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12月28日



■神様のための断食と礼拝

「ゼカリヤ書 7章 5節~7節」
7: 5 「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。
7: 6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
7: 7 エルサレムとその回りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったか。」




ユダの民たちは、バビロンに捕虜として捕らえられて行った後にも、毎年第五の月と第七の月には定期的に断食しながら、神様に礼拝を捧げました。しかし神様は、預言者ゼカリヤを通して、この断食が神様のためではないことを指摘されながら、何が本当に神様に受け入れられる供え物であるかに関して仰せられました。

第1番目に、真実に行うことです。真実は、正義の社会を成して行く礎石となります。真実がないことには、個人と家庭、社会と国家の中に神様の義が成されず、平和が自然と消え去ります。人たちが何事にも真実に行う時、家庭と社会に神様の公義が立ち、平和が満ちるようになるのです。

第2番目に、慈しみと憐れみを施すことです。どんな供え物よりも、神様が喜ばれる供え物は、誠実をもって慈しみと憐れみを施すことです(ホセア書6:6参照)。「イザヤ58章5節~7節」にも、『わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。』と記録されています。

私たちの礼拝と断食が、まことに神様から喜んでいただき、神様のためのものとなるようにするためには、私たちの生活の中に、隣人に対する慈しみと憐れみがなければならないのです。

第3番目に、やもめとみなしごと在留異国人と貧しい人たちとを虐げないことです。これは、自分より貧しく、弱く、低い位置にある人々を見くびったり、迫害してはならない、と言うことです。私たちが、まことに神様の子どもたちであるならば、私たちは、弱い人、貧しい人、低い位置にある人たちの味方になり、彼らを弁護し、彼らと共に苦しみを分かち合うようにならなければなりません。そうする時、私たちの礼拝と断食が、神様のための真実な供え物となるのです。

第4番目に、他人に害を及ぼそうと心の中で謀らないことです。これは、外面的な悪い行いより、内面的な動機を言うのです。他人がうまく行かないことを見て心の中で喜ぶ人、他人が自分より良くなる時には心の中で妬む人、他人がつまずくことを願いながら罠を仕掛けようとする人は、私たちの断食と礼拝を空しいものにします。神様のための断食と礼拝は、隣人を自分自身のように愛し、理解し、良いことにも悪いことにも心を一つにして、彼らのために祈ってあげることです。

このように、肉体の断食と共に、私たちの心の断食と行いの断食が同伴する時、私たちの断食と礼拝は神様のためのものとなり、神様から喜んでいただけるようになるのです。





お祈り

全能で、愛であられる、我らの父なる神様!

神様の御心を私たちにも分け与えてください。真実な心で、慈しみと憐れみを施すようにしてしてくださって、神様から喜んでいただき、また隣人を愛する私たちとなるように助けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!