教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「虚しい偶像」
 






■聖書箇所

「ヨナ書 2章 1節〜9節」
2: 1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、
2: 2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
2: 3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
2: 4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。
2: 5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
2: 6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
2: 7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
2: 8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
2: 9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」




今日、私は皆さんと一緒に、『むなしい偶像』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様の預言者ヨナは、その当時、イスラエルの敵国であるアッシリヤの首都ニネベに行き、「もしもニネベが悔い改めなければ、40日の後には滅ぼされるであろう。」という神様のさばきを叫ぶようにと、神様から命令を受けました。しかしヨナは、イスラエルの敵であるニネベが滅ぶ事を望み、神様のさばきが下ることを切に願っていたので、神様の命令に従わず、ニネベの反対側にあるタルシシュに向かう船に乗って逃げていきました。

ヨナは、神様の命令に逆らいました。それで、神様は海に激しい暴風雨を起こされ、乗船者たちはくじを引いて、この災難がヨナのために襲ってきたことを知ったので、ヨナを生きたままで海に投げ込みました。暴風雨はおさまりましたが、ヨナは神様が備えられた大きな魚に飲み込まれました。

ヨナは魚の腹の中で三日三晩を耐えましたが、遂に砕かれて、神様の前に悔い改めるようになりました。彼は、魚の腹の中での絶望をこのように言いました。「ヨナ書 2章 3節」の御言葉です。『あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。』

続けてヨナは言いました。「ヨナ書 2章 5節〜6節」の御言葉です。『水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。』

ヨナは、人間としてはもっとも深刻な挫折と絶望を体験した人でありました。しかし、ヨナは人間的な絶対絶望の中で、その絶望より大きい神様のことに思いがはせました。それで、彼には希望がもたらされました。もしも人間的絶望、それだけを見つめ続けたなら、彼はその死の境地から決して脱け出ることはできなかったでしょう。

しかし絶望を克服することができる、絶望よりもっと大きい神様を絶望の沼の中で思い出しました。それがまさにヨナの回復の始まりとなりました。「ヨナ書 2章 7節」を見ますと、『私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。』と記されています。挫折と絶望の中で神様を思い出し、そして神様に対する信仰をもって呼ばわり祈るや、彼の祈りが深い海の中からはるかの天に届いたと、ヨナは言いました。

そしてヨナは、神様の前に継続して悔い改めながら呼ばわり祈りました。「ヨナ書 2章 2節」に、『私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。』と記されています。

人は、苦難に会ったら砕かれずにはいられません。魚の腹の中に入れられて三日三晩を過ごすや、ヨナはその苦しみの中で神様に救い出してくださいと、呼ばわり祈らざるを得ませんでした。神様の御顔を避けて逃げようとしたヨナが砕かれて、悔い改めるようになったのです。皆さん、悔い改めて呼ばわり祈ったら、その祈りが天に届き、天からの御声を心の中に聞くことができるようになるのです。

そこでヨナは、『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。』(ヨナ書 2章 8節〜9節)と、大胆に彼の信仰を告白しました。

このヨナの信仰告白を通して、今日、私たちが一緒に恵みを分かち合いたいと思います。




第一、ヨナが指摘した「むなしい偶像」

ヨナが、魚の腹の中で悔い改めてから指摘した「むなしい偶像」とは何でしょうか?『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。』(ヨナ書 2章 8節)と言いました。

ヨナが「むなしい偶像」と言ったのは、偶像崇拝のことです。皆さん!偶像はその外観が金や銀や宝石で飾られてあり、燦爛たるものであっても、それは「むなしい」ものです。その中には生気がなく、生命力がなく、偶像そのもの自体が私たちを救うことができる力がありません。

「イザヤ書 44章 6節〜11節」に、『イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。』と記されています。

そして又、ヨナは、人間の感覚と否定的な考えも「むなしい偶像」であると言いました。皆さん!私たちはこの世を暮らしながら環境の支配を受け、また感覚を通して、私たちの考えが揺れ動くときがいくらでもあります。しかしヨナは、魚の腹の中にいながらも人間の感覚と否定的な思考は「むなしい偶像」であると言いました。

ヨナは魚の腹の中で、全身を溶かすような魚の消化液によって目が痛く、魚の心臓の音、魚の胃のうごめきを全身に感じました。それにも拘らず、これはみな「むなしい偶像」である。このようなものが私を殺してしまいそうだが、実相は「むなしい偶像」である、とヨナは叫びました。

ヨナは、否定的な考えも「むなしい偶像」であると言いました。ヨナは、世と人たちから無限に遠く離れていると言う、極端的な孤独感にさいなまれました。彼は神様に罪を犯したので捨てられた、という恐怖に襲われました。人間的な考えでは、またと世の中に生きては戻れないと言う絶望感がひっきりなしに彼の心の中に頭をもたげました。

このような絶対絶望に向かってヨナは、神様を信じる信仰を堅く胸に抱いて叫びました。このすべては「むなしい偶像」である。私は「むなしい偶像」を崇拝しない。私は神様だけを見つめ、神様だけを信じる、と叫んだのです。




第二、私たちも生まれる時から「魚の腹の中」で暮らして来ました

私たちも生まれる時から、実は「魚の腹の中」で暮らして来ました。皆さんと私は既に、生まれる時から「悪魔の魚の腹の中」に入ってきて生まれたのです。アダムの堕落とこの世という「魚の腹の中」で私たちは暮らしているのです。この「魚の腹の中」とは、罪の真っ暗い絶望の「魚の腹の中」です。

「ヨハネの福音書 8章44節」に、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』と記されています。

この偽りの父である敵悪魔に捕らわれて人たちは偽りを信じ、偽りに聞き従ってむなしい人生を送り、罪の泥沼にはまって足掻き悶えながら罪の魚の腹の中で暮らしております。また人たちは、世俗の無意味と虚無と絶望という魚の腹の中で暮らしています。「詩篇 39篇 5節〜6節」の御言葉です。『ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。』

これが人の現実の姿です。この世を暮らす人たちは、虚無と無意味と絶望という「魚の腹の中」で身悶えしながら生きています。どこから来て、何故生きており、どこに行くのか知りません。人生の意味と価値を知らない、絶対虚無と無意味の「魚の腹の中」で喘ぎ苦しんでいます。

また、心の悲しみと、心と身体の病気の「魚の腹の中」で、私たちはさ迷い苦しみながら暮らしています。如何に多くの人たちが心の病と肉体の病に罹って苦しんでいるか分かりません。

私たちは生まれる時から、呪いと貧乏と餓えの「魚の腹の中」で暮らしています。一生涯を喘ぎ身悶えしながら生きて行くのは、呪いと貧乏と餓えの「魚の腹の中」から抜け出ようとして、朝は早く起き、夜は遅く寝床に入り、苦労のパンを食べながら暮らしております。

それだけではありません。終局的には死と無の絶望という「魚の腹の中」で喘ぎ苦しんでからは、むなしくこの世を去って行きます。人は死を避けることができません。英雄、豪傑、烈士と言えども、みな死にます。「詩篇 90篇 3節〜5節」に、『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。』と記されています。

生まれる時から「魚の腹の中」で喘ぎ苦しむ私たちが、どのようにしたら救い出されることができるでしょうか。それは、私たちがイエス様の贖いの恵みを悟り、イエス様の救いの恵みの中に立って、この世の「魚の腹の中」から脱け出なければなりません。ヨナが自分の感覚に向かって、"この「むなしい偶像」よ。私はお前を崇拝しない!"と言ったように、私たちもイエス・キリストの贖いの恵みを受け入れ、そして信じて、私たちが生まれる時から暮らして来た「この世の魚の腹の中」に向かって、"「むなしい偶像」よ。お前はもうこれ以上、私を捕虜にする事はできない…!"と宣言することができるようにならなければなりません。

「ヨハネの福音書 14章 6節」に、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』と主が仰せられました。イエス・キリストが十字架の上で身を裂き血を流して、私たちを代価を払って贖って下さったその恵みを悟ったら、イエス・キリストを通して赦しと義の賜物をいただくようになります。その赦しと義の賜物を胸の中に力強く抱いて、私たちは「罪の真っ暗い魚の腹の中」に向かって"この「むなしい偶像」よ。私から離れ去れ!"と命令する事ができるのです。

罪は、イエス・キリストの赦しをいただいた時に「むなしい偶像」になるのです。罪がいくら私たちを幾重にも取り囲んでいても、イエス・キリストの十字架の血潮によって赦された恵みを私たちが悟るようになったら、その罪は「むなしい偶像」です。罪は私たちをそれ以上捕虜にして支配することができなくなるのです。

私たちが、イエス・キリストの十字架の血潮を通して臨まれた聖霊を体験し、聖霊と天の御国が私たちの胸の中に臨んでいることを悟るようになったら、虚無と無意味という「むなしい偶像」に向かって、私たちは嘲笑うことができます。そして"凡てむなしい偶像よ。虚無と無意味と言う、魚の腹の中のすべての否定的なものは消え去れ!"と、私たちは号令することができるのです。

また、主にあって喜びといやしの約束を信じる人は、病が偽りでむなしいものであることを悟ります。"病よ、おまえは偽りだ!痛みよ、おまえは偽りだ!何故なら、イエス様の打ち傷によって私たちは既に癒されているからだ!"と言えるのです。

「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記されています。これが真実なのです。私たちの否定的な心の思い、感覚、肉体の病はすべて「むなしい偶像」です。このようなものを私たちが崇拝してはなりません。それらに対して、私たちは断固として対抗しなければなりません。

イエス様にあって呪いから解放され、神様から祝福していただいた私たちには、呪いと貧乏と餓えを「むなしい偶像」であると言い切ることができます。"私はイエス様にあって、アブラハムへの祝福と、イエス・キリストの恵みをいただいた者だ。むなしい偶像である魚の腹の中で、もうこれ以上は苦しまない。退け!"と、命令しなければなりません。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」は、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と、真理を私たちに教えています。

また、私たちは主にあって得る、将来の復活と天の御国の真実を知っていますので、死と虚無の絶望に向かって「むなしい偶像」である、と言うことができます。"死の恐喝と脅迫、死んだ後には無に帰るという偽りはむなしいものだ。何故なら、私はイエス・キリストにあってよみがえり、キリストと共に永遠の天国に入って行くからだ。イエス様が死んだものの中からよみがえられたように、イエス様を信じる私たちも全く同様にキリストと共によみがえるのだから、死と虚無はむなしい偶像だ。私はお前らには従わない。お前らは消え失せろ!"と、私たちは号令しなければなりません。

ヨナは言いました。『むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。』(ヨナ書 2章 8節) 私たちが「むなしい偶像」に目を向け、耳で聞き、口で認めるとしたら、神様の恵みを捨てることになるのです。ヨナは魚の腹の中におりながらも、そのすべてを「むなしい偶像」であると断固として叫びました。そして神様だけを見つめ、神様の真理だけがまことであると宣言しました。そうした時、ヨナは「むなしい偶像」に打ち勝ち、魚の腹の中から出て来ることができました。




第三、私たちがすべき事

それでは、私たちがしなければならない事は何でしょうか。私たちは、ヨナが主のもとに立ち帰ったその段階を私たちも踏んで、完全に「この世の魚の腹の中」から出て来て主の恵みにあずかり、自由と解放を得た生活を営まなければなりません。そうする為には先ず、私たちの人生は絶望的である、という事実を認めなければなりません。

人間である自分の力で生きて行けると自信するのは、神様の助けは要らない、と考える事です。人間は、自分自身に対して絶望を痛感しなければなりません。自分がいかに絶望的な人間であり、自分の力では何もやって行けない、と悟らなければなりません。ヨナが魚の腹の中で自分を考える時、完全に絶望でありました。人は、自分の力ではどうにもならないと悟る時、はじめて神様を捜し求めるようになるのです。

「ヨハネの黙示録 3章17節〜18節」に、『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。』と記されています。

ですから、ヨナが魚の腹の中で絶望を意識してから、その魚の腹の中よりも海の水よりもはるかに大きい神様に向かって呼ばわり祈り求めたのと同じく、私たちも絶望より大きい神様の御力と愛を悟り、拠り頼まなければなりません。

皆さん、私は一生涯の間身体が弱く、若かった時には毎日が死にそうでありました。当時はただの一日も、明日を迎えることができる、と思われた日がなかったのです。若いのに身体が甚だしく虚弱でありました。心臓が弱く、肺が蝕まれていたのです。私が聖徒さんたちの前では、全く何の異常もない如くに振舞いましたが、「佛光洞」や「西大門」教会で牧会していた時には、甚だしく目眩がし、心臓が苦しくて、毎日のように家内に「私はもう、今日を越せずに死にそうだ…。」と言いながら、遺言を書き残して暮らしました。

しかし私は、身体の虚弱よりも大きな神様の癒しの御力と、愛を思い、神様を切実に捜し求めました。私が何故、病人の為にそんなにまで積極的に祈り、ひど過ぎると言われるほどに祈って参ったか、ご存知でしょうか?聖徒さんたちの病気が癒されることより、実は私が癒されたいので、そのように熱心に祈って参ったのです。私自身があまりにも虚弱で苦しいので、いつも病と戦いながら、聖徒さんたちの病気の為に祈り、私自身の病気の為に祈りました。

病より大きな神様、死より大きな神様、挫折や絶望より大きな神様を、私が身体が虚弱であったので切実に祈り求めたのです。私が健康であり、どこも丈夫で、何事にも自身満々であったとしたら、そのように癒して下さり、顧みて下さり、拠り頼むようにして支えて下さる神様を切に捜し求めることは恐らくしなかったでしょう。

ですから、私たちが絶望、病弱、苦痛に襲われてみてこそ、絶望より、病弱より、苦しみより大きい神様に向かって呼ばわり祈り、捜し求めるようになるのです。ヨナはまさに魚の腹の中ではじめて神様を切実に捜し求めるようになったのです。

「テモテへの手紙 第二 1章 7節」を見ますと、『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』と記されています。「ローマ人への手紙 8章37節」には、『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』と記されています。また「ピリピ人への手紙 4章13節」に、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』とあります。

人は、弱い時にこそ神様を発見するようになり、神様は偉大で、大きいお方で、憐れみ深く、恵み深いお方である事実を心の中に悟るようになります。そして神様の前に出てくる為に、ヨナが魚の腹の中で魚の胃袋を叩き続け掻き回し、身悶えしながら痛く悔い改めたのと同じく、神を心から信じなかったこと、神に逆らったこと等、その間の間違った人生を胸の奥底からの悔い改めと涙で告白し、主に呼ばわり祈って、神に立ち返るのです。

「ヨエル書 2章13節」に、『あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。』と記されています。いくら災難に会わせようとしたとしても、悔い改めて立ち返れば、御心をひるがえして下さると言うのです。そして、あらためて私たちを受け入れて下さる神様であると言うのです。私たちは、徹底的に悔い改めて主に立ち返らなければなりません。

またヨナは、神様の御言葉の上に断固として立ちました。そして人間的な感覚と思いに向かって、"お前はむなしい偶像だ。魚の心臓よ、躍れ。胃液よ、被さって来い。胃よ、うごめけ。しかしお前は、私を消化することはできない。お前たちは皆、むなしい偶像だ。私はお前たちを崇拝しない。私は神を信じ、神の御言葉を信ずる…!"と叫びました。このように、神様の御言葉の真理をもって、否定的な人間の感覚と思いをむなしい偶像として、断固として退けなければならないのです。

私たちは、こう言わなければなりません。「疾病よ、お前はむなしい偶像だ。私は主の打ち傷によって癒された人なのだ。私は癒されたのだ!」「貧乏と失敗と失望はむなしい偶像である。私はお前を崇拝しない。私はアブラハムへの祝福をいただいた人であり、イエス・キリストの恵みをいただいた人なのだ。私は祝福された人だ。お前たち、むなしい偶像は引き下がれ!」

「悲しみは消え去れ。私はイエス・キリストの喜びをいただいた人なのだ。挫折と悲しみはむなしい偶像だ。私は神様の喜びを持っている人なのだ。むなしい偶像は離れ去れ!」私たちは、むなしい偶像の支配を受けてはなりません。むなしい偶像を認めて受け入れたらむなしい偶像の奴隷となって、それらから脱け出ることができなくなります。『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と聖書に記されているのです。

「ヨハネの手紙 第一 5章20節」に、『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』と記されています。私たちがこのイエス・キリストを知り、その真理の上に立ち、その恵みをはっきりと心の中に受け入れたら、むなしい偶像の捕虜にはなりません。

私たちはむなしい偶像に捕らわれて、それらの脅迫と恐喝を受けながら生きて参りました。イエス・キリストの十字架の贖いの恵みの上に立って、私たちが断固としてむなしい偶像を退けたら、それらは一つの道から来て、私たちの前から七つの道に逃げ去るようになります。

そして私たちは、感謝の生け贄を捧げなければなりません。ヨナは、魚の腹の中で神様に感謝を捧げました。「詩篇 50篇14節〜15節」に、『感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』と記されています。また「ヘブル人への手紙 13章15節」にも、『ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。』と記されています。

ヨナは率直に自分の絶望状況を認めて、神様を捜し求め、神様の全能なる事に思いをはせ、自分の不従順を涙で悔い改めました。そして、今ある自分の現実をむなしい偶像とし、神様の救いと恵みだけがまことであると大胆に宣言してから、神様に感謝を捧げ、救われた後に、神様にどのように献身しますと誓願を立てました。

その結果、『主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。』と聖書に記されています。私たちもヨナのような信仰を学び、神様の恵みによる祝福と勝利の陸地に、この世から吐き出される皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、全能であられる、我が父なる神様!ヨナが、絶対絶望の魚の腹の中から神様に拠り頼み、挫折を克服して陸地に出て来たように、私たちも、ヨナのように真理の神様を知り、悔い改めて主に立ち返り、あらゆるむなしい偶像から抜け出ることができるように助けて下さい。

アダムが堕落したことによってもたらされた罪と悪魔と苦しみは、すべてむなしい偶像です。何故なら、イエス様が十字架の上でそれらをすべてを滅ぼし、清算されて、私たちにまことの自由と解放を与えて下さったからです。『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と仰せられました。

主の真理だけがまことであり、あらゆる感覚や否定的な思いはすべてがむなしいものであり、偶像であることを悟り知るようにして下さい。むなしい偶像に心を留めず、崇拝することがないように助けて下さい。むなしい偶像には断固として対抗し、真理にもとづいて考え、語り、行動し、主張するように助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!