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「すべての武具」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 6章10節〜17節」
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。




私は今日、皆さんと一緒に『すべての武具』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

厳しい寒さと共に激しく吹雪が吹き捲る、そして膝の上まで雪が積もった山道を踏み分けながら歩いて行くご自分の姿を一度想像してみて下さい。もしも、皆さんが冬服も着ておらず、防寒靴も履いておらず、防寒帽も被らず、手袋もはめていないとしたら、急激に体温が下がって気を失うようになり、早速に手当てを受けないことには凍死を免れることができなくなるかも知れません。

こんにち、吼え猛る悪霊が狂風を吹き捲っているこの世の中で、もしも聖徒の皆さんがご自分を保護する「すべての武具」を身に着けておらず、普通の人たちのように振舞うとしたら、必ず「悪い霊」「醜悪な霊」「嘘をつく霊」「占ないの霊」「弱らせる霊」「各種の病の霊」の攻撃を受けて、気を失うようになり、信仰を奪われてしまうようになります。

「ヤコブの手紙 4章 7節〜8節」に、『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』と命令しておられます。ですから、聖徒さんたちは必ず、毎日々々自分自身を顧みながら、主が与えて下さった「すべての武具」を着ているかどうか、点検してみなければなりません。

それでは、我が神様が与えて下さった「すべての武具」はどのようなものであるか、今日、御言葉を通して教わることにします。




第一、「腰には真理の帯を締め」

第1番目に、「腰には真理の帯を締めなさい。」と言われました。腰はからだの柱であり、中心です。腰に負傷をしたら、全身を自由に使うことができなくなります。私の友人の一人が、年を取りボディービルでからだを鍛えるとして熱心に運動をする途中に腰に負傷をして、動けずに寝たっきりでいるのを見ました。腰に故障を起こしたら身動きができません。

皆さん、サタンは、信仰の柱であり中心である心の腰を攻撃するのです。腰をへし折ったら、その人を身動きができないようにする事ができます。私たちの心を、世の中の哲学や知識や科学や宗教などで支えておいたら、これは絶対にサタンの攻撃に耐えられません。世の中の誘惑の強風が吹いてきたら、この世の知識で支えられているそのようなものは、瞬く間に揺れ動き根こそぎにされて、吹き飛んでしまいます。或いは、死の地震が起こって揺り動かしてしまえば、人間の哲学や知識や科学…などで支えておいた腰は、そのまま崩れてしまうのです。このような人は、サタンの攻撃にころりと負けてしまい、抵抗する事ができません。

「コロサイ人への手紙 2章 8節」に、『あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。』と記されているのです。

従って、私たちの信仰の腰、私たちの心の腰を揺り動かされることがないようにしっかりと支え堅固にしなければなりませんが、そうする為にはどうしたら良いでしょうか。それはまさに、真理であられるイエス様で腰を固め、イエス様に拠り頼まなければなりません。イエス様が人生の柱となり中心となったら、この人はどのような立場にあっても揺れ動かされる事がありません。イエス様はこの世に勝たれたのですから、「世の風」がいくら吹き捲っても、それがイエス様を倒す事はできません。「死の地震」が襲ってきて振り動かしても、イエス様は死なれてからよみがえられましたので死がイエス様に勝つことはできません。

「エペソ人への手紙 1章13節」に、『またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。』と記されています。私たちが「真理」で帯を締めたら、私たちは救いを受け、聖霊が私たちと共に居て下さいます。ですから、クリスチャンは生活の中で毎日自分を点検しなければならない事は、心がイエス・キリストで満たされているか…?心の帯をイエス・キリストの真理で固めているか…?

或いはイエス様に拠り頼らずに、世の中のむなしい哲学や知識や科学や世の宗教で固めていはしないか…?点検してみなければなりません。世の宗教で満たされている人は、世の風に吹き飛ばされ、死の地震に散々な目に会わされるのです。




第二、「胸には正義の胸当てを着け」

第2番目に、私たちは「正義の胸当てを着けて」暮らさなければなりません。胸当てとは何でしょうか。胸を保護する道具です。心理学者たちは、神経衰弱や情緒不安症、または精神異常等には必ずその背後に罪意識がどぐろを巻いている、と言います。人は動物とは違っていつも良心の呵責を感じながら暮らしています。人間は完全でありませんので、この世を生きながら良心の苦痛と呵責を感じない人は誰もいません。このように良心の積み重ねられた罪責が私たちの心を攻撃するとき、私たちはその前に崩れてしまうのです。

「ローマ人への手紙 3章20節」を見ますと、『なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』と記されています。私たちが律法に従って生きようとすればする程、ますます罪がもっと露わになり、道徳的に生きようとすればする程、もっと自分の不道徳な面が現われるようになるのです。

それでパウロ先生は言われました。『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(ローマ人への手紙 7章24節) 律法に従って生きようとすればする程、罪がもっと現われ、道徳的に生きようとすればする程、私の中には不道徳な心情がもっと現われる…、私を助けてくれるのは一体誰でしょうか、と嘆いたのです。

人間的行為によっては、私たちは満身創痍になってしまいます。サタンの攻撃が心臓を貫いて襲ってくるようになるでしょう。正義の胸当てというのが何でしょうか。イエス様が十字架の血潮で代価を払って贖われた「赦し」と、「正義の胸当て」を着けたら、サタンが私たちの心臓を貫くことはできません。私たちが罪を犯し、醜悪で、捨てられて然るべき存在であっても、私たちに代わってイエス様が十字架に釘付けられ血を流して、私たちの現在と未来と一生の罪をすべて清算してしまわれたのです。

イエス様が、『完了した。』と仰せられる時に、わたしはあなたがたの罪を永遠にすべて清算してしまった、と同時に言われたのです。ですからイエス・キリストの血潮に拠り頼み、その血潮に私たちの信仰をおいたら、私たちの胸に堅固な正義の胸当てを着けることになります。いくら罪責の攻撃を受けても、悔い改めと赦しとイエス様の血潮を通した義を賜物としていただいたのですから、心に平安と確信を持って私たちは生きて行く事ができるのです。

「ローマ人への手紙 5章 9節」に、『ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。』と記されています。サタンが、いくら良心の呵責をもたらし、突風を吹き降ろしてきても、イエス様の血潮によって私たちには胸に正義の胸当てが着けられていますから、私たちは良心の呵責や罪責で苦しむ事はありません。赦された義人となったのですから、血潮に感謝し、イエス・キリストの義に拠り頼んで暮らし、私たちは神の前に堂々と立つことが出来るようになるのです。




第三、「足には平和の福音の備えを履きなさい」

第3番目に、「足には平和の福音の備えを履きなさい」と言われました。裸足で歩いている人、裸足で歩くとして自慢する人はとても愚かな人です。人本主義の靴を履き、自分の力で人生を生きている人たちは、不安と苦痛と絶望を免れることが絶対にできません。しかし、私たちはキリストにあって平安を得る事ができます。それは、イエス・キリストが私たちの為に道を拓いて置かれたからです。イエス様が私たちの為に、安らかに暮らすことができる道を備えて置かれました。

聖書に、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と記されています。主は、十字架に釘付けになられて身を裂き、血を流されることによって、赦しと聖霊充満と喜びの靴を備えて置かれました。私たちがこの世を生きて行きながら、心に喜びを持ち、聖霊充満になって暮らすことができるように、イエス様が靴を備えて下さり、道を備えて置かれたのです。

「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」に、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記されています。私たちには、イエス・キリストを信じる事によって代価を払う事なしに罪を赦していただき、聖霊充満に与かり、たましいに幸いを得ながら生きて行く事ができる靴が備えられているのです。

私たちが信仰のその靴を履いてイエス・キリストに従って生きたら、私たちは赦しと義と聖霊充満という、たましいが幸いを得る道を歩いて行くようになるのです。イエス様を信じない人たちは、たましいが死に、荒廃していく事を私たちは余りにも良く知っています。しかし、私たちはイエス・キリストにあって、もうたましいが幸いを得て喜び躍ります。たましいがキリストと交わりながら暮らします。赦しと義と平安が満ち溢れています。

また主は、すべてに幸いを得る靴を備えて下さいました。呪いと貧乏から解放され、すべてを働かして益として下さる靴を備えて下さいました。「コリント人への手紙 第二 9章 8節」に、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』と記されています。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」には、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記されています。また「ローマ人への手紙 8章28節」には、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と記されているのです。

このように、主はすべてに幸いを得る靴を備えて置かれました。主を信じる事によって呪いから解放され、すべてに幸いを得るようになり、貧乏と餓えから解放されるようにと、主が平和の靴を備えて置かれたのです。私たちが生きて行く間、良い事もあり悪い事もあり、健康である時もあり病に罹るときもあります。また晴れた日もあり雨が降る日もあるでしょうが、主が共にいて下さったら、このすべてを働かせて益として下さると言われたのです。

そして主は、健康に暮らすことができる靴を備えておかれました。癒しと健康の祝福を私たちに注いで下さったのです。「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記されています。イエス・キリストが、私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負って死なれてからよみがえられた事によって、キリストを信じ拠り頼む私たちが病を振り捨て、病を征服する事ができる原因が提供されているのです。ですから、この約束の御言葉を信じ、私たちが力強く願い祈ったら、病に勝つ事ができるのです。まさに、この約束の御言葉が私たちを強健にする靴となるのです。

主は、私たちの為に『足には平和の福音の備えを履きなさい。』と言われました。この世を生きて行く時、心の平和が如何に重要でしょうか。心がいつも不安であったり、焦燥や恐怖があったら、生活の幸福は消え去ってしまいます。幸福のもっとも大きな条件は平和です。主が先立って行かれながら色々な患難辛苦に会いながらも、私たちの為にたましいが幸いを得、すべての点でも幸いを得る道、そして健康の道を拓いて置かれました。ですから信仰を通して、私たちは「平和の福音の備えを履き」、信仰にあって堂々と生きて行かなければなりません。




第四、「救いの兜をかぶり」

第4番目に、「救いの兜」をかぶって暮らしなさい、と言われました。頭はすべての考えと思想の根源です。頭を保護しなければなりません。サタンは、あらゆる曲がった邪まな思いや思想を植えつけて神から遠く離れさせようとします。毎日のように、私たちには世俗的思想が頭の中に入って来ます。こんにちは情報化時代です。インターネット、TV、雑誌等を通して、形容する事のできないあらゆる情報が洪水のように押し寄せ、私たちを攻撃しています。ですから、私たちは救いの兜をかぶって、私たちの考えや思想、信仰を保護しなければなりません。

「箴言 4章23節」に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と記されています。いのちの泉が世俗的なものに汚染されてしまったら、私たちのいのちは台無しになってしまいます。私たちのいのちに、清い生ける水が満ち溢れなければならないのです。それで、頭に救いの兜をかぶらなければなりません。サタンや世俗がいくら攻撃して来ても、それらが頭に害を被らせる事ができないように兜をかぶらなければならないのです。

どのように兜をかぶるべきでしょうか。救っていただいたからには、私たちは古い人ではない、という確実な信念を頭の中に持たなければなりません。「私は古い人ではない。」「私は救っていただいてからは、新しい人になったのだ…。」

「コロサイ人への手紙 1章13節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』と記されています。私たちは赦され、聖霊に満たされ、癒された人となり、祝福していただき、永遠のいのちを得た人になったのです。このように「新しくなった」という思想を頭の中にはっきりと持っていなければなりません。

「ペテロの手紙 第一 2章 9節」に言われました。『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』私たちがこのようになった事を悟らなければなりません。私たちの中に天の御国がいっぱいに臨んでおり、キリストによって確かに救われた、と言う信仰で満たして、サタンや世俗が私たちの心を少しも揺り動かす事ができないように、救いの兜をかぶらなければならないのです。

そうする事によって、心はいつも「キリストの十字架を通して、私は救われた人なのだ。」「私は救われて、五重の福音と三重の祝福の兜をかぶって暮らしているのだ…。」という信仰で満たしていなければなりません。この信仰から、私たちは揺り動かされてはなりません。




第五、「信仰の大盾を取りなさい。」

第5番目に、私たちは「信仰の大盾」を取って暮らさなければなりません。悪魔が絶え間なく私たちに「火の矢」を放っています。火がついている矢の攻撃ですから、盾を持っていなければなりません。

皆さん、感覚的な知識を持って人生を暮らしたら、確固たる信仰を保持することができません。感覚は現実的であり、体験的なものです。そのようなものに頼ったら環境の奴隷になってしまいます。また、環境は変化無双なものです。故に環境に従って暮らしたら、心は一瞬間も安らかである事ができません。ですから、感覚的な知識をもって人生を暮らしてはいけません。目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、手で触って見て認めるようでは、絶対に信仰に立って暮らす事ができません。それらは絶え間なく、環境と共に変化するからです。

「テモテへの手紙 第一 6章20節〜21節」に、『テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。』と記されています。

御言葉は、神様が私たちに啓示として下さった真理です。環境的に与えて下さったものではありません。ですから、私たちはいつも神様を仰ぎ見ながら、神様の御言葉をいただいて糧とし、その御言葉を信じながら生きてこそ、信仰の人になることができるのです。「ヘブル人への手紙 11章 6節」の御言葉です。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

詩篇記者は言いました。『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』(詩篇 121篇 1節〜2節) 何故、山に向かって目を上げるのでしょうか。山は、雨が降り、風が吹き、天災地変が起こってもびくともしません。揺れ動かされる事がありません。変化されません。歴史が変遷し、社会が変化し、人たちが行き来し年をとって行っても、山は変わりません。

このように神様はこの泰山峻嶺の如くに、どのような環境にも変化することがなく、どのような人の攻撃にも変わることがありません。神様はいつもそのままです。私たちが山に向かって目を上げ、泰山のように動かない主である神様に拠り頼んでこそ、それがまことの信仰となるのです。このような信仰を持って暮らす人を、サタンが襲って来て倒す事はできないのです。

サタンは、いつも感覚的な知識で人を惑わします。私たちが感覚に頼らず、神様の御言葉に拠り頼み、神様に目を向けていたら、サタンがあらゆる手段を講じても倒れないので、サタンは一つの道から攻撃して来ては、七つの道に逃げ去ってしまうのです。




第六、「御霊の与える剣である、神の御言葉を受取りなさい」

第6番目に、聖霊の剣、即ち「神様の御言葉」を受取りなさいと言われました。戦場に出て行ったら剣で敵対し、剣で攻撃しなければなりません。私たちの武器は、神様の御言葉、即ち「聖霊の剣」なのです。悪魔の誘惑や攻撃に会った時には、人間的な論理で敵対してはなりません。断固として「神様の御言葉」の上に立たなければならないのです。アダムとエバは御言葉によらずに悪魔と論争して、堕落してしまいました。

悪魔は、頻りに私たちを論争に引き込みます。私たちは、悪魔と論争してはいけません。神様が、『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』と仰せられました。この事は論争の対象ではありません。これは、神様の断固とした命令なのです。

悪魔が来て、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか?」と、論争を持ちかけました。エバが、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と言われました。」と答えました。

このようにして、論争が始まりました。悪魔が言いました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』悪魔と論争を始めたら、結局は悪魔の論理に巻き込まれて惑わされ、負けてしまいます。ですから、悪魔が論争を持ちかけ、誘惑しようとしたら、私たちは神様の御言葉、聖霊の剣を持って、「聖書に書いてある…。」「聖書に記録されている…。」と言って、聖書の御言葉を持って断固として退けなければなりません。

「ヨハネの手紙 第一 3章 7節〜8節」に、『子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記されています。

「ヘブル人への手紙 4章12節」には、『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』と記されています。ですから私たちは、御言葉の上に堅固に立たなければならなりませ。

悪魔は、「貪欲の上」に「論理」という美しい衣を着せて、しきりに私たちを説得しようとします。悪魔と論争したら、説得されてしまいます。私たちは、悪魔との戦いにおいて世の知識を持っては勝つ事ができません。神様の知恵であり、神様の知識である御言葉の上に堅く立って、悪魔に敵対しなければなりません。ですから、聖霊の剣、即ち「神様の御言葉」をいただいてこそ、私たちは悪魔との戦いで勝つ事ができるのです。

厚い防寒服、防寒帽を身につけ、防寒靴、毛皮の手袋をはめた人は、どんな寒さも吹雪も恐れる事がありません。このように、神様の「すべての武具」を身につけている聖徒は、この世のどこに居ようと、どのような悪魔の攻撃を受けようとも、びくともしません。寒い冬、防寒衣服を身につけずに外に出たら凍死するのと同様に、神様が備えて下さった「すべての武具」を身に着けずにこの世に出て行くとしたら、霊的に死んでしまいます。

私たちは毎日のように、「真理の帯」と主イエス・キリストを知る「知識の帯」とを締めなければなりません。そしてイエス・キリストの十字架の血潮によって赦しと義を得たという信仰を持ち、「正義の胸当て」を着けて、良心の呵責を主の血潮の御力で洗い清めなければなりません。その次には、私たちは「救いの兜」をかぶって、"私は救いをいただいた人なのだ。十字架を通して古いものは過ぎ去り、新しい人となって五重の福音と三重の祝福の恵みをいただいたのだ・・・。"という信仰を持って頭に兜をかぶり、足には「平和の福音の備え」を履かなければなりません。

人生は、靴を履いて走るものです。裸足で走りません。赦しと救いの靴を履いて、幸いと祝福の靴、癒しと健康の靴を履いて私たちは走るのです。主の備えられた靴を履いて、そして私たちは信仰の胸当てを着けて、感覚的な知識を持って生きずに、天から与えて下さった御言葉の上に堅固に立って生きて行きながら、私たちはサタンとは論争をしません。

サタンがいくら甘優しく香ばしい誘惑をして来ても、私たちは御言葉の剣を持って対決しなければなりません。「笑わすな!聖書に記されている。神様がこう言われたのだ・・・。」と言いながら、完全武装して生きたら、この世の如何なる悪魔の暴風が吹き捲ろうと、冷たい吹雪が吹き荒れようと、私たちは気を失うことも凍死することもありません。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを豊かに得る人生を私たちは生きるようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられる父なる神様!私たちが寒い冬には、必ずあつい冬服に防寒帽をかぶり、毛皮の手袋をはめ、防寒靴をはいて外出します。いくら寒く、雪が降り積もっても、私たちは凍死しません。愛であられる天のお父さま!人たちが、悪霊の風が吹き荒れる世の中に神様の「すべての武具」を身に着けずに出て行ったら、皆が悪魔の仕業に負けて破滅されてしまいます。

栄光であられる父なる神様!願わくは、イエス様が十字架の上で身を裂き血を流して、私たちに与えて下さった「すべての武具」を身に着けるように助けて下さい。主である神様!腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、救いの兜をかぶり、信仰の大盾を取って、御霊の剣、即ち、神様の御言葉を持って生きて行く私たちとなるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!