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「二つの風浪」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 8章22節〜39節」
8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
8:26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」
8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
8:30 イエスが、「何という名か。」とお尋ねになると、「レギオンです。」と答えた。悪霊が大ぜい彼にはいっていたからである。
8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。




私は今日、皆さんたちと一緒に「二つの風浪」という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人生を航海にたとえています。人生とは、果てしなく広々とした青海原の波の上の一葉の舟に身をゆだねて、風浪にさい悩ませられながら生きてから終わってしまう…ものだと言います。聖書には、甚だしい霊的、精神的「風浪」に会った人と、海の「風浪」に会った人たちに関するお話があります。




第一、霊的、精神的「風浪」

第1番目に、霊的、精神的「風浪」に会った人に関するお話を見ましょう。ゲラサ地方に一人の男の人が住んでおりました。彼は裕福ではなくても、堅気に暮らしていた人であったと思われます。ところが、ある事から心に傷を受け、精神的に大きな打撃を受けました。人たちはこの世を暮らしながら、大小様々な苦難に見舞われるようになり、精神的に打撃を受けるようになります。しかし、この打撃が自分が耐えることができる限界を飛び越えたら、心が崩れるようになり始めます。

この人は、挫折と憂鬱症におちいってしまいました。生きていくのが煩わしく、この世の中が灰色に見えました。ひとりでポカンと眼を空間にすえて黙って座っている時間がだんだんと長くなり、家族たちとの対話がますます少なくなりました。家族の人たちと話し合おうとせず、奥さんや子供たちが来て話しかけても、うるさがるだけでありました。そうこうするうちに、不眠症にかかって眠れなくなりました。一睡もせずに夜を過ごす日が続きました。食べもせず、そしてひとりでぶつぶつものを言い、ついには精神異常に罹ってしまいました。

悪魔は、壊れた心の城門の中に入って来るのです。私たちの心が試練と患難に遭って耐えられず、挫折し、憂鬱症におちいり、心の城門が崩れたら、悪魔が遠慮なく入って来るのです。「盗人が来るのは、ただ盗み、殺し、滅亡させるだけのためです。」と言われました。悪魔は、私たちを抑圧し、挫折させ、絶望させ、憂鬱症におちいるようにし、心の門を取り除いたら押し入って来て、私たちを占領し、私たちを所有してしまうのです。

この人はいつの間にか家族を見分けることもできなくなりました。自分の妻子も、父母も分からず、完全にほかの世界の人になってしまいました。この世の人でないのも同様になりました。彼は器物を破壊し、乱暴になりました。衣服を脱ぎ捨てて、村中を駆け回りながら乱暴に行動するので、村中の人たちがこの人のために恐怖におののくようになりました。人たちが彼を捉えて足かせや鉄の鎖で縛りましたが、どんなに力が強いのか、それらを断ち切っては飛び出しました。

聖書「マルコの福音書 5章 4節〜5節」に見ますと、『彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。』と記録しています。その人のたましいの中に激烈な風浪が起きていました。誰も鎮まらせることができない激烈な風浪が起きて、彼のたましいと肉体を破壊していました。

誰が、この人を救い出して上げることができるでしょうか。こんにちこの世を暮らす人たちも、大小さまざまな風浪を経験します。しかし、この風浪があまりにも激しく荒々しくなれば、人は耐えられずに倒れてしまうのです。このゲラサ地方の人は、自分では到底耐え抜くことができない風浪に出遭いました。その霊魂の中に起った激烈な風浪に、彼は完全に破滅してしまったのです。




第二、海の風浪

第2番目に、私たちの聖書を見ますと、海で起ったほかの風浪があります。ある日のこと、イエス様は弟子たちといっしょに舟に乗られて、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われました。静かな日和で、微風が吹いていました。海は鎮まっていました。その上に海で育った弟子たちには、舟を漕いで向こう岸へ渡ることは少しも難しいことではありませんでした。

弟子たちは、静かな日に船に乗って湖を渡って行きながら、もう直ぐ近づくであろうメシヤ王国の夢に酔って互いに話しの花を咲かせながら、イエス様が一緒であることを忘れました。イエス様と対話をしませんでした。イエス様を眠らしてしまいました。もっとも大きな問題が、私たちが生涯の中でイエス様に対する関心を忘れてしまい、宗教と儀式にだけ偏(かたよ)り、イエス様を眠らしてしまうということです。

イエス様が眠られたら、この時とばかりに悪魔は私たちに飛び掛ってきて、盗み、殺し、滅ぼそうとします。牧者が眠ったら、羊が野の獣の攻撃を受けます。牧者が目を覚ましていれば、杖と鞭をもって敵対するので、野の獣たちは近づいて来ません。牧者を眠らせることが問題です。こんにち、私たちは宗教と形式をもって行き来しながらも、イエス様に対する関心を忘れ、この世の富貴・栄華・功名に酔い、この世の享楽に溺れ、イエス様を眠らせてしまって、大きな風浪に出遭うときが少なくありません。

イエス様は、誰も相手にしてくれないので腕枕をしてぐっすり眠ってしまわれました。ところがその時、常識では考えられない突風が湖に吹きおろして来ました。激しい荒波が暴れ始め、すぐにも舟は波を被って沈没しそうになりました。絶望に瀕した弟子たちは、どうしたら良いか分からなくなりました。そのとき、眠っておられるイエス様を弟子たちは発見しました。そこで弟子たちは、近寄って行ってイエス様を起こし、「先生、先生。私たちは溺れて死にそうです。」と叫び喚きました。

皆さん、驚くべきことは、このように突発的に激浪が起り、舟が波に乗って空中に上っては叩きつけられるように落ち込む中で、イエス様はぐっすり眠っておられたということです。神様の平安です。主が「向こう岸に渡ろう。」と言われたのですから、天が崩れ、地が消えてもそれは成就するのです。弟子たちが波と風をみて恐れおののいても、天地を造られた創造主であられる主の仰せが覆られることは絶対にありません。その舟は必ず向こう岸へ渡ることになっていますので、環境がどうであろうとイエス様は恐れることなく、ぐっすりと眠っておられました。

驚くべき主の平安です。普通の人であったら、このような平安をもつことはできません。イエス様は神様であられ、天と地のすべての権威をもっておられたので、このような平安を保つことができました。弟子たちが揺り起こしながら泣き叫ぶので、イエス様は起き上がられました。そして主は、風と波をご覧になってから、風と荒波を叱りつけられました。「黙れ、鎮まれ!」すると、風も波も治まり、なぎになりました。

皆さん、「自然」をみて主が叱りつけられるはずがありません。「自然」には耳がありません。「叱りつけられた」ということは、風と波を起こした背後の人格体に対したものです。耳で聞くことができる人格体がいたので、主は叱りつけられたのです。主が叱りつけられるや、風と波を起こしたその背後の勢力が逃げました。すると瞬く間に風も波も静かになりました。聖書「マルコの福音書 4章39節」を見ますと、『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』と記録されています。

そして、その舟が向こう岸のゲラサ人の地方に到着するや、悪霊に憑かれた男が走り寄って来て、イエス・キリストの前にひれ伏しました。イエス様は、その胸の中に起こった風浪を鎮まらせることができない人に向かって、「汚れた霊は、この人から出て行け。」と命じられました。すると悪霊たちはイエス様に、「底知れぬ所に行け、とは言わないで下さい。あそこの豚どもに入ることをお許しください。」と願いました。山のそのあたりにはおびただしい豚の群れが飼われておりました。

イエス様が、それを許されました。悪霊どもは、その人から出て豚に入りました。すると豚の群れは突然、がけを駆け下って湖に入り、みな溺れ死んでしまいました。すると、悪霊に憑かれていた人が正気にかえりました。イエス様が来られて、湖の風浪も鎮まらせ、人の胸の中に起こった風浪も鎮まらせました。私たちの主は、この地の風浪を鎮まらせる神様として来られて、みわざを働かしておられるのです。




第三、人生の風浪に対して

それでは、第3番目に、私たちが人生の風浪に出会ったとき、私たちはこのお話しを通してかならず教わらなければならない教訓があります。私たちの人生に環境の風浪が近づいて来る前に、その背後の霊的、精神的暴風が先に近づいて来るという事実です。

「ヨブ記 3章24節〜26節」を見ますと、『実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。 私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。』と記録されています。ヨブは苦難に会うその前に、そのような霊的、精神的に凄い苦しみに会いました。

悪魔が来て、ヨブに不安と恐怖をもたらしたので、ヨブは心の中に恐れと不安でいっぱいだったのです。先ず彼は、霊的、精神的「暴風雨」に巻き込まれ、後にそれが彼の環境にあらわれて、彼の子供たちが死に、財産を失ってしまい、からだは病に罹るようになったのです。皆さん、環境の風浪を自然的な現象として受け入れてはなりません。環境の風浪が襲ってきたとき、それを自然的に起こったことと思ってはなりません。その背後に、盗み、殺し、滅亡させるだけのための悪魔の仕業があるのです。

皆さん、「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を見ますと、この世の国の興亡盛衰と戦争は、その背後の霊的勢力によってなされることを知る事ができます。アダムが、何故堕落したでしょうか。アダムが神様に背いて善悪を知る木の実を取って食べたのでエデンから追い出されたと、その歴史的事件だけを見てはいけません。彼が善悪を知る木の実を取って食べてエデンから追い出される前に、その背後にある悪魔との対話がありました。

蛇が、エバに接近して誘惑しました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです…。」と誘惑しました。あなたがたが善悪を知る木の実を取って食べたら神のようになる、という「霊的戦争」にアダムとエバが負けたので、環境にあらわれた通りに、神様に背いて追い出されるようになったのです。必ず、現実的にあらわれる前に、その背後に霊的戦争があるのです。

イエス様は、皆さん、公生涯に入られる前に、ヨルダン川で聖霊のバプテスマを受けられ、荒野に出て行かれて、40日40夜断食なさったあと、悪魔との霊的戦争をなさいました。悪魔はイエス様のもとに来て挑戦しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」自分の命令に聞き従いなさい、と言うのです。イエス様は、一つ一つ御言葉をもって霊的戦争に勝ちました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。』(お前の言うことに従うことはしない。)主が勝たれました。

次に、悪魔はイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ち当ることのないようにして、あらゆる人たちから拍手と名誉を得るようにするであろう。」その時、イエス様は悪魔に向かって言われました。『あなたの神である主を試みてはならない、とも書いてある。』悪魔の言うことに従われませんでした。

最後に、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」その時、イエス様は、『引き下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ、と書いてある。』と言われて、霊的戦争で勝たれました。

それで、イエス様は、3年半の公生涯の間、悪霊を追い出され、病人を癒し、死んだ者を生かし、飢えた人には食べさせ、死に瀕した人には希望を持たせる等、霊的戦争に勝たれたので、現実において勝利をもたらすことができたのです。霊的戦争にもしも負けられたのなら、イエス様は罪人を救うこともできず、悪霊も追い出すことができず、病も癒すことができず、飢えた人たちを食べさせることも、平安を与えることもできなかったでしょう。

イエス様は霊的戦争に勝たれたので、悪魔にも勝たれ、結局には十字架の上で身を裂き、血を流されて、天の御国がこの世に臨むようになさり、すべての人類の罪を赦され、勝利をもたらされました。

「エペソ人への手紙 6章10節〜17節」に、『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』と記録されています。

従って、私たちは現実の風浪を鎮まらせようとするときには、その背後で風浪を起こす悪霊に敵対しなければなりません。破壊的風浪の背後には、必ず悪霊がいます。「使徒の働き 8章 7節〜8節」を見ますと、『汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』と記録されています。悪霊が追い出されてこそ、中風患者や足の利かない人が直り、悲しみが消え去り、勝利が近づいて来るのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 8節」に、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』と記されています。悪魔も悪霊も、私たちの目には見えませんけれども、実際に私たちを食い尽くす環境を作り出しているのです。ですから私たちは祈りを通して、断固として悪魔を追い出さなければならないのです。

「ペテロの手紙 第一 5章 9節」に、『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』と記されています。テロリズムは悪魔の仕業です。悪魔の仕業をそのまま捨ておいてはいけません。悪魔の仕業に私たちは敵対しなければならないのです。「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かいなさい。」と言われました。私たちは敵対しなければなりません。

「マルコの福音書 16章17節〜18節」には、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』と記録されています。悪魔の仕業に私たちは敵対して、滅ぼさなければならないのです。

「ヤコブの手紙 4章 7節」の御言葉です。『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』こんにち、私たちの目に見える悪い事の背後にある悪魔の仕業に対して、私たちは信仰と祈りをもって敵対しなければならないのです。眠っておられるイエス様を、起こさなければならないのです。

「ダニエル書 10章」を見ますと、ダニエルが川の岸で21日間、イスラエルの将来を知るために断食しながら祈りました。その祈りが最初から神様に聞かれて天使が遣わされましたが、ペルシヤの国を操縦する悪魔の軍隊が立ちふさいでいるので、21日間来られずにいました。そこへ天使ミカエルが来て助けてくれたので、悪魔の陣を突き破って神様の御答えを持ってきたと記されています。

こんにちは、イエス様が十字架の上で悪魔のすべての権威に打ち勝たれたので、その時のように悪魔が強くはありません。しかし悪魔は、あらん限りの力を尽くして盗み、殺し、滅亡させようと継続飛び回っているので、私たちは忍耐をもって祈り、敵対しなければなりません。勝利を得るまでうしろに退いてはならないのです。

私たちの教会のエリム聖殿の「キム・ミ・オク執事」さんの証しを紹介させていただきます。会社の信友会で知り合いになった、他の教会に出席している一人の執事さんから、今年の2月19日に電話がかかって来ました。「7歳になる息子が、再生不能性貧血という病気を患っています。祈って下さい…。」と言う哀訴に近い内容でありました。最初は狼狽しました。しかし、気を落ち着けて家を訪問してみました。子供は病勢がくっきりと悪く、1億ウオンの治療費がかかったのにも、病院からは快復の可能性なしとの宣告を受けたと言うのでした。

子供の父母は先ず、信仰をもって神様に感謝とまことを捧げながら、助けを請いました。私たちの「キム・ミ・オク執事」さんはその時から毎日、会社が終わるとその家に行ってみんなで一緒に礼拝を捧げ、心を一つにして祈りはじめました。神様の御恵みを待ち望みながら4ヶ月間、絶えず呼ばわり祈りました。皆さん、1ヶ月はそんなに短いものではありません。特に祈りの1ヶ月は骨が折れる戦いであり、試練です。2ヶ月、3ヶ月、4ヶ月…と継続して祈り続けるや、或る日、「キム・ミ・オク執事」さんの心の中に、「神様が癒してくださった!」という確信が来ました。

4ヶ月の間、霊的戦争をしたのです。霊的戦争を4ヶ月間したあとに、悪魔が屈服して、彼等の足の下に踏み躙られた時、「キム・ミ・オク執事」さんの心の中に確信が入って来たのです。それで彼女は唇で告白しました。「もう、この息子さんは癒されました。もう、癒していただきました…。」と。このことを聞いて子供の家族たちが、6月18日、病院に行って検査を受けてみたところ、病気がきれいに直ってしまった、とのことでありました。

その病気は、背後の悪魔がもたらしたものでありました。病院でいくら治療をしても、その病気は治りませんでした。背後の悪魔を追い出さなければならないのです。悪魔を追い出すのには、4ヶ月間の霊的戦争が必要であったのです。私たちが霊的戦争に負けたら、現実に負けます。

現実にいかなる風浪が押し迫って来るとしても、その背後にある悪魔を叱りつけて追い出さなければなりません。それは、私たちが祈りと信仰をもって叱りつけて悪魔の勢力を滅ぼしたら、風も波も静まってしまうのです。それで私たちは、祈りながら肯定的に信仰の告白を継続しなければなりません。「ヘブル人への手紙 13章 8節」に、『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』と記録されています。このことをいつも心の中に確信して、唇で告白し、勇気と信仰を得なければなりません。

「マルコの福音書 11章 23節〜24節」を見ますと、『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』と記されています。私たちは、信仰告白を絶え間なく継続しなければならないのです。

「申命記 30章 14節」に記録されている御言葉です。『まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。』私たちは、神様の御言葉を告白することができます。御言葉は私たちのごく身近にあり、口にあり、心にあるのですから、御言葉を告白したら、神様の御言葉は生きており、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すみわざを施してくださるのです。

そして、希望に満ちた勝利の夢を捨ててはなりません。「マタイの福音書 28章20節」に、『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と言われました。主は、良いことがある時だけ私たちと共におられるのではなく、暗い時にも私たちと共におられるのです。

今回、アメリカのブシ大統領が国民たちに談話を発表するとき、この聖書の御言葉を引用するのを聞きました。「詩篇 23篇」にある御言葉です。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』彼は言いました。「アメリカが今、真っ暗い死の陰の谷を通っているけれども、神様は私たちと共におられます。たとい、死の陰の谷を通るとしても、主が共にいてくださるのですから、主の御力と権威によってアメリカは勝つようになる。」と言ったのです。

そのような信仰告白をすることができる大統領をもっているアメリカは、幸福な国です。「イザヤ書 30章26節」に、『主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。』と記されているのです。わが神様は、私たちのところに来られて、私たちの傷を包んでくださり、打たれた傷を癒してあげようと願われ、私たちに明るく聖い未来を与えてあげようと願っておられるのです。

生活の現場での数多い破壊的「風浪」は、その背後に必ず悪魔がいて、操縦していると言う事実を私たちは悟り知らなければなりません。それらに対して、私たちが血と肉で戦おうとしたら、傷だらけになってしまいます。私たちは御言葉を通して霊的知識を得、背後の勢力である悪魔と戦わなければなりません。霊的勝利は現実的「平安」としてあらわれ、霊的敗北は現実的「狼狽」としてあらわれるようになるのです。

私たちは、イエス・キリストの御名と、その尊い血潮と、イエス様が死なれてからよみがえられたその偉大な御力によって勝ちます。御座にすわっておられる神様と、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは必ず勝ち、また勝ち、また勝つようになります。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる我が天のお父さま! 私たちを盗み、殺し、滅亡させようとする悪魔は、絶え間なく私たちの背後で霊的に、精神的に、肉体的に、環境的に働きかけております。この事実を、私たちは忘れてはならないのです。私たちは感覚的に、理性的にこの悪魔と戦ってはならないことを教えてくださって有り難うございます。

私たちは、背後にある敵・悪魔の勢力と戦わなければなりません。ゲラサ人の心の中に風浪を起こしたその悪魔、ガリラヤの湖に風浪を起こしたその悪魔は、こんにちも、私たちの胸の中に、私たちの家庭に、私たちの生活の中に風浪を起こして、私たちを沈没させようとします。

イエス様がおられなかったら、私たちは沈没されるしかありません。イエス様は、ゲラサ人の心の中の風浪も鎮まらせ、ガリラヤの湖の風浪も鎮まらせられました。こんにち、私たちと共におられて、私たちの人生の風浪を鎮まらせてくださり、私たちに平安を与えてくださるイエス様に感謝申し上げます。

イエス様をお眠りから目を覚まして起き上がられるようにして、礼拝を捧げ、キリストと同行しながら、祈りと信仰で勝利する私たちとなれるように助けてください。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!