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「イスラエルは何故カナンの地に入れなかったか」
 






■聖書箇所

「民数記 32章 8節〜15節」
32: 8 私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。
32: 9 彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。
32:10 その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。
32:11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。
32:12 ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』
32:13 主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。
32:14 そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。
32:15 あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」




私は今日、皆さんたちと一緒に『イスラエルは何故カナンの地に入れなかったか?』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

神様は、エジプトで430年の間奴隷生活をしていたイスラエル人たちに、乳と蜜が流れるカナンの地に導いてあげる、と約束なさいました。大きな期待と喜びを抱いてモ−セに従って出てきた彼らは、険しい荒野を千辛万苦の末に渡って、カナンの地が見える国境地帯「カデシュ・バルネア」まで来ましたが、結局、彼等は約束の地に入ることができずに再び荒野に追いまわされて、40年間をさ迷った挙句に、エジプトから出てくる時に20歳以上であったすべての民たちはみな死んでしまいました。

なぜ、彼らは約束のカナンの地に入れなかったのでしょうか?彼等の過ちが、こんにち私たちに鏡となって、私たちも神様の約束の祝福をいただくことができないようなことがないようにしなければなりません。

こんにち、多くのクリスチャンたちが、神様の備えられた乳と蜜が流れる祝福の地に入って暮らしているかと思えば、ある人たちは荒野のような乾き切った苦しみの中で暮らしながら、悲しみ、嘆きを抱いてこの世の生を終える人たちもいます。私たちは一人残らず、神様が備えて置かれた五重の福音と三重の祝福のカナンの地に入って行かなければなりません。イスラエルの民たちがエジプトから出てきて、カナンの地に入って行くことができなかったことには、幾つかの理由があります。




第一、知識がないので・・・。

「ホセア書 4章 6節」に、『わたしの民は知識がないので滅ぼされる・・・。』と言われたように、彼等は、カナンの地に対する正確な知識を持っていませんでした。

「カデシュ・バルネア」に着いた時、モーセが12人の偵察隊員を選んで、40日間カナンの地を偵察して来るようにしました。12人の偵察隊員は40日間、カナンの地を隅々まで偵察して帰って来ましたが、10人の報告と2人の報告の内容が全く違いました。

全く同じ所を、一緒に偵察して来たとしても、見る人の心の態度に従って視角が違ってくるのです。心が否定的な人は、どのような場合にも暗い面を先ず見るようになり、それを強調します。しかし肯定的な心の人は、明るい面を見るようになり、それを強調します。

私は、二つの靴メーカーがアフリカに派遣した営業マンの報告書の話しを聞いたことがあります。A社の営業マンは、「アフリカでは誰もが靴を履きません。従って、靴を売ることができません。」と報告しました。B社の営業マンは、「ありったけの靴を早く送って下さい。誰ひとり靴を履いている人がいません。皆がはだしですから、いくらでも靴を売ることができます。」と報告しました。同じところ、同じ人たちを見て回ったのですが、このように報告の内容が違っていました。

10人の偵察隊員は、心に否定的な態度をもってカナンの地を偵察しましたので、イスラエルの民たちに間違った情報を伝えました。「その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。私たちはあの民のところに攻め上れません。あの民たちは私たちより強いからです。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼等にもそう見えたことでしょう…。」

この否定的な報告を聞いたイスラエルの民たちは、ヨシュアとカレブが正しい報告をしようとする時、その報告は聞こうともしませんでした。彼等は、否定的な報告を聞いて夜通し地を叩きながら泣き、そして翌日の朝には、「さあ、私たちは一人のかしらを立ててエジプトに帰ろう。」と言い出しました。その時、主が現れて、10人の否定的な報告をした偵察隊員はその場で死にました。

そして、否定的な報告を聞いて否定的な態度を取ったすべてのイスラエルの民たちは荒野に引き戻され、40年間荒野をさ迷いながら消滅されて行きました。心に否定的な考えを持つ人を、私たちの主は荒野に追い戻します。乳と蜜が流れる地に導くことはなさいません。間違った知識、間違った報告を聞いて否定的な態度を取ったら、大きな不幸を招くようになるのです。

有名な哲学者'ナポレオン・ヒール'は、成功の人生と失敗の人生は「紙1枚の差」だと言いました。成功する人は、知恵や才能が特に多いので成功するのではなく、絶望の中でもいつも希望の目を持って見る人たちが成功すると言うのです。ですから、いつも心に希望の目を持たなければなりません。希望を捨てる人は神様から捨てられます。間違った知識を持って絶望する人を、神様は荒野に捨て置かれるのです。

「ヘブル人への手紙 4章 2節」に、『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。』と記されています。私たちが正しく聞かなければなりません。ですから私たちが福音を聞くときに、聖書の御言葉の否定的、絶望的、罪に定めることだけを聞いたら気落ちします。

しかし、聖書の中にはどんなに良き内容の、ありがたい御言葉がたくさんあるでしょうか。イエス様が十字架に釘付けにされて、私たちの為に親しく身を裂き、血を流して、私たちを贖って下さった、その驚くべき知識を私たちが得て、正しく、肯定的な態度をとれば、神様は私たちを導いて、乳と蜜が流れる地に連れて行くことができるのです。




第二、夢がないので・・・。

イスラエルの民たちが乳と蜜が流れるカナンの地に入れなかったのは、夢がなかったからなのです。夢がない民は滅びます。夢は、生きていく希望です。希望は、喜びと活気の源泉となります。希望があれば、どのような逆境も克服することができます。しかし、人が心の中で夢を失ってしまい、希望がなかったら、生きてはいても死んだも同様なのです。イスラエルの民たちを神様が最初に呼び出され、乳と蜜が流れる地に行こうと言われたときに、その夢を受け入れてイスラエルの民たちは意気衝天、荒野のどんな悪条件をも克服しながらカナンの地の辺境にまで来ることができました。

ところが彼等は、現実の凄惨な環境に対する報告を聞いてからは、夢を失ってしまいました。これが問題なのです。夢を失ってしまったら、そのときから破滅です。どのような環境に置かれても、夢は捨ててはならないのです。神様の約束の御言葉を信じ、それを夢として持っていなければなりません。夢がない民は滅びます。人が、一つの国民が、夢を失ったら破滅されてしまいます。夢はいつも、環境に左右されてはいけません。神様の約束の御言葉の上にかたく立って、私たちは夢を持っていなければなりません。

皆さん、「ローマ人への手紙 4章18節〜22節」を見ますと、アブラハムが年100歳になり、妻のサラの年が90歳になったのにも、子供を産む夢を持っていました。現実的にみたら、年100歳になったお爺さんが90歳になった妻を通して子供を得ることはできません。それは医学的や生理学的にも不可能なことです。それにも拘わらず、彼らは神様が約束なさったことなので心の中に信じ、その夢を放棄しませんでした。

人たちが嘲笑しました。精神がどうかなっている、耄碌したのだ、とも言いました。それでも彼らは、心の中で子供に対する夢を捨てませんでした。その夢が彼らを変化させたのです。皆さんが運命を変化させるのではありません。夢を抱いたら、夢が皆さんを変化させてくれるのです。皆さんが夢を造るのではありません。夢が皆さんを造って行くのです。ですから、私たちが胸の中に夢を抱いて未来に向かうということがどんなに重要なことかわかりません。そうしてこそ、その夢を通して神様が未来を創造してくださるのです。

『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』と、聖書に記されています。

皆さん、イエス様は十字架に釘付けられて身を裂き、血を流されながら私たちを罪から解放してくださいました。それで私たちは赦されて義の人となる夢を、そのことを通して抱くことができます。イエス様がその血潮で世俗と悪霊を追い出して下さいましたので、十字架の下で世俗と悪霊が追い出され、天の御国と聖霊が臨むという夢を持つことができるのです。

イエス様が十字架で私たちの痛みを担い、私たちの病を負われましたから、キリストにあって天国の喜びと癒しと健康を得る夢を私たちは抱くことができるのです。主が十字架で私たちの呪いと貧乏を代わりに背負ってくださったから、呪いと貧乏から解放され、アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得る夢を得ることができ、十字架で死なれてからよみがえられたことによって、死と陰府を滅ぼされたので、キリストを通して私たちはよみがえり、永生を得、天国の喜びを得る夢を抱くことができます。

老若男女、貧富貴賎を問わず、誰でもガルバリの十字架の下に来てキリストを見上げたら、その人たちは胸の中に玲瓏な夢を抱くことができます。たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る夢をもつことができるのです。イエス様を信じるという人が胸の中からこの夢を捨てるとしたら、その人は神様から見捨てられます。

この夢を抱いていたら、夢の世界に入って行くのです。夢を捨てたら、荒野に引き戻されて捨てられてしまうのです。ですから、自分自身の経験をとおして、自分の知識をとおして、夢を踏み躙ってはなりません。自分の感覚、自分が置かれている環境によって夢を踏み躙ってはなりません。この夢は、神様が十字架を通して私たちに与えてくださった美しい約束ですから、この神様の約束の上に立って、皆さん、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、もっと向上発展する夢を抱かれるようになるよう、主の御名によって祈願します。




第三、信仰がないので・・・。

第3番目に、信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。イスラエルの民たちは、神様の御言葉を最後まで信じずに、目に見えるもので、聞くことで、感覚的に、理性的に、人本主義に立って判断したので、彼らは神様から捨てられました。

私たちは、人本主義の人生を暮らしてはなりません。「ヘブル人への手紙 10章38節」に、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と言われました。私たちは人本主義に立って暮らさなければなりません。神様中心に、神様の御言葉を信じて暮らさなければならないのです。

私がいつか宣教旅行中に、ヨーロッパのジェノバからパリー行きの飛行機に乗りました。真っ暗い夜、凄い暴風雨で、空が非常に荒れていました。内心、少なからず不安が起こり、大丈夫かな? と寒気が襲ってきました。たまたま私の座席から操縦室の中が見えました。二人の操縦士が操縦していました。操縦席の窓ガラスの外は真っ暗で何も見えません。

ところが操縦士たちは、絶えず計器盤だけを覗いて見ながら操縦しておりました。飛行機を操縦する時に、目で見る、耳で聞く、感覚を総動員して感じる等しながら操縦しません。計器だけを見つめます。計器に従って操縦します。外は真っ暗く、雨風が吹きまくる中を、飛行機が無事にパリーに到着しました。操縦士たちは最後まで、計器盤だけを見つめながら操縦しました。もしも、操縦士たちが計器盤は見ずに、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、又は感覚に頼って操縦したとしたら、恐らく大きな問題が起ったに間違いありません。

皆さん、私たちも人生を暮らしながら暴風雨に出遭う時があまりにもたくさんあります。暴風雨が荒れ狂い、天地が真っ暗闇のとき、私たちの見るものや、聞くことや、感じることで決定を下しては大変な目に会います。私たちは、難しい時、苦しい時、暴風雨が荒れ狂う時、神様の御言葉の計器を見つめ、それに頼らなければなりません。絶対に環境を見つめてはなりません。目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、御言葉に頼り、御言葉に縋らなければならないのです。

イスラエルの民たちが、御言葉に取り縋っていたら皆が生きたでしょう。ところが彼らは計器盤を見つめずに、感覚的人生を見つめました。目で見たところ大変でありました。神様が乳と蜜が流れるカナンの地に行こうと言われたのですから、どんなことが起っても行くのです。それは計器盤です。「天の計器盤」なのです。環境がどうであろうと、神様の御言葉通りになるのです。ところが彼らは計器盤を捨てて、人間の感覚に拠り頼んだので破滅されました。

「詩篇 106篇24節〜27節」を見ますと、『しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず、自分たちの天幕でつぶやき、主の御声を聞かなかった。それゆえ、主は彼らにこう誓われた。彼らを荒野で打ち倒し、その子孫を国々の中に投げ散らし、彼らをもろもろの地にまき散らそうと。』と記されています。これは如何に恐いことでしょうか。

それで、『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』と聖書に記されているのです。御言葉を信じなければならないのです。ほかの事は信じることができません。ほかの事は変化無双です。御言葉は変化することがありません。ヨシュアとカレブは、神様の御言葉に立っていたので、荒野を見ても恐がらず、高い城壁を見ても恐がりませんでした。屈強な住人たちを見ても恐くありませんでした。彼らは御言葉の計器だけを見つめながら人生を操縦したからです。




第四、大胆でなかったので…。

第4番目に、イスラエルの民たちがカナンの地に入れなかったのは、大胆さを捨てたからです。「ヘブル人への手紙 10章35節」に、『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。』と記されています。イスラエルの民たちは何故恐れおののいたのでしょうか。彼らは神様と敵とを比較せずに、自分たちと敵とを比較したのです。

自分たちと荒野とを比較しました。自分たちでは荒野を開墾することができないのです。恐くなりました。自分たちと高い城壁とを比較しました。自分たちの力ではとても占領することができないと言う結論に直ぐにぶっつかりました。自分たちとネフィリム人のアナク人と比較しました。自分たちがいなごのように見えました。それで挫折し、絶望してしまいました。

エリコ城も取り崩した神様です。神様に拠り頼んだら、その城壁も一時に取り崩すことができるのです。神様とネフィリム人とを比較したら、それが何でしょうか。神様の御言葉一言で草を薙ぐように一掃してしまうことができます。恐れるに足りません。神様が共にいてくださるのですから、神様と比較しなければならないのです。

「詩篇 91篇 2節〜3節」に記録されています。『私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。』何故でしょうか?私たちが神様に拠り頼み、神様とすべてのこととを比較するからです。従って、神様に拠り頼み、恐れおののいてはならないのです。

「申命記 1章29節〜32節」に、『それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。』と記されています。

皆さん、こんにち私たちはどうでしょうか。「その日には、あなたがたが私の中に、私が神の中に、神と私があなたがたの中にいることを知るであろう。」と言われました。また、「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいます。」と言われました。父なる神様とイエス様が私たちと共におられるのです。この父なる神様とイエス様に拠り頼んで生きて行けば、恐れおののく事は何もありません。

聖書「詩篇 121篇 1節〜2節」に、『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』と記されています。私はヨーロッパに行くたびにアルプスの高山峻嶺を見たら、心に深い感動を覚えます。いくら暴風雨が吹きまくってもそれは微動もしない荘厳な岩山…。それらを神様が造られたのです。神様はいかに広大なお方だろか。あの高山峻嶺に頼っても揺れ動かされはしないだろうに、ましてあの山々を造られた神様に私たちは拠り頼むことができるのです。

神様は、私たちをどのように見ておられるでしょうか。聖書に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と言われました。ですから私たちは、恐れおののいてはなりません。敵の前で強く雄雄しく、大胆であってこそ、私たちは勝利を得ることができるのです。

「ペテロの手紙 第一 2章 9節〜10節」を見ますと、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。』と記されています。

「ヨシュア記 1章 5節〜9節」までの御言葉を見ましょう。『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』

神様が共にいてくださるのですから、恐れおののかず、強く雄雄しく人生を暮らさなければなりません。そうしてこそ私たちは敵に打ち勝つことができ、乳と蜜が流れるカナンの地に入って行けるようになるのです。

私たちは夢を持たなければなりません。いくら現実が暗くても、より良い明日への燦爛たる希望と夢を胸に抱いてこそ、現実に打ち勝ち、新しい世界を造り出すことができるのです。私たちは揺り動かされない信仰に立たなければなりません。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す力があります。天地が崩れても変わらない御言葉のうえに立って、私たちが揺り動かされることがない信仰を持って生きなければなりません。

そして絶えず祈り、聖霊充満に与かって、神様の御言葉をいつも読み、口ずさみながら私たちが生きていくとき、神様の栄光が私たちに充満に満たされるようになるのです。私たちは荒野で暮らさず、乳と蜜が流れる、神様が備えて置かれた祝福の園に入って暮らすようになります。私たちが心の中にどのような考えを持って暮らすかにより、私たちが乳と蜜が流れる園の中に入って暮らすか、荒野で苦しい生活の果てに消滅されるか、が決定されます。

こんにち、皆さんは、正しい知識と、希望に満ちた夢と、揺り動かされない信仰、獅子のように大胆な信仰を持って、神様と同行するようになられますよう、主の御名によって祈ります。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 私たちを贖ってくださり、神様が備えて置かれた驚くべき祝福の地に入って行けるようにしてくださってありがとうございます。イスラエルの民たちは、福音を伝え聞いた人たちでしたが、正しい知識を持つことができず、夢と信仰を捨て、大胆さを捨てたので、敵の前で恐れおののきながら後ろに退き、荒野で消滅されてしまいました。

私たちは、私たちの敵がどんなに私たちの五感を通して盗み、殺し、滅亡させようとしても、御言葉に立ち、夢を捨てず、心の中に御言葉と信仰を持って、神様に拠り頼み、強く、雄雄しく、大胆に祈りながら、生きて行けるように助けて下さい。

全知全能なる天のお父様! 毎日、絶えず祈りながら、神様が与えて下さる御恵みと祝福に与かる私たちとなるように、今後とも導いて下さい。

すべてイエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!