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「心の健康を得る三つの道」
 






■聖書箇所

「ピリピ人への手紙 4章 4節〜7節」
4: 4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4: 5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4: 6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4: 7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。




今日、私は皆さんと一緒に『心の健康を得る三つの道』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

21世紀は、「心の健康問題」が重要な関心事になることと思います。生活がますます複雑になり、そのテンポが速くなって、人間の私生活が全般的に侵害を受け、操縦されています。それで人間関係が干からび、極端的な利己主義によって私たちが暮らす世の中があまりにも索漠としたものになっていくのです。

その故に、私たちの心は抑圧され、緊張の中で暮すようになり、不安と恐怖から脱け出すことができなく、甚だしいストレスに因って精神的健康を害するようになります。こんにちこそ、心の健康を維持するために、神の御言葉を捜し求めなければならない時です。

それでは、私たちは何をしたら心の健康を得る事ができるでしょうか?その道は果たしてあるでしょうか?神様の御言葉は、このことに対して私たちに確かな解答を提示してくれています。心が不安で安定できず、苦しみに襲われている人たちは、この神様の御言葉に耳を傾ければ、その御言葉が明快な解答を与えてくれます。




第一、いつも主にあって喜びなさい

心の健康を得るためには、第1に「いつも主にあって喜びなさい。」と言われました。喜びを失ったら、心の安定を保つことができません。聖書には、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』と、強調して言及されています。なぜかと言えば、人間は元来喜びの存在であったからなのです。全く持っていないものを事新しく持ちなさいと言うのではありません。元来持っていたものを失ってしまい、それで人間は不安な存在になったのだから、元来持っていた喜びを回復しなさいと言うことです。

聖書には、「詩篇 16篇11節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記されています。神の御前には喜びが満ち、神の右には楽しみがとこしえにあるのです。人間は、神に似るように、神のかたちに造られ、神と共に暮らすよに造られました。そのように造られた人間ですから、元来人間は喜びの中で生きて行くようになっているのです。心にも喜びが満ち、周辺も喜びが満ちた所で暮らすようになっていたのです。

ところが、アダムとエバが神に背いて離れ去った事に因って、その時から人間は喜びから断ち切られるようになりました。喜びが断ち切られるや、悲しみが人たちの胸を占領するようになったのです。その結果、こんにち、すべての人たちが喉が渇いたみたいにいらいらしながら捜し求めるのが、まさに喜びなのです。元来持っていたものを失ってしまいましたので、それを切実に願い求めているのです。

「エレミヤ書 2章13節」に、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と記されています。人たちは、悔い改め、砕かれて喜びの根源であられる神に立ち帰ることによって喜びを捜し求めるのではなく、人本主義的努力によって身悶えするのみなので、喜びを得る事ができません。

人が、自分の知恵と聡明と明哲と力を尽くしていくら喜びの泉を掘っても、それは喜びの水を満たす事ができない、壊れた水溜です。人間は、自ら喜びを得る事ができません。まことの喜びを得る為には、喜びの根源を探して行かなければなりません。この世の中で人間が経験する喜びは、いつもそれと同等の悲しみや失望をもたらします。人たちは喜んだかと思うと、直ぐに悲しみと失望に落ち込みます。その喜びが大であればあるほど、後を追って襲って来る悲しみも大であるのです。ですから、まことの喜びを得る為には「喜びの根源」を捜して行かなければなりません。

「イザヤ書 12章 2節〜3節」に、『見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。』と記されています。神が、喜びと救いの泉です。神のその泉から私たちが喜びの水を汲んで飲むことができるのです。この神に立ち帰る為には、イエス様を信じなければなりません。

イエス・キリストの前に出て行って私たちの罪を悔い改め、罪の赦しと義の衣を得るとき、私たちの心の中に喜びが満ち溢れます。罪は神様と私たちの関係を遠く隔てさせるので、神様から溢れ出る喜びの水を私たちはいただく事ができません。しかし、罪を悔い改めてその隔ての壁を崩してしまったら、神様の喜びが私たちの中に満ち溢れるようになるのです。罪を赦していただき、義を得るようになったら、神様の喜びが私たちの心の中に満たされるのです。

また、イエス様を信じて、人生のまことの意味と理由と価値を悟るとき、私たちには喜びが満ち溢れるようになります。人がこの世を暮らす理由が何でしょうか?ただ食べて飲んで着て生きるのであるとしたら、それは意味がありません。人間が生きる目的が何でしょうか?それは神様に仕える為であり、神様と楽しむ為なのです。それで私たちがイエス・キリストを通して神様に仕え、神様と楽しむようになったら、私たちの心の中に喜びが満ち溢れるようになるのです。

また、イエス・キリストを通して神の前に出て行くことによって、死に打ち勝ち、永遠のいのちを得、天の御国が心の中に臨みますので、生きる喜びが共に満たされるようになるのです。神から愛される人は、喜びを得るしかありません。天と地と海とその中のすべてを造られた神様から愛していただいたら、即ち主の愛が私たちの心の中に注がれたら、それと同時に喜びが満ち溢れるようになるのです。心配や思い煩いは、喜びが来たらみな自然に退去してしまうのです。

「詩篇 16篇 8節〜10節」を見ますと、『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。』と記録しています。ですから主が共に居て下さったら、喜びと栄光が満ち溢れるようになるしかありません。神は、神自体が喜びです。神がまさに喜びの源泉であられるからです。

皆さん!アメリカの統計を見ますと、アメリカでは35分ごとに一人ずつ自殺しています。私たちがここで礼拝を捧げている間に、アメリカでは最早一人が自殺しています。そして、2分に一人が気が狂うと言います。クリスチャンの精神科医者たちは、彼等が神を失ってしまったので精神的不安定に見舞われると語っています。盗人が来るのは、盗み、殺し、滅亡させる為であると言われました。

この世が悪魔の前に露出されているので、喜びを奪われ、それで自殺するようになり、2分に一人ずつ気が狂うようになるのです。こんにち、喜びがあっても良く、なくても良い、と言ったものではありません。喜びを失ってしまったら、私たちは精神的安定を失うのです。

喜びは、驚くほどの癒しの効果をもたらします。「箴言 17章22節」に、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と記されています。私たちが心に喜びを持てば、私たちの中の製薬工場が稼動し始めるのです。今日の医学では到底説明する事のできない、驚くべき癒しの製薬工場が私たちの中で稼動します。しかし、喜びを失ってしまい心配や思い煩いが入って来たら、骨が枯れると言われます。骨が枯れるのですから、心の苦痛は形容できるものではありません。

ですから、まことの癒しは喜びがあってこそ成されるのです。関節炎の誘発原因のうちもっとも一般的な原因は、結婚に失敗した、事業に失敗した事等から、悲観し、悩み、心に深い怨みを持つようになって喜びを失ってしまった人に良く現われると言われています。従って、関節炎の人に薬を服用させても直らないのは、その根がたましいに起因するからなのです。心に失敗に対する悩みがあったら、どのような薬も効果がないのです。治療学会の発表によりますと、虫歯が生じるのは、苦悶、恐怖、小言…等の不快感に因って、体内カルシュームの均衡が保てなくなったからであると言います。ですから皆さん!心の心配、思い煩い、苦痛は、歯茎も蝕ませ歯も腐らせるのです。

私たちへのまことの癒しは、心の喜びにあります。私たちが主にあって喜び、神の聖霊さまの恵みで楽しみが溢れたら、私たちの体内にあるすべての病が一つの道から攻撃して来ては、七つの道に逃げ去ってしまうのです。癒しの驚くべき効果が私たちの中に現れるのです。それだけではなく、心の喜びは人生の活力素になります。朝の起床の時に喜びながら起き上がってご覧下さい。生気が溢れ、1日中喜びがあり、すべての事に能力が発揮されるようになります。

「詩篇 4篇 7節〜8節」は、『あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。』と記しています。

神が心に与えて下さる喜びは、穀物と新しいぶとう酒が豊かにある時にもまさっていると言う事は、環境による喜びよりも、聖霊によって心の中に満ち溢れる喜びがはるかにすぐれていると言うことです。従って、心の喜びは人生の否定的な要素をすべて除いてしまって、肯定的で、積極的で、創造的、生産的な心にしてくれるのです。

「詩篇 30篇11節」に、『あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。』と記されています。神の恵みが如何に大きいですか。私たちが神を捜し求めれば、神は嘆きを踊りに変えて下さいます。こんにち、教会に来て礼拝を捧げる途中に喜び踊る人を指して非難する人がいますが、神の言われた事を知らないからなのです。

神は、悲しみや嘆きを踊りに変えて下さると言われました。こんにちの讃美の礼拝は、神が喜びを下さるので踊りながら讃美を捧げるのです。神は荒布の衣服を脱がせて、喜びの着物を着せて下さいます。このような喜びは、主にあってだけ得る事ができるのです。喜びを得たら、心の健康を所有することができます。




第二、寛容な心をすべての人に知らせなさい

心の健康を得るためには、第2番目に、『あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』と言われました。寛容な心、優しく寛大な心を持って生きることは心の健康に絶対必要です。心が狭く、酷薄で、その上に無情で、何事にも敵対的であり、自己妥当化だけを図りながら暮らすようになる時、大いに不幸になり、心が病気に蝕まれるようになります。

高血圧患者の特性のうちの一つが、心に怨恨が満ちていると言います。他人を赦すことができず、従って寛容でなく、憎しみを持っている時に高血圧を誘発し、心臓病をも起こすと或るお医者が言うのを聞きました。又は多くの病気の70%の主原因が、恐怖、憎悪、心配、思い煩い…等であると言います。このようなことを克服するためには、寛容な心を持って生きて行くことです。

ペテロが、主のそばに来て「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦してあげたら良いでしょうか。七度までで良いでしょうか?」と尋ねました。その時、ペテロとしては大いに寛容な心で言ったのです。皆さん、七度まで赦すということはとても寛容な心です。夫を七度赦し、妻を七度赦すことができれば、それは大したことです。ところがイエス様は、ペテロをご覧になられながら、『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで、罪を犯してから謝ったら赦して上げなさい・・・。』と言われました。

赦すということ、寛容な心、優しく寛大な心を持って生きて行くということは、他人に良いことであるより、自分自身に良いことなのです。自分自身に平安をもたらすのです。しかし或る人は、「趙先生、それはとんでもない話しです。過去、自分に"深い傷を負わせた"その人の記憶を超越して、寛大に相手を待遇することはとてもできません。」と言います。

また、「私を見たら、いつも邪険で横着に振舞います。私は彼を見たら憤怒が生じて、とても彼を寛容にあしらう事はできません。」「色々とその間、随分面倒をみて上げました。ところが彼は私の前で、黙過することができないほど益々図々しく行動します。黙って過ごすことはできません。」「恵みを踏み躙って背信し、敵対する人をどうして赦すことができますか…。」と言う人もいます。

皆さん!憎悪は、幸福、健康、家庭、社会を破壊する恐ろしい悪魔の道具です。人間の力では、寛容な心を持って生きるということは余りにも難しい場合が多くあります。しかし聖書には、寛容な心を持って生きて行く方法を説明しています。『あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』その意味は、主がすぐ傍におられて、あなたを理解し同情しながら、あなたが他人を赦す寛容な心を持つように助けてくださるから、その主に拠り頼みなさいという事です。

主に拠り頼まないことには、寛容な心を持って暮らすことはできません。この世の中には見たくない人も多く、憎い人も多く、殴って上げたい人も多く、顔を合わせただけで腹の中を煮え返らせる人も随分と多くいます。自分の力ではどうする事もできません。或いは夫婦間で喧嘩しながら、相手を苛めようとして有ること無いこと見境なく言い捨てます。寛容などは全然考えられません。しかし、そのような時には「主よ!私を助けて下さい。主が近くにおられるではありませんか。主が私に寛容な心を持たせてください。寛大な心で、この場を収拾することができるようにして下さい!」と祈らなければなりません。

聖書には、主が近くにおられるから、すべての人に寛容な心を示しなさい、と言われたのです。主が力を与えて下さらなければ、私たちの力では寛容な心を持つことができない、と言うことです。世の人情が酷薄になり、私たちの心もあまりにも荒廃してきたので、自らの力量で寛容な心を持つほどの余裕がないのです。

「ローマ人への手紙 8章26節」に、『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』と記されています。私たちはどうして良いか知りません。そうした時、主に助けを求めたら聖霊が私たちの為に代わりに祈って下さり、私たちが心の中に余裕を持つことができるようにして下さるのです。

「ヘブル人への手紙 4章16節」に、『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』と記されています。私たちは、主の前に大胆に近づいて行かなければなりません。何故かと言えば、私たちが寛容を施さずに、相手と同じく噛み合いへし合いしながら争えば、私たちにあまりにも大きな損が襲って来るからです。

アメリカの或る国立公園に、恐怖の対象である「灰色の熊」があります。この「灰色の熊」が公園の生ゴミ場に来て餌をあさる時には、そこには絶対に他の動物が近寄りません。この熊がどんなに強いのか、そこには虎も獅子も狼も、象までも一緒に餌あさりをしようとしません。ところが、その熊が生ゴミの山をほじくる時、悠々と来て一緒に食べ物を探して食う動物がいます。小さい「スコンク」です。「スコンク」が来て一緒に食べ物をあさっても、熊は見て見ぬふりをします。熊の手一発で「スコンク」は即死するはずですが、なぜ打たないかと言いますと、「スコンク」が屁をぶっ放したら熊は1日中苦しまなければならないからです。

「スコンク」を殴って、ひどい臭いの屁を浴びて1日中転がり回るよりは、知らん顔して一緒に食べる方が熊にはよっぽど良いのです。その熊が「スコンク」にだけは寛容であるように、私たちも「喧しく軽薄な人たち」とぶっつかって傷を受けるよりは、神の助けをいただいて寛容な心を持って暮らすのが良いのです。寛容はお隣にプラスとなるのではなく、私たち自身にプラスとなるからなのです。

寛容は、私たちの心に平安をもたらすのです。ですから、私たちはこの為に主に祈らなければなりません。主の再臨の日が近づいています。この世から私たちが天に引き上げられる日も遠くはありません。この世を去って行く私たちが、この世に未練を持ったり、この世に縛られたりしてはなりません。この世に縛られたら、噛み合いへし合いして寛容な心を持つことができません。この世に対する期待を捨てたら、私たちの心がはるかに安らかになり、寛容な心になるのです。

救われた人は、天の御国を見上げながら暮らしますので、救われない人たちより寛容な心を持つ力に恵まれています。「コロサイ人への手紙 3章 1節〜2節」に、『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』と記されています。この世の事に縛られたら、寛容な心を持つことができません。天にあるものを思うようになったら、この世のことは寛容を持って理解し、容赦し、受け入れる事ができるのです。

「コリント人への手紙 第二 5章 8節〜9節」に、『私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。』と記されています。

確実に天の御国があります。涙も死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない永遠なる生涯が、私たちに確かにあるのです。ですから、既にそこに家があり、そこの市民権を持っている私たちは、この世を寄留者か旅人のように過ごすことによって、この世の信じない人たちのように「死ぬか、生きるか」の殺伐な人生を生きてはならないのです。聖書は言われます。『あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』




第三、何も思い煩わないで・・・

第3番目に、私たちが心の健康を得るためには「何も思い煩うな。」と言われました。聖書に、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』と記されています。

しかし、私たちはこの世を生きる間、心配、思い煩いなしに生きることはとても難しいことです。いつも心配と思い煩いが雲や霧のように私たちに覆い被さって参ります。心配とか思い煩いがどんなに恐ろしいものか知れません。こんにち心臓病は、世界的にもっとも多い病気の一つです。第2次世界大戦中に、戦死したアメリカ人が約20万名です。彼等は戦場で死にました。しかし同じ時期に、若い子どもたちを軍隊に送って心配し、思い煩った父母たちが心臓病で死んだ人数は200万名に及びます。

20万名が戦場で銃に撃たれて死にましたが、その軍人たちを戦場に送って思い煩った父母たちは心臓病で200万名もが死んだと言うのです。ですから、人が殺されるのは、戦争の銃弾や爆弾よりも心臓病がもっと恐いのです。その200万名の中でも、100万名は心配と思い煩い、それに伴う高度の緊張で死んだと言います。病菌は薬で撲滅する事ができますが、思い煩いは目に見えない感情的疾患ですので、病菌よりももっと恐いのです。

糖尿病患者に少しだけ心配とか思い煩いをするようにしたら、血糖値が瞬間的に高くなります。しかし、心配や懸念ごとを慰め、心に平安を持たせたら、血糖値が下がります。高血圧患者も同様です。心配、思い煩いをさせたら瞬く間に血圧が高くなります。思い煩わないようにしたら、血圧がぐんと下がります。心配、懸念等、思い煩うことは、私たちの心の中に凄い緊張感を起こし、否定的で破壊的なホルモンを生産するようにします。そうして私たちを殺し、盗み、破滅させるのです。

この人間の思い煩いに対して、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。』と聖書は記しています。思い煩いと労苦を引き受けて下さる主が、私たちの前に両手をいっぱいに差し伸べて言われます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(マタイの福音書 11章28節〜30節)

私たちの主イエス・キリストは、私たちの人生を宗教的次元でだけ顧みて上げるとか、未来の天国にでも来るように待って上げる、と言われたのではありません。私たちの毎日々々の生活の中に、目には見えない主の御手を差し伸べて、「思い煩いと労苦を一切わたしに任せなさい。心優しく、へりくだっているわたしに拠り頼みなさい…。」と言っておられのです。主が「わたしに拠り頼みなさい。」と言っておられるのに拠りョまず、思い煩いと労苦を敢えて自分が背負って行くと言うのは、愚かなことではないでしょうか。

主が、「わたしに拠り頼みなさい。」というのは、「主が責任を負う。」ということなのです。「顧みて上げる」ということです。主が顧みてくださらずに、「あなたがたの思い煩いと労苦を、わたしの所に来て、わたしに任せなさい…。」と言われるのであったら、それは嘘になります。私たちの主は嘘を言いません。主は、私たちの思い煩いと一切の労苦を主の前に出て来て、祈りと願いを通して主に委ねなさいと言われるのです。

人間的すべての手段方法が失敗しても、私たちの唯一の解決策は、主の前に出て行って祈ることが出来る道がある、と言うことです。そうする時、私たちの問題を解決する事ができる強力な主の御力が私たちに向かって注がれるのです。「マタイの福音書 7章 7節」に、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』と記されています。

また、「マタイの福音書 6章31節」及び「33節」には、『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 / だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記されています。「詩篇 50篇14節〜15節」には、『感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と記録されています。

このように、数々の約束の御言葉を通して見る時、神様は私たちの毎日々々の生活に深い関心をもって近づいて来られて、私たちの重荷を代わりに背負って上げようと望んで折られる神様であられることを私たちは悟ることができます。ですから、神様に祈りと願いを通して私たちのすべての重荷をお委ねしたら、私たちの知識や知恵を超越して、心の中に神様の平安が満たされるようになるのです。

私たちが神様に祈ったら、神様は「わたしがあなたの重荷を委ねてもらいましたよ!」という証拠として、私たちの心の中を主の平安でいっぱいに満たして下さるのです。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』といわれた主は、今、現在も、皆さんの助けになって上げようと切実に望んでおられるのです。

「ヨハネの福音書 14章27節」に、『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』と記されています。ですから私たちは、信仰に堅く立って主に祈り、すべてをお委ねして、心に平和をもって生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、主に従って行かなければなりません。

皆さん!聖書に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙 8章28節)と記されています。ヨセフの告白をご覧下さい。『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』(創世記 50章20節)と言いました。

私たちが肯定的に主を見つめることができるのは、現在、目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、味を見、手で触り、心に感じる…、これが私たちの運命の全部ではない、と言うことです。いつも、目には見えない神の御手が私たちと共にいて、その御手がすべてを働かして結局は益として下さるのです。

「コロサイ人への手紙 2章 7節」に、『キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。』と記されています。この御言葉のように、信仰を堅くし、溢れるばかりに感謝しながら暮らすようになる時に、私たちの心の中に主が平安を与えて下さるのです。心の健康がなくては、幸福はありません。

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と言われました。いのちの泉が病原体に汚染してしまったら、私たちには幸福のありようがありません。

心の健康は、主が与えて下さる喜びと、神の恵みによる寛容、そして祈りと願いによる平安が私たちの心の中に溢れる時、臨むようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられ、愛であられる我が父なる神様!こんにち、心の病気の人があまりにも多いです。誰彼なく、病気に罹った夫、病気に罹った妻、病気の子ども、病気の父母、病気の隣人…を持っています。心が病気に罹っているので、行くところ至るところで衝突し、噛み合いへし合い、争い合い、あらゆる苦しみにまみれています。

憐れみ深く、慈しみ深い、天のお父さま!肉体の病気だけが苦しいのではなく、心の病があまりにももっと苦しいです。その中で社会的問題、国際的問題が生じます。今、この時間、お父さまの前に頭を垂れて祈り、願います。私たちの心の中に臨んで下さって、心の病を癒して下さい。

イエス様によって、失ってしまった喜びを探し戻すことができるように助けて下さい。イエス様によって、広い心、理解する心、寛容な心を持つことができるように助けて下さい。イエス様によって、疲れた人、重荷を負っている人たちが、すべての苦しみと重荷を主にお委ねして、安らかに憩うことができるように助けて下さい。心が癒され、心に平安を持って、幸福に暮らす私たちとなるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!