教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「主にあって会う苦難」
 






■聖書箇所

「ヤコブの手紙 5章13節」
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。




今日、私は皆さんと共に『主にあって会う苦難』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人たちは、一般的に「イエスを信じたら、どのような苦難にも会う事はない。」と考えます。理由は「全知、全能、遍在の神が顧みて下さるのに、何故、苦難に会うのか。」というのです。

しかし、そのような考えとは違って、イエスを信じる人たちも大小を問わずに現実的に苦難に会っています。そうした時には、苦難に会う当事者も、それを見ている第3者も、同時に大きく当惑し慌てるようになります。「何故、イエスを信じる人が苦難に会うのか・・・?」

私は今日、主を信じない人たちの苦難に関してではなく、主にあって会う苦難に関して御言葉を分かち合いたいと思います。




第一、神の再三の警告を無視する時(愛の鞭)

「何故、イエスを信じる人が苦難に会うのか?」それは、繰り返される神様の警告があるのにも拘らず、神の御心を無視して罪を犯す時、神が愛の鞭で打つのです。

皆さん!聖書に記されている「ヨナ」の苦難は、不従順の故に会った苦難であることを私たちは良く知っています。

神様は、ヨナに『敵国アシュルの首都ニネベに行って、彼らを悔い改めさせよ。もしも悔い改めなかったら、もう四十日するとニネベは滅ぼされる、と叫べ。』と命令しました。ところがヨナは、"ニネベは滅ぼされる"と言われたことに、心から喜び、嬉しくなりました。「ニネベが悔い改めたら、神様の審きを受けないようになるから、ニネベに行って'伝道する'ことはやめよう!」と決心しました。

それで、ヨナは神様の命令に従わずに、ニネベとは反対側にあるタルシシュへ逃れようとして、タルシシュ行きの船に乗りました。その船が大海を渡っている時、神様が大風を海に吹きつけたのでヨナはひどい苦難に会うようになりました。彼が神様に逆らって逃げている人だと知るや、水夫たちがヨナを海に投げ込み、ヨナは大きな魚に飲み込まれて三日三晩を無数の苦しみに会ったあげくに砕かれて悔い改め、魚の腹の中で神に呼ばわり祈ったので、神が魚に命じられ、魚がヨナを陸地に吐き出してくれることによって、ヨナには第2の機会が与えられるようになりました。

このように、神様の繰り返しの警告にも拘らず継続して罪を犯す時、神様は苦難の鞭を振り上げて打つのです。神様は、憎い人は打ちません。愛する者だけを打つのです。「ヨハネの黙示録 3章19節」に、『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。』と命令しておられるのです。神は愛さない者は捨て置かれます。しかし愛する者は鞭で打って悔い改めさせ、変化させて神様に従順に聞き従うようになさるのです。

人たちは生活して行く中で、「私がこれ位の罪を犯すのは、神様も見逃して下さるだろう。」と考えながら、少しずつ、少しずつ、神様の御心に逆らうことを行なう時が稀ではありません。聖日も時には守らず、十分の一も盗んでみる、祈りも短くちょっとだけ捧げる・・・等しながら、「こうしても、神様が私を打たれはしないだろう。」と思っているところを、神から手痛く打たれる時があります。その時、私たちは大いに悔い改めて主の下に立ち返るようになるのです。

もしも神様が鞭で打たれなかったら、悔い改めることをしないでしょう。私たちは、鞭で打たれてからはじめて悔い改め、主に立ち返る変化が起こるようになるのです。それで、繰り返される神様の警告を無視する時、神様は愛の鞭で、また苦難の鞭で打たれるのです。




第二、変化された人に造りあげる為に

神は、変化された人に造りあげる為に苦難を体験するようになさるのです。彫刻家は、自分が望む作品を作り上げる為に、選んだ石を前にして鑿(のみ)で彫り刻みます。神様は、私たちの生の中にイエス様の形象が成されることを願われます。そのまま捨て置いては、イエス様の形象は成されません。私たちの中にイエス様の形象が成されるようにする為に、神様は苦難の鑿を持って私たちを彫り刻むのです。私たちが苦難に会い、この世のものが離れ去ってこそ、聖霊によって私たちの中にイエス・キリストの形象が成されるようになるのです。

「コロサイ人への手紙 3章 9節〜10節」に、『互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』と記されています。古い人は、ただでは脱ぎ捨てられるものではありません。苦難を通して、神様が鑿で彫り刻んで下さってこそ古い人を脱ぎ捨てることができ、新しい人を着るようになるのです。

陶器師が気に入った器を作る為にまず泥土を選び、それに色々と手を加えて粘土にします。手当たり次第にどんな土でも器が作れるものではありません。陶器師が思う通りの器を製作する為には、選んだ泥土を粉砕し、足で踏み、槌で打ち下ろす・・・等しながら、粘土にしてから器を作るのです。

「イザヤ書 64章 8節」に、『しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。』と記録されています。私たちの主が、皆さんを父の御心通りに、父が願われる人に造るためには、皆さんを変化させなければなりません。そうする為には、私たちの強情、人格的歪み、不従順する心、世俗的なかたまり等、これらをすべて打ち砕き、踏み潰し、粉砕して、完全に主に聞き従う人にしてから、神様の御手で願う通りの器に造られるのです。

このように、神が願われる器を造る前にまず苦難に会って私たちが砕かれなければなりません。ですから、私たちに色々な苦難が近づいて来る時には、その苦難が神の御手によるものであると言う事を悟って苦難を迎え入れ、私たちは神の前に砕かれなければならないのです。

それだけではありません。麦と殻と乾草を選り分ける為にも、苦難に会わなければなりません。昔、田舎の脱穀場では、麦を叩き落すために穀物の束を庭に広げておいて、麦打作業をしました。原始的な方法で麦を叩き落すために麦打作業をしたのです。「マタイの福音書 3章12節」に、『手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。』と記されています。

苦難の麦打で叩いたら、殻はみな飛び去ってしまいます。麦だけが残るのです。そのままであったら、麦と殻が混じっていて、どれが麦であり、どれが殻なのか分りません。苦難を通り過ぎたら、麦は麦として残り、殻と乾草は殻と乾草として分離されるのです。

去年12月17日、ABC放送が報道した内容によりますと、「エリサベツ・マレン」という18歳の少女は、家もなく道端をさ迷っていた乞食でありましたが、堂々とハーバード大学の学生になったと言います。麻薬中毒者である父母から生まれ、15年間も家がないまま、道端で暮らしました。父母は娘の外套と衣服を脱がせて売り、それで麻薬を買って打ったと言います。10歳の時から娘は物乞いをしたり労働をして、却って父母を食べさせたと言います。

ところが、母がエイズで死亡しました。少女は父母のようには生きたくないと、堅く決心して公立高等学校に入学、恐ろしいほど熱心に勉強しました。彼女は一般学生が要する時間の半分位を費やして卒業しました。その間彼女は勉強部屋がないので、会社の階段にすわって、又は知らない人の家の軒下にすわって、雨に打たれながら勉強しました。そうしながら彼女は、「たとえ私が、貧乏で落ちぶれた家に生まれて乞食になり、今は道端をさ迷っているけれども、私もハーバード大学に入って勉強し、有能な人になってみせる・・・!」と、堅く堅く決心しました。

ついに彼女は、ハーバード大学に入学しました。そして彼女にはニューヨーク・タイムズから奨学金を貰うようになりました。この事実が新聞に報道されました。そうするや、読者たちが感動して20万ドルの奨学金を集めてくれました。

彼女は、どんな時にも父母を怨むことをせず、自分に強靭につきまとう苦痛、不幸な環境も怨んだりはしませんでした。彼女は、「苦しい過去は、今日の私が在るようにしてくれた栄養になってくれました。」と言いました。また、「私が苦しい目に会わなかったら、ほかの少女たちと同じくこの世に酔って暮らしたでしょう。余りにも強靭な苦しみのお陰で、この苦しみを克服して私も立派な人になってみせる・・・という堅い決心をするようになり、こんにち、ハーバード大学生になれました。」と語りました。

皆さん!苦難が襲ってきたら、「殻や乾草」のような人生は吹っ飛んで行ってしまうのです。しかし、「麦」は残ります。ですから、苦難が必ず私たちを破滅に至るようにするのではありません。苦難は、殻と乾草を取り除いて純粋な麦にし、その純粋な麦が祝福をいただくことができるようにする神様のみわざによるものなのです。




第三、香ばしい人に造りあげる為に

香ばしい人に造りあげる為に、苦難が必ず必要なのです。ぶとうは、ぶとうの房を足で踏み潰してこそ、その中から甘い汁が出てきます。ぶとうが、いくら大きくみずみずしく実っていても、そのままにして置いては甘い汁が出てきません。昔は、ぶとう酒をつくる人たちがぶとう畑からぶとうを取って来てはきれいに洗い、それを大きな桶に入れて踏みました。そうしたらぶとうが潰れて、その汁が桶にいっぱいになります。足で踏んで潰さなければなりません。そうしてこそ、甘く香ばしいぶとうの液が出て来るのです。

オリーブ油は、オリーブの実を搗き砕いてこそ、そこから香ばしい油が出て来るのです。苦難と言う試練を通して、聖徒は成熟するようになり、砕かれて、献身する神の人になります。苦難に会わなければ、人には深みがありません。砕かれて献身し、成熟した理解心の多い、そのような人になりません。ひとえに苦難を通してだけ、人は古い皮を脱ぎ捨てて変化され、深みがあり、理解力が強い成熟した人に新しく生まれるようになるのです。

「詩篇 119篇67節と71節」を見ますと、『苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。/苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』と記されています。苦難に会う前には、神の御言葉も守らず、神のおきても学ばなかったが、苦難に会うや、砕かれ悔い改めて従順に聞き従うようになって、神の人に変化されたことを見る事ができるのです。

皆さん、「ヨセフ」をご覧下さい。ヨセフは17歳の時、父ヤコブから偏愛されて思い上がり、強情で、高慢な人でありました。それで兄弟たちから憎まれました。しかし、神はヨセフを変化させてご使用なさる為に、彼を安らかで平穏な道に歩ませはしませんでした。ヨセフは兄さんたちに売られてエジプトに連れて行かれ、ポティファルに買われて、その家で10年間も甚だ酷い奴隷生活をしました。その当時の奴隷たちは、動物と全く同じ待遇を受けました。

父親から兄弟たちの誰よりも愛され、袖付きの長服を着て生意気に暮らした彼が、奴隷になって殴られ蹴られる動物扱いをされ、苛酷な労働に喘ぎながら砕かれずにはおられませんでした。それから、ポティファルの妻から濡れ衣を着せられて、王の囚人が監禁されている監獄に入れられ、いつ釈放されるかも知らない長い時間をそこで過ごしました。

そうする間にヨセフは、「昔のヨセフ」をみな脱ぎ捨てました。彼の過去の咎はすべて脱ぎ去られました。ヨセフは、踏み躙られ散々に砕かれて、成熟した人に変化されていきました。彼が、年30歳になった時、パロ王の呼び出しにあって監獄から出されました。そして、エジプトの総理大臣になりました。

ヨセフがエジプトの総理大臣になるまで、神はその間、ヨセフを平凡で安穏な生活をするようになさったのではありません。酷い試練と甚だしい苦難を通してヨセフの人格が変化され、エジプトの総理大臣になれるほどの資質を得るようにした後に、彼を総理大臣になるようにしたのです。

「創世記 50章15節〜21節」に、『ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』と記されています。

ヨセフは、素晴らしい理解と同情と愛が溢れる、成熟した人格者になっていたのです。恐らく昔のヨセフであったら、「憶えているか?昔、僕を売り飛ばしただろ。よくも目の前に現われたな。味をみせてやる。僕が10余年間も、殴られ、打たれ、飢え、どんなに苦しい目に遭ったか、奴隷の生活がどういうものか、思い知らせてやる…。今になって、僕が総理大臣になったとして、僕の下で生き長らえたい…?糞食らえ。苦しみがどんなものか、味わってみろ…。」と言ったかも知れません。

そう言ったとしても、ヨセフを悪いと言う人はいないでしょう。しかしヨセフは、却って、兄さんたちが恐れながらひれ伏して哀願する時、涙を流し熱い兄弟愛を見せながら、優しく彼等を慰めました。「あなたたちが私を売り飛ばしましたが、神様はそれを変化させて、こんにち、エジプトの総理大臣になるようになさいました。恐れないで下さい!」このように、ヨセフが兄たちを慰める柔和で成熟した人格を持つようになったのは、ヨセフが苦難の学校を卒業したからなのです。




第四、信仰の人に造りあげる為に

信仰の人に造りあげられる為には、苦難は私たちに絶対必要なのです。すべてに幸いを得、平安である時には、人たちが祈りや信仰に関して関心を持ちません。イエス様の弟子たちが、イエス様と一緒にガリラヤの湖を船に乗って渡って行く時、風がなく、波も穏やかであった時には、彼らはイエス様と話し合おうとしませんでした。イエス様をおひとりのままに捨て置きました。それでイエス様は眠られました。

イエス様が眠っておられるのも知らずに、弟子たちは自分たち同士で話の花を咲かせておりました。ところが、激しい突風が起こり、波をかぶって船が水で満たされ、沈没するようになるや、彼らははじめてイエス様をさがしました。そして「先生。私たちが溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか?」と叫びながら、イエス様を眠りから覚ましました。

すると、イエス様が起き上がって、風を叱りつけ、湖に『黙れ、鎮まれ。』と命じられて、風は止み、大なぎになりました。静かで安らかである時には、イエス様をさがしません。暴風が吹き捲り波をかぶるや、はじめてイエス様をさがしたのです。

 皆さん!イスラエルの民たちがエジプトから出て来た時、神様が彼らを険しい荒野を通るようになさったのは、彼らに祈りと信仰を教える為でありました。平安な中で1週間内にエジプトからカナンの地に彼らを移してしまったら、彼らは神に祈ることもせず、生きて居られる神のそのみわざも見ることができなかったでしょう。

イスラエルの民たちが紅海のほとりまで来た時、前は大海、後からはエジプトの大軍勢が追跡して押し寄せて来ました。死に追い込まれたも同様な中で、モーセが祈りました。すると、神様がその祈りに答えてくださって、紅海の海水を分けてくださいました。イスラエルの民たちも危機に瀕した時はじめて神様に叫び祈り助けを求めたところ、神様の力の御手の現われを体験することができたのです。彼らが死に追い込まれる苦難に遭わなかったら、彼らは神に祈りもせず、神を信じもせず、神の力あるみわざが現われて紅海が分かれる奇蹟を体験することもなかったでしょう。

イスラエルの民たちが荒野へ出て、三日間も荒野を歩いて行きましたが飲む水がないので、喉が渇き死にそうになりました。ようやく水を発見しましたが、その水は苦くて飲むことができない池の水でありました。イスラエルの民たちが見る前でモーセがひれ伏して神に叫び祈るや、神が一本の木を示されたので、それをモーセが苦い池の水に投げ入れました。すると、水が甘くなりました。ここでも、イスラエルの民たちは苦難が襲って来てからはじめて祈り、そうする時、神様の力の御手が現われることを彼らは教訓として教わりました。

モーセが祈って信じた時、天からマナが降って来て食糧となり、鶉(うずら)が飛んで来て食肉となってくれるのをイスラエルの民たちは見ました。この苦難の学校を通して神様はイスラエルの民たちに、苦しい目に遭った時に砕かれ、悔い改めて、祈り、信じたら、神様がその力の御手をほどこして助けてくださると言う教育をさせてくださったのです。

「申命記 8章 3節と16節」に、『それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 / あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』と記されています。

ですから神様は、人を苦しみを通してへりくだらせ、悟るようになさり、そうしてから神様の祝福をいただける道を教えて下さるのです。人は苦難を通してこそ、はじめて祈りの必要を知って祈るようになり、信仰をあつくするようになるのです。

過去の歴史を見ますと、数多い偉大な勇士たちは苦難を通して祈るようになり、信仰をもって難関を克服しました。イギリスの文学者であり牧師であった「ジョン・バニヤン」の奥さんは病弱な人でありました。それで子供を残して夫に先立って天に召されました。ところが、長女は目が見えない'めくら'でありました。「ジョン・バニヤン」が福音を宣べ伝える途中にイギリスの王室に捕えられて監獄に閉じ込められました。

彼の子供たちには母親もなく、父親は監獄におり、長女はめくらで、誰も顧みてくれる人がいません。「ジョン・バニヤン」は監獄の中で泣き叫び、祈り、呼ばわりました。その時、彼は神の御声を聞きました。『わたしの恵みは、あなたに十分である。』そして、彼が書いた本が「天路歴程」です。彼がもしも、監獄に閉じ込められなかったら、名作であり、聖書の次ぎにもっともたくさん読まれる「天路歴程」という本を書くことはできなかったでしょう。

皆さん!使徒パウロは主に聞き従うようになってから、彼の人生の殆どを監獄の中で暮らしました。その当時としては、使徒パウロが監獄に入っているのが如何に大きな損失であったか知りませんでしたが、パウロ先生が監獄に入れられていたので、所詮牧会は書信でするしかありません。それで熱心に手紙を書いたのが、ローマ人への手紙、コリント人への手紙 第一、第二、ガラテヤ人への手紙、テサロニケ人への手紙 第一、第二、テモテへの手紙 第一、第二、テトスへの手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙・・・等々、こんにち私たちに珠玉のような神の真理と啓示の御言葉を伝えてくれているのです。

もしも、パウロ先生が監獄に閉じ込められる苦難に遭わなかったとしたら、このように私たちに形容することができない貴重な御言葉を記録して伝えてくれることは出来なかったはずです。ですから、苦難は必ず私たちに損害となるのではありません。苦難は神にあって私たちに大いなる有益をもたらすのです。

「ヤコブの手紙 5章13節」に、『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。』と記されています。また「詩篇 50篇15節」には、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と記されています。

皆さん!患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す、貴重な学校なのです。信仰の鍛錬を受けたら受けるほど、天の御国への希望が私たちの中に満ち溢れます。イエスを信じる人が苦難の小学校、中学校、高等学校、そして大学校を終了するようになれば、その人の心の中に愛と信仰と希望が満ち溢れるようになるのです。

「ローマ人への手紙 8章17節〜18節」に、『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』と記されています。

苦難を通して鍛錬され、変化されたのですから、後に大いなる栄光を得るようになるのです。至極小さい苦難が、大いなる栄光を私たちの生涯の中に成就させてくれるのです。ですから、主にあって会う私たちの苦難は、私たちを消滅させる火ではなく鍛錬の火であると言うことを悟らなければなりません。

「ペテロの手紙 第一 4章12節〜13節」に、『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。』と記されています。苦難が、私たちにキリストの大いなる栄光に与かるようにしてくれるのです。

苦難に会うと言うことは、愉快な事ではありません。私たちがすべて皆、苦難を避けようと願っています。しかし、苦難の学校修業を受けないことには、完全な信仰人格を備えた聖徒になれないと言う事はあまりにも良く知り渡っている事実なのです。高く秀麗な金剛山は、険しく深い谷を抱えてこそ成されます。谷が深くなくては、高い山が出来あがらないのと同じく、苦難の陰の深い谷を経験した人だけが、高く荘厳で美しい山の頂の人生を得る事ができるのです。

それで神は、苦難と幸いを代わる代わる与えられながら、私たちが段々と霊的に成長し成熟して行くようにして下さるのです。主は、愛の鞭で懲らしめてくださり、苦難を通して私たちを変化させてくださり、苦難を通して成熟した香ばしい人格にしてくださり、苦難を通して強い信仰の人に造り上げてくださいますので、イエスを信じる人が苦難の学校に入ることは栄光であり、誇るべきことであり、素晴らしいことなのです。

ですから、私たちが苦難に会う時、非正常な目に会うかのように考えずに、却って、苦難の学校に入学したことを誇りに思い、感謝しながらがんばって行かなければなりません。イエスを信じずに会う苦難は、私たちが言うに及びません。しかしイエスにあって会う苦難には、意味がない苦難はひとつもありません。神様がその苦難を通して、後日、私たちを精金のようになって出て来るようにして下さるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられ、栄光であられる、我が父なる神様!私たちがこの世を暮らす間、良い日だけがあるのではなく、悪い日もあり、安らかな事だけがあるのではなく、難しい事もあります。晴れた日だけがあるのではなく、暴風雨で荒れる日もあります。温かい日だけがあるのではなく、寒い日もあります。

このすべての事が共になって地球を造り、美しい実を結ぶようにするのと同じく、私たちの人生の中にも平安な日だけがあるのではなく、苦難の学校に入学して、神様の御手を通して古い人が脱がれ、高慢な人がへりくだるようになり、頑固な人が砕かれ変化されて、香ばしく、柔和で、従順に聞き従い、そして強い信仰を持った人格者に変化することを考える時、主よ、感謝申し上げます!

愛であられる、天のお父さま!高い信仰の境地に至るためには、深く険しい谷を通らなければならないと言う事を悟り、苦難に会ったときには、却って感謝し、讃美しながら忍耐して、苦難の中で変化される事ができるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!