教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「神様の恵み」
 






■聖書箇所

「コロサイ人への手紙 2章12節〜15節」
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。




今日、私は皆さんと一緒に『神様の恵み』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様の恵みとは、どのようなものでしょうか?私たちは、父母の恵み、師の恵み…などと語り、歌ってもいます。恵みとは、「値段」を計算する事ができないので、ただでいただく祝福を言うのです。親からの恵みも、その値段を計算することができないので、代価なしにそのまま贈物としていただいています。

太陽の光を、代価を払って我が物とする事ができるでしょうか?4分だけ呼吸をしなかったら、私たちは死んでしまいます。その空気を、お金を払って買う事ができるでしょうか?私たちは、それらをただ恵みとしていただいています。

では、神様の恵みとは何でしょうか?『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と、聖書「ヨハネの福音書3章16節」に記されています。皆さん!神のひとり子、イエス様の犠牲を「値段」で計算することができるでしょうか?

イエス様は、天地と万物、即ち、見えるものと見えないものをすべて親しく造られた創造主です。創造主のその死と苦難と流されたその血潮の価値を、どのように計算することができるでしょうか?とても計算することができませんので、その苦難を通して与えてくださった救いの祝福を、私たちはそのまま信仰をもっていただくのです。

それでは神様の恵みを、皆さんと一緒に具体的に見てみることにしましょう。




第一、私たちが罪を赦していただき、永遠に義とされます

第1番目に、神様の恵みのもっとも大きい部分は、イエス・キリストを通して私たちの罪が永遠に贖われ、永遠なる義が私たちに与えられるという事です。「コロサイ人への手紙 2章13節〜14節」に、『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と記されています。

アダムが神に背いてエデンから追い出された以後、私たち人類はアダムを通した遺伝的「罪」を持っています。追い出された人たちの中で生まれた私たちは、生まれる時から追い出された人生です。私たちは罪の中で母の胎に宿り、罪の中で生まれて、一生の間罪を飲み食いしながら生きて来た罪人たちなのです。ですから私たちには、アダムとエバからの「原罪」があるだけではなく、自ら犯した「自犯罪」をもいっぱいに持っているのです。

「エペソ人への手紙 2章 3節〜5節」を見ますと、『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・』と記されています。

従って、私たちの過去と現在と未来の罪が、イエス様によってすべて赦されるようになったのです。それと同時に、サタンの勢力の下から解放されました。これがまさに、恵みなのです。私たちが少しも努力することなく、代価を払う必要もありません。また、努力し代価を払うとしても何の効用もありません。それは、生まれる時から原罪に縛られ、この世を生きながら罪を犯して参ったので、これらを私たちが自ら清潔にする事ができないのです。罪を犯さない義人は、この世には一人もいないからです。

ですから、私たちの力で私たちが自ら解放される事ができない、この恐ろしい罪悪を、イエス・キリストが代わりに背負い、十字架の上で身を裂き血を流して贖って下さり、私たちを解放させて下さいました。これを私たちが信仰をもって受け入れる時、恵みをいただくようになるのです。

「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」に、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記されています。

イエス様が、神でありながら乙女マリヤを通して肉体を着て来られ、私たちと同じ人間になられました。イエス様は罪がない人間として生まれられ、罪がない一生を過ごされました。それで、罪がある私たちに代わって罪を背負われ、十字架の上で清算することができたのです。こうして、私たちの主イエス・キリストが血を流して私たちの罪を贖って下さった、この驚くべき祝福を私たちは信じる事によって、代価を払う事なしに受け入れるのです。

皆さんと私、一人一人の何かの功労や行為によっては、私たちが罪から解放される事はできません。ただ主を信じる事によって罪を赦され、そして主から義の賜物をいただくのです。「ローマ人への手紙 3章10節と23節」に、『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」』『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』と記されています。

私たちが罪を赦していただく事は、ちょうど風呂に入って垢を洗い流すのと同じです。皆さん、風呂に入って垢を洗い流してきれいになったとしても、着物を着なければ裸の人です。そのままではこの世には出られません。私たちがイエス・キリストの血潮によって罪を赦していただいたのですから、次にはキリストの衣を着なければ、やはり赦されはしたけれども裸の人です。血潮によって赦されたからには、次にはキリストの義の衣を身につけなければならないのです。

放蕩息子が帰って来た時、父親はしもべたちに「一番良い着物を持って来て、着せなさい!」言いました。放蕩息子は、堕落して豚の食べるいなご豆を食べ、豚の世話をした時、体も衣服も汚れました。その息子がいくら体を洗ったとしても、やはり裸の人です。それで父親は「良い着物を持って来て着せなさい。」と言ったのです。

皆さん!私たちが、いくら悔い改めてイエス・キリストの血潮で洗い清められたとしても、それだけでは着物を着ていない裸の人です。裸の羞恥を免れることができません。それでイエス・キリストが、義の衣服を着せて下さるのです。アダムとエバが神様の前に罪を犯してエデンから追い出される直前、神様が皮の衣を作り、彼らに着せて下さいました。このように、イエス・キリストを信じたら罪を赦していただくだけではなく、キリストの義の衣を私たちがいただいて着るようになるのです。

「コロサイ人への手紙 1章22節〜23節」に、『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』と記されています。

神様は、罪を赦して下さった後には、聖く、傷なく、非難されるところのない者とする為に、私たちにキリストの義の衣を着せて下さるのです。義の衣は、罪が全くない衣であり、神様の前で罪責とか罪の定めを感じず、悪魔の讒訴を無力化させる、イエス・キリストの義の衣なのです。この恵みを主は、全く代価なしに、信仰によって与えて下さるのです。

「ローマ人への手紙 8章33節」に、『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。』と記されてあり、「ローマ人への手紙 3章24節」にも、『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』と記されています。

従って、イエス・キリストの義を私たちが賜物としていただいたら、神様の前に少しも恥らう事なく立つ事ができ、一生の間1回も罪を犯さなかった人のように認められ、サタンがいくら讒訴しても私たちの人生には讒訴されるべき何事もないようになるのです。ですから皆さん!イエス様を信じ、拠り頼んで、罪を赦していただき、義の衣を着せていただいたと信じるようになりますよう、主の御名によってお祈り致します。




第二、悪魔の支配と権威が崩れます

第2番目に、私たちは悪魔の支配と権威から解放されました。アダムとエバが堕落するや、それより先に堕落した敵悪魔は、アダムとエバを罪の鎖で縛り、悪魔の国の奴隷にしてしまいました。人が悪魔の奴隷になったのは、罪の故であるのです。先に堕落した敵悪魔は、自分が誘惑して堕落させたアダムとエバとその子孫たちを完全に掌握して自分の奴隷にしたのです。ですから、私たちが悪魔の奴隷になった原因は罪の故なのです。罪がなかったら、悪魔の奴隷になって生きる理由が全くありません。

「コロサイ人への手紙 2章15節」を見ますと、『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記されています。アダム以後、悪魔はアダムの代わりにこの世の王として、人たちの「霊的・精神的世界」を支配し、人間世界を盗み殺し滅亡させる事を継続して参りました。

しかし、イエス・キリストが来られて人間の一切の罪をすべて清算してしまわれたので、人がイエス・キリストの血潮に拠り頼むや否や、人生の上に重くのしかかっていた罪と、人たちを縛りつけていた罪の鎖が一切崩れ去ってしまったのです。罪が離れ去り、罪の鎖がきれいに断ち切られてしまったのです。罪の鎖がきれいに断ち切られたので、私たちは悪魔の支配と権威から解き放たれたのです。悪魔は、もう私たちを捕虜としてその支配下に留め置くことができません。罪を利用して私たちを捕虜にし、私たちの霊と心と肉体と生活とを支配する悪魔から、私たちは解放されることができたのです。

日本が我が国を彼等の植民地として強制占拠しましたが、「8・15終戦」により我が国が解放されて、政治、経済、教育、文化、産業、軍事…等、すべてにおいて私たちが解放されて自由を得たのと同じく、私たちが罪の鎖に縛られて、罪の力により悪魔に支配されていましたが、イエス・キリストの血潮によって罪が赦され、罪が清算されるや否や、私たちは悪魔から解放されました。心も体も生活もすべてが悪魔の支配から解放されるようになったのです。ですから皆さん、これから私たちは悪魔のすべての仕業に対して、イエス・キリストの御名によって断固として敵対し、悪魔の仕業を退けなければなりません。

「ヤコブの手紙 4章 7節」に、『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』と記されています。私たちはもう合法的に、イエス様のうちにあって信仰により、霊的、精神的、肉体的、社会的に、悪魔から完全に解放を得るようになったのです。

「コロサイ人への手紙 1章13節〜14節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。/ この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』と記されています。戦いはイエス様がなさり、その勝利の実は私たちが代価を払うことなく享受するのです。

イエス様が、十字架に釘付けられて身を裂き血を流されながら、6時間もの間架けられておられる時、その苦痛は形容する事ができないものでありました。それを通して主は、私たち人類が神様に逆らい、罪を犯して悪魔の鎖に縛られていたすべてを清算してしまわれました。主が『完了した。』と言われた時、アダム以後の人類のすべての原罪と自犯罪を、イエス様がその身をもってすべて清算してしまわれたのです。

それと同時に悪魔の鎖も断ち切られてしまい、悪魔の支配権も消え去ってしまったのです。罪を通して私たちの上で王のように振舞った悪魔は、私たちが罪から解き放たれるや王座から追い払われ、私たちを支配していた主権を奪われてしまいました。イエス様が悪魔のすべての支配と権威の武装を解除してしまわれたのです。

こんにちも、イエス様を信じない人は「真理を知らない」ので、罪の鎖に縛られて悪魔の奴隷となっています。しかし、一旦イエス・キリストの福音を聞かされてキリストの血潮に拠り頼ったら、直ちに罪から解放されるようになるのです。罪の鎖は断ち切られ、悪魔の世界から解放されて、神様の愛する御子の国に移されるようになるのです。

今日のこの教会は、まさに神様の愛する御子の国です。キリストの十字架の血潮によって罪の鎖から解き放たれ、悪魔の家から解放された人たちがイエス・キリストの御名によって集まり、イエス・キリストの御霊が私たちの中に臨んでおられるのです。天国は、『「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』と言われました。キリストの血潮によって、悪魔から解放された私たちは神の御子の国に、神の御国は私たちの中に入って来てみわざを働かしているのです。

ですから私たちは、悪魔から解放された私たち自身をいつも見詰め、またと悪魔の奴隷の生活をしてはなりません。皆さん、聖書に『神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』と記されています。またイエス様が、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』と言われました。




第三、律法の罪の定めから解放されました

第3番目に、私たちは律法の罪の定めから解放されました。これも神様の恵みなのです。「コロサイ人への手紙 2章14節」に、『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と記されています。シナイ山で、モーセが神様からいただいた律法は、人間の行為をさばく為のものです。

律法は私たちを助ける事よりも、私たちの過ちを発見してさばく為に与えられたものです。それで、律法の前で義と認められる肉体がありません。「ガラテヤ人への手紙 3章10節〜11節」に、『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。』と記されています。

法律がなかったら、いくら罪を犯しても罪とされません。しかし法律が入って来たら、罪は法律の前に露出されます。同様に、律法がない時は、人間が罪を犯してからも「罪を犯した」事も知りませんでしたし、罪として規定されもしませんでした。ところが律法が入って来るや、律法が「これが罪だ」と言うので罪が露出するようになりました。即ち、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』と言う律法が入って来たので、他の神に仕えたら「罪になる」事を知るようになりました。

『偶像を造って、それらを拝んではならない。』と言う律法が入って来たので、偶像を拝む時に「私は罪を犯しているのだ。」と言うことを知るようになりました。『主の御名を、みだりに唱えてはならない。』と言う律法があるので、神の御名をみだりに唱える時、「罪を犯した。」事を知るようになり、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』との律法が入って来たので、「主の日を聖く守らなければ、罪になる。」と言うことを知るようになったのです。

「父母を敬わなければ、罪になる。」と言うことは、律法が入って来てはじめて知るようになったのです。『殺してはならない。』と言う律法を与えられる前には、殺人してからも罪になるとは知りませんでした。『姦淫してはならない。』との律法が入って来る前には、姦淫してから「私は罪を犯していない。」と平気でありました。しかし神の『姦淫してはならない。』と言う律法が入って来たので、姦淫したことが罪であると知るようになったのです。

『盗んではならない。』と言う律法があるので、盗む事が罪であることを知りました。『隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』とあるので、偽証が罪である事を知りました。『隣人のものを欲しがってはならない。』と律法を通して戒められたので、それが罪であることを知りました。以前には、他人のものを欲しがっても、それが罪であるとは知らなかったのです。

律法が与えられる前には罪とは思いませんでしたが、律法が与えられてからは、罪である事を認識するようになったのです。それで、私たちすべての人が律法の前に立つようになれば、罪のない人は一人もありません。すべての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができないのです。私たちが「律法的」に暮らそうとすればする程、ますます罪を犯すようになり、「道徳的」に生きようとすればする程、もっと不道徳になるのが人類であると言う事実を私たちは発見するようになるのです。

ですから、すべての人が罪を犯し、律法によって罪に定められたのですから、人は神の刑罰とさばきを避けることができません。聖書に、『罪から来る報酬は死です。』と言われました。

ところが、イエス様が私たちに代わって永遠の犠牲の供え物となられて、私たちの罪を背負い、永遠に清算してしまわれました。私たちの過去、現在、未来の罪をすべて主が清算してしまわれたので、もう罪が私たちを支配する事はできないのです。イエス様がすべて贖って下さったからなのです。

皆さん、新約時代に生きている私たちは、律法の罪の定めの下で生きているのではなく、聖霊の導きの下で生きているのです。今の私たちは神の永遠の罪の赦しと、愛の中で、聖霊の助けを受けて生きます。それで新約時代には、第1にも聖霊、第2にも聖霊、第3にも聖霊なのです。聖霊の御力によって生きないことには、私たちは罪の赦しの中で生活することができません。

ですからこれからは、罪がすべて清算され、罪に定める律法も廃止されました。そして神様の聖なる御霊・聖霊が私たちに臨んで私たちを占領し、私たちを助けてくださり、導いてくださり、悟らせてくださり、慰めてくださり、力を増し加えてくださり、叱ってくださるのです。イエス様を信じるすべての人の中におられる聖霊さまを、私たちは認め、歓迎し、受け入れ、拠り頼み、聖霊さまと共に生きて行かなければなりません。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記されています。私たちの罪を、イエス様の十字架の血潮がすべて赦して下さったのですから、律法が私たちを罪に定める事はできません。

「ヨハネの福音書 8章32節」に、『そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と記されています。ですから、私たちはイエス・キリストを信じる事によってキリストが私たちの罪を赦して下さっただけでなく、私たちの主イエス・キリストが聖霊を送って下さって、聖霊の御力によって私たちが罪を犯さずに暮らすようにして下さった、と言う真理を知らなければなりません。

また、私たちは毎日のように私たちの罪を悔い改め、イエス・キリストの血潮で洗い清められるだけでなく、私たちは聖霊さまのお導きを通して、神様の栄光の為に生きなければならないのです。




第四、「人間の行為の自慢」から自由になります

第4番目に、神様の恵みによって、「人間の行為の自慢」から私たちが自由を得るようになりました。「コロサイ人への手紙 2章12節」に、『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』と記されています。ですから、私たち人間の行為によって生きるのではなく、イエス・キリストと共に死んで葬られ、イエス・キリストを通してよみがえって永遠のいのちを得るようになったのですから、人間が取るに足りない善行をしてから、天井知らずに自慢する「愚」は絶対に犯してはなりません。

もう今日に至っては、私たちの行為によって私たちが罪の赦しを得たのでもなく、救われるのでもありません。全的にイエス様のお恵みによって、神様の愛によって私たちが救われたのですから、私たち人間の行為を、私たちが自慢してはならないのです。私たちがこの世を生きながら善行をし、隣人を愛し、正しく暮らすのは、天国に上った時、神様がそれに相応する報いをして下さる事を知っているからであって、私たちの行為によって神様がこの世で救いを与えて下さるのではありません。

「エレミヤ書 17章 9節」に、『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。』と記されています。「イザヤ書 64章 6節」には、『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。』と記されています。

神様は、人間の自慢をもう一つの「高慢の罪」として記憶なさいます。ですから誰も、神様の前で自慢してはいけません。自慢する人は、イエス・キリストによって自慢しなければなりません。人間の義は、決して行為によって成す事ができず、ひとえにイエス様を信じる事によって得るようになるのですから、私たちは「行為の自慢」から解放されなければならないのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章16節」に、『しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』と記されています。

「エペソ人への手紙 2章 8節〜9節」にも、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。/ 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記されているのです。

皆さん!神様の恵みは何でしょうか?神様の恵みは、ただイエス様の死と復活を信じて、救い主として受け入れる人に、このように四つの面から代価なく、溢れるばかりに注いで下さる祝福を言うのです。罪を永遠に贖ってくださり、永遠の義を価なしに下さる…、これが神様の恵みです。悪魔の支配と権威をすべて崩し去らせ、罪悪の鎖を断ち切ることによって悪魔の支配下から私たちを救い出して、神様の愛する御子の国に移して下さり、神様の民になるようにして下さる…、これが恵みなのです。

私たちを罪に定める律法を、イエス・キリストの血潮で永遠に取り除いてしまい、私たちの罪を永遠に赦して下さり、私たちに助け主聖霊を与えて下さって、聖霊さまと共に暮らすようにして下さった、これが神様の恵みなのです。私たち人間の行為の自慢を通して私たちが救われたのではなく、ただ主を信じる事によって救われるようにして下さる…、これが神様の恵みなのです。

私たちは、恵みのゆえに信仰によって救われました。それは、私たち自身から出たことではなく、神からの賜物です。ですから私たちには、自慢すべき何物も持っているものがありません。ひとえにイエス様を信じる事によって、ただ神様を信じる事によって、私たちは救っていただくようになるのです。信仰以外には、その何物も私たちを救うことはできません。

十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して、私たちを罪と悪魔と律法と人間の自慢から永遠に解放してくださり、救ってくださった、我が父なる神様とイエス・キリストを信じる時、皆さんと私は永遠に救われるようになるのです。救って下さるのは、御座に着いておられる神様と小羊イエス・キリスト以外には絶対にありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

また、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。』とイエス様が言われました。こんにち、「私を通してでなければ救われません。」「私たちの教団を通してこそ救われます。」と言うものがあったら、それは異端や邪術です。そのようなものはサタンであり、悪霊であり、地獄の使者です。神様が遣わされたものではありません。

神様の恵みは、ひとえに御座に着いておられる私たちの父なる神様と、小羊イエス・キリストによって、値なく、ただ信じる事によって私たちに与えられるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様!主である神様が、恵みをもって私たちを召してくださった事に感謝します。主は、私たちの行為によって私たちを召してくださったのでもなく、私たちの自慢の故に召してくださったのでもありません。

全知全能であられる我が父なる神様!ひとえに、イエス様が十字架に釘付けられ、身を裂き血を流してくださる事によって、我が神様は私たちの罪を永遠に赦して下さり、永遠の義の衣を着せて下さり、私たちを捕えていたサタンの主権から解放して下さり、悪魔の主権と支配とを取り除いて下さいました。

我が主が、私たちの為に十字架で血を流された事によって、私たちを罪に定めていた律法を永遠に取り除いて下さり、律法の代わりに助け主聖霊さまを与えて下さいました。また、主が十字架で釘付けになられ血を流された事によって、私たちは人間の行為の自慢から解放されました。罪を犯し、不義と醜悪そのものなので、捨てられて然るべき私たちであるのにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の血潮を信じる事によって、代価なしに私たちに救いを施して下さいました。

神様が与えて下さった恵みが余りにも大きいので、筆舌では形容する事ができません。信じるだけで救っていただく、この驚くべき祝福を私たちに施して下さった事に心より感謝申し上げます。天のお父さま!これから益々、御座に着いておられる父なる神様と、小羊イエス様をもっとあつく信じるように助けて下さい。ただ天のお父さまと私たちの主イエス・キリストだけを愛し、自慢し、感謝する私たちとなるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!