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「愛する者には眠っている間に備えて下さる」
 






■聖書箇所

「詩篇 127篇 1節〜2節」
127: 1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
127: 2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。




今日、私は皆さんたちと一緒に『愛するものには眠っている間に備えて下さる』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちは、五里夢中のような「不確実性」の中をさ迷いながら生きています。私たちが計画し、図るすべての事が成功するか、失敗するか、思うとおりになるか、ならないか、誰も確信することができません。聖書「箴言 16章 9節」には、『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』と記録されています。

神様だけが全知全能なので、何事でも思うとおりに行なわれます。神様だけが、アルファであり、オメガであり、最初であり、最後であり、初めと終わりをはっきり知っておられて、思うままに調整することができます。それで、人生を成功し、幸福に生きる為には、神様を知り、仕えながら、神様と共に暮らさなければなりません。

「詩篇 127篇」は、この真理を確実に私たちに説明して下さっています。




第一、主が家を建てるのでなければ…。

第1番目に、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』と聖書に記録されています。こんにち、すべての人たちは、一生涯「人生」という家を建てる人たちです。幼稚園の時代から教育を受け始めて、小学校、中学校、高等学校、大学校、或いは大学院の教育を受けるのは、みんな、「人生の成功と幸福の家」を建てるためなのです。しかし、成功と幸福はなかなか手に捉えられず、一生涯、朝は早く起き、夜はおそく休みながら、辛苦の糧を食べて、終わってしまいます。

皆さん、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』ということは、私たちの聖書にある「ヤコブ」の生涯を通して見たら、あまりにも良く知ることができます。

「ヤコブ」は約20歳頃に、「母の兄・ラバン」の家に行きました。「兄・エサウ」との間に紛争がもち上がって、母親の指示により母の兄の家に避難したのです。彼は母の兄の家にいながら、母の兄の二人の娘である「ラケル」及び「レア」と結婚するのに、無慮14年間、母の兄から何の代価も貰わずに仕えました。結婚をしてからも6年間、彼は母の兄の羊の群れを飼いました。その間、彼はいくら努力しても自分の家を建てることができませんでした。

いつも素寒貧でありました。「創世紀 31章 6節〜7節」を見ますと、『あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた…。』と記されています。

それで彼は、故郷に帰ろうと思い立ちました。素寒貧のままで帰るしかありませんでした。母の兄ラバンに、もう故郷に帰りたい、と申し出ました。するとラバンは、「あなたのお陰で、主が私を祝福してくださったことを、私は知っている。今になって故郷に帰りたいとはどうしたことか。」ととどめました。ヤコブは答えました。「いくら働いても、あなたは私に正当な報酬を払ってくださいませんでした。それで私は、私の家を建てることができません。もう故郷に帰るしかありません。」

その時、ラバンが言いました。「私があなたに、何をどうしてあげたらいいか?言ってくれ。」ヤコブは、神様にあつく祈ったはずです。神様がヤコブに知恵を授けてくださいました。ヤコブは、ラバンに答えて言いました。「あなたの群れを飼う時、ぶち毛とまだら毛のものは、私への報酬として私にください。そうしたら、私は継続して働きましょう。」すると、ラバンは喜んで「そうしよう。」と承知しました。

その日ラバンは、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真っ黒のもの取り出して、自分の息子たちに渡し、そこから三日の道のりも離れているところに移しました。ヤコブは、ラバンの残りの群れを再び飼い始めました。

いくらか過ぎて、ヤコブは、ポプラと、アーモンドと、すずかけの木の若枝を取ってきて、それらの白い筋の皮をはぎ、そして、その若枝の白いところをむき出しにして、皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ぶねの中に、群れに差し向かいに置きました。それで群れは水を飲みに来るときにさかりがついて、しま毛、ぶち毛、まだら毛のものを産みました。

これは神様の「見つめる法則」です。羊ややぎが、しまや、まだらなものを見つめて、しま毛やまだら毛のものを産もうとしてできたことではありません。しまや、まだらなものを見つめる心の中に夢と幻を入れてあげ、夢と幻を見つめることを通して神様の聖霊がみわざを働かせて、すべての群れが子を孕むとき、しま毛、ぶち毛、まだら毛のものを孕むようにしました。20年の間、母の兄の家で労働者として働きましたが、自分の家を建てることができなかったヤコブは、神様のお恵みに与かって瞬く間に富む者となり、自分の家を建てました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしいのです。しかし、神様が家を建ててくだされば、瞬く間に富む者となることができます。「ヘブル人への手紙 11章 1節」を見ますと、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』と記されています。ヤコブは、神様が与えて下さった「見つめる法則」を通して、彼は立派に自分の家を建てることができました。

皆さん、私たちも成功的に家を建てるためには、血でまだらになった十字架を見つめて信仰と知恵を得なければなりません。十字架を通してイエス様を信じ、神様を見つめずに、人間の手段と方法を動員して家を建ててみたところで、あとには両手を上げてしまうことになるのです。皆さん、神様は十字架の贖いの恵みを通して私たちの家を建てて上げようと願っておられるのです。神様が建ててくださらなかった家は、血と汗を流して建て上げたようですけれども、むなしいものです。『空の空。すべては空。』と言ったソロモンのようになってしまうのです。

「ヘブル人への手紙 12章22節」に、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記されています。

「エペソ人への手紙 2章 8節」には、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』と記されています。人生を、神様が賜物としてくださるのです。

また「コリント人への手紙 第一 2章 9節」に、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記されています。神様は私たちの想像を超越して、私たちのために人生を備えて置かれましたが、私たちが十字架を通してキリストに拠り頼み、神様を見つめるとき、神様はこの恵みを通して私たちの家を建ててくださるのです。

従って私たちは、いつも主である神様に拠り頼んで私たちの家を建てなければならないのです。自分の手段と方法と知恵をもって家を建てようとしたヤコブは、20年間も努力しましたが自分の家を建てることができませんでした。しかし神様に拠り頼み、神様を見つめるや、すぐに神様は「見つめる法則」を教えてくださって、彼を通して彼の家を建ててくださり、遂に富む者となって意気揚揚と故郷に帰ることができる御恵みと祝福を与えてくださいました。

私たちは、この事実を深く心に記憶しなければなりません。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしいですが、主である神様が家を建てるのであれば、建てる者の働きは内容が充実した実を結ぶようになるのです。




第二、主が町を守るのでなければ…。

第2番目に、主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい、と記録されています。皆さん、町を建てることより守ることがもっと難しいのです。ヤコブは、神様が町を守ってくださったのです。ヤコブは、母の兄・ラバンの家をひそかに抜け出し、妻子と家畜の群れをひきいて逃げ出しました。なぜかといえば、富んだ者となるや、ラバンの息子たちが「我々の父の群れをヤコブがみな盗み取った」と呟き、それを聞いたラバンの顔色が変わるのを見て、みな奪い取られるかも知れないと思ったからです。

三日後に、ヤコブが逃げたことがラバンに知られました。ラバンは身内の者たちを率いてヤコブの後を追い、ギルアテの山地で追いつきました。しかし神様はその夜、夢にラバンに現れて言われました。『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ!この言いつけを守らなかったら、わたしはあなたを、生かしてはおかない。』この神様の厳重な警告を受け入れてラバンは、ヤコブを殺し、家畜の群れをみな奪い取ろうとした計画を放棄しました。

母の兄ラバンは、ヤコブと会って話し合い、互いに和解しました。そして彼等は、そこに石の柱と石塚を作って証拠とし、ラバンはヤコブに、「あなたは又と、この石塚を越えて私のところに来てはならない。私も、この石塚を越えてあなたに敵意をもって行くことはしない。この境界線で私たちは別れることにしよう。」こうして彼等は別れました。

もしも、神様が守って下さらなかったら、ヤコブは母の兄ラバンと彼の従者たちによって殺されたはずです。ヤコブは妻子と家畜の群れをみな奪われてしまったはずです。彼が血汗を流して集めても、神様が守ってくださらなかったら何の所用にもならないのです。

母の兄ラバンを避けて、ヤコブがようやくヤボクの渡しに着いたとき、故郷の地にいる兄エサウに、自分が帰ってきたことを知らせました。すると、今度は20年間も弟ヤコブを恨んでいた兄エサウが、400人の軍隊を引き連れて、弟を殺そうとしてやってくると言う知らせが参りました。大変です。母の兄ラバンを何とかして避けたと思うや、今度は兄エサウが殺そうとして駆けつけて来ると言うのです。ヤコブは非常に恐れ、心配しました。

そこでヤコブは、兄エサウの心をなだめて見ようとして、手もとのものから兄エサウへの贈り物を選びました。「創世紀 32章 13節〜15節」に次のように記録されています。『その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。』

ヤコブは、それらを二つの群れに分けてしもべの手に渡し、自分の先に進んで行くようにしました。第1の群れが先頭を、距離をおいて第2の群れがその後に続きました。そしてヤコブは、渡しのこちら側に座り込みました。兄エサウが来て、第1の群れを打ち、第2の群れも打つなら、そして家族たちまで打ったら、自分は最後には逃げ出そうとする策略でありました。

ところがその夜、突然、ある人が飛びかかってきて殺そうとしました。ヤコブは、その人と夜明けまで格闘しました。それでも勝負がつきません。ヤコブに勝てないと見てとったその人は、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちにもものつがいがはずれて、ヤコブはびっこになりました。兄エサウから逃げる最後の希望がなくなりました。

ヤコブは、格闘していたその人にしがみついたまま、「あなたが私を祝福してくださらなければ、私はあなたを去らせません。」と強情をはりました。すると、その人が言いました。「あなたの名は何と言うのか?」「私の名は、ヤコブです。」するとその人が言いました。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』(創世紀 32:28)

神様と格闘して勝ったのです。彼は完全にびっこになって、逃げ出すことができない障害者になりました。兄エサウが来て、家畜を奪い、自分の妻子を打ち殺しても、彼は逃げ出すことができないびっこになってしまいました。拠り頼むところがない障害者になるとき、心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くして主である神様にすがりつくようになるのです。

「イザヤ書 41章 14節〜16節」に、『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』と記されています。

ヤコブが虫けらになってしまいました。虫けらは、攻撃するにも防御するにも手段がありません。踏まれたら、のたくるだけです。しかし、神様の前で砕かれて虫けらになったら、主は言われます。「恐れるな。虫けら。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・」肉のヤコブとして生きていた時には、神様は助けて下さいませんでした。しかし砕かれて、虫けらになった時には、神様が虫けらを助けられます。

ヤコブは、夜が明けるやヤボクの渡しを渡って行きました。格闘をした後なので髪の毛はぼうぼうと乱れ、顔には生傷があり、着物は破れ、びっこをひいているので、彼の妻たちと子供たちが驚きました。私たちと一緒に渡って来ないで、渡しの向こうで夜をひとりで明かしたのに、何事があったのですかと聞かれました。彼は黙って、ただびっこをひきながら前に向かって進んで行きました。一番うしろにかくれていた彼は、今はびっこを引きながら先頭にたって歩きました。

ヤコブは、妻子たちを後ろにして、自分を殺そうとして400人の軍隊を引きつれて駆けつけて来る兄エサウに向かって、歩いて行きました。兄エサウが一刀のもとに首を切り落とそうと気負って駆けつけて見ると、弟ヤコブが、髪の毛は乱れ、顔は傷だらけであり、あっちこっちが破れた着物を着た弟が、びっこを引きながら歩いて来るのが見えました。

神様が、ヤコブと共にいてくださいました。神様は兄エサウの心を溶解してしまいました。駆けつけて来た兄エサウは、ヤコブを見るや馬から飛び下り、弟を抱きしめて声を出して泣きだしました。「おい、どうした事だ。20年もの間、兄に背を向けて母の兄の家にいたお前が、帰って来るのに、この様は一体どうした事だ。頭の髪は乱れ、顔は傷だらけ、その上にびっこを引いているとは…。」兄も泣き、弟も泣きました。20年間の怨恨が雪の如くに溶け去りました。神様が守ってくださったのです。

神様が守ってくださらなかったら、ヤコブは、兄エサウの一刀のもとに首が切り落とされたはずです。ヤコブがいくら、家畜の群れと家族たちを先に渡らせ、自分ひとり残って、いざとなったら逃げ出そうとしても、それはむなしいことです。神様が守ってくださってこそ、彼は完全に守られるのです。神様の前に砕かれ、完全に降伏して、信じ、そして従順に聞き従うときに、神様が助けてくださるのです。

「申命記 8章 16節〜18節」に、『あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。』と記録されています。

神様は先ず試みられ、砕いて、謙遜にならしめてから、祝福して下さるのです。ですから、砕かれ、悔い改めて変化された後に、神様が共にいてくださって、彼が建てた町を守ってくださるのです。




第三、愛する者には眠っている間に備えてくださる。

「マタイの福音書 11章28節〜30節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』と記録されています。

昔は、牛を使って畑を耕すとき、母牛のくびきの下に子牛が入って行って、一緒に歩きました。母牛が重いくびきを負い、力いっぱいに、汗を流しながら畑を耕すとき、子牛は母牛のくびきの下で努力することもなく、ただ行ったり来たりだけするのです。遠くで見たら子牛もくびきを負って働いているように見えますが、近いところで見たら、くびきは母牛だけが負わせられており、子牛はその下でたやすく軽く母牛に従って行ったり来たりするだけでありました。

イエス様は、このような事実をご覧になって弟子たちに仰せられたのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負い、わたしの下に入って来て、わたしから学びなさい。そうすればあなたがたのたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

皆さん、なぜ、イエス様のくびきは負いやすく、イエス様の荷は軽いでしょうか? イエス様は全知全能なる神様です。天と地のすべての権威を持っておられるその方が、私たちに代わって十字架のくびきを負ってくださったのです。十字架のくびきに、私たちの罪の荷を、私たちの世俗的な腐敗を、私たちの悲しみと病を、私たちの貧しさと呪いを、私たちの死と滅亡を代わりに背負ってくださったからなのです。

主が私たちの十字架を代わりに背負ってくださったので、十字架のくびきの下に私たちが心優しく、へりくだった心をもって入って行って、従順に聞き従ったら、荷は私たちが背負うのでなく、主が代わりに背負ってくださるのですから、主に拠り頼んで私たちはたやすく、軽く人生を生きていき、天の御国まで行く事ができるようになるのです。

イエス様は、ご自分のくびきの下に入ってくる条件として、心優しく、へりくだりなさいと言われるのです。心優しいと言うことは、従順に聞き従いなさいと言うことです。よく飼い馴らされた状態を「心優しい」と言います。心優しい動物は家畜たちであり、飼い馴れていない猛々しい動物たちは野生動物です。心優しくなって、主から飼い馴らされて従順に聞き従うことを「心優しい」と言います。

「エレミヤ書 7章23節」に、『ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」』とあります。「詩篇 37篇11節」には、『しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。』と記されています。

私たちが心優しくなって、主の命令を聞き、従順に聞き従って生きて行けば、神様は心優しい人の為にキリストを通して私たちの荷をすべて負ってくださり、豊かに平和と幸いを注いでくださると言われたのです。そしてへりくだっていると言うことは、へりくだっている人は自分に拠り頼まず、神様を信じ、神様に拠り頼む人なのです。高慢な人が「私を見よ。」と言い、威張りますが、へりくだっている人は自分を見ず、自分に拠り頼まず、ひとえに神様に拠り頼むのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 5節〜6節」に、『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』と記録されています。

ですから、私たちは神様の前にへりくだり、謙遜にならなければなりません。それが、主のくびきの下に入る道なのです。主は、私たちをへりくだった謙遜な人に造るために数多い試練と苦難に会うようになさり、鍛錬されるようになさいます。死の陰の谷を通るようになさるのも、私たちの強情を折ってしまって心優しい人にし、私たちの高慢を取り除いてしまって、信じ、拠り頼むようにするためにそうなさるのです。

このような試練に会ったあとに、ついには私たちを祝福してあげようとなさるのです。従って、私たちが砕かれて変化され、全的に主を信じ、主に従順に聞き従うようになる時に、イエス様の十字架のくびきの下に入って行って歩みだすことができるのです。私たちの'中東聖殿のチェ・セ・ホン長老'の証しを聞いてみたら、私たちはこの事を肝に銘じて実感することができます。

'チェ長老'は今年初、病院から「直腸ガン末期」と診断されました。彼は、その間神様に拠り頼むと言いながら、実際には自分の方法ですべてを解決しようとしてきた事実を悟り、問題は病気よりも自分にあると悔い改める一方、主にひれ伏して祈り始めました。そうするや、心に平安を得るようになりました。医者は、「手術しなかったら、もう3ヶ月しか生きていられない。」と宣言しましたが、チェ長老は手術を後回しにして断食祈祷院に入り、涙を流しながら祈りました。気管支喘息によってチェ長老は昏睡状態におちいりましたが、そうする中でもチェ長老は継続して祈りました。

祈祷院から下りて来て、手術を受けることになった3月15日、多くの聖徒さんたちが断食しながら祈ってあげました。手術後、腸にあったガン細胞は除去され、抗癌治療によって大分よくなりましたが、今度は、淋巴腺を通してガン細胞が肝臓に転移、肝臓ガンになりました。お医者も、「もう手がつけられない。」として手を上げてしまいました。ところが6月20日、水曜礼拝後に堂会長事務室で按手祈祷を受けて、心に安定と確信があり、継続祈りました。

翌日、病院に行って検査を受けましたが、担当医者の顔色が変わりました。外科専門医を呼んで訊ねましたが、「確かに肝臓にガン細胞がありました。」と確認しました。ところが、チェ長老の体内のどこからもガン細胞を見出すことができないと、あきれた顔つきで担当医者がつぶやきました。到底信じられないとして、午後にあらためて精密検査をしてみましょう、と言うことになって、精密検査をしましたが、結果は全く同じく、ガンが見当たらないと言うことでありました。

医者は、「もっと正確な診断をする為に、2ヶ月後にもう一度検査して見ることにしましょう。」と言いました。約2ヶ月後の8月17日に検査したお医者は、「これは天運です。神様があなたを癒してくださいました!医学では何とも説明することができません。完全に直りました。」と宣言しました。

皆さん、わが'チェ・セ・ホン長老'がこの試練に会う時、その病よりも自分自身がもっと大きな問題であることを悟って悔い改め、砕かれ、心優しく、へりくだって、十字架に拠り頼むや、主は御言葉通りに彼の悲しみを負い、病を担ってくださる驚くべき御恵みをほどこしてくださったのです。私たちが問題に出会ったら、問題それ自体よりも、私たち自身がもっと大きな問題なのです。問題だけを見つめて嘆かずに、自分自身を問題として、私たち自身が砕かれ悔い改めなければならないのです。

問題は、神様がいつでも解決してくださることができます。私たち自身は、自ら砕かれなければなりません。私たちが砕かれ、悔い改めて、主に従順に聞き従い、私たちが主を信じる道しかほかに方法がありません。ですから、何よりも自分に問題があることを知って、私たち自身を解決したら、私たちの運命と環境を神様が変化させてくださる、と言うことを知らなければなりません。主は、私たちが心優しく、へりくだった心で十字架のくびきの下に入って来たら、安らぎを得ると言われたのです。

「エレミヤ書 29章11節〜13節」に、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』と記録されています。

「ヨハネの福音書 16章33節」に、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』と言われました。主に成し得ないことがあるでしょうか。天と地のすべての権威を持っておられます。問題は、心優しくへりくだって、主のくびきの下に入る、その事です。

寒い冬の朝、自動車工場に勤める整備工の一人が、出勤途中、自動車が故障を起こして道端に立ち往生してしまいました。その人が熱心に直そうと努力しましたが、できません。その時、たまたま通りかかった乗用車が止まり、一人の老紳士が下りて近づいて来ながら「私が見てあげましょうか?」と言いました。整備工は心の中で笑いました。僕はこれでも一流の整備工なのだ。僕が直せないのに、老人に何ができる…?

老紳士は上着を脱ぎ、腕まくりをして、エンジンのあちこちをいじった後、「エンジンをかけて見てご覧なさい!」と言いました。それでその整備工がキーを回すと、なんとブルルーンとエンジンがかかりました。整備工は驚いてしまいました。その老紳士が名刺を渡してから行ってしまいましたが、その名刺を見ると、その自動車を発明した"ヘンリー・フォード"でありました。自動車を発明した人が、自分が発明した自動車の故障を直せないはずがありません。

天と地を造られた神様、私たち人生を造られた神様が、私たちに起った故障を直せないはずがありません。私たち人生の故障を直すために、神様が親しく来られて十字架を負われ、身を裂き、血を流して、私たちの荷を背負われ、私たちに「すべて重荷を負っている人は皆、十字架のくびきの下に入って来なさい。」と言われました。信仰をもって、従順に聞き従えば、主が私たちを責任を負って顧みてくださるのです。

神様を信じずに暮らす生活を、誇ってはなりません。哲学者"ニーチェ"は、「神は死んだ。」と叫びましたが、彼は終末を精神病者で終えました。70年の間、無神論を教えたソ連とその衛星国家たちはすべて滅んでしまいました。神様なしに暮らす一生は、重荷を背負って苦しみながら生きてから、一生を終え、死んだ後には永遠に捨てられます。

「詩篇 127篇 1節〜2節」を見ましょう。『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。』と記されています。




お祈り

聖く、そして愛であられる父なる神様! 私たちは人本主義に立って人間を拠り頼み、家を建て、町を守ろうとします。しかし天のお父さま、人間の力で家を建てた人たちとか、国家や町を建てて守ろうとした個人や国家は、すべて滅んでしまいました。人とは何でしょうか。土から生まれて土にかえる人生ではありませんか。人間が神様の前で何を誇ることができるでしょうか。

全知全能なる、我が父なる神様! 私たちが皆、主の御前に砕かれて、悔い改め、両手を上げてイエス様の前に出て来て、その十字架の下にひざまずき、信仰をもって、従順に聞き従いながら生きて行けるように助けてください。 <BR>

私たちは、国が問題である、隣人が問題である、私の問題が問題である、と叫びますが、実際には問題は自分自身にあります。ほかのことが問題ではなくて、自分自身が大きな問題であり、原因です。自分自身が砕かれて変化され、悔い改めたら、隣人も国も変化されるようになるのです。天のお父さま、私自身が砕かれて変化されるように助けてください。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!