5には、他人の言うことに耳を傾けて上げ、第6に、助けを施すことにいつも注力し、第7に、義務を超越して働き、第8には、助けてもらったことには心から感謝を表さなければならず、第9には、「済みません。」「失礼します。」と、いつも謙遜な姿勢、礼儀正しい言葉を使い、第10番目には、他人の長所を学ぼうと努力する…、このような人生を生きて行くとき、私たちは他人の良き隣人となることができ、そして数多い人たちと成功的な人間関係を結ぶことができるのです。

社会学者が発表したように、人の能力とか技術とかは、わずか18%の影響しかないと言うのです。82%の成功の秘訣は、人間関係にあると言うのです。いくら自分の技術が優れ、能力があるとしても、それは成功の18%にしかなりません。私たちがどのような人間関係を保つかが82%なのです。

ですから神様の御前で、私たちが謙遜に、自分を省察し、キリスト・イエスのうちにあって、自分の人間関係が正しいか、どうかをかえりみて、悔い改め、変化されるようにならなければなりません。「ピリピ人への手紙 2章 5節」に、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。』と記録されています。

イエス・キリストの御心をいつも黙想し、胸に抱いて、成功的な人間関係を結んで行かれる皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 私たちは一人では決して生きて行くことができません。父母がおられ、兄弟があり、夫があり、妻があり、一家親戚があり、お隣がおります。

私たちは、立派な人間関係を結ぶときに、私たちの生活の中に成功と喜びと幸福が近づいてまいり、悪い人間関係を結んだら、失敗が襲い、破壊が近づき、悲しみと苦痛が迫って来ます。

全知全能であられる我が天のお父さま! 私たちの主イエス・キリストの心を模範として、成功的な人間関係を結んで行けるように、いつも自分を省察し、謙遜な私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!