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「神から祝福される人生の為に」
 






■聖書箇所

「エレミヤ書 29章11節〜14節」
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。・・主の御告げ。・・わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」




今日、私は皆さんとご一緒に『神から祝福される人生の為に』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人が、二人以上集まって道を歩いて行くとか、一緒に仕事をする為には互いに理解し、ある程度は心が一致しなければなりません。尚且つ、一組の男女が結婚し、一つの家庭をなして幸福に暮らす為には、相当に感情と心がうまく合わなければなりません。心が合わずに昼夜衝突し争い合えば、結局は別れてしまうようになります。

これと同じく、神様と人間が一緒に暮らし、一緒に働く為には、言うまでもなく神様の心と人間の心がうまく合わなければなりません。ところが、神様は「絶対」「全知」「全能」なる方でありますので、愚かな人間の考えと心に、ご自分の考えと心を一致させることはできません。

人間こそが、砕かれ謙虚になって神様の御心を知り、神様の御心に従って自分の考えと心を従順に聞き従うようにしなければなりません。そうする為に私たちは、神様の御心を知ろうと絶えず努力しなければならないのです。




第一、神様の決定的な御心はイエス・キリストを通して現われます

私たちが幸いを得、成功的な人生を生きる為には、まず神様の決定的な御心が何であるかを知らなければなりません。それでは、神様の御心をどうしたら知ることができるでしょうか。神様は、ご自分の御心をイエス・キリストを通して私たちにはっきりと見せてくださいました。

「ヘブル人への手紙 1章 1節〜3節」を見ますと、『神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』と記されています。

ですから、私たちが神様の御心を知り、その上に堅固に立って神様と同行しながら生きて行くためには、言うまでもなく神様の御言葉である「聖書」に詳しくならなければなりません。ところが、聖書をいくら勉強しても神様の御心を確実に悟り、神様の御旨を真昼のようにはっきりと悟ることはとても難しいことです。

私たちは神様の御言葉を熱心に読みますが、相当に経験を積んでおり、神様の御言葉を深いところまで知っている人以外は、神様の御言葉を読んでも、これが果たして私に何の意味があるのか、理解するのに困難なときがあまりにも多くあります。しかし決定的な事実は、イエス・キリストは肉を着て来られた神様であり、イエス様の一挙手一投足はまさに神様の行為であると言う事と、私たちに対する神様の御心は「十字架の贖い」を通してはっきり現われていると言う事実です。

「ヨハネの福音書 6章38節〜39節」に、『わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。』と記されています。

イエス様が来られて、仰せられ、生活なさり、十字架に釘付けられ、死なれてから、よみがえられた事は、私たちに対する神様の決定的な御心を明らかに見せてくださった行為なのです。ですから私たちは、イエス・キリストの「十字架の贖い」を通して、私たちに対する神様の御心を間違いなく知る事ができます。

これは疑うことができない! これは間違いなく神様の御心だ・・・! 明々白々と神様の御心を知り、これは神様の御心であるから、どこからどのような風が吹いて来ようとも、私は絶対に揺り動かされない。誰が何と言っても、どのような否定的なことが起こっても、私は揺るがされない。これだけは、私に対する神様の御心である・・・と、確実に知ることができる神様の御心があります。

それは、罪に対する神様の御心です。イエス様が十字架に釘付けられて身を裂き、血を流されたのは、私たちの一生の罪をすべて清算し、私たちの幸福に反する律法を取り除いて、人類が「神様の赦しと愛に浴する」ことができるようにしようとの御心がそこに現れているのです。

それで、私がイエス・キリストの十字架の血潮に拠り頼めば、絶対に罪に定められることがなく、赦しと愛をいただくようになり、義としていただくようになると言う、この事実を私たちははっきりと知らなければならないのです。従って、十字架の血潮を通して私たちが赦しと救いをいただくことは、神様の絶対的な御心であると言う事を知らなければなりません。

そして、世俗に対する神様の御心です。イエス様の十字架の血潮の御力によって世俗と悪魔を追い出し、「天の御国と聖霊さまの聖さ」が人類に臨むようにすることが神様の御心です。人がイエス・キリストの血潮に拠り頼めば、悪魔が追い出され世俗が追い出されて、その人の中に聖霊さまと天の御国が臨み、その人は聖い人生を生きることができるようになるのです。人類にその様にしてあげたい事が神様の揺るがない御心なのです。神様の御心は、人類が聖霊を受けて聖くなり、天の御国が臨んで天国の栄光と天国の力によって生きるようにすることなのです。

また、悲しみと病気に対する神様の御心も余りにも確かです。主が、親しく私たちの痛みを担い、病を負われたことを私たちは良く知っています。皆さん!私たちが悲しみに押さえ付けられ、悲嘆に沈み込むことは、これは神様の御心ではありません。悲しみから解き放たれて、イエス・キリストの喜びで満たされることが神様のまことの御心です。私たちが病気に虐げられ、私たちの人生が朽ち枯れていくことが神様の御心ではないのです。

私たちが健やかであり、闊達に生きて行くことが神様の御心です。神様は、悲しみから解き放たれ、皆さんが病と弱さから癒されることが神様の御心であると確かに仰せられました。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、私たちは動揺してはいけません。私たちは、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神様の御前に堅く立たなければならないのです。

神様の御心は、人類がキリストの喜びを得、神様によって癒されて、健康に生きてくれることです。ですから、この世と妥協することがない信仰を持って、力強く生きて行かなければなりません。そして、私たちは病魔に敵対しなければならないのです。

呪いと貧乏に対する神様の御心も、私たちははっきりと知ることができます。アダムとエバがもたらした呪いと貧乏を、イエス・キリストが親しく背負われました。貧乏もイエス様がその身に負われ、呪いも、十字架に釘付けられることによってその身に負われました。イエス・キリストを通して現われた神様の御心は、余りにも確かです。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』(ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節)と聖書に記されています。誰がこのことを否むことができるでしょうか。余りにも明確な神様の御心なのです。

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(コリント人への手紙 第二 8章 9節)と言われました。この御言葉も、誰が否認することができるでしょうか。天地が消え去っても、一点一画も変わることがない神様の御言葉です。この御言葉の上に、私たちは堅く立たなければなりません。

そして、死と陰府に対する神様の御心も確かです。イエス・キリストがよみがえられることによって、それを通して死と陰府を滅ぼされ、キリストにあって復活と永遠のいのちと天国を人類に与えることが神様の揺らぐことがない御心です。イエス様を救い主として信じることによって、私たちは復活し、死と陰府に勝ち、永遠のいのちと天国を得るようになるのです。これは余りにも確実な神様の御心です。

皆さん!イエス・キリストが十字架の上で身を裂き、血を流して私たちを贖って下さり、死なれてからよみがえられて与えて下さったその御心は、血潮で証印を押して下さったのであり、聖霊で証印を押して下さったのです。これは絶対に変化することがありません。この神様の御心を疑ったら、私たちのすべての信仰の土台は崩れ去ってしまいます。私たちは揺り動くことがない信仰を持って、神様の御言葉の上に立たなければなりません。これが神様の御心なのです。




第二、神の御心を知っても神との交わりが絶たれたら虚しい事です

次に、私たちが神様の御心を確かに知っていても、神様との交わりが絶たれてはなりません。神様の御心をはっきり知っていても、神様と意見が一致せず、交わりが途絶えてはいけないのです。ですから、私たちの生活が神様の喜びとなり、そして神様との交わりがいつも継続される、そのような生活をしなければなりません。そうする為には、神様の「戒め」にいつも自分を映して見なければなりません。

皆さん、神様の「戒め」は鏡と同じです。私たちが鏡をのぞいて見たら、私たちの体に汚れがついてはいないか、髪が乱れてはいないか、衣服がきちんとしているかどうかを知ることができます。私たちは日常の中でいつも「戒め」をのぞいて見ながら、私たちの霊的生活を常に端正に保たなければなりません。

「ヤコブの手紙 1章23節〜25節」に、『みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。』と記されています。

神様の「戒め」は、皆さんと私をさばく為にあるのではなく、皆さんと私が霊的に正しく立っているか、そうでないかを見せてくれる鏡です。ですから皆さん!神様の十戒を記憶しいつも自分を映して見ながら、間違いを直しながら正しく生きてこそ、神様の御心に一致する人生を生きて行くことができるのです。

そして、絶えず祈り、御言葉を口ずさむことを通して、聖霊さまが指示する声に耳を傾けなければなりません。「詩篇 1篇 2節」に、『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』と記されています。御言葉を口ずさみながら、聖霊さまのお導きに従順に聞き従わなければなりません。

私は牧会初年の時期に、聖霊さまの御声に逆らったために随分と苦労しました。聖霊さまは、私が牧会者になって牧会中心に働くことを願われましたが、私は「復興師」になりたいと希望しました。それで、牧会者になることよりも、「ビリー・グラハム先生のような復興師」になろうと思い立って、全国を回りながらイエス・キリストを証しし「復興会」を導こうとしましたが、とても思う通りにいきませんでした。なぜか凄く体調が悪くなったり、どこにも人たちは集まらず、ついに「復興会」は失敗に終わりました。

しかし、牧会は神様が祝福して下さって、数多い人たちが救われ、癒される、神様のみわざが現われました。このように皆さん、牧会をしながらも聖霊さまのお導きに従わず、自分がしたい方向に向かって行き、聖霊さまと相撲をとり、聖霊さまの御心に逆らって苦難に会う実例が数限りなくあります。ですから、私たちは聖霊さまのお導きにいつも従順に聞き従わなければなりません。

また、犯罪や不従順は徹底的に悔い改めなければなりません。罪を犯したり、不従順したことを隠していたら、神様との交わりが途絶えてしまいます。「サムエル記 第一 15章22節〜23節」に、『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』と記されています。

サウルが不従順した時、神様がさばきを下されたのです。それは峻厳なものでありました。しかしダビデは、神様が大いに愛されました。それは、ダビデが神様の御心にかなった人であったからです。「使徒の働き 13章22節」に、『それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」』と記されています。

ですから、私たちが祝福される人生を生きる為には、神様の御心にかなった生活をしなければなりません。そうする為には、私たちはいつも十戒に自分を映して見て、自分の霊的生活を省察※し、聖霊さまの御声に耳を傾け、罪を犯したことと不従順したことを隠さずに悔い改め、告白して、神様に従順に聞き従う人生を生きる時、神様との交わりが途絶えることがないようになり、神様から祝福されるようになるのです。

 ※省察(せいさつ):自分のことをかえりみて考えめぐらすこと。




第三、感謝と讃美の生活態度が必要です

私たちが祝福される人生を暮らす為には、感謝と讃美の生活態度が必要です。皆さん!神様は、喜びがなく、いつも憂鬱である人を嫌われます。神様は、いつも肯定的であり、積極的であり、明朗で、闊達な人を喜ばれます。神様がダビデを愛されたのは、ダビデが明朗な人であったからです。彼はいつも歌を歌いました。また悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、讃美の詩を作って神様に栄光を帰しながら、自分の心の重荷を払い除き、明朗に暮らしました。ダビデは、肯定的で積極的な人でありました。いつも喜び溢れる人でありました。ダビデを、神様は「わたしの心にかなった者」と仰せられました。

神様は、なぜサウルを退けたでしょうか?皆さん、サウルは沈鬱な人でありました。サウルはいつも心が陰鬱で、沈み込んでおり、憎しみと復讐心が誰よりも強い人でありました。それで、後にはサウルの心に悪霊が入り込んで彼を支配しました。それで結局、彼は破滅されてしまったのです。

神様は、私たちに「いつも喜んでいなさい。」と命令なさいました。「テサロニケ人への手紙 第一 5章16節〜18節」に、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』と記されているのです。

神様は、聖徒さんたちの讃美を喜ばれます。神様は感動的な雰囲気がお好きなのです。皆さん!雰囲気が暗く、陰鬱で沈み込んでいては神様がみわざを働かして下さいません。「イスラエルの讃美を住まいとしておられる神様」と言われました。麗しく讃美を捧げ、感動的な雰囲気をつくったら、神様が臨まれます。私たちがなぜ、聖歌隊に讃美を歌わせるのでしょうか。聖歌隊が讃美を歌って、神様がみわざを働かして下さるように雰囲気を醸し出すのです。

聖徒の皆さんが神様の前に礼拝を捧げ、讃美を歌ったら、その讃美が香気となって天に上って行きます。そうしたら、神様が来られてご臨在なさることができる雰囲気を作るのです。神様は、雰囲気を喜ばれ、楽しまれ、受け入れて下さるお方なのです。「詩篇 22篇 3節」に、『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』と記されています。私たちは讃美を歌って、神様が臨んで下さる環境を作らなければなりません。

感謝する人を神様は喜ばれます。人間は余りにも容易く感謝を忘れ去ります。そして不平を呟きます。イスラエルの民たちは、その数多い神様の助けと奇蹟を体験していながらも、目の前に困難なことが起こったら、直ぐに神様を怨み不平をもらしました。昨日まで「有り難い。感謝する。」と騒ぎましたが、今日苦しいことにぶつかったら、昨日までの感謝はきれいに忘れ去って、その場で神様を怨み、不平し、嘆きました。

それで神様がイスラエルに対して怒り、捨てられたのです。「コリント人への手紙 第一 10章10節〜11節」に、『また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』と記されています。

ですから皆さん、怨み、不平、嘆きは、神様の鼻に煙です。神様が凄く怒ります。私たちは、怨みや嘆かわしいことが襲って来ても、却って神様の前に祈り、讃美し、感謝を捧げなければなりません。そうしたら、神様が喜んで訪ねて来て下さるのです。

「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と言われました。神様の救いの御手が欲しかったら、私たちは讃美しなければなりません。私たちが肯定的、積極的、明るく明朗な心で神様に礼拝と讃美を捧げ、神様が行なわれたすべてのことを憶えて感謝を捧げる時、神様はこのような人を喜ばれ、このような人と共にいて下さるのです。




第四、強力な祈りがなければなりません

私たちが神様から祝福していただく人生を生きるためには、強力な祈りがなければなりません。生温い祈りは駄目です。それこそ強力な祈りでなければなりません。確固たる信仰の表示として、強力な祈りを捧げなければならないのです。

「マルコの福音書 11章22節〜24節」に、『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」』と記されています。

「受けたと信じる」程に、強い祈りを捧げなければなりません。強く祈って、目には何のしるしも見えなくても既に受けたと確信することができる、そのような祈りを捧げなければならないのです。皆さん!強力な祈りで悪魔の陣を撃破しなければなりません。悪魔が、私たちを盗み、殺し、滅亡させるために取り囲み、陣を敷いたとしても、強力な祈りは、この悪魔の陣を打ち壊してしまうのです。

「ルカの福音書 18章」にある"やもめ"の喩えには、教わるべきことがたくさんあります。そこに登場する"不正な裁判官"は、神を恐れず、人を人とも思わない、血も涙もない冷酷で非情な人でありました。この裁判官の前に、かわいそうなやもめが'ひっきりなし'にやって来ては、私の相手をさばいて、私を守って下さいと「祈り」(訴え)ました。

その"やもめ"は、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、どうなろうとも「答え」を貰う。答えて貰うまでは絶対に後に退かない、という断固とした決意を持っていました。そして、"やもめ"は強く要求しました。軽く、ちょいちょいと要求したのではありません。"やもめ"は大声を上げて泣きながら、呼ばわり、喉が嗄れるほどに喚きながら続けて要求しました。朝も昼も夜も、休みなく強く求めました。

その"やもめ"は、強力な忍耐力をもって続けて縋りました。すると、遂に不正な裁判官も両手を上げてしまいました。「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」(ルカ 18章 4節〜5節)

皆さん!「エレミヤ書 33章 3節」を見ますと、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されています。ここで「呼べ」と言う事は、「強力な祈り」を指すのです。生温く、中途半端な、そのような「祈り」を言うのではありません。断固とした決意をもって強力に、休みなく祈り求めることを言うのです。そうする時、敵の壁が崩れ去り、神様の応答が私たちに与えられるのです。

新年には、神様と同行し、神様から祝福される人生を生きる為に、神様の御心を確かに悟り、すべての罪と不従順を悔い改め、讃美と感謝する生活態度を保ち、熱く強力な祈りを、休みなく継続して捧げましょう。そうする時、神様の栄光が今年一年中、皆さんの人生に充満に注がれる事と信じます。

「エレミヤ書 29章11節〜14節」の御言葉を、もう一度奉読しながら記憶するようにしましょう。『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。・・主の御告げ。・・わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」』

このような神様の奇蹟が、皆さんの人生の中に成就されますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、栄光であられる、我らの天のお父さま!新年には、私たちが栄光の中で神様と同行しながら生きるために、イエス・キリストにあって父なる神様の御心を確かに悟ることができるように助けて下さい。揺るぐ事がなく、主の御心の上に立つことができるように助けて下さい。

すべての犯した罪と、不従順した事を徹底的に悔い改めることができるように導いて下さい。そして、私たちの生活態度が神様への讃美と感謝に満ち、肯定的、積極的で、いつも明るく明朗に生活するするように助けて下さい。

それから、強力な祈り、休みなく熱く継続して捧げる祈りを通して、悪魔の陣を打ち破り、延いては神様が同行して下さることによって、私たちがたましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康で、そしていのちを豊かに得る、驚くほどに祝福された新年を生きるようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!