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「愛を妨げる障害物」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 13章13節」
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。




今日、私は皆さんとご一緒に『愛を妨げる障害物』という題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

聖書には、『神様は愛であられる。』と記されています。ですから、愛があるところには、神様がおられます。いくら神様を信じると騒いでも、胸の中にドロドロとした嫉妬や憎悪があったら、それは「偽りの信仰」であり、神様はその人とは共にいて下さいません。嘆かわしくも、こんにち荘厳な教会を建て、厳粛に礼拝を捧げ、「聖徒」であると自称する人たちの胸の中には、「宗教」だけが満たされており、愛が冷めてしまっているので、そこに神様はおられません。

「ヨハネの手紙 第一 3章13節〜19節」には、『兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子供たちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。』と記されています。

それでは、愛を妨げる障害物が何であるかを、今日調べて見ようと思います。




第一、律法主義という物差し

律法主義と言う「物差し」が私たちの胸の中にあったら、愛の流れを塞いでしまいます。旧約時代の神様は、御怒りと審きの神様でありました。イスラエルの民たちがシナイの荒野に来たとき、神様がシナイ山全体を煙らせ、火の中でモーセを呼ばれて律法を与えて下さり、イスラエルの民たちと律法を通して選民約束を結ばれました。

ところが律法は、罪に定め、審き、罰し、殺すことをするものです。人間の肉体が弱くて神様の律法を守ることができないので、神様の人間に対する態度はいつも御怒りと審きでありました。イスラエルの民たちはカナンの地に入って来たのにも拘らず、罪を犯し律法を守らないので、神様から審かれ、御怒りを受けて滅亡してしまいました。

「エゼキエル書 39章23節〜24節」を見ますと、『諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕え移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。』と記されています。

ですから、律法がある間はいつも神様の御怒りと審きと刑罰があります。なぜなら律法はいつも私たちの弱点を暴き出し、私たちを罪に定め、審き、殺す役割をするからなのです。律法がなければ、罪もありません。律法がある限りは、いつも罪が露わにされます。それで、律法の前で「義とされる肉体」は一つもありません。

旧約時代は、イスラエルの民たちが神様の前に律法で約束を結びましたので、いつも罪を犯し、罪に定められ、審かれるので、神様は御怒りの神様でありました。しかし、新約時代の神様は、憐れみと慈しみと赦しの神様です。なぜかと言えば、イエス様が十字架上で律法のもとで犯した人間のすべての罪をみな返してしまわれたからです。

「コロサイ人への手紙 2章14節」に、『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と記されています。もう、神様は私たちを見られるとき、律法の物差しなしに見られますので、罪の定めと審きと刑罰がなく、ただ愛だけで見て下さるのです。

律法がありませんから、罪や咎を暴き出すこともできず、罪に定め、審くこともできません。イエス様が律法をみな完成なさり、十字架に律法を釘付けにして取り除いてしまわれたからです。新約時代は、神様と私たちとの関係が律法で結ばれた関係ではなく、イエス・キリストを信じることによって、神様から赦しと義と愛をいただく関係になったのです。

「ガラテヤ人への手紙 4章 4節〜7節」の御言葉です。『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』

私たちはもう、審きの対象ではなく、赦され、愛される子となり、神様の相続人になる対象となったのです。ですから、私たちの愛を妨げる障害物は、私たちの心の中にある「律法の物差し」なのです。律法が私たちの心の中にある以上、相手を見る時にはいつも罪や咎を見てさばき、殺そうとします。しかし、律法の物差しを取り除いて見れば、その時からはもう、有りの侭を見て愛することができるのです。

皆さん、私たちが律法の物差しで隣人を見たら、欠点だけを探し出すようになります。それで、いつも批評するようになり、非難し、罪に定めるようになります。そうしたら愛は窒息してしまいます。

「マタイの福音書 7章 2節〜3節」に、『あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。』と記されています。私たちが他人を律法で見たら、他人も私たちを律法で見ます。それで、互いに批評し、互いに非難し、互いに審くようになります。

しかし、既に主が十字架に律法を釘付けにしてしまわれましたから、私たちも、私たちの胸の中にある律法を十字架に釘付けにしてしまわなければなりません。批評し非難し審く律法の物差しを取り除いたら、私たちの家族、隣人、知り合いの人たちと接するとき、私たちは彼らのすべて愛することができるようになります。私たちが、隣人たちの有りの侭を受け入れて愛したら、大きな変化がもたらされます。愛の法律が、宇宙最大の法律であるからです。

皆さん! もっとも近い夫婦の間で律法を取り除かなければなりません。夫が妻を見るとき、律法の物差しをもって「あれもできない。」「これもできない。」「あれは馬鹿らしい…。」「これは阿呆らしい…。」とけなし、非難し始めたら、愛はきれいに去って行きます。また、妻が夫を見るとき、心に律法の物差しをもっていたら、「なぜ、こんなに実力がないの。」「なぜ、お金が稼げないの…。」と、しきりに見下げるようになり、愛は冷めます。

律法の物差しを取り除いてしまったら、批評が、非難が、審くようなことが止んでしまいます。相手の有りの侭を見るようになり、愛する事ができ、相手のすべてを受容する事が出来るようになるのです。そうですから、夫婦同士も、親と子供同士も、律法の物差しを取り除いてしまわなければなりません。お隣同士も同様です。律法の物差しは、愛を妨げる重大な障害物になるのです。




第二、過去を赦す事ができない心

次に、過去を赦す事ができない心を持っていたら、愛は私たちの心の中に生じることができません。もし神様が、私たちの過去のすべての罪を赦さず、みな記憶しておられるとしたら、私たちを愛することはできない筈です。私たちが過去、悪い事をいかにたくさん犯して来たでしょうか。それを全部憶えておられるとしたら、過去の罪の記憶のために、神様は私たちを決して愛する事ができないはずです。

しかし神様は、私たちをイエス・キリストの血潮を通して赦して下さるとき、そのまま赦して下さるだけではなく、私たちのすべての罪の記憶を忘れてしまわれるのです。「ミカ書 7章19節」に、『もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。』と記されています。

また、「詩篇 103篇12節」には、『東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。』と記されています。神様は、赦して下さり、忘れてしまわれます。イエス様の血潮は、私たちの過去を雪よりも白くして下さいます。「イザヤ書 43章25節」に、『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』と言われました。

ですから、神様はイエス・キリストを通して私たちを受け入れて下さるとき、私たちの罪を赦されるのと同時に、私たちの罪を忘れてしまわれるのです。しかし悪魔は、私たちの過去の罪をしきりに暴き出します。神様は、私たちが悔い改めた罪を忘れてしまわれた後には、二度と思い起こすこともなさいません。それで皆さん! 既に悔い改めた罪がしきりに暴かれ思い出されたら、それは神様の故ではなく、悪魔の仕業なのです。

私たちの罪を忘れてくださるので、神様は私たちを続けて溢れる程に愛して下さる事ができるのです。私たちが罪を告白して悔い改めたら、赦して下さり、洗い清めて下さり、忘れてくださり、罪が記憶に残らないので、神様は限りなく私たちを愛して下さることができるのです。ですから私たちも、隣人を赦して上げることに決心しなければなりません。

私たちはまず、自分を赦さなければなりません。自分の過去のすべての罪をみな、記憶せずに忘れてしまわなければなりません。「西大門教会」の時のことです。一人の姉妹がひどい病気にかかりました。極端な憂鬱症にかかって子供に乳も飲まさず、完全に廃人になりました。子供が3人もいましたが、若い旦那さんがその奥さんを連れて私の事務室に来ました。そして「私の家内を、どうか助けて下さい…。」と言いながら、涙を流すのでありました。

有名と言われる病院にはみな行って見ましたが、「どこも、何の病気もない。」と言われたそうです。ところが、このように憂鬱症にかかっているので絶望していると言うのでありました。旦那さんに外に出てもらってから、その姉妹に尋ねました。「あなたが憂鬱症にかかったのは、あなたが、あなた自身の罪を赦すことができないからです。あなたにはどんな罪があって、それを赦すことができないのですか?」

すると彼女は、表情を正して私を見つめながら、「ここは警察署ですか?あなたは刑事ですか?」と言うのでありました。それで私が、「ここは警察署でもなく、私は刑事でもありませんが、あなたが今、憂鬱症にかかって子供に乳も飲まさず、旦那さんも、家事も顧みないのは、あなたが自分の罪を赦さないからなのです。あなたは、ご自身が赦すことができない罪を持っているのです。その罪から早く解放されなければ、あなたも死に、子供たちも死に、若いあなたの旦那さんも破綻に至るようになります。今、ここで、ご自分を赦さなければなりません。わかりますか。あなたの罪をみな、神様に告白して下さい…。」

すると、彼女は頭を振りながら口を開きました。「私の罪は、神様は赦して下さいません。誰も赦してはくれません…。」「何の罪がそんなに多いのですか?」私が聞き返すと、彼女は暫くの間涙を流してから、私に次のように話してくれました。

彼女は、早く父母と死別して姉の家で育ちました。姉は、彼女を「娘」のように愛してくれました。それで大学にも通いました。大学生のとき、姉が末っ子を分娩するために病院に入院している間、姉の夫と不義を犯してしまいました。姉がいない間、義兄と間違った事を犯した後は、姉が退院してからも義兄とモーテルとか安宿を転々しながら交わりました。

その結果、言うに言えない精神的打撃を受け、大学を卒業して就職すると、義兄との交わりを清算するつもりで、自分にプロポーズする最初の男性と無条件に結婚しました。ところが、その男性があまりにも立派な人なのです。それが現在の夫です。今は家も持ち、子供が3人もあり、何一つ不足がない暮しをするようになりましたが、そうである程、益々罪責感が重く圧し掛かり、このようにただ憂鬱なのです…。」

「私は、この人から愛してもらう資格がない。この愛らしい子供たちを愛し、また子供たちから愛される資格が私にはないのだ。私は悪い女だ。私は本当に打ち殺されてしかるべき女なのだ…。」彼女は、完全に罪に捕らわれてどうする事もできないのでありました。彼女は続けて語りました。「私は絶対に、誰からも赦されることができません。神様も私を赦してはくれません…。」

それで、私が彼女にこのような話しをして上げました。「奥さん! あなたと私と、湖のほとりに座っているとしましょう。私たちは石投げをしました。私が小さい石を投げました。あなたは大きい石を投げました。私が投げた小さい石は、ポトンと小さい音を出して沈みました。あなたが投げた大きい石は、ドボンと大きい音を出して同じく水の底に沈みました。何が違うでしょうか? 音だけが違います。あなたが投げた大きい石も、私が投げた小さい石も、水の下に同じく沈みます…。

大きい罪も地獄に行き、小さい罪も地獄に行きます。あなたのその大きな罪も地獄に行き、私の小さな罪もイエス様を信じなかったら地獄に行きます。大きい罪も主が赦して下さり、小さい罪も主が赦して下さるのです。ですから、イエス様にお委ねしましょう…。」この話しが、彼女にショックを与えたようでした。彼女は突然、椅子から下りて床に跪くや、うつむいて、声を出して泣き始めました。

彼女は涙をボロボロ流しながら、「神様! 私を赦して下さい。私の汚い罪を赦して下さい…。」と神様に哀願しながら祈りました。そして彼女は、いつのまにか自分自身を赦すようになるや、感謝し、嗚咽しながら、躍るように立ち上がったり、跪いてまた祈ったりしました。それで、私が事務室のドアを開いて、旦那さんを招き入れました。夫が入って来るや、彼女は飛んで行って夫の首にしがみついて泣きました。

夫が目を丸くして、「これはどうした事ですか。結婚して以来、1度も私の首をこのように抱いてくれたことがないんです…。」と言いました。「もう、新しい人になりましたから、連れてお帰りになって下さい。」と、私が促しました。それ以後、お二人は温かく、多情になって教会に熱心に出席しました。

皆さん! 自分を赦さなければならないのです。自分を赦さずに罪に定めては、絶対に他人を愛することができません。

また、私たちは父母を赦さなければなりません。皆さん、どの子供も殆どが父母に不平、不満を持っています。そうでない人は、それこそごく稀です。どのようにして親が子供たちを均等に愛し、顧みて上げることができるでしょうか。それで、子供たちは殆どが父母に対して不満を抱いているのです。自分も父母になったら、子供たちから不満がられるようになるのです。ですから、私たちは父母を赦して差し上げなければなりません。そして、記憶からその全てを消し去らなければならないのです。

兄弟も赦さなければなりません。成長しながら、兄弟姉妹同士でよく争います。それらを憶えていてはいけないのです。兄弟も、姉妹も赦して上げることに決心し、きれいに赦さなければなりません。そして忘れてしまわなければなりません。

言うまでもなく、夫婦も赦し合い、お隣同士も赦し合わなければなりません。「マルコの福音書 11章25節」に、『また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。』と言われました。

最後に、神様までも私たちは赦して差し上げなければなりません。神様を我知らず怨む人たちが意外と多いのです。「神様が、私にこうなさるとは…。」「これは神様、あんまり酷いじゃありませんか。」「神様が、私を捨てるらしい…。」神様を怨みますが、そのようこと一切を赦して差し上げ、そして忘れてしまわなければなりません。神様を赦さなかったら、決して愛されるとか、愛するとかすることができないのです。

ですから皆さん! 今日、この時間、みんな赦すことに徹底的に決心して、イエス様の血潮に拠り頼んですべてきれいに赦す皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願致します。




第三、悪魔の讒訴

第3番目に、悪魔の讒訴※を退けてこそ、私たちはお隣を愛することができます。なぜかと言えば、悪魔は私たちに近づいて来て、「お前は、神様から捨てられたよ!」「お前のような者は、愛する資格も、愛される資格もないんだ!」と囁きます。それをまともに聞き入れ萎縮させて、私たちがお隣を愛することができないようにするのです。

私が「西大門教会」にいた時です。ある大学を卒業した有能な女性が、睡眠剤をたくさん服用して赤十字病院に入院しました。それで病院では胃を洗浄して吐き出させ、酸素呼吸器をあてがってベッドに寝かせていました。私が訪問したとき、彼女が言いました。「私はあまりにも罪深いので、神様から愛していただく資格がありません。私は地獄に行ってしかるべきですので、死ぬことにしました…。」

それで、私が言いました。「あなたには罪が多い。あなたは罪深い…。だから神様から愛して貰う資格がない、としきりに言っているのは悪魔の囁きです。神様が言われることではありません。神様は、実に、そのひとり子をお与えになった程に世を愛され、イエス様はあなたを愛されて、あなたの罪と咎をみな背負って身を裂き、血を流されるまでにあなたを赦されました。主は、あなたの罪を指摘し、しきりに暴きながら、貴方は資格がない…などと言う方ではありません。」

その姉妹が、私をじっと見詰め始めました。私は続けて説得しました。「イエス様の血潮によってあなたは既に赦されており、あなたはイエス様から愛されているのです。あなたには神様から愛される資格があるのです。そんな資格がない、と言うのはサタンの仕業であり、讒訴です。サタンを追い出さなければなりません。サタンがいつも罪に定め、讒訴し、さばいています。あなたはサタンの讒訴に引っ掛かっているのです…。」

ついに、彼女は真理を悟りました。サタンに対抗して追い出してからは、次第に神様の愛を感じるようになり、心に平和が訪れて、お隣の人々を愛することができるようになりました。皆さん!「お前は、神様から捨てられたんだ…。神様から愛される資格がない…。」というのは、これはサタンの讒訴です。神様は皆さんをどれ程愛しておられるか? ひとり子イエス様をいけにえとして与えて下さいました。これが証拠なのです。

また、サタンが来て、「お前は、あまりにも罪が多いので、愛される資格も、愛する資格もない…!」と言いますが、この世の中に罪のない人が誰ですか。イエス様も、『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』と言われたではありませんか。人が罪を犯したので、神様の栄光に至ることができないのです。

皆さん! 神様は私たちの罪を赦された後は、またと私たちの罪を暴くことはなさいません。罪をほじくりだし、続けて暴くのはサタンの仕業です。ですから、サタンを追い出さなければならないのです。

また、サタンは来て囁きます。「お前がいくら、隣人に愛を注いでも、お前の隣人はお前を嘲笑しているよ。人たちがみな、お前を嘲笑い、無視し、蔑んでいるよ。だからお前は人間以下の存在なんだよ…!」皆さん、隣人たちが指差しながら嘲笑しようが、無視しようが、神様が私たちを愛しておられる事を思ったら、何ともありません。いくらでも大胆に、自信をもって生きていく事ができます。私たちが拠り頼むのは隣人たちではなく、私たちは神様に拠り頼んで生きているのです。

神様が私を赦して下さり、義として下さり、愛して下さったら、それで私たちは満足し、その愛で私たちはお隣を愛して上げることができるのです。また、サタンが来て、「お前がいくら愛しても、何の効果もないよ。損するだけだよ!」と言います。しかし皆さん、サタンのその讒訴を信じてはいけません。愛だけが、私たちを変化させることができます。

愛だけが、私たちに幸福をもたらし、喜びをもたらすことができるのです。愛が効果もなく、愛したら損すると言うのは嘘です。この世の中で、律法で批評し、非難し、さばくことはいつも紛争を呼び起こしますが、愛は「和解」をもたらし、「赦し」をもたらし、「一致」をもたらすからなのです。

「ペテロの手紙 第一 4章 7節〜8節」に、『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記されています。ですから、悪魔の讒訴を断固として退けて、否定的な考えや言葉で攻撃してくる敵悪魔が私たちに近づいて来ないようにしてこそ、愛が妨げられないのです。愛し、愛されることができるのです。

「ヨハネの黙示録 12章10節〜11節」の御言葉です。『そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

悪魔に『小羊の血と、あかしの言葉のゆえに打ち勝った。』と言われました。サタンが皆さんに近づいて来て誘惑しようとしたら、「イエス・キリストの十字架の血潮と、イエス・キリストの御名によって命ずる。私から離れ去れ!」と命令して下さい。イエス様の血潮と御名によって対抗したら、サタンは一つの道から来て、七つの道に逃げ去るようになります。

※讒訴(ざんそ):(他人をおとしいれるため)目上の人や主人に、ありもしない事を告げること。讒言(ざんげん)して訴え出ること。




第四、聖霊さまのみわざを過少評価する心

また、私たちが愛し、愛されるためには、聖霊さまのみわざを過少評価してはいけません。聖霊さまが来られて、私たちの心の中に神様の愛を注いで下さるからです。

「ローマ人への手紙 5章 3節〜5節」に、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記されているのです。神様の愛が、聖霊さまによって私たちの心の中に注がれているので、その神様の愛で私たちは自分を愛し、お隣を愛する事ができるのです。

聖霊を助け主と言うではありませんか。助け主と言うのは、神様から遣わされて私たちを助けるために、いつも私たちの傍におられる方と言うことです。ですから私たちが、「助け主聖霊さま!私の心の中に神様の愛を注いで下さって、その愛で暮らすようにして下さい。」と祈り求めなければならないのです。そうすれば、聖霊さまが私たちの胸の中に愛を注いで下さいます。

皆さん、ステパノをご覧下さい。石で打ち殺されながらも、石を投げつける敵たちを祝福して下さい、と祈りました。敵を憎むとか罪に定めるとかしませんでした。それは、聖霊充満であったからです。聖霊が神様の愛をステパノの胸の中に注いで下さったからなのです。「私は愛する力がありません。」「私は、そのような人は愛することができません。」と言ってはなりません。

聖霊さまは神様の御霊であり、イエス様の御霊です。十字架の血潮を信じる私たちに、聖霊さまが愛を満たして下さるのです。自分では愛する事ができなくても、聖霊さまが愛する事ができるようにして下さいます。使徒パウロは、『私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。』と言いました。聖霊さまが私たちを強くして下されば、私たちは愛することができるのです。

「エゼキエル書 36章26節」に、『あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。』と言われました。聖霊さまにお願いしたら、聖霊さまが私たちのかたくなな心を取り除いて、新しい心、柔和な心を与えて下さり、愛し、受容することができるようにして下さるのです。

私たちは、この世の中で最高の法である「愛の法」を持って暮らさなければなりません。愛しながら暮らすためには、他人を批評し、非難し、貶す、心の中の「律法の物差し」を取り除かなければなりません。そして、自分や隣人の過去の罪をすべて赦し、きれいに忘れてしまわなければならないのです。

また、しきりに自分や他人に対して否定的なことを言い、讒訴するサタンを、イエス・キリストの血潮と御名で追い出してしまわなければなりません。そして、いつも神様の助け主聖霊さまに拠り頼んで、神様の愛を私たちの心の中に注いで下さるよう祈り求めなければならないのです。聖書に「信仰と希望と愛の中で、一番すぐれているのは愛です。」と記されています。

神様は愛であられます。愛があるところには、神様がおられます。いくらイエス・キリストを立派に信じると言っても、愛がなければ、その人には宗教があるだけであって、神様はおられません。愛があるところに神様がおられます。悪魔は憎しみですので、憎しみがあるところには悪魔がいるのです。

私たちは、キリスト・イエスにあって神様の愛と赦しをいただいたのですから、私たちは聖霊さまの助けを受けて、いつも律法の物差しを取り除いて隣人を愛し、すべての罪をみな赦し、忘れ去ってしまい、そして互いに愛しながら暮らす私たちとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 主は、律法でイスラエルを見られる時には、批評し、貶し、罪に定め、審かれて、いつも御怒りの神様であられました。しかし、イエス・キリストが十字架を負われて律法を完成し、律法を取り除いてしまわれるや、神様は私たちをご覧になられる時、愛をもって見られますので、こんにち、私たちが神様から重ね重ねて愛していただいております。天のお父さま! あなたはこんにち、私たちの愛の神様です。御怒りの神様ではありません。それは、律法を取り除いてしまわれたからです。

全知全能であられる我が神様! 願わくは、私たち父母と子供同士、夫婦、友人やお隣同士が、互いに律法の物差しを取り除いて愛で交わるように助けて下さい。天のお父さま! 私たちの罪を赦して下さり、私たちの罪を記憶もなさらない主であられる神様、有り難うございます。どうか私たちも、お隣の罪を記憶せず、再三暴くことなどしないように助けて下さい。

我らの助け主聖霊さま! 私たちに臨んで下さって、サタンを退かして下さい。私たちに神様の愛を満たして下さい。聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みます。聖霊さまがみわざを働かして下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!