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「新年を聖霊様と共に」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 14章16節〜19節」
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。




今日、私は皆さんと一緒に『新年は聖霊様と共に』と言う題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

もう、本当に皮膚で感じることができるほどに世の終末が近き、神様が備えられた「新しい天と新しい地」が現われる時期が参りました。その時には、教会も「肉に属した教会」と「霊に属した教会」とにはっきりと分かれます。「肉に属した教会」は、人本主義的・人間の知識と哲学の教えに従う教会であり、「霊的教会」は、聖霊充満・御言葉中心に立って礼拝を捧げる教会です。

主が言われた「十人の娘の喩え」が、現実に現れています。十人の娘のうち、五人は灯火と一緒に入れ物に油も入れて持っていましたが、他の五人は灯火は持っていましたが油を用意していませんでした。花婿が来るのが遅れたので、娘たちはうとうとと眠り始めました。ところが夜中になって、「花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声が聞こえました。

直ぐに跳ね起きた十人の娘たちのうち、賢い五人は油が用意されていたので直ぐに灯火を明るくして花婿を迎えに出て行きましたが、他の愚かな五人は灯火は持っていましたが油がないので灯火に火を点けることができませんでした。明るい灯火を持って出て行った五人の娘は花婿を迎えて婚礼の祝宴に入って行きましたが、油がない五人の娘は追い出されてしまいました。

皆さん!こんにち、この灯火はまさに私たちの信仰を言うのです。信仰に聖霊の油の注ぎがなかったら、私たちの信仰は虚しいものです。教会に往き来する信仰の形は皆持っていても、聖霊の油の注ぎがなかったら「灯火」は消えています。花婿が来られる時、迎えに出ることができません。ですから私たちは、これ以上遅滞してはなりません。私たちの信仰の灯火に、油を満たさなければならないのです。聖霊さまの油の注ぎがない、肉のクリスチャンとして残っていてはいけません。

それでは、私たちが満たさなければならない聖霊さまとは、一体どう言う方でしょうか。使徒パウロがエペソ教会に行った時、そこの弟子たちに『信じたとき、聖霊をうけましたか?』と尋ねました。すると彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えました。こんにち、聖霊はどのような方でしょうか?




第一、聖霊さまは「証し」の霊です

第1番目に、聖霊さまは「証し」の霊であられます。イエス様は、パレスチナの一隅で「十字架」に釘付けられ、死なれてから、蘇えられました。そして、イエス様はその苦難を通して人類の救いを完成して下さいました。

「ヨハネの福音書 3章14節〜16節」に、『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記されています。

このような、驚くべき救いのみわざが十字架を通して完成されました。それから、五旬節の日に聖霊さまが降臨なさることによって、この救いの事件がエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで宣べ伝えられ始めたのです。「使徒の働き 1章 8節」に、『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』と記されています。

もしも、聖霊さまが来られなかったら、「十字架の救い」の事件はエルサレムで直ぐに忘れ去られてしまったでしょう。聖霊さまがイエス・キリストの「十字架の事件」を、全天下に「救いのみわざ」として宣べ伝えるようになさいました。聖霊さまは、このように私たちに強制的に「証し」するようにして下さいます。

学問がなく、貧乏であり、身分が低かったイエス様の弟子たちは、イエス様が十字架の上で亡くなられるや気落ちし、絶望しましたが、聖霊さまが臨むや、皆が情熱的で偉大な伝道者たちとなりました。弟子たちのうち、「使徒ヨハネ」一人だけが自然死をしました。その他は皆、神様の為に、イエス・キリストの為にいのちを捨てて殉教しました。

「使徒の働き 4章31節」に、『彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』と記されています。こんにち、教会の中に集まって礼拝を捧げるだけで、外に出て伝道しないとしたら、それは聖霊が共に居られないからそうなのです。聖霊がその教会に臨まれ、聖霊のみわざがあるとしたら、教会で礼拝を捧げると心が熱くなり、じっとしていることができません。出て行って熱く、熱情的にイエス・キリストが救い主であられる事を宣べ伝えずにはいられません。

ですから、皆さんの胸の中に聖霊の感動があり、熱いみわざが起こったら、皆が伝道者になれます。伝道しない教会は死んだ教会です。伝道しない聖徒は、その人の中に聖霊が臨んで居られないと言う証拠です。いくら異言を語るとしても、伝道しないならそれは聖霊のみわざによって語る異言であると言うことができません。聖霊がみわざを働かしたら、伝道の実が必ず結ばれるようになっているのです。伝道しない聖徒は、聖霊が共に居て下さらない「肉の聖徒」に過ぎません。




第二、聖霊様は「助け主」です

第2番目に、聖霊さまは「助け主」であられます。「助け主」とは、神様から遣わされて、私たちを助けるためにいつも傍に居られる方であると言うことです。「助け主聖霊」は、神様が遣わされた「第3位の神様」です。神様は御座におられ、イエス様は御座の右側に座っておられますが、聖霊さまはこの世に来られて、私たちと共に居られながら、いつも私たちを助けて上げようと願っておられ、実際に助けて下さっておられる神様なのです。

「ヨハネの福音書 14章16節」に、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』と記されています。ですから、今は永遠という時間の中に居りますので、ここに主が来られて共に居られます。「聖霊様」という主が共に居られるのです。

皆さん、聖書「イザヤ書 11章 2節」をみますと、『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』と記されています。従って、「助け主聖霊」は私たちの中に居られ、私たちと共に居られて、知恵を与えて下さる神様なのです。

「申命記 34章 9節」を見ますと、『ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。』と記されています。皆さん!私たちには何よりも知恵がなければなりません。知恵は問題を解決する力を言うのです。知恵がある個人や、知恵がある国民は勝利し発展します。

しかし知恵がなければ、いくら知識が豊富であっても、その知識を使用する方法を知りません。大工がいくら立派な道具を持っていても、知恵がなければ、その道具を使用して素晴らしい家具を作ることができません。道具が少しは落後したものであっても、知恵があったら良くない道具を持っても立派な家具を作ることができます。

そして、聖霊さまは聡明を与えて下さる方です。「列王記 第一 4章29節」に、『神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。』と記録されています。聖霊さまが臨まれたら、皆さんに聡明を与えて真理を悟るようにして下さいます。私たちの心が鈍かったら何を教えても悟ることができず、周囲、環境、そして世の動きを見ながらも、何が起こっているのか知りません。聖霊さまは聡明を与えて下さる霊であられるのです。

聖霊さまは又、助言して下さるカウンセラーです。「詩篇 119篇24節」に、『まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。』と記されています。「相談相手」は色々なことにカウンセリングしてくれ、助言してくれて、私たちが失敗しないようにしてくれるのです。

それから、聖霊さまは力を与えて下さる方です。「ルカの福音書 24章49節」に、『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』と記録しています。ある人たちは、「私は話しが不得手です。」「・・・祈りが拙いです。」「・・・伝道する方法を知りません。」「自信がありません・・・。」と言います。それは事実です。人間の力ではとても難しいです。

しかし聖霊が臨まれたら、超自然的な力が生じるのです。イエス様の弟子たちは、皆が卑賎な漁師たちであり、蔑まれた取税人たちでありました。世俗的に見る時、彼らはそれこそ取るに足りない人たちでありました。しかし聖霊が彼らに臨むや、大ローマ帝国をくつがえし、全天下に福音を宣べ伝えました。

聖霊さまは、知識を与えて下さる方です。「ローマ人への手紙 11章33節」に、『ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。』と記されています。聖霊さまが、神様の知識を皆さんが悟るようにして下さいます。

聖霊さまが悟るようにして下さらなかったら、神様の御言葉である「創世記からヨハネの黙示録まで」の聖書は閉ざされた本です。皆さんがいくら読んで見ても、何と言う内容なのか判りません。しかし聖霊さまが臨まれたら、知識の目を開いて下さり、皆さんに悟りを与えて下さるのです。

また聖霊さまは、神様を畏敬するようにして下さる方です。「コリント人への手紙 第一 12章 3節」に、『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』と記されています。

聖霊さまが臨まれば、天と地と世界とその中のすべてのものを造られた神様を悟るようになり、父として仕えるようになり、神様に礼拝を捧げるようにして下さるのです。世の人たちが神様を無視し、神様に対して侮辱的な言動を欲しいままにしながら暮らし、不信仰の中で生活するのは、彼らが聖霊を受け入れなかったからです。聖霊が来られたら、私たちの心の中に神様に対する恐れを入れて下さり、敬虔な心で神様に仕えるようにして下さいます。

また、聖霊さまは私たちを聖くして下さる方です。聖霊さまが臨まれたら、皆さんと私を世俗から呼び出されます。そうして、神様の前で聖い生活をするようにして下さいます。聖霊さまが臨んでおられるので、心の中に罪を犯したら苦しくて堪らなくなります。罪を犯したことは事実であるけれども、ずっと罪の中に居る事ができないのは、苦しくて堪らなくなり、遂には罪を吐き出すようになるからです。涙を流しながら泣き、痛く悔い改め、そして吐き出したら、心の中が清々しくなり、爽やかになります。

「ローマ人への手紙 8章 2節」に、『なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記されています。聖霊さまがみわざを働かして下さらなかったら、私たちは聖く生きて行くことができません。

聖霊さまは、私たちを慰めて下さる方です。「使徒の働き 9章31節」に、『こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。』と記されています。教会に来たら、聖霊さまが慰めて下さるので私たちの心が平安になり、幸福になるのです。聖霊さまによって私たちは心強くなり、堅固な信仰を持つことができるのです。

聖霊さまはまた、私たちを導いて下さる方なのです。「ヨハネの福音書 16章13節」に、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』と記されています。

聖霊さまは、私たちを導いて下さいます。神様のもとに導いて下さり、イエス様のもとに導いて下さり、正義の道、まことの道、忠実の道、聖い道、愛の道、そして柔和と謙遜の道に、皆さんと私を導いて下さるのです。

聖霊さまは、このような「助け主」です。このような色々な機能を持って皆さんを助けるために、いつも共にいて下さる方なのです。それでイエス様が、『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』と仰せられました。

私たちは、何の助けもない孤児のようだ、と考えてはいけません。皆さんと私に聖霊さまが来られて共にいて下さるからなのです。聖霊さまは、このように数多い機能を持って皆さんを助けるために、天から来られて私たちの傍に居られる偉大な「助け主」、偉大な「家庭教師」なのです。




第三、聖霊さまは「実」を通して現われます

第3番目に、聖霊さまはその「実」を通して私たちに現われます。「私は聖霊を見たことがない。」と、人たちは言います。聖霊さまは「霊」であられますので、目で見ることはできません。聖霊さまは「風」のように通り過ぎます。風が吹けば、木が揺れ動きます。聖霊さまがみわざを働かしたら、「実」が結ばれます。その「実」を通して聖霊さまのみわざを目で見ることができ、体験することができるのです。

「ガラテヤ人への手紙 5章22節〜23節」に、『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』と記されています。

聖霊さまは、愛の実を結びます。愛は抱擁し、施します。愛は排斥しません。愛は自分のものだけを掻き集めようとしません。聖霊さまが臨んだら、すべてを抱擁するように、すべてに施すようにして下さいます。

聖霊さまは、喜びの霊です。皆さん、喜びと言うのは幸福とは違います。幸福は環境がもたらしてくれるものですが、喜びは心の中に聖霊さまが与えて下さるものです。環境が悪くても、心に喜びを持つようにして下さるのです。これが、幸福と喜びの違う点です。

聖霊さまは、平安の実を結ぶようにして下さいます。十字架で成就なさった血潮の御力で、神様と私たちが和解し、自分の良心と和解し、お隣と和解して一つとなるように、聖霊さまはみわざを働かして下さいます。引き裂くのは聖霊さまのみわざではありません。サタンは襲いかかって来ては引き裂きます。私たちの人格を引き裂き、家庭を引き裂き、教会を分裂させます。しかし聖霊さまは、和解して一つとなるようにするみわざを施して下さいます。

次に、聖霊の実は寛容の実なのです。聖霊さまは私たちが耐え忍ぶように顧みて下さいます。皆さん!一人の赤子が成人になるには、20年の歳月を要します。父母は、その間寛容をもって顧みます。クリスチャンが成長するために、聖霊さまは寛容をもって顧みて下さいます。そして私たちに寛容を持たせ、成長した聖徒に造り上げて下さいます。聖霊さまが臨まれたら、私たちに寛容の賜物を与えて下さるのです。

また、聖霊さまは私たちの心の中に親切の実を結ぶようにして下さいます。かわいそうに思う心、自分より不幸な人を見たら気の毒に思い、憐れむ心が生じて、彼らと重荷を分け合い、温かい手を伸ばして助ける、このような親切の実を聖霊さまは結ぶようにして下さいます。

そして、聖霊さまは善意の実を結ぶようにします。善意とは、善良な心です。世の中の悪意を持った人たちは、本当に恐ろしい存在です。悪意を持った夫に連れ添ったら、その夫人はそれこそ不幸に見舞われます。悪意を持った夫人に会ったら、夫を破滅に至るようにします。しかし、聖霊さまが臨んで来られたら、私たちを変化させて善良な心を持つようにして下さいます。善意を持たせて下さるのです。善意の人は、聖霊さまがその実を結ばせて下さったのです。

また聖霊さまは、誠実の実を結ばせて下さいます。聖霊さまは、背き、裏切る、エスカリオテ・ユダののような人には造り上げません。サタンは来て、執拗に裏切るように誘惑し、恩を仇で返すようにします。しかし聖霊さまは、誠実な人にして下さいます。心を尽くし、思いを尽くし、まことを尽くして神様に忠実に仕え、お隣や兄弟姉妹たちに誠実を持って交わるようにするのが、聖霊の実なのです。

また聖霊さまは、私たちの心の中に柔和の実を結ぶようにして下さいます。温かく和やかな実です。聖霊さまが来られたら、温かく優しい母の心、柔らかい母の手のような、そのような実を結ぶようになります。

そして聖霊さまは、自制の実を結ばせて下さいます。聖霊さまは、多少裕福であるとしても贅沢や浪費することをさせず、生活が苦しいとしても挫折するとか堕落するようにはなさいません。聖霊さまはいつも中庸※の道を歩くように導いて下さいます。「ヨハネの福音書 15章 8節」に、『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』と記されています。

※中庸(ちゅうよう):極端な行き方をせず穏当な事。片寄らず中正な事。




第四、聖霊は神様であり、人格者です

第4番目に、聖霊さまは神様でありながら、人格者なのです。皆さん!聖霊さまは並々ならぬ存在です。聖霊さまは「御父」「御子」とともに第3位の神様です。荘厳なる神様なのです。

聖霊さまは「全能」なる方です。「ゼカリヤ書 4章 6節」に、『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」』と記されています。聖霊さまは全能なる「創造主・神様」なのです。

また、聖霊さまは「全知」の神様です。「コリント人への手紙 第一 2章10節」に、『神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と言われました。神様の深みにまでも及ばれる「全知全能」なる方が、聖霊さまです。

そして聖霊さまは、「遍在」(無所不在)する神様です。「詩篇 139篇 7節〜8節」を見ますと、『私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。』と記されています。

至る所どこにも、聖霊さまは居られます。風が遍満※する如くに、聖霊さまは今、ここにも私たちと共に居られるのです。聖霊さまは全知・全能であられ、宇宙に遍く居られる神様であることを私たちは知らなければなりません。

また聖霊さまは、皆さんと私と対話をなさる人格者であられます。聖霊さまは木や石のような存在ではありません。また聖霊さまは、一般動物のように人と対話ができない、そのような存在ではありません。聖霊さまは「人格者」です。人格者には、必ず知識と感情と意志があるのです。

聖霊さまには、知識があります。「ローマ人への手紙 8章27節」に、『人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』と記されています。聖霊さまは「思い」を持っておられます。聖霊さまは知識を持っておられます。私たちの一挙手一投足をすべてご存知なのです。

また聖霊さまは、感情を持って居られます。「ローマ人への手紙 8章26節」に、『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』と記されています。私たちのために、聖霊さまは泣き叫び嘆きながら、祈って下さるのです。聖霊さまは熱い感情を持っておられる方なのです。

そして聖霊さまは、断固とした決断と意志を持って居られます。「コリント人への手紙 第一 12章11節」に、『しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』と記されています。神様の恵みの賜物を、聖霊さまはご自分の御心のままに分け与えて下さるのです。私たちが思いのままに取得して使用することができるものではありません。聖霊さまは、断固とした決断と意志を持っておられるのです。

聖霊さまは神様です。神様に私たちは礼拝を捧げ、讃美し、感謝しなければなりません。いつも神様は礼拝の対象であられます。それで私たちは讃美と感謝を捧げなければならないのと同じく、いつも私たちの人生の中に共に居て下さる聖霊さまに、私たちは礼拝し、讃美し、感謝を捧げなければならないのです。

また、聖霊さまは人格者であられますから、私たちは聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れて、謙遜に仕えながら、拠り頼まなければなりません。聖霊さまより、もっと偉大な人格者がどこにいるでしょうか。大統領が来られたら、私たちは謙遜にへりくだって大統領を歓迎し、喜んで迎え入れないでしょうか?聖霊さまは宇宙の大統領であられるのです。私たちが聖霊さまに謙遜に仕え、謙遜な言葉を使い、認め、歓迎し、迎え入れて、拠り頼む時に、聖霊さまは私たちの中に来られてみわざを働かして下さるのです。

ですから皆さん!聖霊さまが居られない信仰は、人造信仰です。いのちがありません。この頃、人たちの技術が発達してプラスティックであらゆる美しい花を作り出しますが、それは「人造の花」です。そこには香りがありません。それらには蜂も蝶も飛んで来ません。皆さん、聖霊さまが居られない信仰は「人造信仰」です。そこには「天の御国のいのち」がなく、「天の御国の香り」もありません。

ひとえに、聖霊さまが「天の御国のいのちがある信仰」、「香りがある信仰」で満ち溢れる、個人と教会をつくって下さるのです。ですから、新年には必ず、神様であられる聖霊、人格者であられる聖霊さまを謙遜に認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みながら、聖霊の賜物と聖霊の実を豊かに結び、助け主聖霊さまと共に生活しながら、偉大なキリストの証人たちとなられますよう、主の御名によってお祈り致します。

 ※遍満(へんまん):広くいっぱいに満ちふさがる事。




お祈り

聖く、栄光であられる父なる神様!ひとり子イエス様を遣わされて、十字架の上で身を裂き、血を流して私たちを救うようにして下さり、聖霊さまを遣わされて、イエス・キリストの救いの真理を悟るようになさり、私たちに伝道者となるように導いて下さり、恵みの賜物を与えて下さり、聖霊の実を結ぶように、そして成功的人生を生きるように助けて下さって有り難うございます。

助け主聖霊さま!主の御名によって、聖霊さまを迎え入れ、認め、歓迎し、拠り頼みます。風のように、火のように、生ける水のように、私たちの教会と聖徒たちの生活にみわざを働かして下さい。聖徒たちの人生に、聖霊さま!充満に臨んで助けて下さい。熱い火のような熱情を与えて下さって、聖徒さん皆が熱烈な伝道者となるように助けて下さい。

今年一年は、居ても立っても、行く至る所に、イエス・キリストが人類の救い主であられる事を宣べ伝える私たちとなるように導いて下さい。油を用意していない形式的なクリスチャンとならずに、油を用意した五人の娘たちのようになるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!