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11月1日



■主の御言葉におののく者

「イザヤ書 66章:1節~2節」
66:1 主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。




神様は、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(66:2)と仰せられました。「目を留める」と言うことは、「顧みてあげる」と言う意味です。この御言葉を根拠にして、今日は、主が目を留める人がどういう人であるかを知ることによって、お恵みを分かち合いたいと思います。

第1番目に、「へりくだった」と言うことは、「心に貪欲がない」と言うことです。すなわち「心の貧しい人」を言うのです。貪欲でいっぱいの人には、神様がみわざを働かしてくださいません。ただ世俗と悪霊の仕業があるだけです。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイの福音書5:3)と言われました。心が貧しくてこそ、神様がその人の心を天国で満たしてあげることができるのです。

第2番目に、「心が砕かれた」人です。「砕かれる」と言うことは、「心痛く思い、悔い改める」と言うことです。私たちが心から、自分の罪と弱さに対して心痛く思い、それを神様の御前で告白し、悔い改める時、神様は私たちの罪を赦してくださり、聖霊の御力で私たちの弱さを強くしてくださり、慰めを施してくださるのです。イエス様は、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)と言われました。

第3番目に、神様の御言葉に因っておののく人です。私たちは、御言葉が、すなわち、神様であると思わなければなりません。「ヨハネの福音書1章1節」は、『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』と記録しています。従って、私たちが神様を畏敬すると言うことは、すなわち、神様の御言葉を畏敬する、と言うことと同じ言葉なのです。

私たちが、神様をまことに心から愛すると言うなら、毎日神様の御言葉の中で神様と交わりながら、御言葉に絶対従順に聞き従う姿勢で生きていかなければなりません。そうする時、神様は私たちの人生全体を主管してくださり、私たちを顧みてくださるのです。





お祈り

天を王座とし、地を足台としておられる、我らの父なる神様!

私たちが主を恐れ、御言葉におののくように導いてくださって有り難うございます。いつも、貧しい心と、痛く悔い改める心で、神様の御言葉におののき、畏敬しながら、人生全体を主管なさる神様にすべての栄光をお帰しする私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!