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「復活された神様の夢」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 15章12節〜28節」
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。




今日、私は皆さんたちと一緒に『復活された神様の夢』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちの一生の中で、夢見ていた希望がまるで「手鏡が床に落ちて粉々になった」ように打ち砕かれて、絶望の暗いトンネルを通過した記憶がある方がおられると思います。ところが時が過ぎて、砕かれたと思った夢が忽然とよみがえって現実に現れたとしたら、その感激は形容できないものであると思います。

イエス様の復活は、まさに神様の破れた夢の復活です。




第一、神様のエデンの夢

神様はエデンの園ですばらしい夢を見られました。神様は、はじめにご自身の形に人を造られました。天使を、そのように造られたのではありません。人をご自身の形に造られたのです。全知全能なる神様が、人を神に似るように造られたのですから、人がどれほど卓越した存在かおわかりになると思います。

以前、日本の筑波大学のある遺伝子学教授の書いた本を読んで感動しました。本来人は多くの細胞を持っていて、約1キログラムに1億の細胞があると言うのです。ちなみに私は75キロですから、75億の細胞で出来上がっていることになります。その細胞は顕微鏡でようやく見られるほどに小さいものですが、そのような細胞の中にテープがあり、そのテープにおよそ30億個の遺伝子情報が記録されていると言うのです。

ところが、30億個の遺伝子情報を持っている人が、一生の間に使うのはわずかその5%に過ぎないということです。もしもこのすべて即ち、100%をみな使うとしたら、人は神様に近い人生を暮らすようになるというのです。到底想像することもできない、爆発的な知恵と聡明と明哲と力が現れて、それこそ今の人間の常識を超越した存在になるだろうというのです。

アダムとエバが堕落しなかったら、神様が与えてくださった私たちの細胞の中にある30億個の遺伝子情報がそのまま私たちの中で活用されて、私たちが皆、アインシュタインのようにになり、ベートーベンのようになり、偉大な将軍たち、偉大な芸術家たちになれることでしょう。しかし堕落した人生たちは、その遺伝子情報の95%はスイッチを切ってしまって、僅か5%を使用しているのにも、こんにち、人間は万物の霊長となって生きているのです。

ですから、神様が人間を造られる時に、いかに素晴らしく造られたかを私たちは想像することができます。このような人間を、神様はエデンを造ってそこに住まうようになさいました。多くの人は楽園と言うと、木がおい茂って鬱蒼としており、草が多く、花が咲き、鳥があり、水が流れる…、そのようなところに人を住まわせたと想像しますが、神様が備えられたエデンの園はそのようなところではありません。

神様は、エデンにアダムとエバが住む形容することができない美しい宮殿を建てられたはずです。その美しい住居と共に、色とりどりの花が満開して香りを発し、鳥は飛び交いながらさえずり、動物が跳ね回り、あらゆる果物を実らせて人が飽きることなく食べられるようにし、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみがない麗しい世界を造られて、アダムとエバとその子孫たちを神様の子供とし、民として、神様は一緒に暮らすことを願われました。

そして神様は、全宇宙をアダムとエバとその子孫に相続させ、生み、増え、彼等が地を満たして、神様と共に一緒に暮らす…、このような美しく遠大な夢を神様は持っておられました。ところが、この神様の夢がさんざんに砕かれました。




第二、悪魔の陰謀と砕かれた神様の夢

神様は、アダムとエバに頼んだことがありました。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』何故でしたでしょうか?「善悪の知識の木の実」と言うものは、主権を表示するものだからです。神様だけが絶対主権を持っておられるので、神様だけが「善・悪」を決定するのです。

家庭でも、父母が主権を持っているので、父母が「善い・悪い」を決定します。子供がそれを判断する事はできません。主人が「善い・悪い」を決定するのであって、雇い人がそれを判断することはできません。神様は、私たちの主人であり、私たちの父母として、神様だけが主権を持って「善い・悪い」を決定します。人は神様の決定なさったことに従順に聞き従うだけです。

もしも、神様の主権に挑戦したら、神様の子であっても神様は罰し、死に処するのです。ところが、その神様の命令にアダムとエバが逆らいました。皆さん、エデンのように素晴らしい環境の中で暮らしていても、悪魔が入って来たら不平を植え付けます。悪魔は不平分子です。どこでも、悪魔が入って来たら不平するようになります。いくら立派な家庭、いくら素晴らしい環境であっても、悪魔が入って来たら必ず不平を植え付けます。

アダムとエバに、不平すべきことが何があるでしょうか。それにも拘わらず悪魔は来て、エバに言いました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」不平を植付け始めました。エバは「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました。」と答えました。

悪魔は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」即ち、神様のように主権者になって暮らしなさい。奴隷のように何事にも従順に聞き従いながら暮らす必要がどこにありますか。あなたがたが主権を振り回すようになることを神様は恐れて、あなたがたがその木の実を取って食べるなと言ったのです、とそそのかしました。エバの心に不平の種が蒔かれました。

人の心の中に不平の種が蒔かれると、人は反逆をし始めます。どの集団にも不平分子が入って来たら、反逆がおこります。教会にも不平分子が入って来たら、反逆が起こるようになります。悪魔はいつも不平を植え付けます。アダムとエバがその素晴らしいエデンの園にいながら不平を受け入れるや、神様に反逆して善悪の知識の木の実を取って食べました。神様の言い付けに背きました。

それで、アダムとエバはエデンの園から追い出され、それから後には大変な苦労をするようになりました。神様を除いて主権者になったと思いましたが、エデンから追い出された彼らは、道を失ってしまったのです。皆さん、人は山に入って道に迷ったら大変です。都会の中にあっても、迷子になったら大変です。その時から人は宇宙の孤児になりなりました。神様から追い出されたアダムとエバ、そしてその子孫たちは宇宙の孤児になり、道に彷徨う存在となり、遂には永遠なる死の断崖に落ちてしまう悲劇的な存在になりました。

それだけではありません。洪水に溺れて真理を忘れてしまいました。悪魔は人のところに来て嘘を言います。「肉の欲、目の欲、この世の自慢だけを追求したら良いんだ。この世の快楽と欲を追って暮らしたら、それで良いんだ。それ以外は考えなくても良い。天国とか地獄なんかは無いんだ…。」この悪魔の嘘をまともに聞き入れて、人たちはこの世の朽ちるものを追い求めながら生きてからは、群れをなして地獄に落ちて行くのです。

そして人生は、光を失ってしまいました。真っ暗い闇の中で生きています。何が真理なのかわかりません。アメリカ南部のある州に行くと、地下に大きな湖があります。その湖の中に棲んでいる魚たちは目がありません。光がないので、目が必要ないのです。皆さん、この世の人たちは、もう光を失ってしまいましたので「霊的な目」がありません。霊的に死んでいるので、何も見ることができません。

神様も、その御子イエス・キリストも見ることができません。光を失ってしまったら周囲が真っ暗闇です。暗闇の中には獰猛な獣たちが咆哮しており、あらゆる汚れた虫けらがわいてうごめき、這い回ります。光がないところで人間は腐敗し、不道徳な事を欲しいままに行い、不義と醜悪に慣れて行きます。世の中全体が罪悪の中で息づくようになるのは、光を失ってしまったからです。

光が照り輝けば暗闇の勢力が退き、汚れた虫けらどもが去り、死亡がなくなり、いのちで満ち溢れるようになるのです。ところが人たちは、エデンから追い出された以後に光を失いました。また自由を失いました。彼等は、神様から離れたら自分たちの心のままに独立して素晴らしい人生を営むようになる、と思ったのです。ところが、神様を離れて出て来るや、罪のしもべになり、世俗のしもべになり、病のしもべ、呪いのしもべ、死のしもべになってしまったのです。主人どころかしもべになり下がってしまいました。

「ヨハネの手紙 第一 5章19節」に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』と記録されています。全世界が悪い者の支配下に入っているのです。また「エペソ人への手紙 2章 2節」を見ますと、『そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』と記録されています。

人たちは、空中の権威を持った支配者・敵悪魔に従って悪魔が導くがままに生きて参りました。それで人たちは、盗まれ、殺され、滅亡される悲劇的な人生を生きて参り、この問題を解決するために政府が立ち上がって努力してもできず、科学者たちが解決してみようと頭をふりしぼってもできませんでした。

たくさんの宗教が立ち上がって、人間のこの悲劇的な問題を解決しようと数限りなく努力しました。それでも解決することができません。人間は罪の奴隷であり、世俗のしもべであり、悲しみのしもべであり、病の頚木(くびき)を背負って、そこから脱け出ることができず、貧乏と呪いの中で悶え、足掻き、死んでからは地獄に落ちて行く…、この悲劇的な運命を解決する道理がありません。




第三、神様の夢を復活させる為に

『しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。』と聖書に記されています。誰が、この挫折と絶望と苦痛から解放させてくれる事ができるでしょうか。2000年前に、神様がその御子イエス様をこの世に遣わされたのは、神様の夢を復旧させるためでありました。エデンでの神様の夢が散々に砕かれました。神様はご自身の砕かれた夢を再び復旧させるがために、その御子イエス様を遣わされました。完全な神様が、完全な人として来られました。

「イザヤ書 7章14節」に、『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。』と記されています。イエス様は神様でありながら、処女の身を通して完全な人となって来られました。

「ヨハネの福音書 1章14節」にも、『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』と記されています。イエス様は罪なき人として生まれられ、33年の間罪を犯さずに暮らしました。

それで、罪を犯して罪の奴隷となった私たちの身代わりになって、主は私たちを贖って下さることができました。主は父なる神様の御心に従って、33歳の時に自ら進んで十字架を背負われました。ローマ政府がイエス様を十字架に釘付けにしたのではありません。ユダヤ人の宗教家たちがイエス様を十字架に釘付けにしたのでもありません。イエス様は天と地とその中のすべてのものを造られ、そのすべてを支配する権威を持っておられる神様です。数多い天の使いたちを動員して彼らを滅ぼすことができるお方でありました。

それにも拘わらず、イエス様は全く力がないもののようになって十字架に架けられました。それは人類の罪を代わりに主が清算してくださる為でありました。主が身代わりになってくださらなければ、人類は皆、罪の中で永遠に滅亡されるしかありません。人類の堕落の責任をすべて背負われたイエス様は、罪の責任をもすべて背負ってくださったのです。

「ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記されています。私たちが罪を犯したので、イエス様は私たちの罪悪を代わりに背負われて十字架に上られました。そして流して下さったその血潮が私たちの過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も一切を清算して下さいました。主が十字架の上で、「完了した。」と言われた時、私たちのすべての罪を清算してしまわれたのです。

このような事は、想像を超越します。人は行いによって義と認められる事はできません。しかし、イエス様の血潮は私たちの一生の罪を贖って下さり、信じる者はみな、代価なしに義と認められる偉大な奇跡を施して下さいました。

イエス様はまた、堕落と世俗のすべての責任を私たちに代わって背負われました。「ペテロの手紙 第一 1章18節〜19節」に、『ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、/ 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』と記されています。

悪い習慣にひたり、汚れた行為におぼれていた私たちを、イエス様がその血潮で聖めてくださったのです。腐敗と不正で汚れたこの世の中で暮らしてきた私たちの咎をイエス様がみな背負ってくださったのです。汚れた悪霊共が追い出され、主の聖なる聖霊が臨まれたのです。

それだけではありません。主は私たちのすべての心と肉体の病を負ってくださいました。心の病は悲しみです。人たちは心が病に罹って、悲しみでいっぱいです。この世界には悲しみのない所がありません。喜びは束の間、悲しみは川水のように溢れながら果てしなく続きます。この心の病を誰が癒すことができるでしょうか。人たちはこれを癒してみようとして、酒を飲み、放蕩し、麻薬中毒者にもなりますが、悲しみの川水は涸れることがありません。

イエス様は、この人類の心の病を背負われ、人類の肉体の病も代わりに背負われて、ピラトの庭で無惨な鞭打ちに会われ、背中の肉が飛散し、血を流されました。聖書には、『キリストの打ち傷の故に、あなたがたは癒されたのです。』と記されています。私はこの福音を、行く所どこででも大胆に宣べ伝えています。

そしてイエス様はの呪いの責任を取ってくださいました。アダムとエバが堕落したことによって、この世にいばらとあざみが生えました。家庭をなすや、幸福が訪れると思いましたが夫婦の間に憎しみと誤解のいばらとあざみが生じて、互いに傷つけ合って血みどろになり、遂には互いに背を向けて離れ去る家庭が少なくありません。

お隣同士で愛し合いながら暮らそうとしても、いばらとあざみが生じて妨害します。民族と民族、国と国との間に誤解のいばらとあざみが生じて互いに銃口を向け合って戦います。どこにも平和がありません。呪いが臨んでいるからです。イエス様はこの人類への呪いを、十字架の上で背負われました。『キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました…。』と、「ガラテヤ人への手紙 3章13節」に記されています。

主はまた、私たちの貧困も背負ってくださいました。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記されています。

皆さん、イエス様を信じる私たちには、貧しくなる権利がありません。キリストを信じる皆さんは、義務的に祝福を受けなければならないのです。何故? イエス様が皆さんの為に一生を貧しく暮らし、「枕するところがなかった。」のは、皆さんを裕福にして上げる為であったのです。聖徒さんたちがみな貧しかったら、私たちは神様の事業である教会開拓も、国内外宣教も何もできません。聖徒さんたちは、神様の事業に励むために貧しくなる権利がないのです。それでイエス様は、貧乏と呪いを十字架の上で背負って行かれたのです。

またイエス様は、死の責任を背負われました。「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」の御言葉です。『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

皆さん、死に繋がれて恐れおののいている人類を解放してくださるために、主は身代わりとなって死なれ、葬られてから三日目に、よみがえられる事によって死と陰府を滅ぼしてくださいました。イエス・キリストは、死なれてからよみがえられる事によって死の恐怖を清算してくださったのです。

人が罪を犯してから監獄に入っている間は、罪は清算されていません。監獄から解き放たれたら罪は清算されたことになります。人が死んでいるなら、罪過によって墓の監獄に入れられているのです。しかし、よみがえったら罪過を清算したことになります。

イエス様が、私たちの身代わりとなって十字架の上で死なれ、葬られて墓に入れられてから三日目に、すべてを清算してよみがえられました。そのことにより、イエス・キリストにあって私たちの罪が清算され、世俗、悲しみ、病が清算され、呪いと貧乏が清算され、死と地獄が清算されてしまったのです。

インドの宣教師ステンリー・ジョーンズが、路傍伝道をしていました。そこへイスラムの信者一人が大声を張り上げながら説教を中止させて、「お前たちのキリストは跡形もないじゃないか。私たちには、メデナに行けばモハメットの墓があり、その中にはモハメットの死体があるので、この方が本当にこの世に来られたという証拠があるんだ。しかし、あんたたちには、エルサレムに行ってみてもイエスの墓という処には死体も何もないではないか。イエスが本当にあったのかどうか、分からないじゃないか?」と喚きました。

その時、ステンリー・ジョーンズが答えて言いました。「確かにそうです。私たちの主イエス様は墓の中にはおられません。イエス様はこの世に来られて、私たちに代わって死なれながら私たちの負債をすべて清算なさり、よみがえられて天に昇られ、今は神様の御座の右側にすわっておられるので、墓にはおられません…。」

皆さん、イエス様がよみがえられた事によって、神様の夢が復活しました。エデンの園で持っておられた神様の夢が散々に壊れましたが、イエス様が死なれてからよみがえられる事によって、神様の夢を再び復活させたのです。イエス様は、エデンの園に入って行く道になられました。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』と言われました。

イエス様は道を教えてくださる方ではなく、まさにイエス様が道なのです。エデンから追い出された後、神様のところに行ける道を失ってしまった人たちが、イエス様を救い主として受け容れて信じたら、キリストによって私たちは神様の懐に抱かれるようになるのです。

悪魔は今日も、この世を横行しながら人たちを誘惑しています。「肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しながら生きて行くのが最上策なのだ。もっと快楽にふけりなさい。嘘を吐いても構わないから、欲しいものはみな手に入れなさい。手段方法構わずに金持になり、権力を追求しなさい…。」悪魔は平気で嘘を言います。

皆さん、イエス様が真理です。「悪魔の言うことは偽りであり、嘘です。わたしを信じ、神様に仕えながら、正しく暮らす人は天国に入って行きます…。」とイエス様は言われます。皆さん、こんにち、イエス様を信じる人たちは特別な知識を持っておられる方たちです。神様がおられる、と言うことを知っていると言うことは、驚くべき知識です。神様が、その御子イエス・キリストをこの世に遣わされたと言う事は、世の人たちは知らない知識です。

イエス様が、十字架の上で死なれてからよみがえられる事によって、私たちをすべて古いものから救ってくださったと言う、この驚くべき知識を持っておられる皆さんは天国の有識な人たちであり、天国の知識を持った人たちです。この知識はたくさんの人たちが持っていないものです。まさに、イエス様は私たちの真理なのです。ですからこの世が真っ暗闇であっても、主には偽りがありませんから、イエス様を信じてその真理の上に立った人は結局は明るい光の中に出るようになるのです。

M・ルタ−は宗教改革を行う時、大変な苦労をしました。その時、彼はいつも口で告白しました。「神様は生きておられる。イエス様が真理だ!この世のすべては偽りだ。私はイエス様にだけ従う!」。こう言いながら多くの苦しみと試みから勝利を得たと言われています。イエス様が私たちの光です。イエス様が言われました。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』

光があるところには、汚れた虫も恐ろしい獣もなくなります。太陽が上ると夜活動していた虫や動物たちがいなくなります。先週私が一週間、ミャンマ−に、そこからシンガポールに行って聖会を終えて帰って参りました。金浦空港に向かって行く時には、街道の並木に葉もなく、草も見えませんでした。ところが、1週間して帰って来ながら見ますと、木々が新芽を吹いていました。太陽の光が作り出す調和です。光が照ると命の働きが起こるのです。イエス様は光です。イエス様が私たちに照り輝くと、暗闇の働きは過ぎ去り、義と喜びと平安が満ち、信仰と希望と愛が満ち溢れるようになるのです。

イエス様はまた、私たちの自由です。イエス様が来られて、私たちを完全に自由にして下さいます。「ヨハネの福音書 8章32節」に、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と記されています。イエス・キリストが十字架の上で贖ってくださった真理を悟れば、私たちはイエス・キリストによって自由を得ます。私たちはもう、主の血潮によって自由を得ました。罪のくびきは背負いません。

私たちは解放されました。世俗のすべての汚れから、聖霊さまの御力によって私たちは自由を得ました。悲しみを脱ぎ捨て、病を脱ぎ捨てて自由を得ました。貧乏と呪いの沼から脱け出て自由を得ました。死と陰府から解放されて、永生の自由を得るようになったのです。

イエス様は、「貧しい人々には福音を伝え、捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げ、虐げられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせる為に来た。」と言われました。このキリストが私たちの中に入って来られる時、本当に私たちは自由を満喫することができるようになるのです。また、天の御国、新しい天と新しい地、新しいエルサレムに入って行くことができるようになります。

エデンからアダムとエバは追い出されました。エデンのその美しい神様の夢を、悪魔は散々に砕きましたけれども、イエス様がよみがえられる事によって、この神様の夢がもとによみがえりました。主イエス様にあってすべての悪魔の仕業は退き、罪の堕落は消え去り、私たちは赦されて新しい人となって、キリストにあって私たちは復活しました。『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

古いものは過ぎ去りました。罪人は過ぎ去りました。もう義の人になりました。世俗の人は過ぎ去ったのです。聖霊が臨んでいる聖なる人になりました。悲しみは過ぎ去りました。天国の喜びの人になりました。病の人は過ぎ去りました。癒されて健康な人になりました。貧乏と呪いの人は過ぎ去りました。アブラハムへの祝福をいただいた人になったのです。死と地獄の人は過ぎ去り、復活と永生の人になったのです。私たちはキリストにあって新しく造られた者となりました。私たちは、イエス様が死なれたことによって古い人を清算し、よみがえられたことのよって新しく造られた者となったのです。神様の夢が新しくよみがえったのです。

それで新しく造られた人は、「ヨハネの黙示録 21章 1節〜4節」に記録されているように、この世界の中に入って行きます。『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

この世と、この世にあるものはすべて過ぎ去ります。やがて間もなく『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

この弱いからだが強いからだに、醜いからだが栄光に満ちた美しく華やかなからだに、肉のからだが霊的からだに、死ぬべきからだが永生のからだに変化されて、キリストと共に全宇宙を相続して、永遠に生きるようになります。この事をもたらす為に、イエス様がよみがえられたのです。

堕落したアダムの子孫たちは、唯物論的・人本主義の偽りと、宇宙に捨てられた旅人として光を失い、死の真っ暗い墓の中で暮らしています。ところが神様の夢をよみがえらせるために2000年前に、救い主イエス様がこの地に来られて、死とよみがえりを通して「偽り」と「罪」と「捨てられる事」と「死」とを滅ぼされ、私たちにいのちの根源に行ける道と真理といのちの光を与えて下さいました。それで、このイエス様を救い主として受け容れる人にはすべて、その魂の中に復活の栄光が満ち溢れるようになります。

神様がエデンで持たれたその麗しく素晴らしい夢が、イエス様にあって復活したのです。皆さん、これからは神様の夢に従って復活した人生を生きなければなりません。罪から義に復活しました。世俗から聖霊充満に復活しました。悲しみから喜びに、病から健康に、呪いから祝福に、死から永生に復活しました。皆さんと私の中に、よみがえられたイエス様が入って来られて、神様の麗しく素晴らしい計画と夢がすべて復活しました。

ですから、私たちは神様のその麗しく素晴らしい夢に従って生きて行かなければなりません。神様は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。私たちはその中で罪の赦しを得たのです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神様の所有とされた民になってしまったのです。

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と言われた神様の夢が、イエス・キリストの復活によって成し遂げられました。イエス様が十字架の上で、『完了した。』と言われた時、古いものはすべて清算してしまって、新しいものによみがえらせて下さったのです。神様の夢が皆さんの中で復活しました。

もう皆さんは、この神様の夢をはっきりと見つめ、この夢を受け容れて、この夢を信じ、この夢を口に出して認め、この夢の通りに祈り、この夢の通りに行いながら、皆さんがこの世で勝利の人生を暮されますよう、主の御名によって祈ります。




お祈り

聖く、全知全能であられる、父なる神様!私たちに対する神様の夢は麗しく素晴らしいです。義であり、真理であり、祝福であり、永遠のいのちであり、栄光です。悪魔の誘惑とアダムの背きによって神様の夢が散々に砕かれましたが、イエス様が来られて、アダムの罪を代わりに清算され、悪魔の仕業を滅ぼして、死なれてからよみがえられる事によって、お父さまの夢を再び復活させられました。心からあつく感謝申し上げます。

愛であられる神様の夢は、イエス・キリストにあって私たちが義となり、聖くなり、喜びで満ち溢れ、癒されて健康になり、永遠のいのちを享受して、神様に仕え、伏し拝み、栄光をお返しする人生を暮すことです。栄光であられる天のお父さま!お父さまの夢がイエス様にあってすべて成し遂げられましたから、私たちがこの夢を受け容れて、主の栄光の中で勝利の生活を営むことができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!