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「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 7章37節〜38節」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:37 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」




今日、私は皆さんと共に『渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

こんにちは、物質的に富裕であり豊かな時代に、あらゆる科学的な利器を享受しながら、外観的に見るとき、幸福に暮らしているように見えます。しかし、実際に内的人生を覗いてみたら、これらはまことの幸福の様式でもなく、生活を豊かにすることができません。実際に人たちは、心の栄養失調にかかり、罪責と定罪感、虚無と無意味、死と空虚、憎しみ、恐怖、劣等意識、挫折感の中であえぎながら生きています。

神様はこのような私たちに、神様に聞き従い、良いものを食べ、脂肪で元気付き、喜びを得なさい、と言われます。




第一、人生の意味に渇いている者

聖書には、「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われた、と記録されているのです。こんにち、もっとも大きな悲劇は、人たちが実際に砂漠のようなこの世の中で渇いた生活を営んでおりながら、自分が「渇いている」と言うことを知らないでいる、と言うことです。この世の中の生命を与えることが出来ないものでいっぱいに中を満たしていながら、「渇いている」ことを知らないのです。

第2次世界大戦当時、数多くの兵士たちが砂漠で死にました。イギリスの兵士たちが砂漠を歩いていく途中に、余りにも喉が渇きました。ところが蜃気楼が彼等の目に見えました。砂漠の向こう側に河水がうねうねと波打っています。彼等はいっせいにそこに駆けつけて行って、水の中に飛び込みました。そして、腹いっぱいに水を飲んでその場でみな死にました。

そのあとを斥候兵たちが行って見ました。すべての兵士たちが喉に砂がいっぱいになって死んでいました。彼等は砂を水だと思って飲んだのです。そうしたあとに、砂に喉が詰まって死んだのです。

こんにち人たちは、世の中の生命の水でないものを生命の水だと誤解して、それらを飲んで死んで行きつつあります。喉が渇いていながら、渇いていることを知らない人もあり、喉が渇いているので水を探しますが、探すことができないで苦しみに会っている人もいるのです。こんにち人たちは、皆が人生の意味と価値に渇いている者たちなのです。

「エレミヤ書 2章13節」に、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と記されています。

皆さんもよくご存知の、世界的富豪であったアメリカの「ハワード・ヒューズ」を一回考えてみましょう。彼は1905年に生まれて71歳のときに死亡しましたが、アメリカの巨大な富豪で、映画製作社、放送局、航空会社、ホテル、賭博場…等、50個を越える会社を経営した凄く大きな星でありました。一時はハリウッドの映画女優たちと数多い艶聞をたてたこともあります。

しかし「ヒューズ」は、対人忌避症状が甚だしく、隠遁生活に莫大なお金を使いました。45歳の時から完全に外部と断絶して、隠れて過ごしました。生涯の末年には住居を色々な国に秘密裡に随時に移転しながら、無菌室を作って外部と遮断し、その中で生活しました。誰かが自分を害することはないかとノイローゼにかかって、疑いながら、系列社の社長たちにも電話やマイクで指示し、直接には人に会いませんでした。

彼は夜もろくろく眠らず、食物に毒が入ってはいないかと疑い、度が過ぎるほどに少量の食べ物を摂取し、薬物過多服用によって衰弱して、精神異常症状を見せもしました。彼は鶏肉とジュースだけを飲み、床屋を怖がって髪の毛を長く伸ばし、手の指の爪も切り取らずに鷹の爪のように長く伸ばした状態で暮らすうち、自家用飛行機で病院に行く途中に死にました。

彼は若かった時美男子でありました。数名の妻たちと子供たちがありましたが、死んだあとに訪ねて来た人は一人もありませんでした。彼が残した遺産は2兆4千億ウォンであると知られていますが、遺家族たちが互いに高額を占めようとして法廷で争い合いました。

「ヒューズ」は、余りにも有名な一言を反復しながら息を引き取りました。それは「Nothing。Nothing。Nothing。」即ち、空しい。空しい。空しい…という言葉であります。道を失った人の虚無な人生の代表的言葉です。この世の中で指折り数えられる富豪でありましたが、彼が死に際に残した言葉は「Nothing!Nothing!Nothing!」…この言葉しかなかったのです。

皆さん、ノーベル賞をもらった作家「オーネスト・ヘミングウェー」も、62歳で死亡しましたが、同様な人生を暮らしました。彼は名誉もあり、お金もあり、人たちから賞賛されもし、結婚して離婚し、結婚しては離婚するなど、何回も繰り返しし、その結果、決して幸福ではありませんでした。彼の遺書には、虚無と無意味と挫折感でいっぱいでありました。「私は、フィラメントが切れた電球のように空虚である。」と彼は言いました。人生の道を失ってしまい、神様を離れた彼は、地位と名誉とお金と快楽をすべて享受していましたが、彼の人生はあまりにも空しく、空虚なので、フィラメントが切れた電球のようであると言ったのです。

このように皆さん、人たちは神様を捨て去り、自ら水溜めを掘りましたが、それは水を溜めて置くことができない、こわれた水溜めに過ぎないのです。それで主は、人生に向かって言われました。「あなたがたは渇いている。」と。お金があっても渇き、地位が高くても渇き、権威があっても渇き、快楽にふけっても渇いているのです。何故かと言えば、人は肉体的な存在ではないからです。

神様の形通りに造られた霊魂が肉体を着て生きていますので、肉体の欲望だけを満たしたとして、内なる霊魂が満たされるのではありません。内なる霊魂は限りなく渇き、渇急して、物質的なものを満たしたら、満たすほど、喉の渇いた人が塩水を飲んだらもっと渇急するようになるのと同じく、渇くようになるのです。




第二、「わたしのもとに来て飲みなさい。」

聖書には、「渇いたなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と記録されています。主は、お金があるところに行きなさい。地位や名誉を獲得しなさい。世の中の快楽をむさぼりなさい、とは言われませんでした。「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。何故なら、主だけが私たち人生の渇きを満たしてくださることができるからなのです。

聖書「イザヤ書 55章 1節〜2節」に、『ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。』と記されています。

ここに、渇いている者は誰でも皆、わたしのもとに来て飲みなさいと言われました。地位とか名誉とか権勢に関係なく、富貴栄華に関係なく、男女老幼、貧富貴賎に関係なく、誰でも渇いている者は皆、わたしのもとに来て飲みなさい、代価を払わないで、ぶとう酒と乳を買え、と言われたのです。

皆さん、主は私たちを招かれる時、私たちに代価を払って生命の水を買って飲みなさい、と言うことではありません。代価を払おうとしたら、払える人がいません。何故かと言えば、神様の御前に支払うべき私たちの代価とは、律法的な義の行動なのです。私たちが律法的に義の行動をして認められ、神様から生命の水を買うとすれば、そのような事ができる人は一人もおりません。律法的行為によって神様から義とされる人間は一人もいないからです。

私たちが律法的な資格をもって神様の前に出て来て生命の水を買って飲みなさいと言っても、誰も買って飲める人はいません。私たちの主は皆さん、私たちに生命の水を買って飲むにしても、お金なしに、代価を払うことなしに、来て飲みなさいと言われたのです。律法的な義の行為の代価として買って飲みなさい、と言うことではなく、ひとえに神様の恵みによって、信仰を持って買って飲みなさいと言うことです。

神様は、信仰のお金だけ出しなさい。仕事は神様がした。代価は神様がすべて支払っておいた。あなたがたが払うべきものは信仰のお金である。ただ信じなさい…。誰でも信じることができます。知識人も、無学の人も、お金持ちも、貧しい人も、大人も、子供も、信じることが出来るのです。律法の行為の代価でない、主のお恵みによる信仰によって、来て、生命の水を買って飲みなさいと言うのです。

「ローマ人への手紙 4章16節」に、『そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。』と記されています。信仰だけが、神様の前に出て行くことができ、神様の御国を相続として受けることができ、神様の相続人になることができるのです。

皆さん、「ローマ人への手紙 5章 2節」に、『またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。』と記されています。行為でない、信仰によって、神様の栄光に入ることができ、生ける水を買うことができます。律法的行為では、罪に定められるしかありません。審きしか受けるものがありません。

しかし、恵みによって、信仰ですることは誰でもすることができます。罪を犯し、不義で、醜悪で、捨てられて当然な人たち、両手を挙げて出て来て、悔い改め、信じるなら、主のお恵みによって資格を得るようになるのです。主は信じるものを血潮で洗い聖めて義としてくださり、神様の栄光に参与することができる資格を与えてくださるのです。

それで、私たちが信じることによって、主の前に出て来てぶとう酒を買いなさいと言われました。買いなさい、と言うことは主に求めなさい、と言うことです。私たちが今、お金を出して買うのではありません。信仰によって買うことは、信仰によって神様に切に求めなさい、と言うことです。

ぶとう酒を買うと言うことはどう言うことでしょうか。ぶとう酒は飲むと心が楽しくなります。イエス様がカナの婚姻の宴会に行かれました。その時、その宴会ではちょうどぶとう酒が切れました。婚姻の宴会はどういう宴会でしょうか。みなが来て、喜び楽しむ宴会です。婚姻の宴会でぶとう酒がなくなって困ってしまった時に、主は水が変じてぶとう酒になるようにして、彼らに与えられました。そうして最後まで楽しい宴会となるようにしてくださいました。

水が変じてぶとう酒になるようになさった主は、こんにちも、私たちの中に喜びのぶとう酒をつくることができると言うことを見せてくれるのです。ですから、ぶとう酒を買いなさいと言うことは、こんにち、私たちが主の前に出て来て喜びを与えてくださいと祈れば、主は、水のような私たちの心と生活と環境に喜びをつくって上げると言うことです。

「詩篇 16篇11節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記されています。主の御前には喜びが満ち、主の右には永遠なる楽しみがあると言うのです。

何故、私たちが天国に行こうとするのでしょうか。天国には喜びが充満であるからなのです。毎日毎日、喜びで満ち溢れるところが天国なのです。まさに喜びそれ自体が天国なのです。それでこんにち、主は、この渇いた人生たち、この世に暮らしていても何の喜びも楽しみもない人生たち、「ハワード・ヒューズ」のような大富豪も喜びがなく、「オーネスト・ヘミングウェー」のように名誉と地位を持っている人も喜びがない人生たちがイエス様のもとに出て来て、信仰で買いなさい、義なる行為の値を払って買いなさいと言うのでなくて、信仰によって、神様のもとに出て来て、代価を払うことなしに、祈って求めるなら、主が水のような人生を喜びのぶとう酒に変化させてあげると言うのです。

聖書には、喜びなさい、これがあなたがたの力になりますと記されています。喜ぶ夫は力があり、喜ぶ主婦も力があります。喜ぶ子供たちが力があります。私たちの心の中から喜びが消え去ったら、生きていく意欲を失ってしまうのです。しかし、喜びを持ったら、私たちはどのような逆境も克服することができる力が生じるのです。

その喜びは世俗的な喜びではありません。世俗的な夫によって、妻によって、子供によって、或いは世俗的な成功によってくる喜びは、すぐに消え去る蛍の光のようなものです。しかし主が与えてくださる喜びは永遠に湧き上がる喜びなのです。それで主は、私たちに向かって勧めておられるのです。ぶとう酒を買いなさい。今日、私は皆さんが主に祈り求めてぶとう酒を買われるように祈ります。

主よ、喜びのぶとう酒を与えてください。信仰によって求めてください。あなたがたに無いのは、求めなかったからである、と言われたのです。皆さん、私たちは信仰をもって求め、少しも疑ってはなりません。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません、と聖書に言われているのです。

今日、皆さんは、主に喜びのぶとう酒を求めて、心に喜びが満ち溢れるようになりますよう、主の御名によって祈ります。

そして又、乳を買いなさいと言われました。もっとも栄養分が豊かであるのが乳であると言われています。幼い子供たちは母の乳を飲むことによってすべての栄養分を供給してもらうのです。私たちがイエス様のもとに出てきたら、まことの乳を飲ましてもらうことができるのです。イエス・キリストが十字架で身を裂き、血を流して、私たちに乳を飲むことができる道を開いておかれたのです。新しく生まれる福音の道を開いておかれたのです。

赦され、義としていただき、神様の栄光を得る道を主が開いておかれました。そこで赦しと義と栄光の乳を飲むことができるのです。私たちは主のもとに出て来て、その恵みにより信仰によって、聖きと聖霊充満の乳を飲むことができます。すべての汚れをみな掃除して、私たちに神様の恵みによって聖霊充満の乳を飲むことができるのです。

私たちは十字架の前に出て来て、キリストにあって癒しの乳を飲むことができます。主の癒しの乳を飲んで、霊も心もからだも癒され、健康になることができるのです。私たちは主の前に出て来て、劣等意識と挫折感と絶望と否定的なことに打ち克つことができる祝福の乳を飲むことができるのです。

祝福の乳を飲んで、勇気と力を得、すべてに幸いを得ることができるのです。私たちの主の前に出て来て、主がご再臨なさるとき、よみがえって永生と天国に入って行く栄養分を得る乳を飲むことができるのです。皆さん、本当に、まことの私たちの暮らしの栄養分の乳を、イエス・キリストの前に出て来て十字架の恵みを通して、飲ませていただくことができるのです。

主の御前に出て来たら、このようにぶとう酒と乳を買うことができます。これは代価なしに与えられるものです。皆さんの義なる行為や何かの手柄によって与えられるものではありません。ひとえに信仰の値を支払うものです。信仰を通して祈ったら、得ることができるのです。誰でも祈ったらぶとう酒を得、主が今日五重の福音の乳を与えられて、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得ることができるようになるのです。




第三、生ける水の川

第3番目に、わが主は、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と仰せられたのです。私たちの存在のもっとも深いところ、すなわち深い霊魂の中から、私たちの腹の中から川水が満ち溢れます。信仰の川水、喜びの川水、平安の川水、勇気の川水が私たちの中から溢れ出始めるのです。

皆さん、私たちの頭の中から溢れ出る川水ではありません。私たちの腹の中から溢れ出ます。頭の中から、私たちが疑い、研究して出る生ける水の川ではありません。この腹の中から、私たちの力ではない、聖霊によって生ける水の川が流れ出るのです。

「エゼキエル書 47章 6節〜12節」を見ますと、『彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』と記されています。

神様の御座の下から流れ出る生ける水の川が、このように大きな効果を発生します。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長しますから、いかに豊かなものでしょうか。塩辛い海水が生ける水に生き返ります。

川の両岸には非常に多くの木があります。海の水が良くなります。川水が流れて行くところはどこででも、そこに群がるあらゆる生き物は生き、川には非常に多くの魚がいるようになると言いました。川のほとり、その両岸にはあらゆる果樹が生長し、その葉は薬となると言うのです。

その生ける水が五旬節の日に私たちに臨んだのです。誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。そうしたらあなたがたの腹の中から生ける水の川が満ち溢れるであろう。五旬節の日に臨んだ聖霊が、まさに神様の御座から溢れ出た川水なのです。

「使徒の働き 2章 1節〜4節」に、『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と記されています。

皆さん、五旬節の日に神の御霊が臨んで、イエス様を信じる人は皆、その中から生ける水の川が満ち溢れるようになったのです。皆さん、イエス様を信じて聖霊に与った人は今日、皆さんの中に生ける水の川が流れ、溢れているのです。この川はまさに救いの川なのです。この川水が流れて、私たちに救いをもたらしてくれるのです。

「イザヤ書 12章 2節〜3節」を見ますと、『見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。』と記されています。私たちは生ける水の川の水をいつも飲みながら暮らしているので、私たちの中に霊的ないのちが溢れて、父なる神とイエス様を賛美し、信じ、拠り頼みながら礼拝し、生きて行く力が生じるのです。

そして私たちの中から流れ出る生ける水の川は、信仰の川であり、希望の川であり、義の川であり、平和の川、喜びの川となるのです。この川水が私たちの中から湧き上がっているのです。「コリント人への手紙 第一 13章13節」に、『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』と記されています。信仰、希望、愛の川水が聖霊を通して、私たちの中からいつも溢れ流れているのです。

「イザヤ書 66章12節」には、『主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」』と記されています。

「ローマ人への手紙 14章17節」には、『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』と記されています。義と平和と喜びが、私たちの中から溢れ出るようになるのです。

こんにち、全世界的に、人たちは憂鬱症にかかり、アルツハイマ病のような精神的疾患にかかります。世界約4億名がこんにち、憂鬱症とアルツハイマ病にかかっていると言うのです。このような病気は継続して増加すると言われています。その原因は、過度なストレスと赤貧と暴力など、このようなものによって、人たちは精神的苦痛を受けているのです。しかし私たちの中に、生ける水の川が溢れ出れば、心の中に信仰、希望、愛、平和、喜びが湧き出るので、このような憂鬱症には私たちはかからなくなるのです。

そしてこの川は、癒しの川となるのです。皆さん、私たちの中に癒しの川が溢れ流れるのです。「イザヤ書 58章11節」に、『主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。』と記録されています。いかに驚くべき生ける水の川なのでしょうか。

また「使徒の働き 10章38節」には、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記されています。こんにち、私たちの中に生ける水の川が溢れるとき、私たちはすべての病から癒されることができるのです。

私たちの霊山教会の「ク・キョンヘ」執事さんは、脳腫瘍を癒されたイエス様の血潮の能力に対して、このような証しをなさいました。1997年11月初に、中学校3年生であったお嬢さんが、高等学校入学試験1ヶ月前に倒れて、病院の応急室に運ばれて行き、MRI撮影をした結果、脳腫瘍であると診断されました。お嬢さんは継続して昏睡状態でありました。お医者は、手術しても成功率と完治率が高くなく、手術したら腫瘍はなくなっても、麻痺はそのまま残ると言いました。

神様の前に深く悔い改め、十字架の血潮の川水で癒してくださることを信じて祈りました。手術の日時を高等学校入学試験の後にすることに決めて退院、薬物治療をしながら通学しましたが、顔はむくみ、マスクをして試験場に入って受験を終え、高等学生になりました。

お嬢さんは毎週の日曜日に礼拝を捧げてから祈祷院に行って祈り、水曜日には授業の代わりに私たちの教会に来て礼拝を捧げました。お嬢さんは7月22日水曜礼拝の後、癒しの為の按手祈祷を申請して受けるようになりましたが、水曜礼拝の癒しの時間に私が、「今日、腫瘍患者が癒されました。」と宣言したと言います。それで、父親とお嬢さんと母親が立ち上がって「ハレルヤ!」と手を上げて感謝を捧げました。そして、按手祈祷を受けました。

しかし、顔は依然としてむくれ、他の症状もそのままでありました。それでも絶対に疑わずに、「悪魔よ、私はすでに癒されたのだ。お前には騙されない。」と是認しながら、熱心に礼拝を捧げ、継続祈りました。お医者は早く手術を受けなさい、と催促しましたが、継続、十字架の血潮で癒されたと信じて祈りを捧げました。

1999年1月に、再びMRI撮影をしましたが、フイリムを持って来た医者は、首をかしげながら「腫瘍がなくなった。」と驚きました。もう一度撮影しましょうと言うことになって、また、撮影して見ましたが、腫瘍は消えてなくなっていました。そのお嬢さんはその後、成績も上昇し、大学入学試験も受けて合格、今は大学生になっています。

生ける水の川が溢れるや、悪魔のような腫瘍も洗い流されてしまったのです。皆さん、私たちの中に生ける水の川が流れると言うことを知らなければなりません。人たちはそのような川水が流れると言うことを知らないために、生ける水を享受することができないのです。

この生ける水の川はまた、聖潔の川となります。「エペソ人への手紙 5章26節〜27節」に、『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』と記されています。この川水が流れて、世俗に汚された私たちを絶え間なく洗いきよめてくれるのです。

 私たちの中に流れ溢れるこの聖霊の川水はまた、すべてに幸いを得る川水となるのです。「詩篇 65篇 9節」に、『あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。』と記されています。この川水が流れたら、呪いがすべて消え去ってしまい、神様が豊饒にしてくださり、祝福してくださると言うのです。このような川水が私たちの中に流れていると言うことを知らなければなりません。

この川水は、まさに天国の川水なのです。死から復活と永生天国を与えてくれる川なのです。「ヨハネの黙示録 22章 1節〜2節」に、『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。』と記されています。

皆さん、我がイエス・キリストが十字架の聖なる血潮をもって私たちを救われ、私たちに聖霊を与えてくださることによって、渇いている人たちの腹の中から生ける水の川が湧き出るようになったと言うことを私たちは知らなければならないのです。多くの人たちが、自分の中から生ける水の川が溢れ流れていると言うことを知らずにいるのです。この生ける水の川を知らなければならず、認めなければならず、自分の中に生ける水の川があると言うことを信じなければならないのです。

向こうの天国にあると言うのでもありません。遠くの国にあると言うことでもありません。現在、イエス様を救い主として仕え、聖霊を受けた私の中に生ける水の川が溢れることによって、我が聖霊さまを認め、歓迎し、受け入れて、拠り頼み、いつも聖霊充満であるように祈り求めたら、聖霊の生ける水の川が継続溢れ流れるのです。

「コリント人への手紙 第一 3章16節」に、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』と記されています。聖霊が皆さんの中に今おられて、生ける水が溢れていることを知らなければならないのです。

私たちがイエス様を信じて、救われ、聖霊充満に与ったら、聖霊が生ける水の川となって私たちの中から溢れ出て、私たちが罪に勝ち、悪霊を追い出し、病気を癒し、祈り、伝道しながら、信仰と祝福の実を豊かに得ることができるのです。その結果、いのちを得るにしても豊かに得ることができるのです。

私たちの力で暮らすのではありません。私たちは乾いた地と同様です。私たち自らがいのちを得ることはできません。しかしイエス様を信じ、聖霊が来られて聖霊のいのちが溢れ出るので、私たちの霊魂が肥沃になるようになり、私たちの肉体が健康になり、私たちの生活が祝福で満ち溢れるカナンの地となるようになるのです。乳と蜜が流れるカナンの地が遠くにあるのではありません。たましいがカナンの地であり、皆さんの肉体がカナンの地であり、皆さんの生活が主が与えてくださったカナンの地であり、その中から生ける水の川が溢れるので、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るしかないのです。

今日、主は、皆さんに両手を差し伸べて言われます。渇いている者は、皆わたしのもとに出て来なさい。金のない者も。代価を払わないで、ぶとう酒と乳を買いなさい。誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。そうしたらあなたがたの腹の中から生ける水の川が満ち溢れます。

皆さんは、皆さん自身を知らなければならないのです。イエス様を信じ、自分の中に生ける水の川が入って来て、自分のたましいと肉体と生活がカナンの地になった、と言う事を知って、祈り求める皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。誰であれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、叩く者には開かれます。あなたがたに無いのは、あなたがたが求めなかったからです。なんでもわたしの名によって求めなさい。そうしたらわたしが与えます…、と主が言われます。




お祈り

聖く、愛であられる我が父なる神様!私たちは、水が無い、荒野のような人生を生きるときが数多くあります。私たちの心身が水が無い荒野となり、私たちの肉体が病気にかかって荒野となり、私たちの生活が失敗して荒野となるときが多いです。

全知全能であられる我が父なる神様!イエスを信じる人たちは、そのように暮らす理由が全くありません。何故なら、主が、渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさいと言われたからです。

私たちの心は、ぶとう酒と乳を買って、喜びが溢れ、活気に満ち、病気は癒され、私たちの生活に主が富裕で豊かな生ける水の川を溢れるように与えて下さいます。

我が父なる神様!キリストの聖なる御座から、私たちの中に溢れ出て来た生ける水の川があると言うことを知り、理解し、信じ、祈り求める私たちとなるように助けてください。

主よ!すべての聖徒さんたちの胸の中に、生ける水の川が溢れ出て、すべての呪いをみななくしてしまい、豊かないのちのみわざが起こるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!