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「赦す」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 18章21節〜35節」
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『赦す』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちは、『赦す』と言う言葉を使用するときにはいつも、「ご大層な罪や過ちに対するもの」と考えています。勿論『赦す』には、そのような意味が含まれています。しかし、私たちは毎日互いに失望し、憎み、侮辱感を覚え、心に傷を受け、傷を負わせることたちに関しては、『赦す』と言う言葉は使用することを躊躇(ためら)い、憚ります。

ところが、このような小さく、些少なことたちが心に「インフルエンザ」を患わせ、憎悪と憤怒を持続させて、心の幸福と平和を台無しにしてしまいます。それで、私たちは『赦す』と言う心の決断を、毎日のように下さなければなりません。『赦す』ことに決めて、そうする力を得る為に神様にあつく祈らなければなりません。『赦す』ことは、殴った人がするには容易ですが、殴られた人がするには思ったより難しいことです。しかし赦さなければ、当人のたましいの中の深い傷が癒されません。

アメリカのある家庭で、「独り息子」を育てていました。その少年が自転車に乗って行く途中、酔っ払い運転手の自動車に轢かれて死にました。死んだ少年の父母の傷心は、表現できるものではありませんでした。酒に酔って歩道に飛び込み、その少年を轢き殺した運転手は警察に検挙され、裁判を受けて刑務所に収容されましたが、いくらも経たずに釈放されて出て来ました。

あまりにも激しい心の憤怒と苦痛に堪らなくなった少年の父親が、拳銃に弾を装填して、刑務所から出て来る運転手を狙撃しました。ところが、弾丸は命中せずに逸れてしまいました。その結果、拳銃を撃った父親は殺人未遂罪で逮捕されて、刑務所に入るようになりました。婦人は憤怒と口惜しさで精神異常になり、病院に入院しました。そして、家庭が破綻に至った、と言う記事を読んだことがあります。

独り息子を失っただけではなく、心の憤怒、口惜しさを鎮めることができず、また、「赦す」ことでそれらを取り除くことができなかったことから、その家庭は破綻に至ってしまったのです。




第一、「1万タラント」の負債がある罪人

皆さん! 聖書に「1万タラント」の借りのある人に関するお話があります。ひとりの王様が、借りのある人たちを呼び集めて清算を始めました。一番借りの多い人が「1万タラント」の借りのある人でありました。「1万タラント」と言えば、今では一般労務者5千名の1年間の収入に該当する金額です。しかし、この人は返済する力がありませんでした。それで王様が、その人に「自分も妻子も持ち物全部も売って返済せよ。」と命令しました。

それで、その人は王の前に平伏して、声を出して大きく泣きながら「どうか助けて下さい。」と哀願しました。王は可哀相にに思って彼を赦し、借金を免除してやりました。ところが、その人は王の前から出て行って、わずか「100デナリ」の借りのある同僚に出会いました。彼はその人をつかまえて、首を絞めながら「借金を返せ。」と催促しました。

借りのある同僚は、「もう少し待ってくれ。返すから。」と手を合わせて頼みましたが、彼は聞き入れず、監獄に入れてしまいました。この事が王の耳に入りました。そこで王は、1万タラントの借りのある人を呼びつけて言いました。「悪い奴だ。お前があんなに哀願したからこそ借金全部を免除してやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。」こうして、王は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した、と言う内容が記録されています。

私たちは、これらの聖書の記録を見ながら、「赦される」ためには、私たちに「赦す」心ができていなければならない、と言うことを知ることができます。神様は、人類の数限りない罪を赦すために、イエス様を遣わされて、十字架に釘付けにされるようになさり、その肉を裂き、血を流させました。「赦して貰う人」が犠牲になるのではなく、「赦す人」が却って、十字架を負い、身を裂き血を流して人類の罪を赦されたのです。

聖書には、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』(イザヤ書 53章 5節〜6節)と記されています。

イエス様は、私たちの罪を赦すために、私たちの代わりに酷い苦しみに会い、代価を支払われたのです。この王様をご覧下さい。「1万タラント」を免除してやるためには、自分が「1万タラント」の損をみなければならないのです。赦される者が苦しみに会うのではなくて、赦してやる者が赦して上げるためにそれだけの損害を負担し、犠牲しながら、赦して上げるのです。




第二、「赦し」の負債を抱えた人

従って赦して貰った人は、赦して上げなければならない負債を抱えているのです。皆さん、「1万タラント」を赦して貰った人は、「100デナリ」の借りのある仲間を赦して上げなければならない義務があるのです。自分が赦して貰ったのですから、他人を赦して上げなければならないのです。

こんにち、私たちも神様から数限りない罪を赦していただいたのですから、私たちはお隣の人たちの罪を赦して上げなければなりません。そうしなければ、いつもお隣の人たちを非難するようになり、攻撃し、侮辱し、傷を負わせるようになります。万一、私たちが赦して上げなかったら、私たちが神様からいただいた赦しも取り消されます。

この人をご覧下さい。「1万タラント」を赦して貰いましたが、「100デナリ」の借りのある人を赦して上げなかったので、王様が「1万タラント」の赦しを取り消してしまいました。ですから、私たちがお隣の犯した罪を赦して上げなければ、神様も私たちの罪の赦しも取り消してしまわれます。それで、私たちと神様との間の和解が崩れ、神様との関係が断絶されてしまうのです。

「マタイの福音書 18章35節」に、『あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』また、「ヨハネの手紙 第一 3章15節」に、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』と記されているのです。

最近の新聞を見ますと、教皇が来年3月に「赦しを求める」懺悔の儀式を主宰すると言う発表をしました。"教皇ヨハネ・パウロ2世"は、「ローマ・カトリック教会」が過去の罪を犯した部分に対して、来年3月に、公式的にその罪を認める教皇の勅書を発表し、「聖ペテロ聖堂」で懺悔の儀式を挙げると言いました。

彼等は、ユダヤ人に関した新約聖書を不当に解釈して、ヨーロッパで発生した迫害を阻止することができなかった罪を、公開的に悔い改めると言うものです。19世紀前半まで宗教裁判で欲しいままにした苛酷な行為も、赦しを求めるつもりであると言いました。教皇は以前にも何回か、十字架運動の時の残忍性、女性に対する不当な待遇、地動説を是認したガリレイに対する間違った裁判等に対して赦しを求めたことがあります。

こんにち、カトリック教会でも歴史を通して世界に犯した罪を公式的に悔い改め、赦しを求めて来たのと同様に、私たちは、私たちの心の中にイエス・キリストからいただいた赦しを、必ずお隣に返さなければならない負債を抱えているのです。私たちがもしも赦さない時には、私たちは赦された罪が取り消され、数多い苦しみに会うようになるのです。




第三、「赦す」事ができない時に会う苦しみ

聖書をご覧下さい。「1万タラント」を免除された人が、仲間の「100デナリ」の借りがある人を赦さぬや、彼の「免除された1万タラント」が取り消され、彼は牢に入れられて苦しみに会うようになりました。私たちが赦さない時、私たちは心の苦痛と悩みと拷問の監獄の中に入るようになるのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章11節」に、『兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。』と記されています。「マタイの福音書 18章22節」には、『イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」』と記されています。

赦して上げなければ、いつも心の中に憎しみが残っているようになります。そうなったら、この憎しみと憤りと復讐心が、私たちの肉体の中に致命的な病気を起こします。「箴言 17章22節」は、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と記しています。

ある病院に、一人の若い大学生が来て診療を受けていました。その大学生はひどい胃潰瘍を患っておりました。出血性胃潰瘍で、たくさんの血を吐き、食事ができず、身悶えしていました。医者がいくら治療をしても、効果がありません。医者は立派なクリスチャンでありました。

ある日、その患者をカウンセリングをする中で、「・・・もしかしてあなたは今、憎くて許してあげられない人はいませんか?」と尋ねました。すると、「います・・・。」と答えたその大学生の説明はこうでありました。

お祖父さんの農地が、大農のお金持ちの農地と接していましたが、測量が間違ってお祖父さんの農地の大半がお金持ちの所有農地に占領されるようになった、と言うのです。お祖父さんがその間違いを抗議する中、相手のお金持ちがいきなりお祖父さんを激しく突き飛ばしたので、地上に突き倒されたお祖父さんはそのまま亡くなりました。

ところが、財力も権力もないので訴えることができません。それで、彼は決心をしたと言います。法律家になって、お祖父さんの怨みを晴らしてやる! その時から切歯扼腕※する一方、勉強に励み、大学校法科に進学して熱心に学業に勉めましたが、毎日、彼の心に沸き上がる憤りと怨みが、遂に胃潰瘍を起こしてしまいました。そして、病勢が益々悪くなって出血性胃潰瘍に進み、死を目の前にするようになったのでありました。

その時、医者が言いました。「あなたが、憎んでいる相手の人を赦して上げてこそ、薬が効き、あなたが癒されるようになります・・・。」「いや、私は彼らを絶対に赦すことができません。」「赦せなかったら、あなたの憤怒が結局はあなたを死なせますよ!」それから、幾日か過ぎました。病勢が悪化して、死ぬよりも苦しく、つらい日々が続きました。

余りにも苦しみが甚だしかったので、青年は医者の前に来て罪を悔い改め、憎んで来た相手をすべて赦します、と言いながら、「神様が助けて下さるように、是非とも祈って下さい。」と頼みました。そして、切にあつく祈り、心のなかに根を張っていた苦い怨恨を根こそぎにしてしまいました。その結果、いくらも経たずに胃潰瘍がきれいに直り、健康を回復した、と言う記録を読んだことがあります。

※切歯扼腕(せっしやくわん):歯をくいしばり、自分の腕を握りしめて、ひどくくやしがったり怒ったりすること。




第四、生き残る為に赦さねばなりません

皆さん! 私たちは赦しても良く、赦さなくても良い、というものではありません。生き残り、幸福に暮すためには、私たちは赦さなければならないのです。赦さなかったら、神様と私たちとの間の「隔ての壁」を崩し去ることができません。「ヨハネの手紙 第一 1章 9節」に『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と記されているのです。

私たちが赦さなかったら、私たちの罪が神様と私たちとの間に隔ての壁を築いて、私たちが神様の前に出て行こうとしても行くことができず、呼ばわり祈っても神様が答えられません。それは、私たちの心が「赦さない心」になって、壁を築いてしまうからなのです。私たちが神様と交わるためには、神様から愛していただき、神様から赦していただかなければならず、神様から赦していただくためには、私たちに罪を犯した人たちを赦して上げなければならないのです。そうしてこそ、神様が私たちの罪を赦して下さるのです。

そして、自分自身が心の憎しみと憤りと苦しみから解放されるためには、赦して上げなければならないのです。「箴言 24章29節」に、『「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう。」と言ってはならない。』と記されています。人が、いつも怨みを抱いて復讐しようと考えていたら、食事をしても美味しくなく、寝ても安らかでなく、道を歩いても安心できず、いつも憤怒と泥水が湧き上がって、たましいが大きな苦しみと悩みに苛(さいな)まれます。

憎しみを心に抱いている以上は、心の中に喜びとか幸福感は生じません。ですから、心が憎しみと憤りと苦しさから解放されるためには、その人は相手を赦して上げなければならないのです。そうしてこそ、癒されることができるのです。赦して上げてこそ、自分に傷を負わせた人、自分を殴った人から解放を得ることができるのです。自分が進んで赦して上げなかったら、その相手がいつも心の中に「仇」となって残るようになります。

ある小学校の女性校長先生が、ひどい関節炎で苦しんでおりました。あらゆる薬で治療をしても直りません。親しい友人の案内で、その女性の校長先生が教会を訪問して牧師からカウンセリングを受けました。対話中に、その校長先生が夫と離婚したことが判明しました。10年ほど前に、夫がこの校長先生を捨てて、他の女性と結婚して家を出て行ってしまったのです。10年の間、その夫を呪いました。朝起きてから夜寝るまで、夫への悪口を呟き呪いました。

それで、その憎しみと呪いが関節炎になり、今まで苦しみながら、薬も効果がなかったのです。牧師が言いました。「校長先生、夫と離婚するようにしなさい。」「何ですって?もう私は10年前に離婚したんですよ・・・。」「はい、法律的には離婚したでしょうが、心は未だ離婚しておられません。心は未だ、夫と離婚せずに呪い、憎んでおられます。それで関節炎が直らないのです。ここで今、夫を赦して上げ、祝福して上げて下さい。そしてあなたの心から放して上げて下さい。そうしたら、その夫が離れて行きながら、関節炎も離れて行きます・・・。」

それで、女性の校長先生はその場で頭をたれて、主を救い主として受け入れ、神様に伏し拝み、夫の罪をすべて赦します、と言いながら、却って彼も近い将来に一切を悔い改め、救いを受けて、良い生活をするようにして下さい、と祝福の祈りを捧げました。そのようなことがあってから、いくらも経たずにその関節炎がきれいに直った、と言う証しを読んだことがあります。

傷を負わせた人、即ち、殴った人から私たちが解き放たれるためにも、赦して上げなければなりません。また、「敵」に変化を及ぼすためにも、私たちは赦して上げなければならないのです。皆さん! 神様が腕力で人類を悔い改めさせようとしたら、それが不可能でしょうか。雷鳴を轟かせ稲妻を放ちながら、「お前たち、悔い改めず、イエスを信じなかったら皆殺しにするぞっ。」と言われたら、誰彼問わず、皆が地に顔を伏せて悔い改めるでしょう。

しかし、それは自ら進んで悔い改めるものではなく、強制されてする形式的な悔い改めに過ぎません。神様は、私たちの主イエス・キリストをこの世に遣わされて、私たちに代わって罪を負い、あらゆる苦しみと辱しめに会いながら十字架に架けられているイエス様を通して「赦し」を施されたのです。「愛」を施して下さったのです。

罪を犯し、不義・醜悪で捨てられて当然な人間たちがイエス・キリストを見上げて、キリストを通して私たちを赦し、愛しながら、抱いて上げようとする神様の、その大きな恵みを考える時、深く感動して自分の罪を捨て、悔い改め、イエス様のもとに立ち返るようになるのです。

こんにち、私たちが北朝鮮に対して「太陽政策」を取ることも全く同様の論理です。北朝鮮と向かい合って、目には目で、歯には歯で、力には力で、と争うとしたら、結局我が国には戦争が起こってしまうでしょう。しかし、彼らが頑なで冷酷で挑戦的で、あらゆる加害をして来ても、私たちは続けて愛と赦しを施して上げれば、彼らも他に道理がなく、ある時間が過ぎたら溶けない訳がないのです。

熱い太陽の光が照り輝いてくるのに、いくら厚い氷のような心であっても溶けずにはおられないのです。これが、神様の法則なのです。

皆さん! この世を生きて行く間に、父母と子供、夫婦の間で、また、隣人との間で受けた小さな心の傷を始め、大きな憤りとか憎しみが積み重ねられると、それを解消することがとても難しくなります。毎日のように私たちは、夫婦の間で赦し合わなければなりません。夫は妻を毎日赦さなければなりません。妻も夫を毎日赦さなければならず、父母は子供を、子供は父母を、毎日赦さなければなりません。

近い間柄であるほど、人たちは互いに傷を負い、傷を負わせやすいのです。それを癒すためには、いつも「赦す」と言う特別な技術を使用しなければなりません。赦さずには、私たちが積み重ねた壁を崩し去ることができません。

尚更のこと、愛する子供を誘拐犯人に殺害されたのにも、沸き上がる怒りと怨みと復讐心を「赦すこと」で取り除く、と言うことは決して容易なことではないのです。しかし、私たちは赦すことでその苦痛から解放されないことには、私たちの人生をめちゃくちゃにしてしまいます。私たちが生きるためには、赦さなければなりません。

加害者が裁判を通して刑務所に行くとか、あるいは死刑に処せられるとしても、傷を負った私たちの心は癒されないのです。私たちは、十字架の上で「敵」のために赦しを求められたイエス様の祈りを思い起こして、傷付いた私たちの心を癒されるためにも、私たちに傷を負わせた人を私たちは赦して上げなければならないのです。

私たちがいつも唱える「主の祈り」を、私たちはもう一回心の中で噛みしめてみなければなりません。『我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。』と言う神様の御教えを、私たちは心の中に深く覚えなければならないのです。

世の人たちは、自己中心的に暮しております。自分の心の扉をしっかりと閉じて暮しています。そして、お隣とは和解と対話をしようとしません。私たちの政治現実を見ても、与党と野党が互いに対決し、争い合っているばかりです。こんにち、数多い家庭が崩壊していきます。小さいことを夫婦が互いに赦さず、和解と対話をしないから崩壊するので。

親と子どもとの間でも互いに背を向け合って、子どもは親を、親は子どもを憎む実例がどんなに多いかわかりません。お隣同士の間ではもっとひどいです。ですから、私たちが信仰にあって「赦す」と言うことは余りにも重要なことです。「1万タラント」の借りのある者が、自分は王様からすべてを免除してもらったのにも、自分の仲間「100デナリ」の借りのある者は赦して上げませんでした。自分の利己主義だけで暮すのです。それで、王様から赦してもらった「1万タラント」も取り消され、監獄に入って行きました。

こんにち、多くの人たちが心の監獄に入っております。憎しみ、怨み、憤り、嫉妬・・・、苦しみの監獄の中であえいでおります。自分が監獄の中に入っていないとしても、自分のたましいがそのような監獄の中に入っているのです。ある人たちは、肺病、関節炎、神経痛、または精神異常・・・、このような病気の監獄の中に入っています。また、ある人たちは、心がいつも否定的になっていて、ぼくはできない、駄目だ、不可能だ・・・。このような否定的な監獄の中に入っています。

そのような否定的な監獄に入っていながら、お金で幸福を得ることはできません。いくら立派な家で生活しているとしても、その家は意味がなく、豪奢な着物を着て山海の珍味を食べても、それが少しも幸福を持って来てはくれません。その人の心が監獄の中で座っているからです。その人の肉体が監獄の中に入っているからであり、その人が否定的な考えの監獄に入っているからです。

私たちは、この見えない監獄から解放されなければなりません。この目に見えない監獄から私たちを解放させて下さるために、イエス様が二千年前に来られて十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して、神様の前で私たちの罪を赦して下さいました。皆さん! 神様が私たちの罪を赦して下さり、私たちが神様から信仰によって罪の赦しを代価なしにいただいたのですから、私たちはこれから隣人を赦して上げなければならないのです。

赦してもらう人が損害をこうむるのではなく、赦す人が損害をこうむります。赦すためには、代わりに十字架を負わなければなりません。赦すためには、「1万タラント」の損害をみなければならないのです。赦すには、自尊心が傷付き、苦しいのに、なぜ赦すのか。しかし、自尊心が傷付く十字架を背負ってこそ、赦して上げることができ、赦して上げてこそ、心の苦痛の監獄から出て来ることができるのです。

今日、私が皆さんに強くお勧めすることは、「最も近い間柄である夫婦の間で互いに赦し合いなさい」と言うことです。過去の色々な罪や間違いをみな心に積み重ねておいて赦して上げないなら、益々これが心に病気となり、愛情は去ってしまいます。ですから旦那さんは、奥さんを深く赦して上げなければなりません。心の中で祈る時、「神様!この罪を赦して上げます。きれいに赦すことができるように力を与えて下さい。」そのように祈るだけでなく、「私は、あなたが私に対して行った全ての罪を、許します。」と言って下さい。

奥さんも、「主よ。夫を赦します。過去のすべてを赦します。これからは、夫を愛することが出来るように助けて下さい。」と祈るだけでなく、旦那さんに「過ぎたことは、もう言いません。あなたの罪をすべて赦します。」と言って下さい。そして、夫婦の間で互いに率直に赦し合うことによって、隔ての壁を取り崩して下さい。赦さない時は、神様との間の「隔ての壁」は絶対に崩れ去りません。

その場で赦して上げて下さい。日が暮れる前に、小さなことでも、心に少しでも障りがあったら、即時に赦して上げて下さい。赦すことは、自分を解放してくれる働きをします。こんにち、多くの人が親を赦さないまま暮しています。それで父母と一緒に暮そうが、そうでなかろうが、父母に背を向けて孝行をしません。幼いときに、父母が良くしてくれなかった、酷かった、と言う怨みが心に残っているのです。それを赦して上げないので、父母を愛することができず、心を尽くして孝行することができません。

そうしたら、神様から祝福していただくことができません。皆さん! 心から父母を赦して上げなければなりません。どの子供も、大概は父母に対して不満を持っています。ですから、跪いて「主である神様! 過去に、私の親が間違ったことを仕出かし、私に深い傷を負わせたことを、赦します。きれいに赦して上げることができるように、力を与えて下さい!」と祈らなければなりません。親を赦して上げなければなりません。一方、親は子供を赦して上げなければなりません。

また、自分自身を赦さなければなりません。人はこの世を生きて行きながら、色々と罪を犯し、自分自身に不満足なときが少なくありません。自分自身を憎むときも少なくありません。自分自身に対して失望し、怨んだりもします。しかし、神様は「実にそのひとり子をお与えになった程に、私たちを愛されました。」そうしていただいた私たちですから、私たちは神様の前に跪いて、私たち自身を赦すことができなければならないのです。

「主である神様! 私自身を赦します。私が、こうこうした罪を犯しましたけれども、神様は赦して下さいました。ところが、私が私を赦すことができません。私の罪をすべて赦します。どうか主の血潮で、きれいに洗い清めて下さい。」と祈り、自らも赦さなければなりません。

ペテロが意気込んで、イエス様のみもとに来て言いました。「私に罪を犯した人を、何度まで赦したら良いでしょうか?七度までで良いでしょうか?」そう言ったとき、イエス様はペテロを静かに見下ろされながら、『七度を、七十倍するまで赦しなさい。』と言われました。

なぜ? 赦すことは、私たちと神様との間の「隔ての壁」を崩し去ることであり、私たちの心を、憤りと挫折と絶望の監獄から開放してくれるからです。また、赦すことは、私たちの「敵」を私たちの周囲から永遠に離れ去るようにすることであり、それを通して人たちを変化させる、神様の愛と御力を現わす一つのチャンネルであるからなのです。

ですから、聖徒の皆さん! 私たちは「主の祈り」を唱えるときに、いつもその内容を心の中に結びつけて唱えなければなりません。『我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。』「神様! 私の夫を赦します。「神様! 私の妻を赦します。」「私の父母を赦します。」「私の子どもを赦します。」「私の隣人を赦します。」「神様が力を与えて下さって、赦すことができるように助けて下さい!」

そうして、解放を得て下さい。自由を得て下さい。祈りができない罪から解放を得、心の憤りと嫉妬と苦しみから解放を得、肉体の病気の監獄から解放されるためには、相手が聞き入れようが、どうしようが、自分の立場からイエス様の御名によって赦して上げなければならないのです。

そうしたら、皆さんに自由と解放が来ます。神様との間の「隔ての壁」がなくなり、皆さんが呼ばわり祈るときに神様が答えて下さり、聖霊で充満になるように満たして下さいます。




お祈り

聖く、全知全能であられる、父なる神様! 私たちは「赦す」という技術を忘れて暮しております。小さな傷も胸に刻み込んで、血を流します。天のお父さま! 私たちはこの世を暮しながら、傷を負い、傷を負わせながら暮しております。私たちは、それをどうすることもできません。そうした時ごとに傷を治療しなければなりませんが、赦さないことには治療することができません。

愛であられる、我が神様! イエス様が私たちのために十字架に釘付けられて、身を裂き血を流して死なれました。限りない犠牲を払って、私たちを赦して下さいました。私たちは「赦された」借りのある者たちです。イエス・キリストを通して神様から豊かに赦していただきましたから、私たちもイエス様に拠り頼んで、私たちの最も近い夫、妻、父母、兄弟、そして隣人たちを、赦す私たちとなれるように助けて下さい。

1日に七度を七十回、合計490度でも赦して上げることができるように助けて下さい。そうして、私たちの心が苦しみの監獄から開放されるようにして下さい。憤り、嫉妬、憎しみの苦痛の監獄に入らないように助けて下さい。色々な肉体の病気の監獄に閉じ込められていないように助けて下さい。否定的な考えと呪いの監獄から解放されるように助けて下さい。

天におられる父なる神様! 赦すことだけが、私たち自身を解放させる力となり、私たちが監獄から引き出される方法となることを悟らせて下さって、有り難うございます。愛であられる我らの神様! 主が私たちを赦して下さったように、私たちも私たちの隣人たちを赦して上げられるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!