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「愛する事が出来れば解答が見える」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 5章 3節〜8節」
5: 3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5: 4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5: 5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5: 6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5: 7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5: 8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。




今日、私は皆さんと一緒に、『愛する事が出来れば解答が見える』という題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

この世の中には、果てしない競争と憎しみと軋轢と闘争と戦争があります。私たちは、去る9月11日午前、アメリカ・ニューヨーク市の'貿易センター'と国防省の'ペンタゴン'に対する無差別テロによって7,000余名の無辜な人命が殺傷される状況を見て、肝胆が冷えるのを感じました。どうして、このような「天も地も赦すことができない事件」が起こったのでしょうか?それは、堕落した人間の心から生じた悲劇なのです。




第一、アダムの堕落と腐敗した人間の心性

私たちは、この根源をアダムの堕落と腐敗した人間の心から探して見ることができます。皆さん、アダム以後、堕落した人間の心はいつも自我中心的・自尊心がために、相手にすべての責任を転嫁します。どんなことがあっても、その事により自分を省みて悔い改めようとせず、自分の所為ではなく相手の所為とする、そのような性格をもっています。堕落した人間の心性は、いつも自己主張だけ正しいとする傾向があります。自分だけが正当だと思い、すべての自分の言語、思考、行動を正当化して、他人を批評し、こき下ろします。

また堕落した人間は、自分の有益を先ず求める心が根を下ろしています。どのようなことがあっても、自分の有益を最大に保障しようと努力するので、他人の有益は考えません。これがまさに、アダムとエバが堕落した後にエデンの園で起こった事件から確かに見ることができます。神様がアダムに、「誰が、あなたに善悪の知識の木の実を取って食べるようにしたか?」と問われました。するとアダムは、自分が罪を犯したことは少しも悔い改めようとせずに、その責任を他人に転嫁しました。

「創世紀 3章12節」に次のように記されています。『人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』ここでアダムは、責任を神様に転嫁し、エバに転嫁しました。自分が罪を犯したのだとは思いませんでした。これが、堕落するや否や、アダムの中に生じた腐敗した心性なのです。アダムだけがそうであったでしょうか。アダムだけではありません。エバも同じことを言いました。

「創世紀 3章13節」の御言葉です。『そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』エバは蛇に責任を転嫁しました。自分が善悪の木の実を取って食べたのは蛇の故だとして、自分を妥当化しました。

彼らがエデンから追い出されてから家庭をもち、最初に産んだ息子がカインであり、2番目がアベルでありました。二人の息子は大きくなって分家し、或る時期になって彼らは各々祭壇を設けました。カインは自分の手で刈り取った農作物を祭壇に捧げ、アベルは羊を屠って血を流して祭壇に捧げました。主は、カインの捧げ物には目を留められず、アベルの捧げ物には目を留められて、それを喜びをもって受け取られました。

その結果、カインはひどく怒りました。神様が自分の捧げ物には目を留められないのは、アベルの故なのだ。私の故ではない。アベルの故なのだ。だから、私はアベルを殺さなければならない…。それで、カインはアベルを野に呼び出して、襲いかかり、石で打ち殺しました。人類歴史上、最初の殺人が行なわれたのです。 このような心性なので、家庭、社会、国家間の葛藤と紛争は絶えません。どのようにしたら、自己中心的・自尊心と、自分だけが正しいとする自己主張と、自分の有益を最優先とする心性に打ち勝って、人類が平和・共存することができるでしょうか。




第二、「愛」以外には解答がありません。

天の下に、「愛」以外には解答がありません。人間の世界でも「愛」が、自尊心、自己強情、自己有益…等を犠牲にすることができる力となって、隣人と和解し、共に手を取り合って暮らすことができるようにしてくれるのです。男女間の愛もまことの夫婦の愛となって、互いに睦まじく暮らすようにしてくれるのです。愛があるので、夫婦の間でも互いに自尊心、自己強情、自己有益…等を犠牲にして、旦那さんは奥さんを、奥さんは旦那さんを、もっと貴重に思い、共に手を取り合って暮らして行くことができます。

父母の愛も同様です。父母は子供の為にいつでも自分の自尊心や強情や自己有益を捨てる準備ができています。これが父母の愛です。韓国に「カシコキ」という題目の小説があります。この「カシコキ(とげうお)」は、雌(めす)が卵を産むと逃げてしまいます。そうしたら、雄(おす)がその卵を抱いて孵化し、小魚たちに自分の肉を食べさせます。それで、小魚たちが父魚の肉をすべて取って食べながら成長したら離れ去るようになり、父魚は死ぬようになります。これが「カシコキ(とげうお)」の一生です。

「カシコキ(とげうお)」という題目で書かれた小説の内容を見ますと、夫婦が離婚をして、母親はアメリカに行ってしまいました。父親が息子ひとりを連れて暮らしますが、その息子が白血病に罹りました。どの薬も効きません。父親は職業を一切捨て、その息子の為に一生懸命に物乞いもし、同情もして貰い、あらゆる侮辱と屈辱に耐えます。息子の治療費がものすごく要るので、友人にも助けを乞い、後輩たちからも助けて貰い、侮辱されながらも、それでも自分は死ぬことがあっても、息子は助けなければならない…、といった、献身的な努力を傾けて、遂に息子は助かりましたが、父親は過労によって肝癌に罹り、この世を去って行くというストーリーです。

凄く感動的な内容です。これが「カシコキ(とげうお)」です。母親は逃げて行ってしまいましたが、父親が自分の肉を取って食べさせて、白血病に罹った幼い息子を助けておいてから、自分は死んだ、という内容です。これは父性愛を代表的に見せてくれるものです。

皆さん、父母のこのような愛があるが故に、一握りの血塊のみどり児が成長して社会人になることができるのです。愛だけがこれを成し遂げることができます。もしも父母が、自分の自尊心を通し、自分の強情を張り、自分の有益をすべて主張するとしたら、子供をまともに成長させることはできないでしょう。

こんにち、隣人と平安に暮すためには、「隣人愛」が実践されなければなりません。愛は自分を犠牲にすることができる力があります。自尊心も、自己主張も、自己有益も捨てることができます。「愛」以外には、このような心情で隣人と付き合うことができません。

今回、アメリカ貿易センター惨事現場で救助隊を陣頭指揮していた、ニューヨーク市の最高古参である消防局長は、いつも部下たちよりもっとも危険なところに飛び込んで救助活動をしました。今回も、「双子ビル」にテロリストの飛行機が追突して火災が起こった時、彼は最高幹部5名と共に350名を率いて、崩壊直前までビルの階段を上り下りしながら人たちを救出、ビルが崩れ落ちる時にそこに埋まって死にました。

皆さん、何故自分のいのちを犠牲にしたでしょうか。そのビルが火災で崩壊することを知っていながら、部下たちを率いて、その階段を上下しながら人たちを救出する、この仕事は、愛の故に自分を犠牲にする事ができたのです。自尊心も自己主張も自己有益も捨てることができたのです。このような愛の働きがなかったら、こんにち、社会は共存することができず、平和を保つこともできず、このような愛がなかったら、私たちの社会は発展することができないのです。

アフリカの奥地で、医療奉仕をしながら一生を捧げたアルベルト・シュバイツァー博士も全く同じです。ルター教の牧師の長男として生まれて、大学で哲学博士、神学博士の学位を得、牧師として又、大学教授として神学を講義していた彼は、卓越なパイプ・オルガンの演奏者として活動しました。この時、アフリカ黒人たちの生活に関する記事を読んで、黒人救済に献身することに決心しました。

再び医学を勉強して医学博士となり、医師資格証明を取って、奥さんと一緒にアフリカのガボン・ランバレネに行って、鶏小屋を改造して病院を建て、貧しく、病気に罹っている黒人たちに愛を実践して「密林の聖者」という名前を得るようになったのです。1952年「ノーベル平和賞」をもらい、その賞金でらい病患者村を建て、愛の医術を施し、90歳の時に健康を損なって、世界中の人たちの哀悼の中で彼はこの世を去って行きました。「愛」でなければ、自分を犠牲にして、他人の為に、他人の幸福の為にこのようなことをすることができる力は、決して生まれません。

皆さん、「愛の原子爆弾・孫良元牧師」のお話しをよくご存知のことと思います。平壌の神学校を卒業して、37歳の時に'慶南・麗水'のらい病患者療養院に伝道師として赴任、一生をらい病患者たちと共にしながら、血膿を口で吸い取り、彼らを救うためには自分もらい病患者になることを念願するほどに、愛を実践したお方です。日本総督府の神社参拝を拒否して'麗水警察署'に逮捕されてから5年間、監獄に閉じ込められる重刑を受けましたが、終戦を迎えて彼は釈放されました。

1948年、'麗水・順天反乱事件'の時に、キリスト学生会長でであった長男"トン イン"君と、次男"トン シン"君までもが暴徒たちに引っ張られて行って銃に撃たれて死にました。孫良元牧師先生は大きな悲しみに声を出して泣きましたが、二人の息子を殉教の供え物として受け容れてくださった神様に感謝しました。政府軍が'麗水と順天'を奪還して、首謀者を捕らえて裁判に附し、死刑に処しようとする時、二人の息子を殺した仇敵を、渾身の努力を傾けて嘆願した挙句に、死刑の場から助け出して、自分の養子とし、その青年を神学校に通わせて、立派な牧師になるように導きました。

また、「6・25朝鮮戦争」の時、らい病患者と教会に仕えていた孫良元牧師は、北朝鮮の共産軍に捕らえられて監獄に閉じ込められてからも、自分の分の食事を食べずに、隣人たちに食べさせながら伝道しました。共産軍たちは、その口で伝道するとして連れ出してからは、唇を軍靴で踏み躙りました。そしてから、彼を殺しました。孫良元牧師は48歳で殉教しました。彼は「愛の原子爆弾」でありました。

如何にして、このような行いをする事ができるでしょうか?どのようにして、自分自身をまったく捨てて犠牲にする事ができるでしょうか。自分の息子を二人も殺した仇敵を連れて来て養子とし、食べさせる、着させる、神学校にまで通わせるとは…。愛でないことには、このような事は決してする事ができないのです。

皆さん、「テレサ修道女」(通称・マザー テレサ)のお話しはあまりにも有名です。ユーゴスラヴィアの或る家庭の末娘として出生、召命を受けて修道院にはいり、修道女になってから、印度のカルカッタに派遣されました。36歳のときに彼女は、貧しい人たちの中でももっとも貧しい人たちに奉仕しなさいと言う神様の啓示をいただいてから、愛の宣教会を創立して、貧民街に飛び込んで極貧者たちを救い、らい病患者たちを洗ってあげ、エイズ患者たちを抱いて上げるなどしながら、犠牲的にかえりみてあげました。

彼女は一生の間愛を実践しながら、救護施設は500箇所を越え、貧しい人たちと病人たちをかえりみ、売春女性と道端で死にかけて行く人たちを集めては髪と顔を洗ってあげ、自分の膝に寝かせて安らかに死を迎えるようにしてあげました。1979年、ノーベル平和賞の賞金をらい病患者救護所設立の基金として使用しました。

彼女は死ぬ時に、「互いに愛し合ってください。まことの愛は、あれこれ考えません…。」という遺言を残して、87歳でこの世を去って行きました。その遺志を継承して、全世界123カ国の救護センターで4200名の修道女たちが奉仕を継続しているのです。愛だけが、人間の堕落した自尊心と自己我執と自己有益を克服して、犠牲しながら奉仕することができるようにしてくれるのです。

皆さん、この世の愛の中でもっとも偉大な愛は、イエス様の愛です。「神は実に、そのひとり子をお与えになった程に」世を愛されました。皆さん、神様がひとり子を私たちのためにお与えになったという事は、愛でないことにはこのような犠牲を払うことはできません。そしてまた、その御子イエス様が十字架に架かられて、身を裂き、血を流して、私たちのために生け贄となられたということは、愛がなくてはできないことです。

肉の衣を着て来られたイエス様も、人ですので、生きたいし、ご自分の自尊心もあり、我執もあり、自己有益を求める心もあったのです。愛がこれらを克服することができるようにしてくださったのです。ゲッセマネの丘でのイエス様の苦悩をご覧ください。

「マタイの福音書 26章36節〜38節」に、『それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」』と記録されています。

全人類の罪を負うと言うことがいかに苦しいことでしょうか。罪を知りもしないイエス様でありました。「マルコの福音書 14章33節〜34節」にも、『そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」』と記録されています。イエス様がなぜ、このような目に会わなければならなかったでしょうか。私たちを愛するがゆえに、ご自分を犠牲にされたのです。

イエス様は神様に、わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。わたしに自尊心もあり、我執もあり、わたしも生きたいですけれども、しかし御父の御心が人類のためにわたしが供え物となることですから、わたしの願い通りになさらずに、御父の御心通りにしてください。そのように彼は祈って自身をゆだねました。

「ルカの福音書 22章42節〜44節」に、『「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。』と記されています。如何に苦しまれたのか、皮下の毛細血管が破裂して汗の穴から血が流れました。

身を裂き、血を流した結果、悪魔の国と支配と権威を爆破させてしまったのです。十字架でイエス様が「完了した!」と言われた時、悪魔の国と支配と権威が、エリコの町のように音を立てて崩れ去ってしまったのです。悪魔は、神様の御子を十字架に釘付けにして人類の救いを中止させる事ができると言いましたが、却って、イエス様を殺して彼らの国が爆破されてしまったのです。イエス・キリストのこの十字架の愛、これを通さないことには私たちが愛を求めるところがありません。十字架を見つめて、主の犠牲を黙想し、キリストを通して私たちは愛を得るのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記されています。その貴重な血潮を流して私のために犠牲となられたイエス様の十字架を見つめ、それを胸にふかく抱く時に、はじめて私たちは心の中に自分を克服して神様の愛を実践することができる人となることができるのです。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」に次のように記録されています。『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』

自分を卑しくし、自分を犠牲にし、十字架で死なれることによって私たちの代わりに生け贄となってくださり、私たちを救ってくださった、この十字架の愛を、私たちが見つめ、黙想し、信じるときに、キリストの愛が私たちを導くようになるのです。十字架を見つめないことには、私たちは私たち自身が犠牲的愛を実践することができません。夫婦の間に争いが生じるとしても、十字架を思い起こしたら旦那さんに服従することができ、奥さんに服従することができます。なぜ?イエス様の犠牲のその愛が私たちを導いてくださるからなのです。

それから私たちは、聖霊さまに神様の愛を注いでくださるように求めなければなりません。「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記されています。聖霊さまよ!キリストの十字架によって神様の愛を私に注いでください。そして、私の人間としての自尊心を克服し、我執を克服し、自己有益を克服して、犠牲するようにしてください。聖霊さまが神様の愛を注いでくださいます。聖霊さまは私たちの弱さを助けてくださるために来ておられるのです。

アメリカの大学を卒業して、韓国の忠清北道・提川(ジェチョン)というところで38年間、1200名の捨てられた孤児たちを養育した、65歳になる「ジェイン・ホワイト」女史は、生まれたばかりの子供たちが父母から捨てられたことにショックを受けて孤児院を建て、自分は結婚もせずに、愛を持って子供たちを育てて、全世界に733名を養子として入籍させて立派に成長させました。彼女は、「神様が注いでくださった愛の故に、どうしようもなく愛の捕虜となって、気の毒な子供たちをかえりみる為に一生を捧げました…。」と言いました。

皆さん、韓国人でもありません。碧眼の西洋女性です。その素晴らしい自分の環境を全部捨てて韓国に来て、捨てられた孤児たちのために一生を捧げたのは、神様の愛がその心の中に注がれたからです。彼女自身、聖霊さまが心に愛を注いでくださったので、そのようにすることができたと言ったのです。キリストの愛に拠り頼んでだけ自尊心、我執、自己有益を克服して愛を実践することができるのです。

「ヘブル人への手紙 12章 2節〜3節」に、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』と記されています。私たちはイエス様を黙想し、イエス様を見つめ、イエス様の愛を模範とする人とならなければなりません。

「ガラテヤ人への手紙 3章 1節〜3節」を見ますと、『ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。』と記されています。

私たちの信仰生活は、常に目の前にはっきりと見える十字架を見つめながら暮さなければなりません。美しい教会堂が私たちの信仰の目標ではありません。教会が大きいとか小さいとかが私たちの信仰の目標ではありません。私たちの信仰の目標は、私のために十字架で身を裂き、血を流してくださったイエス・キリストを見つめながら暮らすことが信仰なのです。この十字架を忘れてしまった人は、宗教人にはなっても、クリスチャンにはなれません。

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」どのような難関にぶっつかっても、十字架を見つめてキリストの愛に拠り頼めば、私たちは私たち自身を克服することができ、犠牲にすることができるのです。ただ愛だけが自分とこの世に勝ち、和解と平安と共に暮す世界をつくることができます。

「コリント人への手紙 第一 13章 1節〜8節」には、次のように記録されています。『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』

愛すると言うことは、堕落した人間の自然的な属性ではありません。この「愛」は、イエス様の十字架を常に見つめながら、毎日のようにそこに自分を釘付けにして、イエス様の愛が聖霊さまの御力によって胸の中に注がれるように切に祈ってこそ、成就されることができるのです。「愛」だけが、自分を犠牲にしながら、和解と共存の原動力となるようにします。




お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる神様! ひとえに主を信じ、キリストの愛をいただいてこそ、この愛が自分の堕落した心性を克服して、自分を犠牲にし、愛を実践することができます。天のお父さま! 愛でないことには、家庭の平和も、お隣同士の平和も、社会と国家の平和もありません。国際間の和解と平和もあり得ません。十字架の愛以外には、解決策がありません。ほかのどこを見ても、解決策がありません。十字架を通して、聖霊さまの御力によって、我執を、自己中心を克服することができます。

全知全能であられ、愛であられる、父なる神様! 今日、この時間、胸に手をおいて、私たちは夫として、妻として、父母として、子供として、聖徒として、隣人として、国民として、果たしてキリストの十字架の愛に自分をゆだねたか、自分が十字架に自身を釘付けにして、キリストの愛によって導かれ、理解と同情と愛をもって人生を生きてきたか、顧みることができるように助けてください。

主である神様! 愛がなければ、宗教は虚偽に過ぎません。すべての宗教的儀式は、紙くずにも及びません。愛がないすべては、みな何の効用もないものになってしまいます。

愛であられる、我が父なる神様! イエス・キリストを信じる信仰のもっとも根本的であり、核心であり、中心であるのが「愛」です。こんにち、キリストの十字架を見つめて、変化され、愛を実践する私たちすべてとなるように助けてください。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!