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「悪魔の武器「欲」」
 






■聖書箇所

「ヤコブの手紙 1章14節〜16節」
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。




今日、私は皆さんと一緒に『悪魔の先端武器「欲」』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

去年一年間も、我が国では数多い名士たちが大・小の「欲」の故に羞恥と侮辱の目に会いました。「欲」は、悪魔の先端武器です。一旦、「欲の釣り針」に引っ掛かったら悪魔の意のままに引きずり回されて、遂には破滅に至るようになります。なぜかと言えば、「欲」は正常的な方法では決して達成する事が出来ないからです。「欲」を成就するためには、違法を強行し、法を犯さなければなりません。

罪から来る報酬は死です。聖書には、『欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブの手紙 1章15節)と警告しています。ですから私たちは、私たちの日常生活の中に大・小の「欲」がどんなに恐ろしい破壊をもたらすかを心の中に深く悟り、知らなければなりません。




第一、「欲」によって人類の悲劇を招いたアダム

第1番目に、人類の悲劇であるアダムの堕落も、単純に欲の故でした。アダムには、神様から与えられた「分際と限度」がありました。私たち人類各々に「分際と限度」を与えられたのと同じく、神様はアダムにも確かな「分際と限度」を与えられました。

神様が、アダムにすべての生き物を支配する権利を与えられたので、アダムを見たらすべての生き物たちがアダムに服従しました。また、神様がアダムに「地を従えよ。」と仰せられ、アダムが科学的な頭脳をもってすべての地を征服することができる能力を与えられました。そして、「生み、ふえ、地を満たす」ことによって、子孫をたくさん養育することができるようになさいました。

それから、主である神様はアダムをエデンの園に置かれ、そこを耕し、またそこを守らせたので、アダムは主が与えて下さった美しいエデンを、良く管理しなければならず、立派に保存しなければならない責任がありました。しかし、アダムには限界点がありました。神様は、神様の主権を象徴する「園の中央にある善悪の知識の木」からは、取って食べてはならない。それを取って食べたら必ず死ぬ、と言われました。

聖書「創世記 2章15節〜17節」に、『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』と記されています。

ところが、悪魔が来て誘惑します。悪魔はエバの心に、不満と欲を起こさせます。悪魔は狡猾に切り出しました。「園には、見るからに好ましく食べるのに良いたくさんの木の実があり、あなたがたは美しく素晴らしい環境の中で暮らしています。ところが神様が、本当に園の中のどの木からも取って食べるな、と言わたのですか・・・?」いつ、神様がどの木からも取って食べるな、と言われたでしょうか。心が否定的になれば、不平を言うようになるのです。

「創世記 3章 3節」を見ますと、『しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」』と、エバは蛇に答えています。皆さん、私たちが悪魔の試みに会うときには、神様の御言葉を適当に解釈してはなりません。神様が言われたその通りに解釈しなければならないのです。

神様が、園の中央にある木の実について「触れてもいけない。死ぬといけないからだ。」とは言われませんでした。『取って食べるその時、必ず死ぬ。』と言われたのです。ところが、悪魔がエバを誘惑した焦点は、まさに神様が与えられた「分際と限度」を無視せよ、と言うことでありました。神様が与えられた「分際と限度」見たいなものは必要ない。無視して飛び越えなさい。その囲いから飛び出しなさい、と言うことであったのです。

「創世記 3章 4節〜5節」にある御言葉を見ましょう。『そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』ここで、狡猾な蛇は、エバに「欲」を注ぎ込みました。「絶対に死なない。それを取って食べたら、あなたがたも善悪を決定す主権者になれる。神様だけが主権者でなければならない、と言う理屈がどこにありますか・・・!」

「・・・神様は、あなたがたが主権者になれないようにする為に、善悪を知る木の実を取って食べてはならない、と言ったのだ。判ったか。神様が自分一人だけ主権者になって、あなたたちは主権者になれないようにと図ったのだ・・・。」これを聞くや、エバの心に不平が生じました。神様だけが主権者になる・・・、私たちは主権者になってはならない・・・、そんな不公平がどこにある・・・?

神様がすべてのものを与えて下さったことに対する感謝を、瞬間エバは忘れました。不平が生じ、その次には「自分たちも主権者にならなければ・・・。」と、心に欲が生じました。エバは「分際と限度」を飛び越えたい衝動にかられました。それで、エバは手を伸ばして善悪の木の実を取って食べ、夫にも与えたので夫も食べました。彼等は「分際と限度」を飛び越えて罪を犯してしまいました。

「ローマ人への手紙 5章12節」に、『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。』と記されています。アダムとエバが、「欲」の故に神様に罪を犯して死に至ったので、その死が子孫たちにも伝達されて、全人類がみな、霊的に死んだ状態で生まれるようになってしまったのです。ですから、私たち人類の祖先が堕落した唯一の理由が、心に「欲」が生じたからなのであります。




第二、「欲」の故に破滅された旧約の代表的人物

第2番目に、私たちは「欲」の故に破滅された旧約の代表的人物たちのことを考えて見なければならないと思います。イスラエルの初代の王にサウルと言う人物がいました。サウル王は、神様が特別に選んで初代の王に立てた人でありました。神様はいつでも、罪人や王に選んだ人の「分際と限度」を必ず定められます。

サウルには、王としての尊敬と栄華を享受することができるように、神様が地位(分際)を与えられました。サウルは、イスラエルの軍隊を率いて戦場に出たら、戦争に勝ち、国を守る能力も与えられていました。

「サムエル記 第一 14章47節〜48節」に、『サウルは、イスラエルの王位を取ってから、周囲のすべての敵と戦った。すなわち、モアブ、アモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを懲らしめた。彼は勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。』と記されています。

それでサウル王は、相当な能力の持ち主であり、戦争に強い王でありました。すべての敵軍と戦ってイスラエルが勝つようにすることができる、そのような能力を神様はサウル王に与えられました。また、民たちを安らかに、そして豊かに暮らすことができるようにする政治力を神様はサウル王に与えられました。

しかし、彼には限界点がありました。絶対に神様に服従せよ、と言う厳しい命令です。これがサウルの限度です。王として、ほかのすべては享受することができましたが、神様の命令に不服従してはなりません。神様はサウル、に命令に服従しなければならないと言う限度を与えられました。

神様がサムエルを通して、サウルに"アマレクを打って、その民たちも、彼等の家畜もすべて聖絶せよ。"と命令を下しました。「サムエル記 第一 15章 2節〜3節」に、『万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」』と記されています。

アマレクを、民だけでなく彼等の動物も家畜までもすべて聖絶せよと神様が命令なさいました。それでサウルは大軍を率いてアマレクの町に行き、彼等と戦って大勝利を得ました。アマレクを、こちらから向こうの方まで打ちました。ところが、彼に悪魔の「欲」が入って来ました。

戦争に立派に勝ったのだから、自分の偉大な名誉を誇ろう、と思うようになりました。そして、皆殺しにしたら名誉を誇ることができないと考えて、アマレクの王アガグを生捕りにしました。カルメルに来ては自分のために記念碑を立てて、自分の功績を自ら高揚し褒め称えました。

その次には、肥えた羊や牛を殺して棄てるには惜しかったので、"これらをすべて殺す必要があるか?"生きたままで引張って行くことにしました。彼の心の中に起こった小さな「欲」が、神様の命令に逆らわせました。サウルには神様の命令は必ず守らなければならないと言う限度が与えられていたのですが、それを飛び越えました。自分勝手にアガグ王を殺さず、自分のために名誉の記念碑を立て、その次には聖絶しなければならない家畜の群れを、"肥えた羊、最も良い牛"と言う理由をつけて、「欲」がさせるままに生きたままで引いて来ました。

これが、「欲」によって彼が破綻に至った原因でありました。「サムエル記 第一 15章17節〜19節」の御言葉です。『サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」』

そう言われた時、サウル王はサムエルの前で弁明をしました。悔い改め、痛く悔いながら自白して主の下に立ち返らずに、自分の行為を妥当化しました。サウルは言い張りました。「私はアマレクの王アガグを生捕りにして引張って来ました。アマレク人たちを聖絶しましたが、部下たちが肥えた羊や良い牛などは惜しんだので、それらを引いて来ました。それらは、主に生け贄として捧げるためです・・・。」

これを聞いたサムエルが言いました。「サムエル記 第一 15章22節〜23節」に記録されている御言葉です。『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』

また、「サムエル記 第一 15章11節」に、『「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。』と記されています。

皆さん!小さな「欲」が神様に背を向け、神様の命令を踏み躙らせました。それと同時に、自分の限度を飛び越えるようにしてしまったのです。神様が人たち各々に量りに応じて信仰を与えて下さいました。私たちはみな、自分の分際を弁えながら暮らさなければなりません。自分の分際を弁えずに、それを飛び越えて「欲」を張ったら必ず法を犯すようになり、その結果、死を招くようになるのです。




第三、「欲」で破滅された新約の代表的人物

「欲」によって破滅された新約時代の代表的人物を見ましょう。それは、イエス様の12弟子の中のイスカリオテ・ユダです。彼は、自分の確かな「分際と限度」を知らなければなりませんでした。彼はイエス様の弟子として召され、全天下に出て行って福音を証しすべき使命者であること、また、将来イスラエルの12部族を支配する栄光の場に入って行くことを知らなければなりませんでした。

しかし彼の限度は、イエス様に絶対に服従し、献身し、仕えなければならないことでありました。ところが、彼の心にサタンが入って来ました。イエス様が、エルサレムに上って行って十字架に釘付けられ、死ななければならないと言われるや、彼は心の中に激しい反発を覚えました。イエス様が直ぐに王とならずに、十字架に架けられて死なれると言うことを聞くや、彼の夢と希望は霧散してしまい、抑えきれない憤怒が起こりました。

彼が抱いていた夢と希望は、個人的「欲」でありました。イエス様がエルサレムに上って行って王様になられたら、彼は高官に重用されて裕福な暮らしをしたいという、そのような「欲」を持っておりました。ところが、イエス様がエルサレムに行って王様にならず、死なれ、葬られてから、よみがえられ、天に昇り、その後に、この世に降臨なさると言われるて、彼は凄く失望し、激しい怒りが沸き起こりました。

イスカリオテ・ユダは、心の中に自分の「欲」が成就されないことを知りました。その瞬間、彼の心には自分の「欲」を踏み躙ったイエス様に対する憎悪が生じ、復讐心が燃え上がりました。そして、イエス様を売ってお金にしようと言う「欲」が頭をもたげました。

それで、「ヨハネの福音書 13章 2節」に、『・・・悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、・・・』と記されています。「欲」が生じるや、悪魔が入って来ました。「欲」が生じなかったら、悪魔が入って来ることはありません。遂にイスカリオテ・ユダは悪魔の奴隷になって、イエス様を銀貨30枚で売り、後には良心の呵責によって自ら首をつって死に、はらわだが全部飛び出すまでにあえない最期を遂げたのです。

イスカリオテ・ユダは「師」に背き、不正なことをして得た報酬を神殿に投げ込んで立ち去り、遂には首をつって自殺しましたが、まっさかさまに落ちて体は真っ二つに裂け、腸(はらわた)が全部飛び出してしまったと、聖書に記録されています。皆さん!イスカリオテ.ユダは、イエス様が愛された12弟子の中でも重んじられた弟子です。それにも拘らず彼の心の中に「欲」が入るや、その欲が「師」であるイエス・キリストを売り、自分は破滅の道に引張られて行ってしまいました。




第四、イエス様を誘惑した悪魔

次には、イエス様を誘惑した悪魔をご覧下さい。イエス様が荒野に行かれて、四十日四十夜断食した後なので空腹を覚えておられました。その時、悪魔が来てイエス様を試みました。「マタイの福音書 4章 3節〜4節」に、『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と記録されています。

悪魔がイエス様に、まず腹を満たしなさい、と誘惑しました。「花より団子」という諺もあります。この世の正義も良し、正直も良い。しかし、まず腹から満たしなさい。貴方の「欲」をまず満たしてから、何をするにしてもしなさい・・・と誘惑したのです。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と、イエス様は断固として言われました。悪魔がイエス様を誘惑しましたが、イエス様には「欲」がありません。悪魔が、イエス様の中に足を踏み入れることができませんでした。「欲」がないのに、悪魔が足を踏み入れることができるでしょうか。

すると、悪魔は目の欲を通してイエス様を誘惑しました。イエス様にこの世のすべての栄華を見せながら、こう言いました。「マタイの福音書 4章 5節〜7節」に、『すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」』と記されています。

名誉を得るために来たのではないか。神の子としてすべての人たちから尊敬され、名誉を得るためには、すべての人たちが礼拝を捧げている神殿の頂きから飛び下りなさい。そうしたら、神の御使いたちが来てあなたの足をその手で支えてくれるでしょう。あなたは軽く地上に下り立つことができます。それを見たすべての人たちが拍手喝采を送り、あなたを尊敬し、あなたに仕えるようになるでしょう。今日、あなたは神の奇蹟とその力量を利用して、あなたの名誉を獲得しなさい・・・。

言い換えれば、神の子としての身分を利用して名誉を得なさい・・・と、「欲」を注入しました。しかし、イエス様は『「あなたの神である主を試みてはならない。」と書いてある。』と、一言の下にその誘惑を退けられました。自分の地位や権威等で「欲を満たすようにする」のは、悪魔が注入した「欲」です。イエス様はその「欲」を受け入れず、断固として退けられたので、悪魔はイエス様を試みることができませんでした。

すると最後には、悪魔は万国の栄華をもってイエス様を誘惑しました。「マタイの福音書 4章 8節〜10節」に、『今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」』と記されています。

悪魔は、イエス様にすべての国々の栄華を見せました。その富貴と栄華と権威・・・スターリン、毛沢東、金日成・・・このような人たちが享受したその主権と権勢を見せて上げながら、「あなたもひれ伏して私を拝んだら、このような政治的絶対権力を上げましょう。」と誘惑したのです。

しかしイエス様の心の中には、政治的権力を不法的にでも得たい、と言った「欲」が全くありませんでした。それでイエス様は、『「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」』と、断固として言われました。権力を得るために悪魔にひれ伏して拝み、手段方法を選ばない、そのような行動はしないとして、イエス様が権力欲も受け入れないので、悪魔はどうしようもなく、離れて行きました。

イエス様は徹底して、ご自分の分際と限度を守られました。悪魔の誘惑に乗らず、悪魔が注入する「欲」を受け入れるようなことをなさいませんでした。「ヨハネの手紙 第一 2章16節〜17節」に、『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』と記されています。

また、「ピリピ人への手紙 2章 7節〜8節」に、『ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記されています。

皆さん!私たちがこの世を生きて行く中でもっとも警戒しなければならないことが、まさに「欲」なのです。「欲」が私たちの中に入って来たら、私たちは破滅の道を歩いて行くようになります。私たちは、神様が私たちに分け与えて下さった信仰の量りに応じて生きて行かなければなりません。この分際を弁えずに「欲」を張るようになる時、悪魔の釣り針に引っ掛かるようになるのです。

私たちの周囲には、いつも悪魔の誘惑が満ちています。悪魔は私たちの周囲を鳥のように絶えず翔けまわっているのです。私たちは、「欲」の手を差し伸ばしたら破滅されますが、「欲」を張らなかったら、いくら誘惑が私たちの周囲を取り巻いていても、それはまた、鳥のように通り過ぎてしまうのです。

私は幼い時に、雉(きじ)狩りをしました。当時は蛋白質を得る道がなかったので、雉狩りをしてその肉を食べました。豆に錐で穴をあけてその中に砒素を入れ、飯粒でその穴を塗り隠してから、雪が降る日、雉が山からよく下りて来る畑にその豆を蒔いておきます。そうしてから、私たちは離れたところに隠れて、外套を頭まで被って待ちます。ところが、雉たちが来てその豆を見たらすぐに、嘴で啄ばんで食べるだろうと思われますが、雉は知恵深くて、そうは簡単に食べてくれません。

普通の豆であったら、雉たちは直ぐに啄ばんでしまうでしょう。ところが雉たちはやって来て、その豆を見て列をなして通り過ぎます。しかし誘惑に引かれて、戻って来ては、見つめ、また戻って来てはちょっと眺めてからは通り過ぎます。ところが、私がじーっと見ていると、雌は首を左右にふりながら通り過ぎて行きます。雄が啄ばもうとしたら、雌が「食べるな!」とからだでしきりに押しのけます。

しかし雄の雉は、結局は誘惑に勝てずに、あっちこっちにあるその豆をすばやく啄ばんで飲み込みます。暫くしてその雄の雉は、奇妙な声を出しながらそのまま倒れます。これが誘惑です。雌の雉は誘惑に勝って食べませんが、雄の雉は誘惑を振り切れずに食べます。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。

ですから、私たちがもっとも警戒しなければならないのは「欲」です。誘惑は、いつも私たちの周囲から離れません。悪魔が私たちを取り囲んでいるのです。私たちが心の中でいつも、自分の分際を弁え、限度を守りながら欲張らずに暮らしたら、私たちは誘惑に溺れることがなく、破綻に追い込まれることもありません。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様!この世を暮らす間、私たちに誘惑は数限りなく襲って参ります。「一攫千金をすることができる」と言う誘惑があり、「名誉と地位を得ることができる」と言う誘惑もあります。誘惑はそれだけでしょうか。天のお父さま!私たちが自分の分際を弁えずに「欲」を出したら、直ぐに誘惑が襲って来て私たちを引張って行き、破滅に落とし入れてしまいます。

全知全能であられる、父なる神様!アダムとエバのように言い尽くせない素晴らしい楽園に居ても、彼らに誘惑は近づいて来て、その心に「欲」が生じるや、彼らは悪魔の釣り針に引張られて行って破滅されてしまいました。全能なる我が神様!私たちがいつも否定的に考えず、心の中で嘆くことをせず、自分の分際を弁え、正直、誠実、勤勉、忠実に人生を暮らして、悪魔の誘惑に陥り破滅されることがないように助けて下さい。

いつも主に拠りョみ、主だけを待ち望みながら暮らす私たちとなるように助けて下さい。夢は持っても、「欲」は持たないようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!