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10月3日



主を恐れる人生

「箴言 8章:13節」
主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。




今日の本文(奉読個所)は、「主を恐れることは、悪を憎むことである。」と記録しています。それでは、私たちが憎まなければならない悪とは、具体的になんでしょうか?

第1番目に、高ぶりと驕りです。「高ぶり」とは、“生意気で僭越で、身分不相応なことをしてやまない”ことであり、「驕り」とは、“自分が高い人であるという心を持った人”を指します。アダムとエバが堕落するようになった根本的な動機は、実に高ぶりと驕りの故でありました。彼らは、神様の御前で一介の被造物に過ぎない自分たちの分際をわきまえずに、神様と同じく“善悪を分別する主人”になろうとして、すべてを失ってしまった人生に落ちぶれました。

高ぶりと驕りは私たちの信仰を腐敗させ、私たちが持っているすべてのものを奪っていく悪です。主を恐れると言うことは、高ぶりと驕りを捨てて、謙遜に行うことを言います。“謙遜”は、「心を低くすること」です。神様は、謙遜に、自分を低くする人にすべての良いものを与えることを惜しみません(詩篇34:9参照)。

第2番目に、悪の道です。悪い考えと悪い心の態度、悪い言葉遣いと悪い行いは、クリスチャンとして当然憎み、捨てなければならないことたちです。悪い行いとは、単純に外に現われたことだけを言うのではありません。私たちの心の態度と姿勢、考えの中に悪を受け入れるとしたら、それ自体が悪い行いなのです。

それで聖書は、「悪はどんな悪でも避けなさい。」(テサロニケ人への手紙第一5:22)と記録しており、「悪を憎み、善に親しみなさい。」(ローマ人への手紙12:9)と勧めています。私たちが悪を捨て、更には積極的に悪を憎む人生を生きて行くためには、聖霊と御言葉で満たされ、聖霊さまのお導きをいただかなければなりません。

第3番目に、ねじれた言葉を憎むことです。「ねじれた」と言うことは、“偽りである”または“強情である”と言う意味を持っています。言語生活は、聖徒さんたちの生活の中で重要な位置を占めています。神様が私たちに口を与えてくださった目的は、私たちの口で神様を賛美しながら、隣人を祝福することにあり(民数記6:23、詩篇40:3、イザヤ書43:21参照)、神様の御言葉をいつも私たちが口ずさむことによって、創造的、成功的な人生を生きて行くようにすることにあります(箴言6:2参照)。

ですから、私たちが御言葉の中に住み、聖霊に従って行おうと努力する時、終局的に、私たちは神様を恐れる人生を生きるようになるのです。





お祈り

主を恐れることが知恵の根本であることを教えてくださった、我らの父なる神様!

私たちの生活の中から、高ぶりと驕りと、悪い行いとねじれた言葉を捨てるようにしてくださり、いつも御言葉の中に住み、聖霊に従って生きるように助けてください。

イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!