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「選択される神様」
 






■聖書箇所

「箴言 3章 5節〜7節」
3: 5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3: 6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3: 7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。




今日、私は皆さんと一緒に『選択される神様』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様は主権者として善悪を分別なさり、生きることのすべてに選択権を持っておられます。これが主権者の神聖な権利です。神様はどの誰ともこの権利を決して分かちません。




第一、アブラハムの生涯は神様の選択でありました

第1番目に、神様が信仰の祖先アブラハムを呼び出される時、アブラハムの意見を訊かれませんでした。神様はご自分の主権行使としてアブラハムを選択なさり、そして神様がアブラハムの生涯を決定なさいました。そうして神様が、故郷を出てカナンの地に行くようにアブラハムの歩みを促しました。

「創世紀 12章 1節〜2節」に、『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』と記録されています。

アブラハムがカナンの地に向かって行ったのは、自分が選んだことではありません。神様が主権的に選択されたことでありました。その神様の選択に従って、アブラハムが生まれ故郷、父の家を出てカナンの地に行く時、神様が彼を導いてくださいました。

ところが、カナンの地に到着していくらも経たずに大きな飢饉が襲ってきました。山川草木がみな焼けただれ、井戸はすべて涸れてしまいました。動物たちはみな飢え死にし、しもべたちはすべて去って行きました。神様がここで、神様の主権を試みられました。神様が主権的に選択してカナンの地に行きなさいと言われたのだから、最後まで神様の選択に従うか、アブラハムが自分自ら行く道を選択するか、を試みられるそこで、アブラハムは神様の選択に全的に拠り頼み、患難に耐え忍ばずに、自ら自分の未来を選択しました。

神様が選択して行かせたのですから、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、神様の選択にすべてを委ねるべきです。そうしたら神様が責任を負ってくださるのです。ところが彼は、耐え忍ぶことができずにカナンの地からエジプトに行く道を彼自らが選択しました。これは神様が選択されたことではありません。アブラハムが、自分自ら選択したことでありました。

アブラハムが自分の主権をもって自ら選択したことでありました。エジプトに下って行きながら、その時からは自分の運命は自分が責任を負わなければなりません。それで自分の妻に向かって、「あなたは見目麗しい女だから、人たちが私を殺して貴方を奪ってしまうだろう。これからは、私の妹と言うことにしよう…!」こうして、アブラハムは自ら生きて行くためにエジプトに下って行きました。

エジプトに着くや、彼の妻の美貌が知られて、パロ王が彼ら夫婦を宮廷に呼び入れました。「本当に、この女性があんたの妹か?」「はい、そうです。」「この男があなたの兄さんに間違いないな?」「そうです。」「それでは、よし。今からあなたを私が娶る!」自分自ら選択した道ですので、アブラハムは神様に助けを求めることも出来ません。自分が責任を負わなければなりませんでした。

それで、エジプトに下って行って自分の妻を奪われました。アブラハムは痛嘆しながら、その苦しさの中で神様に呼ばわり祈り、悔い改めました。「主よ。今からは絶対に、私が自ら主権を行使する愚はもう犯しません。私が自ら自分の道を選択するなどはもうしませんから、主よ。助けてください。」アブラハムは祈り、叫び、呼ばわり求めました。

神様がその祈りを聞かれて、パロの宮廷をひどい災害で痛めつけられました。事実を悟ったパロ王が、アブラハムの妻サラをアブラハムに戻して上げました。アブラハムは、妻と甥を連れてカナンの地に帰りました。そうして、神様が選択されたそのカナンの地に行って神様に従順に聞き従うや、神様はアブラハムを祝福してくださって、彼はたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、強大な部族に成長していきました。

しかし、アブラハムが年85歳になってもまだ息子がなく、世継ぎがないので、彼の心が動揺しました。神様は、息子を与えると約束してくださいました。しかしアブラハムは、神様の主権と選択に拠り頼まず、サラの勧めに耳を傾けました。「あなた、私はもう年をとって子を産めません。あなたの世継ぎを絶つことはできません。私の女奴隷を差し上げますから、娶って息子を産み、後継ぎにしてください…。」アブラハムはサラの言うことを聞き入れました。

こうして神様の選択に従わず、アブラハムはここで又、自分が選択した道に進みました。自分自らハガルを娶って彼女のところに入り、男の子を産んで、その子の名前をイシュマエルと名づけました。その結果、家庭に大きな揉め事が起こりました。しかし、自分が選択した結果が生んだことです。自分が責任を負わなければなりません。

皆さん!アブラハムの間違った選びによって、こんにち中東が世界の火薬庫になりました。アブラハムが86歳になってハガルを通して産んだイシュマエル、このイシュマエルの子孫がこんにちのアラブ民族なのです。1951年、アラブ連盟のエジプト、シリア、レバノン、サウジ、イラク、ヨルダン、そしてPLO等が連合してイスラエルとの交易を禁止する命令を発し、アラブ共同市場を形成して経済を促進させ、中東からイスラエルを追い出そうとする恐ろしい軋轢が中東で発生しました。

これは、アブラハムの間違った選択による結果です。アブラハムが神様の導きに従って選択したら、このようなことは起こらなかったでしょう。アブラハムが自分の意思によって選択したその結果により、その時から今まで中東が活火山になり、世界の火薬庫になっているのです。

皆さん、それを後日、アブラハムは大いに悔い改め、自分には選択する権利が全くないことを深く悟りました。それで、約20歳になったひとり子・イサクをモリヤ山に連れて行って屠(ほふ)り、たきぎの上に載せて火で焼いて、全焼のいけにえにしてわたしに捧げよ、と神様から言われた時、アブラハムは一言の文句もなしに従いました。

アブラハムが100歳になって得た息子を、全焼のいけにえにして捧げよ、と言われたのは、これは神様の選択です。アブラハムはこの時、自分の意思に従って反抗したり、自分が主権的に他の道を選択したりすることをしませんでした。神様に絶対に服従して、イサクを連れて三日の道のりを歩いてモリヤ山に行き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛ってそのたきぎの上に載せ、刀を振り上げて本当にイサクを屠ろうとしました。

その時、神様が仰せられました。『アブラハム。アブラハム。あなたの手をその子に下してはならない。』そして、「創世紀 22章16節〜18節」に次のように記されています。『「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」』

神様の主権的選択に従順に聞き従ったら、その次には神様が責任を負って下さるのです。しかし神様の主権的選択に反抗して、自分が主権行使をして自分の運命を自分が選択したら、その次からは自分が責任を負わなければなりません。人が自分で選択したことに対しては、神様が責任を負っては下さいません。




第二、ヨセフの生涯は神様の選択でありました

第2番目に、ヨセフの生涯を全的に神様が選択なさいました。神様はヨセフに、神様がヨセフを通して行おうとされる計画を2回も、夢を通して見せてくださいました。1回は、兄さんたちと一緒に畑で束をたばねていましたが、自分の束がまっすぐに立ち上がり、兄さんたちの束が回りに来て、自分の束におじぎをする夢を見ました。その次にまた夢を見ました。見ると、太陽と月と11の星が自分を伏し拝みました。これは、ヨセフが主権者になって、家庭を顧ていくようになることを予言してくださったことです。

ところが、ヨセフに見せてくださったその夢を成就する方法は、神様が選択されました。ヨセフが選択したのではありません。一方、神様が選択される方法が必ずしも平坦な方法であるとは言えません。神様がヨセフに対して計画したことを成就するために選択された道は、険しい道でありました。

ヨセフが13歳の時に、兄さんたちが働いている牧場に行きました。そこで兄さんたちはヨセフを捕らえて、通りかかったミデヤン人の隊商に売り飛ばしました。隊商たちはヨセフを引っ張って行き、エジプトで、パロの廷臣ポティファルに奴隷として売り渡しました。

ヨセフはポティファルの家で10年間、奴隷生活をしながら成長しました。これが、神様が選択された道でありました。神様の選択が、必ず幸運に恵まれた過程だけではありませんでした。苦しく、辛いものでありましたが、それを通してヨセフは心身が共に立派に成長しました。

そして次には、ポティファルの妻が頻りにヨセフを誘惑しました。それを拒むや、後にひどい濡れ衣を着せられて、ヨセフは王の囚人が監禁されている監獄に投獄されました。それから2年の間、監獄に閉じ込められていたのは彼自身が選択したのではありません。神様の選択でありました。その監獄に、パロ王の献酌官長と調理官長が投獄されて入って来ました。

ある日、彼らが夢を見ましたが、それをヨセフが解釈して上げました。ところがヨセフの解釈通りに、献酌官長は再び献酌の役に戻され、調理官長は木に吊るされました。ヨセフは献酌官長に、自分は無罪である、機会があったらぜひ救い出してくれ、と熱く頼みました。しかし献酌官長は出獄するや、それをきれいに忘れてしまいました。

それから2年の後に、パロ王が夢を見ました。彼がナイル川のほとりに立っていましたが、ナイル川から、つやつやした肉づきの素晴らしい7頭の雌牛が上がって来て草をはみ始めました。すると、その後を追いかけるように、ナイル川からほかのやせ細ってとても醜い7頭の雌牛が上がって来て、素晴らしい肉づきの7頭の雌牛を食い尽くしました。そこでパロ王は目が覚めました。

それからパロ王はまた眠って、再び夢を見ました。見ると、一本の茎から肥えた良い七つの穂が出て来ましたが、すぐその後から、東風に焼けた、そして萎びた七つの穂が出て来て、あの肥えて豊かな七つの穂を飲み込んでしまいました。その時、パロ王は目が覚めました。パロ王は心が騒ぎました。

それでパロ王は、エジプトのすべての呪術師と知恵ある者たちを呼び入れて夢の意味を訊きましたが、誰も答えられません。その時、献酌官長がパロ王に言いました。「王よ。私が罪を犯して監獄にいた時に、そこに一緒にいたヨセフという若いヘブル人が私たちの見た夢を解き明かしましたが、すべてが彼の解き明かし通りになりました…。」王が、すぐにヨセフを呼び寄せるように命令しました。

ヨセフが、王の前に呼び出されて王の夢の話を聞き、即座に解き明かしました。「この国に、もうすぐ7年の大豊作が訪れます。それから、その後に7年の飢饉が起こりますが、その飢饉が如何にひどく厳しいものか、前の7年の豊作は忘れられ、跡もなくなります。二度も夢を見たのは、神様が確かにこの事をなさると言う意味です。」これを聞くや、パロ王は膝をたたいて言いました。「あなたのように、聡明で知恵のある人は他にいない。私があなたを国務総理に任ずる…。」そして、自分の指輪をはずしてヨセフの手にはめて上げ、凡ての人々にヨセフの前にひざまずくようにしました。

そうして、ヨセフはエジプトの国務総理になり、エジプトと全中東一帯を飢饉から救い出したのです。ヨセフの兄さんたちは、後になって父親が世を去るやヨセフを売り飛ばした過去の事が恐ろしくなって、ヨセフのところに来て、こう言いました。

「創世紀 50章18節〜21節」に記録されています。『彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」 ヨセフは彼らに言った。「恐ることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』

皆さん!ここで見ますと、ヨセフの人生を神様が選択されたので、彼が奴隷でいようと、監獄に閉じ込められていようと、また嬉しい時も、苦しい時も、神様が責任を負ってくださり、後には神様がヨセフを高めて、エジプトの国務総理にして下さったのです。ですから、神様は絶対主権的選択の権限を持っておられるのです。神様の選択に背を向けて、人間自身が自ら行く道を選択したら、人間は限りない苦痛と患難に会うようになるのです。




第三、私たちの生涯と選択の教訓

第3番目に、私たちが考えてみたい事は、私たちの生涯と選択の教訓に関してです。皆さん、私たちがこの世を生きて行きながら、毎日のように「あれか?」「これか?」選択しなければなりません。しかし、ハガルを娶ったり、エジプトに下って行ったりしたアブラハムのように、自分が主権者になったり、自分の選択の権利を主張したりしては決していけません。アブラハムは自分自ら、自分の主権を行使し、自分の行く道を選択したので、その結果、悪魔とこの世と破滅の苦しみを体験しました。

こんにち、あまりにも数多く人々がこの世を選択します。肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求します。その結果、数々の悲しみと苦痛が伴います。人間は自分が選択した事に対しては、自分が責任を負わなければならないからなのです。ですから、私たちはイエス様の模範を教わらなければなりません。イエス様は、ご自分の主権による選択は決してなさいませんでした。イエス様は全的に、神様の選択に従順に聞き従われました。

「ヨハネの福音書 6章38節」に、『わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。』と記されています。イエス様に対する神様の選択は、奴隷となった人間の姿で来て、そして死ぬことでありました。それはイエス様の御心によるものではありません。神様がそのように選択されたのです。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」を見ますと、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

神様が、イエス・キリストをこの世に遣わすことに選択された時に、イエス様はそれに従順に聞き従いました。十字架に架けられて死になさいと言われた時は、死ぬことも神様の選択であってイエス様の選択ではありませんでした。完全な従順でイエス様は一貫しました。イエス様の生涯を通しては、悪魔が来て主権行使をしなさい、あなた自ら選択をしなさい、と頻りに誘惑しました。

主が荒野に行かれて、40日40夜断食した後に来られた時、悪魔が来て「この石をパンになるようにして食べなさい。あなたは主権を行使して、石をパンにして食べることをあなた自ら選択しなさい。」と誘惑しました。「マタイの福音書 4章 4節」に、『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と記されています。断固として、ご自分自らが石をパンに変化させて食べることはなさいませんでした。そのような選択をなさいませんでした。

悪魔が、イエス様を神殿の頂きに立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」と誘惑しました。しかしイエス様は、悪魔の誘惑に従って選択することをなさいませんでした。「マタイの福音書 4章 7節」に、『イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」』と記されています。神様がそのような選択をなさらず、そんな命令もなさらなかったから、わたしはそうしないと、イエス様は断固として拒絶なさいました。

また悪魔が、イエス様を非常に高い山に連れて行って天下万国の栄華を見せながら、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑しました。その燦爛たるこの世の栄華をご覧になりながら、イエス様はそれを選択しませんでした。イエス様は神様の選択権に絶対服従なさいました。「マタイの福音書 4章10節」に、『イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」』と記されています。いくら悪魔が誘惑しても、イエス様はご自分の主権的選択をなさいませんでした。

最後には、ゲッセマネの丘で神様は、イエス様に十字架に上って行って死になさい、と言われました。イエス様の運命を神様が選択されました。「マルコの福音書 14章36節」を見ますと、『またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』と記されています。

イエス様が選択するとしたら、十字架を負わないことでありました。その苦しい死を、イエス様は避けたかったのです。『しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』と、選択権を父なる神様に委ねられました。

それで父なる神様が、イエス・キリストを三日目によみがえらせ、その名前を至極高められて、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがその前に膝をかがめ、「イエス・キリストは主である。」と告白するようにされたのです。




第四、私たちの覚悟

第4番目に、私たちは、これから新しい覚悟をしなければなりません。私たちは、どのような新しい覚悟をしなければならないでしょうか。「古い人」と「人本主義的人生」は徹底的に死なせ、そして葬って、「イエス・キリスト中心主義」で生きて行かなければならないのです。私たち中心に考え、善悪の選択を私たちが欲しいままにするとしたら、私たちは神様から捨てられます。そのような選択の結果は、絶対に神様が責任を負ってくださいません。

「ローマ人への手紙 6章 6節〜8節」に、『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。』と記されています。イエス様と共に死に、共に葬られ、共によみがえって、イエス様と共に従順に聞き従いながら生きて行かなければならないのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」にも、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記されています。ですから、私たちはこの世を暮らしながら、イエス・キリストと共に神様の前に祈り、神様の選択を頂かなければなりません。

人生を生きて行きながら、私たちは四つの重要なことを選択しなければなりません。配偶者を選択しなければなりません。夫を、妻を選択しなければならないのです。私たちが自ら、美しい、家門が良い、教育を受けている、だからこの男性にする、この女性にする、と選択したら、その後のすべての人生は自分が責任を負わなければなりません。

しかし、神様の前にあつく祈り、神様が私たちの配偶者を選択してくださることを願い求めるとしたら、自分の人間の目から見る時には不満足に思われる男性、又は女性であっても、結婚したら、最後まで神様が責任を負ってくださいます。日に日に立派な夫と妻になることができるのです。

私たちの職業の選択も同様です。自分勝手に、この職業が良い、あの職業が気に入るとして選択したら、それからはその職業による興亡・盛衰に関しては、自分が責任を負わなければなりません。しかし、神様にその道をお委ねして、神様が選択してくださった道に歩んで行き、神様に従順に聞き従うとしたら、すべてを神様が責任を負ってくださり、導いてくださるのです。

人生観もそうです。自分の人生観を自分が思うままに選択してよいでしょうか。神様の膝の前にひれ伏して、神様に自分の人生を委ね、神様が定めてくださる人生観を持って暮らさなければなりません。

私たちの宗教もそうです。自分が信じたいとしてこの宗教を信じたり、あの宗教を信じたりすることができるでしょうか。神様が私たちを造られましたから、神様が私たちに信じなさいと言われる宗教を信じなければならないのです。『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです…。』と言われました。ですから、我が神様の選択と、我が神様の決定に、私たちが従順に服従しなければなりません。

私たちはすべての事において、神様に仕える為に食べ、飲み、働きながら暮らさなければなりません。私たちは神様の「奴隷」であり、「しもべ」であり、「下男」であり、「被造物」に過ぎないのです。私たちが「主人」顔をし、「主人」のように振舞ってはいけません。私たちは「主権行使」をすることができません。私たちが主権を行使して選択することはすべて間違ったことです。

我が神様が、私たちの絶対主権者であられるのです。「詩篇 123篇 1節〜2節」の御言葉です。『あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。』

私たちの一生の主人は、神様です。私たちは神様の奴隷であり、しもべであり、下男なのです。ですから、私たちは神様を見上げて、神様が私たちの為に選択され、主張されることを待たなければならないのです。人は生きて行きながら、何事にあっても主権的行為である選択をしてはいけません。祈りと願いを通して、選択はひとえに神様にお委ねしなければなりません。神様が選択される道に歩めば、最後まで神様が責任を負ってくださり、共に歩んでくださり、手を取って導いてくださるのです。

皆さん、「箴言 3章 5節〜7節」に、『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。』と記されています。私たち人間の明哲がいかに立派であると言っても、一寸先のことを知りません。私たちがいくら知恵深いと言っても、人生の問題を解決することができません。

アルファであり、オメガであられ、最初であり、最後であられる我らの神様、天地万物を造られ、すべてを支配なさる神様、その神様に私たちが私たちの道をお委ねし、神様を認め、拠り頼めば、神様は神様の知恵と聡明と明哲と御力をもって、私たちの手を取り、私たちを導いてくださるのです。「詩篇 37篇 5節〜6節」に、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』と記されています。

私たちが自分で選択した道は、自分が責任を負わなければなりませんが、神様が選択された道は、神様が責任を負って下さるのです。ですから皆さん!私たちはいつも主の前に出て来てひざまずき、手を上げて、「主である我が神様!奴隷の目が主人に向けられているように、私は主であられる神様を見上げます。神様が私の道を選択してください。神様が私の人生を導いてください。私の配偶者を選択してください。私の職業を選択してください。私の人生観を選択してください。私の信仰を選択してください・・・。」神様の選択に私たちの身と心を委ねる時、私たちは、強く雄雄しく大胆に、確信をもって神様のお助けを信じ拠り頼みながら、成功した人生を生きて行くことができるようになるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様!こんにち、余りにも多くの人たちが、自分の知恵と明哲に拠り頼み、神様を認めようとせず、自分が知恵深いと思って高慢に立ち働き、失敗と失望に見舞われてからは破滅していきます。主である神様!今日、この時間、お祈り致します。アブラハムの教訓を全人類が教わるように助けて下さい。アブラハムが神様の選択に背を向けて、自分自ら人生の道を選択した時、アブラハムは悲嘆、困苦に襲われました。しかし神様の選択に従順に聞き従った時には、信仰の祖先として崇められ、栄華をその一身に浴びるようにして下さいました。

 全知全能であられる、我が天のお父さま!私たちが皆、主に祈り、すべてを主にお委ねして、主の御手が私たちをお導き下さるように祈り求める私たちとなるように助けて下さい。神様の選択に従順に聞き従って人生を生きるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!